第七話「刃の沈黙に降るもの」
戦の終わった夜ほど、静かな時間はない。
それは命が終わった夜でもあり、また命が繋がった夜でもある。
生き残った者たちは火を囲み、死んだ者たちは土に還る。
沈黙のなかで、焚き火の音だけが生きている。
時折、誰かの寝息と、剣の鍔に触れる指先の微かな音が混じる。
矢野蓮は、その焚き火のそばにいた。
沖田静は、少し離れたところで布に包まれた刀身を拭っていた。
血はほとんどついていなかったはずだ。
にもかかわらず、彼はずっとその行為を繰り返していた。
まるで、それが日常の呼吸であるかのように。
矢野はそれを、ただ見ていた。
いや、正確には“見ている”ふりをしていた。
静の背中は、日に日に遠くなっていた。
並んでいるはずの肩と肩に、目に見えぬ距離が生まれていた。
※
昼の戦は苛烈だった。
草木が密集する尾根道での攻防。
敵は森に紛れ、こちらの進路を分断する形で奇襲をかけてきた。
矢野は、槍を握ったまま視界を失った。
煙弾のような火薬が爆ぜ、黒いもやが視界を包んだ瞬間だった。
視えない。
聞こえない。
ただ、刃の空気だけが、すぐそこにあった。
――そのとき。
風が、通った。
あの剣だった。
沖田静の、剣の音。
実際に音がしたわけではない。
だが、空間が“切られた”ことが、矢野にはわかった。
それは殺意ではなく、ただ、刃だけが存在する場所。
何人もの敵が倒れていた。
矢野の周囲に、触れもしなかったはずの死体がいくつも転がっていた。
“視ずに、斬る”。
それがどういうことなのか、矢野はその時、はっきり知ってしまった。
――あいつはもう、“敵”と目を合わせていない。
命を命として見ないまま、すべての位置と速度だけを測り、
刃の届く範囲に入ったものを、自動的に排除していく。
それは、まるで人間の動きではなかった。
※
戦後、負傷者の運搬を終えたあと、矢野は隊長のもとへ呼ばれた。
「矢野。次の小隊再編でも、おまえは沖田と組だ」
「……ああ、了解です」
口ではそう言ったが、胸の奥に何かが沈んだ。
もう、驚きはなかった。
むしろそれが当然のように続いていることが、奇妙なほどだった。
隊長は紙をめくりながら、ふと呟いた。
「おまえと沖田を離す理由が、見つからん。あいつと噛み合う兵が他にいないんだ」
「……そうですね」
「おまえも、あいつが“変”だってことはわかってるだろ」
その言葉に、矢野は黙って頷いた。
「けど、あいつの剣は、隊を生かす剣だ。おまえがいるから制御できてるって話もある」
「……制御、ですか」
「ああ。あいつはな、剣を抜けば戦える。戦が終わっても、また剣を抜ける。けど“人間”に戻る場所が、いまのおまえしかないんだよ」
そのとき、矢野は思った。
――それは本当に“戻る場所”なんだろうか。
自分が今見ている沖田静は、果たして“戻って”きているのか。
それとも、ずっと“どこか”へ向かい続けているのか。
※
その夜、矢野は火のそばで尋ねた。
「静、おまえさ、いままで何人くらい斬った?」
静は顔を上げなかった。
ただ、手を止めることなく、剣を拭き続けていた。
「覚えていません。数えてもいません」
「……そうか」
「でも、数えなくなった日だけは、覚えています」
その言葉に、矢野は返す言葉を失った。
剣を持って戦うということは、そういうことだったのかもしれない。
けれど、彼にはそれが理解できなかった。
理解してしまったら、自分も“あちら側”に行ってしまう気がして。
「俺は……おまえのこと、尊敬してる。けど、少し……怖いんだ」
「怖がってください。正しいです、それは」
静はそう言って、はじめて矢野の方を見た。
その瞳は、まるで月のように、淡く、遠かった。
※
翌朝、風が強かった。
東からの風が、まだ枯れかけの木々を撓ませていた。
そのなかを、ふたりは並んで歩いていた。
地図にはない山道を辿る。新しい任地へと向かう道だった。
無言の時間が長くなったのは、いつからだったろう。
それでも気まずさはなかった。
呼吸の合わせ方だけは、もう馴染んでいた。
「矢野さん」
「ん」
「僕は、きっと……まだ人間でいられると思ってたんです」
「……」
「でも最近、自分の中に“人じゃない部分”が増えているのがわかる。あのとき、あなたが背を向けたまま、槍を振ってくれたこと、あれが、まだ“人間”に繋ぎ止めてくれていた」
矢野は答えなかった。
ただ、歩みを止めずに、その言葉を背で受けた。
風が吹いた。
白装束が揺れた。
音はしなかった。
けれど確かに、何かが揺らいだ気がした。
※
その夜、矢野は再び夢を見た。
静けさのなか、誰もいない戦場に、ひとつの背中だけが立っていた。
その手には剣がなかった。
けれど、剣よりも鋭い沈黙が、全身を包んでいた。
矢野はその背中を呼んだ。
声は届かなかった。
けれど、ただ、背中を見つめつづけていた。
目覚めたとき、胸の奥が痛んだ。
まるで、自分の剣が、どこかに置き去りにされたようだった。
