名もなき剣に、雪が降る

第十一話「それでも、刃を持って」

 夜の戦場は、火が消えると、すぐにすべての輪郭を失った。
 焚き火の残り香だけが地面に滲み、鉄と血と湿った草の匂いが肌の上を這っていく。
 静まり返ったあたりには、それでもまだ、わずかに呻き声と、寝返りの音と、兵士の低いうなりが漂っていた。
 痛みは、誰にも癒されることなく、眠りの中に隠れている。
 矢野蓮は、目を閉じたまま起きていた。
 耳の奥で、さっきの戦の音が繰り返されていた。
 刃が空を裂く音。
 斬られた者が声もなく崩れる音。
 そして――そのなかで聞こえた、自分の声。
 “静”と、呼んだ。
 それは、沖田静を“人間”に引き戻すための、ただ一言の名だった。
     ※
「……助けてくれて、ありがとうございました」
 夜が更けてから、静が低く、そう言った。
 焚き火の光が消えたあとも、ふたりは火の名残の横で背を並べていた。
 矢野は目を開け、少しだけ横目で静の顔を見た。
「俺は、助けたっていうより……止めたかっただけだ」
 静は頷いた。
「でも、助けられたんです」
 それきり、またふたりのあいだに言葉はなかった。
 夜は深く、静かだった。
 まるで、戦の前も後も、この土地はもともとこうしていたのだとでも言うように。
 風もない。月も隠れていた。
     ※
 翌朝、矢野が目を覚ましたとき、空は鉛色だった。
 夜明けと呼ぶにはまだ早く、だが、もう夢には戻れない中途の時間。
 地面に敷かれた寝具の上で身を起こすと、すぐそばに沖田の姿がなかった。
「……静?」
 起き上がり、あたりを見回す。
 他の兵士たちはまだ眠っている。
 霧が、夜の疲れを引きずるように草木のあいだを漂っていた。
 見つけたのは、隊の荷車の陰だった。
 ひとり、座り込んでいた。
「早いな。……いや、寝てなかったのか?」
 矢野の問いに、沖田は目を伏せたまま首を振った。
「眠るのが、少し怖かっただけです」
「……昨日のこと、か」
「……はい」
 返答が小さくて、耳を傾けなければ聞こえないほどだった。
「僕は……斬ることしか、できないんです」
 それは、事実だった。
 だが、あまりにも痛ましい響きだった。
「斬る以外のことは、剣ではできませんから。誰かを救うことも、導くことも、抱きしめることも……全部、できない」
 矢野は黙って座った。
 言葉ではどうにもならない感情が胸の奥にあった。
「でも、剣を置いたら、何も残らない気がするんです。僕が生きている意味も、ここにいる理由も、誰かと繋がる手段も……全部、消えてしまう」
「……」
「だから、斬ることをやめられない。でも斬りつづければ、きっと、僕は僕じゃなくなる。そのあいだで、足場が崩れてるのが、わかるんです」
 その声には、怯えがあった。
 沖田静という存在が、“自分自身”を怖がっていた。
「それでも、持ってろよ。剣を」
 矢野が言った。
「おまえが剣を置いたら、誰かがその穴を埋めようとする。おまえが斬らなきゃ、誰かが斬られる。そういう場所にいるんだ、今は」
「でも、それじゃあ……」
「おまえが壊れそうなときは、俺が止める」
 矢野は、きっぱりとした声で言った。
「昨日だってそうだったろ。俺の声が届いた。だったら、俺はこれからも、何度でも呼ぶ。“静”って。……それだけで、おまえが帰ってくるなら」
 沖田は、言葉を失ったまま、肩を震わせた。
 何かを堪えるように、拳を握りしめていた。
「僕……もう、誰かに名前を呼ばれる資格もないって、思ってたんです」
「それは違う」
「僕は、あの日、殺してしまった人の顔を、まだ忘れられません。まだ、夢に見るんです。でも、戦場に立つときは、それを全部しまって、何も見えないようにしてる。そうしないと、怖くて斬れないから」
「それができるなら、おまえはまだ人間だよ」
「でも、矢野さん。もし、ある日、僕が何も感じなくなったら……そのときは、どうしますか?」
「おまえが感じなくなっても、俺が感じてる。だから、おまえがどこまで行こうが、俺が止める」
 その言葉に、沖田はそっと、目を伏せた。
 ゆっくりと吐いた息が、空に吸い込まれていった。
     ※
 昼前、前線の再編が通達された。
 矢野と沖田は、また同じ班に組まれた。
 もう驚く者はいない。
「沖田と組めるのは、矢野しかいない」
 それは、もはや上官たちの共通認識になっていた。
 命令ではなく、配慮でもなく、単なる“構造”として定着していた。
「……変な話だな。戦場で、相棒とかさ」
 矢野がぽつりと呟くと、静は少しだけ笑った。
「でも、助かってます。矢野さんが横にいると、視界が狭くなりすぎなくて済むんです」
「視界が?」
「人を“敵”としてしか見られないとき、矢野さんの存在が、“ただの人間”を思い出させてくれる」
「おまえにとって、俺は“ただの人間”かよ」
「はい。それが、いちばんありがたいんです」
     ※
 夜になり、焚き火を囲んだふたりは、それぞれの武具を手入れしていた。
 静は、いつものように剣を拭いていたが、手つきがわずかに柔らかくなっていた。
「矢野さん。もし僕が、“これ以上斬りたくない”って言ったら、そのときも、僕の名前を呼んでくれますか」
「呼ぶさ。何度でも」
「……ありがとうございます」
 その言葉が、本当に救いになっているのかどうかは、わからなかった。
 でも、少なくとも今、沖田静の剣は、まだ“戻れる場所”を知っていた。
 その事実だけが、ふたりを、戦場の真ん中に立たせていた。