名もなき剣に、雪が降る

第十三話「それは命を選ぶということ」

 冷たい風が吹いていた。
 夏の気配が微かに混じる山間の早朝。
 兵たちの気配は、いつになく薄かった。
 それは怯えや緊張というよりも、確信――
「今日、生きて帰れる者は半分にも満たないだろう」という、静かな諦念だった。
 矢野蓮は、槍の穂先を見つめながら、まだ乾ききっていない夜露のにおいを吸い込んでいた。
 背後に、音もなく気配が近づいた。
「矢野さん」
 聞き慣れた声。
 けれど、その声に宿る温度が、どこか薄くなっているように感じた。
「……静。今日もか」
「ええ。主攻――先鋒です」
「また、“おまえと俺”だけか?」
「第三班から二人、付きますが、実質、矢野さんと僕の編成になります」
 矢野はため息をついた。
 もう、それに対して怒る気力もなかった。
「沖田と矢野で斬ってくれ」
 それはもはや、命令というより、祈りのようなものになっていた。
 ――あのふたりなら、生き残れる。
 ――あのふたりなら、戦場を制御できる。
 それは誉め言葉ではなかった。
 彼らにすべてを預けてしまう側の“逃げ”でもあった。
「無茶すんなよ」
「……矢野さんが見ててくれるなら、たぶん、大丈夫です」
 その言葉を、どこまで信じていいのか、矢野にはもうわからなかった。
     ※
 敵は、待ち伏せていた。
 崖と渓谷に挟まれた狭道。
 上からの矢と、正面からの斬り込み。
 動線は塞がれ、退路もなく、味方は瞬く間に混乱に陥った。
「矢野さん、右! 一手下がって!」
 静の声が飛ぶ。
 矢野は反射的に動いた。
 その瞬間、背後から斬りかかってきた敵兵の刃が空を切る。
 静が、斬った。
 刃先は敵兵の手首を払い、剣を落とさせる。
 そのまま脚を払って、相手を崩す。
 殺していない。
 けれど、その技には、“慈悲”ではないものが宿っていた。
 必要最小限。
 命を奪わず、ただ排除する。
 それは、まるで誰かの“意志”ではなく、動作だけがひとりでに動いているようだった。
「……静、息してるか?」
「していますよ、まだ」
 答えが軽かった。
 だが、それがかえって、矢野には重く感じられた。
     ※
 敵兵のひとりが、静の死角から斬りかかった。
「静――!」
 矢野が叫ぶより早く、敵の刃は振り下ろされた。
 だが、静は振り返らなかった。
 すでにそこに“いなかった”。
 “横にずれた”というより、
 “その場から消えた”ようにさえ思えた。
 次の瞬間には、敵兵が膝をついていた。
 身体には傷がなかった。
 けれど、動けなくなっていた。
 その光景に、矢野は恐怖した。
 ――あいつは、もう“敵の顔”を見ていない。
 戦っている相手を、“人間”として見ていない。
 それでも。
「静――!」
 呼び止めた声に、沖田が一瞬だけ振り返る。
 その目には、光があった。
 かすかに――ほんのわずかに、“矢野”を映していた。
     ※
 だが、その直後だった。
 矢野の横にいた味方の新兵が、刺された。
 敵の矢が、崖上から一直線に落ちてきたのだ。
 新兵は、小さく呻き、崩れた。
 矢野は、咄嗟に駆け寄った。
「大丈夫か……!」
「いたい……みぎ……足が……」
 足の付け根に深く刺さった矢。
 抜けば出血で即死。
 だが、刺さったままでは動けない。
 次の瞬間、敵が来た。
 三人。
 斜面を駆け下り、こちらへ殺到してくる。
「静、――!」
 叫ぼうとした。
 けれど、静はすでに、別の場所で敵を引きつけていた。
 間に合わない。
 矢野は、倒れた新兵を庇って、前に出た。
 槍はない。
 足場も悪い。
 敵は三人。
 ――斬るしかない。
 矢野は、小太刀を抜いた。
 そして、生まれて初めて――
 “命を奪うつもりで斬った”。
     ※
 ひとり、倒れた。
 脇腹を切った。
 相手は叫び声を上げて後退した。
 二人目は、矢野の肩を斬り裂いたが、返す刀で首筋を傷つけられ、沈んだ。
 三人目。
 刃を構えた矢野の目を見て、足を止めた。
 そのとき、沖田が現れた。
 斬ったのではない。
 “届かせた”だけだった。
 相手は崩れた。命は奪われていなかった。
「……矢野さん、怪我を……!」
「あとでいい!」
 矢野は叫んだ。
 胸が痛いのは、傷のせいではなかった。
 ――自分が、斬った。
 自分の意志で、命を断とうとした。
 静の剣を“怖い”と思っていた。
 けれど今、自分もまた、同じ場所に立った。
 それが、恐ろしかった。
     ※
 戦が終わったあと。
 火のそばで、矢野は座り込んでいた。
 傷は深くなかった。
 だが、胸の奥が、ずっと締めつけられていた。
「矢野さん」
 静が隣に座った。
 彼の手には、血のついていない剣があった。
「……見てたか」
「はい」
「……ついに俺も、斬っちまった」
 静は、否定しなかった。
 頷きも、しなかった。
 ただ、黙っていた。
「人を斬るのが、こんなに……嫌なもんだとは思わなかった」
「でも、それで矢野さんは、命を守った」
「おまえも、そう思ってんのか?」
 静は、ようやく目を伏せた。
「僕は……矢野さんが、斬らなくて済むように戦ってたんです」
「……」
「でも、今日、わかりました。誰かが斬らなければならないとき、“誰か”のままじゃ、駄目なんだって」
 矢野は、火を見つめた。
 赤い光が、ふたりの影を揺らしていた。
「それでも、俺は人でいたい。おまえにも、人でいてほしい」
「そのために、剣を握るんですね」
 矢野は、頷いた。
「そうだ。斬るんじゃなくて、……人でいるために、握るんだよ」