第一話「草の匂いが消える日」
草の匂いが、ふと途切れた。
春から夏へと遷るころ、日毎に緑は濃くなっていたはずだった。なのに、その朝の空気は妙に白けていて、鼻先を抜けていった風が、どこか埃っぽく、土の奥にしまわれた何かを攪拌していた。
その空気のなかに、少年がひとり、立っていた。
まだ年は七つにも満たぬだろう。痩せぎすで、手足の骨がやけに浮いて見える。額には前髪がかかっていた。着古した藍染の袴と継ぎ当てだらけの羽織を身につけて、足袋はない。だが、その足は汚れていなかった。泥道を裸足で歩いたにしては、指の間まで白く、指の先まで静かだった。
彼は、門の前に立っていた。
村はずれにある古びた道場。瓦の端は欠け、白壁も煤けていて、近づいてみれば年数なりのひびや傾きが見えてくる。それでも、正面に掲げられた木札の文字はまだ新しく、「剣心館」と記されていた。簡素でありながら、筆の息遣いのようなものが宿っている書だった。
門戸は閉ざされていた。彼はそこから一歩も動かなかった。声を上げることもせず、手をかけることもせず、ただ立ち尽くしていた。
その姿に、道場の内で竹刀を振っていた少年たちが気づいた。五人、六人と、まだ年若い門下生たち。誰かが門の向こうを見て、顔をしかめた。
「あいつ、また来てる……」
そう呟いた声に、誰もが返す言葉を持たなかった。
それが、沖田静との最初の記憶だった。
※
彼が初めて門の前に現れたのは、春先のことだった。
野に花が咲き、木々がいっせいに芽吹く季節――その頃に、村のどこにも属していない少年がふらりと姿を見せるようになった。誰かの子でも、誰かの弟でもなかった。名前すらなく、どこから来たのかを誰にも語らなかった。
最初の一週間は、ただ門の前に立っていた。二週間目には、門前に石を並べ始めた。三週間目、門を掃きはじめた。
それに最初に気づいたのは、道場の裏手で薪割りをしていた中年の門弟――太一だった。五十を越えた体に、まだ幾分の現役の力が残る男だった。
「……おい、小僧。何してる?」
太一が問いかけたその声に、少年は少しだけ顔を上げた。
何の感情も浮かんでいなかった。
怒りも、恐れも、媚びも、飢えすらなかった。
そこにあるのは、ただの“空”だった。真冬の空のように、澄んで、何も映していない。
「……掃除です」
少年は、そう言った。
「掃除……? 誰に言われて?」
「誰にも言われていません。でも、汚れていたので」
太一はしばらく口を閉じたまま、少年を見下ろしていた。
この子は何かを欲しているのだろうか。食べ物か、温もりか、それとも――と目を細めたが、思考はすぐに遮られた。
「剣、習いたいのか」
その問いに、少年は少しだけ、頷いた。
けれどその動きは、まるで「はい」と言うのではなく、「たぶん、そうだと思う」と言いたげな、曖昧で幼い確信だった。
太一は小さく嘆息し、肩を竦めた。
「……剣は、ただ振ればよいものじゃねえ。斬られもする。血も出る。人の命を断つ道でもある。それでもやるってのか」
その言葉に、少年はほんの少しだけ首を傾けた。
「命を、断つ……」
口の中で、何かを転がすように呟いた。
それは未知の言葉に対する反芻のようで、同時に、どこか覚えがあるような響きを帯びていた。
太一は眉根を寄せ、少年の目を見つめた。
そしてふと、背筋に冷たいものが走った。
この子は――その意味を、知っている。
血も、命も、斬るということも。
言葉ではなく、体のどこかに刻まれた記憶として。
※
その日の夜、太一は道場の師範――榊宗兵衛にその話をした。
宗兵衛は五十路半ば、かつては名のある流派の剣士だったというが、今は隠居に近い生活を送りながら、村の若者に剣を教えていた。
「……名前もないそうです」
「拾われた子か?」
「それも違うようで……どこの家の者でもない。ただ、毎朝、門の前に立って掃除をしている」
宗兵衛は黙って湯呑を持ち上げ、ぬるくなった茶をすする。
目を閉じると、白い着物を着た子どもの幻が脳裏に浮かんだ。
「目の色が、変だった」と太一が言った。
「獣の目じゃない。炎もない。まるで……水の底みたいだった」
宗兵衛は言葉を返さなかった。
けれど、脳裏の像はしつこく残っていた。
白い空気。白い衣。動かない眼。汚れぬ足。
まるで、昔の“あの日”を思い出すようだった。
※
翌朝、門が開いた。
少年が立っている前で、軋むように、木戸が開いた。
中から、宗兵衛が現れた。痩せた顔に深い皺をたたえた男。髷はゆるく結ばれ、黒い着流しの裾が朝の風に揺れていた。
少年は一礼もせず、ただその目を見つめていた。
宗兵衛も、挨拶を返すことはなかった。
そのまま、数秒が経った。
「名前はあるのか」
少年は首を横に振った。
「……いりません」
その答えに、宗兵衛の眉がかすかに動いた。
「なぜ、名を欲さぬ」
「呼ばれなくても、生きていけます」
風が草を鳴らした。朝の光が、木々の先から差し込んできた。
宗兵衛は小さく息を吐き、門の内側を指した。
「では、入れ。――名は、ここで得ろ」
少年は、ほんのわずかに頷いた。
そして、それが――
沖田静という少年の、“はじまり”だった。