戦の終わった夜ほど、静かな時間はない。
それは命が終わった夜でもあり、また命が繋がった夜でもある。
生き残った者たちは火を囲み、死んだ者たちは土に還る。
沈黙のなかで、焚き火の音だけが生きている。
時折、誰かの寝息と、剣の鍔に触れる指先の微かな音が混じる。
矢野蓮は、その焚き火のそばにいた。
沖田静は、少し離れたところで布に包まれた刀身を拭っていた。
血はほとんどついていなかったはずだ。
にもかかわらず、彼はずっとその行為を繰り返していた。
まるで、それが日常の呼吸であるかのように。
矢野はそれを、ただ見ていた。
いや、正確には“見ている”ふりをしていた。
静の背中は、日に日に遠くなっていた。
並んでいるはずの肩と肩に、目に見えぬ距離が生まれていた。
※
昼の戦は苛烈だった。
草木が密集する尾根道での攻防。
敵は森に紛れ、こちらの進路を分断する形で奇襲をかけてきた。
矢野は、槍を握ったまま視界を失った。
煙弾のような火薬が爆ぜ、黒いもやが視界を包んだ瞬間だった。
視えない。
聞こえない。
ただ、刃の空気だけが、すぐそこにあった。
――そのとき。
風が、通った。
あの剣だった。
沖田静の、剣の音。
実際に音がしたわけではない。
だが、空間が“切られた”ことが、矢野にはわかった。
それは殺意ではなく、ただ、刃だけが存在する場所。
何人もの敵が倒れていた。
矢野の周囲に、触れもしなかったはずの死体がいくつも転がっていた。
“視ずに、斬る”。
それがどういうことなのか、矢野はその時、はっきり知ってしまった。
――あいつはもう、“敵”と目を合わせていない。
命を命として見ないまま、すべての位置と速度だけを測り、
刃の届く範囲に入ったものを、自動的に排除していく。
それは、まるで人間の動きではなかった。
※
戦後、負傷者の運搬を終えたあと、矢野は隊長のもとへ呼ばれた。
「矢野。次の小隊再編でも、おまえは沖田と組だ」
「……ああ、了解です」
口ではそう言ったが、胸の奥に何かが沈んだ。
もう、驚きはなかった。
むしろそれが当然のように続いていることが、奇妙なほどだった。
隊長は紙をめくりながら、ふと呟いた。
「おまえと沖田を離す理由が、見つからん。あいつと噛み合う兵が他にいないんだ」
「……そうですね」
「おまえも、あいつが“変”だってことはわかってるだろ」
その言葉に、矢野は黙って頷いた。
「けど、あいつの剣は、隊を生かす剣だ。おまえがいるから制御できてるって話もある」
「……制御、ですか」
「ああ。あいつはな、剣を抜けば戦える。戦が終わっても、また剣を抜ける。けど“人間”に戻る場所が、いまのおまえしかないんだよ」
そのとき、矢野は思った。
――それは本当に“戻る場所”なんだろうか。
自分が今見ている沖田静は、果たして“戻って”きているのか。
それとも、ずっと“どこか”へ向かい続けているのか。
※
その夜、矢野は火のそばで尋ねた。
「静、おまえさ、いままで何人くらい斬った?」
静は顔を上げなかった。
ただ、手を止めることなく、剣を拭き続けていた。
「覚えていません。数えてもいません」
「……そうか」
「でも、数えなくなった日だけは、覚えています」
その言葉に、矢野は返す言葉を失った。
剣を持って戦うということは、そういうことだったのかもしれない。
けれど、彼にはそれが理解できなかった。
理解してしまったら、自分も“あちら側”に行ってしまう気がして。
「俺は……おまえのこと、尊敬してる。けど、少し……怖いんだ」
「怖がってください。正しいです、それは」
静はそう言って、はじめて矢野の方を見た。
その瞳は、まるで月のように、淡く、遠かった。
※
翌朝、風が強かった。
東からの風が、まだ枯れかけの木々を撓ませていた。
そのなかを、ふたりは並んで歩いていた。
地図にはない山道を辿る。新しい任地へと向かう道だった。
無言の時間が長くなったのは、いつからだったろう。
それでも気まずさはなかった。
呼吸の合わせ方だけは、もう馴染んでいた。
「矢野さん」
「ん」
「僕は、きっと……まだ人間でいられると思ってたんです」
「……」
「でも最近、自分の中に“人じゃない部分”が増えているのがわかる。あのとき、あなたが背を向けたまま、槍を振ってくれたこと、あれが、まだ“人間”に繋ぎ止めてくれていた」
矢野は答えなかった。
ただ、歩みを止めずに、その言葉を背で受けた。
風が吹いた。
白装束が揺れた。
音はしなかった。
けれど確かに、何かが揺らいだ気がした。
※
その夜、矢野は再び夢を見た。
静けさのなか、誰もいない戦場に、ひとつの背中だけが立っていた。
その手には剣がなかった。
けれど、剣よりも鋭い沈黙が、全身を包んでいた。
矢野はその背中を呼んだ。
声は届かなかった。
けれど、ただ、背中を見つめつづけていた。
目覚めたとき、胸の奥が痛んだ。
まるで、自分の剣が、どこかに置き去りにされたようだった。



