名もなき剣に、雪が降る

第九話「声の届かぬ背中に」

 夜明け前の静寂は、どこか異様に澄んでいた。
 月はすでに沈み、空はまだ藍の底にあった。
 兵たちは起き抜けの身支度を淡々とこなしていたが、その動きにはどこか緩慢さがあった。
 近づきつつある“大規模戦”の気配を、誰もが本能的に察していた。
 矢野蓮は槍の穂先を見つめながら、その朝の冷たさを、妙に身体に刻み込んでいた。
 火のそばには沖田静がいた。
 白装束の裾が風に揺れ、濃くなった夜明け前の闇のなか、彼の姿はまるで人ではない何かのようだった。
「静」
 矢野が名を呼ぶと、沖田はゆっくりと振り返った。
「はい」
「……眠れてるか」
「夢は、見ました。でも眠っていたと思います」
「どんな夢だ」
 沖田は少し考えて、それから言った。
「僕が……誰かの声を聞いていた夢です」
「誰かって?」
「わかりません。姿も顔もなかった。……ただ、遠くから“名前を呼ばれている”気がしたんです」
 その言葉に、矢野は胸を突かれた。
 ――声が届いていた。
 それは、誰のものだったのか。
 自分ではないとしたら、静を“人間”に繋ぎ止めているのは誰なのか。
     ※
 日中の交戦は、激しかった。
 敵軍は数においても地形においても優勢だった。
 味方の隊列は早々に乱れ、各班は散り散りになった。
 それでも、矢野と沖田は同じ場所にいた。
 無言で、互いを補いながら、複数の敵を相手に斬り、薙ぎ、押し返した。
 沖田の動きは、もはや“剣術”の域ではなかった。
 視線だけで、相手の動きの予兆を読み、間合いを制し、致命を避けて無力化する。
 彼の剣が“殺さずに止める”ことを選び続けていることに、矢野は気づいていた。
 だが、それが“優しさ”ではないことも、もう知っていた。
 それは、単なる“最適解”だった。
 無駄に殺さず、次の動きへ移れるように構成された戦闘理論。
 相手を“人”としてではなく、“障害物”として扱った結果。
 それでも、沖田は迷いなく斬っていた。
 命を“扱う”ことに、なんのためらいもない動きで。
     ※
 戦いのあと、矢野はひとりになった。
 隊の仮設天幕に戻ると、静はまだどこかへ報告に出ているらしかった。
 焚き火のそばに腰を下ろし、濡れた布で手を拭いながら、矢野は考えていた。
 あいつの剣は、今、どこへ向かっている?
 ――あの戦い方は、もう“人間”のものじゃない。
 だが、俺はまだ、あいつを“人間”として見ていたい。
 それが、間違いなのだろうか。
 ふと、火がはぜた。
 小さな破裂音。
 その音に、何かが弾けたように、矢野は低く声を出した。
「静――」
 それは呟きだった。
 呼びかけのようでもあり、問いかけのようでもあり、祈りのようでもあった。
 その背中は、どこまで届くのか。
 どこまで“こちら側”に留まっていられるのか。
 ――俺は、その背中に、もう声をかけられない日が来るような気がしている。
     ※
 沖田が戻ってきたのは、そのしばらく後だった。
 剣を手入れしたままの姿で、仮設天幕の端に腰を下ろした。
「……矢野さん」
「ああ」
「明日、また前線です。僕と、第三班の兵が主攻として回されるみたいです」
「俺は?」
「後衛の援護。僕のすぐ後ろで動け、とのことです」
 矢野は頷いた。
 それが当然のようになっていることが、もはや説明すら要らなくなっていた。
「静、おまえ……“人を斬る”って、どういう気分なんだ?」
 沖田は、一瞬だけ手を止めた。
「それを“気分”として語れるなら、僕はもう少しまともだったと思います」
 その答えに、矢野は目を伏せた。
「俺、夢を見たんだ。おまえが斬ってる夢。……ずっと斬ってて、途中で、振り向いた」
「……」
「そのときの目に、俺の姿が映ってなかった」
 静は、目を閉じた。
 火の音が、ふたりのあいだに淡く流れた。
「それでも、僕の背中を見ていてくれますか?」
「……わかんねえよ。
 でも、たぶん俺は、どこまで行っても……見続けるんだと思う。
 怖いけど、でも、それでもおまえのこと……“人間”として見てたいんだ」
 静は、何も答えなかった。
 ただ、その夜だけは、剣を拭く手を止めていた。
     ※
 その背中に、声が届いたかどうかはわからない。
 けれど矢野は、それでもなお、呼び続けるのだと心に決めた。
 たとえ沈黙に吸い込まれても。
 たとえその背が、別の世界へ向かって歩いていても。