名もなき剣に、雪が降る

第十二話「斬らずに、立ち尽くすために」

 その日、空はひどく低かった。
 曇天というには重すぎる雲が、山の稜線をなぞるように垂れ下がり、灰色の気配を野営地の上に流し込んでいた。
 風もなかった。
 しかし、兵たちの胸には、空気がぴりつくような気配があった。
 ――嵐のように、何かが来る。
 そんな直感が、矢野蓮の皮膚のすぐ裏側にまとわりついていた。
 指先は冷たく、呼吸は浅くなる。
 戦に慣れてしまったはずの自分の身体が、何かを拒絶するように動こうとしなかった。
「矢野さん」
 声がした。
 低く、どこか柔らかなその声を聞き取ったとき、矢野はようやく呼吸を深くした。
 白装束の影。
 沖田静が、濃い雲を背負って、ただそこに立っていた。
「今日の配備、少し変わりました。僕たちは第三班の補佐に回されます」
「本隊じゃないのか」
「本隊は中央の峠。僕たちは右の崖沿いです」
 矢野は頷いた。
 任地が辺縁になるということは、何かしら“読み”があるということだった。
「囮か、要所か、どっちだと思う?」
「……両方、でしょうね」
 静は笑わなかった。
 しかし、その口調に、不安も焦燥もなかった。
 それが、むしろ矢野には不気味だった。
     ※
 戦は、乱戦だった。
 崖沿いの道――それはもともと獣道のようなもので、兵が複数名並ぶにはあまりにも狭かった。
 その地形を活かす形で、敵は複数方向から矢を放ち、追撃を仕掛けてきた。
 矢野は、一度槍を折られた。
 反応は早かった。
 だが、敵兵の手元を見誤った。
 折れた穂先が泥に沈む音を聞きながら、すぐに柄の部分を投げ捨て、拾った小太刀で応戦に転じた。
 視界の端に、白い衣が踊っていた。
 静が斬っていた。
 否――“流していた”。
 刃が動いているのではない。
 気配だけがそこにあり、兵たちの身体が自然に沈んでいく。
 その場にいた兵士の誰もが、一瞬、その現象を“風”と錯覚した。
 風が通った――ただ、それだけの感覚だった。
 だが、それが剣だった。
「矢野さん、まだ動けますか」
「……なんとか、な」
「じゃあ、あと七人。僕が引きつけます」
「おまえ、一人で七人なんて――」
「全部、斬るわけじゃありません。……ただ、止めます」
 静の言葉には、もはや“人間”の尺度がなかった。
 だが矢野は、何も言えなかった。
     ※
 敵の足音が近づく。
 崖沿いの狭い道に、五人が並ぶ。
 静は、その中央に立った。
 一歩踏み出す。
 刃が抜かれる。
 その音すら、もう聞こえない。
 敵兵のひとりが最初に崩れた。
 何が起きたか、誰にもわからなかった。
 二人目は、膝をついた。
 三人目は、刃を抜く前に、静に手首を取られていた。
 矢野は、遠目にそれを見ていた。
 そこにいたのは、沖田静だった。
 だが、“戦場の沖田静”だった。
 ――もう、誰にも届かない場所にいる。
 その背中に、叫びたかった。
 “戻れ”と、“名前を思い出せ”と。
 けれど、矢野は叫ばなかった。
 叫ぶ必要がなかった。
 なぜなら――静が、自分から剣を引いたのだ。
     ※
 敵兵がすべて退いたあと。
 静は、剣を地面に突き立てたまま、肩で息をしていた。
 珍しかった。
 彼が、こうして“疲労”を見せるのは。
「静……」
「……怖くて、斬れませんでした」
「なに?」
「本当に“人を殺す”感触が、来る直前だった。……怖くなって、手が震えました」
 矢野は、それを聞いて、胸の奥で何かがふっと軽くなった気がした。
「いいじゃねえか。……人間じゃん、それ」
 静は、何かを考えていた。
 しばらく、黙っていた。
「矢野さん。僕は、戦っているうちは“人間”でいられると思っていたんです。でも、いちばん怖いのは……自分が“人間の顔をしている”って思い込んで、本当はもう人間じゃなくなってることかもしれないって……今日、思いました」
 矢野は、地面に座り込んだ。
 そして、背中で静にもたれかかった。
「だったら、おまえが怖がってるうちは、俺がそばにいる。怖いって言えるうちは、まだ帰ってこれる。だから、おまえが剣を握ってるうちは――俺が“名前”を呼ぶ」
 静は、笑わなかった。
 ただ、深く頷いた。
「……呼ばれたら、帰ってこれるようにしておきます」
「それでいい」
「でも、矢野さん。僕、きっとこれからも――たくさん、斬ります」
「ああ。わかってる」
「人も。……心も」
「それでも、“名前”は呼ぶ」
     ※
 その夜。
 風が吹いた。
 灰色の空に、星が一つだけ顔を出した。
 静は、剣を鞘に収めながら、その小さな光を見上げた。
 遠い。
 届かない。
 それでも、自分がどこにいるのかを教えてくれる光だった。
 ――呼ばれる名前がある限り、
 僕は、まだ、ここに立っていられる。