草の匂いが、ふと途切れた。
春から夏へと遷るころ、日毎に緑は濃くなっていたはずだった。なのに、その朝の空気は妙に白けていて、鼻先を抜けていった風が、どこか埃っぽく、土の奥にしまわれた何かを攪拌していた。
その空気のなかに、少年がひとり、立っていた。
まだ年は七つにも満たぬだろう。痩せぎすで、手足の骨がやけに浮いて見える。額には前髪がかかっていた。着古した藍染の袴と継ぎ当てだらけの羽織を身につけて、足袋はない。だが、その足は汚れていなかった。泥道を裸足で歩いたにしては、指の間まで白く、指の先まで静かだった。
彼は、門の前に立っていた。
村はずれにある古びた道場。瓦の端は欠け、白壁も煤けていて、近づいてみれば年数なりのひびや傾きが見えてくる。それでも、正面に掲げられた木札の文字はまだ新しく、「剣心館」と記されていた。簡素でありながら、筆の息遣いのようなものが宿っている書だった。
門戸は閉ざされていた。彼はそこから一歩も動かなかった。声を上げることもせず、手をかけることもせず、ただ立ち尽くしていた。
その姿に、道場の内で竹刀を振っていた少年たちが気づいた。五人、六人と、まだ年若い門下生たち。誰かが門の向こうを見て、顔をしかめた。
「あいつ、また来てる……」
そう呟いた声に、誰もが返す言葉を持たなかった。
それが、沖田静との最初の記憶だった。
※
彼が初めて門の前に現れたのは、春先のことだった。
野に花が咲き、木々がいっせいに芽吹く季節――その頃に、村のどこにも属していない少年がふらりと姿を見せるようになった。誰かの子でも、誰かの弟でもなかった。名前すらなく、どこから来たのかを誰にも語らなかった。
最初の一週間は、ただ門の前に立っていた。二週間目には、門前に石を並べ始めた。三週間目、門を掃きはじめた。
それに最初に気づいたのは、道場の裏手で薪割りをしていた中年の門弟――太一だった。五十を越えた体に、まだ幾分の現役の力が残る男だった。
「……おい、小僧。何してる?」
太一が問いかけたその声に、少年は少しだけ顔を上げた。
何の感情も浮かんでいなかった。
怒りも、恐れも、媚びも、飢えすらなかった。
そこにあるのは、ただの“空”だった。真冬の空のように、澄んで、何も映していない。
「……掃除です」
少年は、そう言った。
「掃除……? 誰に言われて?」
「誰にも言われていません。でも、汚れていたので」
太一はしばらく口を閉じたまま、少年を見下ろしていた。
この子は何かを欲しているのだろうか。食べ物か、温もりか、それとも――と目を細めたが、思考はすぐに遮られた。
「剣、習いたいのか」
その問いに、少年は少しだけ、頷いた。
けれどその動きは、まるで「はい」と言うのではなく、「たぶん、そうだと思う」と言いたげな、曖昧で幼い確信だった。
太一は小さく嘆息し、肩を竦めた。
「……剣は、ただ振ればよいものじゃねえ。斬られもする。血も出る。人の命を断つ道でもある。それでもやるってのか」
その言葉に、少年はほんの少しだけ首を傾けた。
「命を、断つ……」
口の中で、何かを転がすように呟いた。
それは未知の言葉に対する反芻のようで、同時に、どこか覚えがあるような響きを帯びていた。
太一は眉根を寄せ、少年の目を見つめた。
そしてふと、背筋に冷たいものが走った。
この子は――その意味を、知っている。
血も、命も、斬るということも。
言葉ではなく、体のどこかに刻まれた記憶として。
※
その日の夜、太一は道場の師範――榊宗兵衛にその話をした。
宗兵衛は五十路半ば、かつては名のある流派の剣士だったというが、今は隠居に近い生活を送りながら、村の若者に剣を教えていた。
「……名前もないそうです」
「拾われた子か?」
「それも違うようで……どこの家の者でもない。ただ、毎朝、門の前に立って掃除をしている」
宗兵衛は黙って湯呑を持ち上げ、ぬるくなった茶をすする。
目を閉じると、白い着物を着た子どもの幻が脳裏に浮かんだ。
「目の色が、変だった」と太一が言った。
「獣の目じゃない。炎もない。まるで……水の底みたいだった」
宗兵衛は言葉を返さなかった。
けれど、脳裏の像はしつこく残っていた。
白い空気。白い衣。動かない眼。汚れぬ足。
まるで、昔の“あの日”を思い出すようだった。
※
翌朝、門が開いた。
少年が立っている前で、軋むように、木戸が開いた。
中から、宗兵衛が現れた。痩せた顔に深い皺をたたえた男。髷はゆるく結ばれ、黒い着流しの裾が朝の風に揺れていた。
少年は一礼もせず、ただその目を見つめていた。
宗兵衛も、挨拶を返すことはなかった。
そのまま、数秒が経った。
「名前はあるのか」
少年は首を横に振った。
「……いりません」
その答えに、宗兵衛の眉がかすかに動いた。
「なぜ、名を欲さぬ」
「呼ばれなくても、生きていけます」
風が草を鳴らした。朝の光が、木々の先から差し込んできた。
宗兵衛は小さく息を吐き、門の内側を指した。
「では、入れ。――名は、ここで得ろ」
少年は、ほんのわずかに頷いた。
そして、それが――
沖田静という少年の、“はじまり”だった。



