第六話「静けさの中で呼吸するもの」
夜の山は、音を呑む。
それは、戦の直後にだけ訪れる沈黙だった。
風が途絶え、焚き火の炎さえ揺れず、兵たちの囁きも消え、ただ大気が息を潜めるように、冷たく静まる。
――それを矢野蓮は、何度か体験していた。
けれど、その夜の“沈黙”は、今までと少し違っていた。
息を詰めるような緊張ではなかった。
どこか、剥き出しの痛みを、土の底に隠しているような静けさだった。
新たな戦地への投入前夜。
矢野と沖田は、同じ隊の一角に身を置き、隣り合うようにして沈黙していた。
焚き火の火は、すでに炭に近い。
周囲では兵たちのうち幾人かがまどろみ、残りは武具の整備や物資の確認に追われていた。
矢野は槍を立て、背中を丸めるようにして座っていた。
視線は宙に浮かび、言葉は口に出なかった。
けれど、すぐ隣にいる男の“気配”だけは、ひどく濃かった。
※
それは昼間の戦でのことだった。
川沿いの小さな砦。斥候を送り込んだ敵の先遣隊が、林の陰から襲いかかってきた。
交戦は、短かった。
だが、問題はその“終わり方”だった。
沖田が、一撃で止めたのだ。
否、正確には、“止めてしまった”。
敵兵の一人が、後衛の仲間に向かって走り出したときだった。
静はふっと姿を消すように走り、次の瞬間にはその男の目の前に立っていた。
剣が、振るわれた。
斬ったようには見えなかった。
ただ、風が動いた。
次の瞬間、その敵兵は、のけぞるようにして膝をついた。
呻きもせず、声も発さず、ただ地面に両手をついたまま、目を見開いたまま、ゆっくりと動かなくなった。
――斬られていない。
だが、立ち上がれなかった。
倒れた男の身体には、傷ひとつなかった。
にもかかわらず、命の火は消えていた。
※
「……あいつ、斬ってないよな?」
戦のあと、矢野は思わず周囲の者にそう言った。
けれど、誰も明確な答えを返さなかった。
誰もが、“あれは見なかった”というような顔をしていた。
静は、何も言わなかった。
火のそばに座り、黙って柄を布で拭っていた。
刀身に、血はついていなかった。
矢野は言葉を飲み込んだ。
あれが何だったのか、訊くことができなかった。
――斬っていないのに、殺してしまった。
そんな剣が、あるのか。
それは技術の話ではなかった。
彼にはわかっていた。
あれは、“剣”そのものが、生き物のように命を奪ったのだ。
静の手を通して、あるいは、その手をすら通さずに。
※
「ねえ、矢野さん」
火がすっかり小さくなった頃、静が声を出した。
「ん」
矢野は返事をしたが、目は合わせられなかった。
あの昼の光景が、脳裏を焼いて離れなかった。
「今日、僕が何をしたのか、訊かないんですね」
その声は、妙に淡々としていた。
自白でも、弁明でもなかった。
「訊きたくない。訊いたら……全部、わかってしまいそうで」
矢野の言葉は、自分でも驚くほど正直だった。
「僕も、わかりたくありません」
静は、そう言った。
「でも、手は、動くんです。目が覚めると、立っているんです。……相手の前に」
矢野は、焚き火の火を見た。
かすかに、灰が宙に舞っていた。
そのひと粒が、静の頬に当たって、白い皮膚に消えていった。
「おまえ、どこまで行く気なんだ?」
「――え?」
「……いや」
言ってから、矢野は少し後悔した。
問いがあまりに曖昧だった。
どこまで“強く”なるつもりか、どこまで“狂って”しまうのか、あるいは、――どこまで“殺す”つもりか。
そのどれとも取れるような、問いだった。
静は、しばらく黙っていた。
そして、ごく微かに微笑んだ。
「たぶん、僕はもう……途中なんです。どこへ向かっているのかも、自分ではわかっていない。でも、それでも、――誰かの命を、もう増やさないために、進むしかない」
※
矢野は、その夜、眠れなかった。
それが初めてではなかったが、その晩の眠れなさは、質が違っていた。
静が言った言葉は、ずっと頭のなかを反芻していた。
誰かの命を“もう”増やさないために。
それは、ただの軍人の言葉ではなかった。
それは、“命を積んできた”者の言葉だった。
どれだけの命を、自分の手で終わらせてきたのか。
数えたことはないのか。
数えることを、やめたのか。
――矢野には、そこまでの世界はわからなかった。
でも、わからないままに、同じ場所に立っていることが、怖かった。
※
翌朝、編成表に目を通した上官が、隊員たちに言った。
「今回の前線、沖田と矢野は、そのまま組で動け。他の者は第三班に移動しろ」
自然な決定だった。
誰も疑問を持たなかった。
ふたりの名前は、常に並んで記された。
矢野は、紙の端に書かれた自分の名と、沖田の名を眺めながら、これが“信頼”なのだと知った。
戦場における信頼――それは、命を投げ出す準備があるということ。
相手の判断を、結果がどうであれ肯定する覚悟のこと。
でも同時に、それは、相手がどこかへ向かうのを黙って見送る“許可”でもある。
矢野は、そこにある危うさを、ようやく意識し始めていた。
※
戦が始まった。
敵地へ踏み込み、伏兵を退け、味方を導く。
いつものように静は前へ進み、矢野はそのすぐ脇を支えた。
剣と槍が交差し、動線が交わり、気配が波紋のように広がる。
ふたりはもう、目を合わせずに息を合わせることができた。
だが、矢野の胸の奥には、火がともり続けていた。
あの剣は、何を選び、何を拒み、誰を斬っているのか。
そのすべてを理解できないまま、自分はこの背に立っていいのか――。
※
その夜、矢野は再び夢を見た。
真っ白な戦場。
人の声も、死の匂いも、血の色も消えた景色で、
沖田静だけが、歩いていた。
彼の足元には、倒れた兵たちの影が、光のように広がっていた。
誰も彼を止められず、誰も彼に名を呼ばなかった。
矢野は夢の中で、何度もその名を呼んだ。
けれど、声は届かなかった。
その背中は、どこか“人間”ではなかった。
目覚めたとき、矢野は汗をかいていた。
胸の奥が、冷えていた。
――俺は、あいつの何を、見ていたんだろう。
そう思った。
夜の山は、音を呑む。
それは、戦の直後にだけ訪れる沈黙だった。
風が途絶え、焚き火の炎さえ揺れず、兵たちの囁きも消え、ただ大気が息を潜めるように、冷たく静まる。
――それを矢野蓮は、何度か体験していた。
けれど、その夜の“沈黙”は、今までと少し違っていた。
息を詰めるような緊張ではなかった。
どこか、剥き出しの痛みを、土の底に隠しているような静けさだった。
新たな戦地への投入前夜。
矢野と沖田は、同じ隊の一角に身を置き、隣り合うようにして沈黙していた。
焚き火の火は、すでに炭に近い。
周囲では兵たちのうち幾人かがまどろみ、残りは武具の整備や物資の確認に追われていた。
矢野は槍を立て、背中を丸めるようにして座っていた。
視線は宙に浮かび、言葉は口に出なかった。
けれど、すぐ隣にいる男の“気配”だけは、ひどく濃かった。
※
それは昼間の戦でのことだった。
川沿いの小さな砦。斥候を送り込んだ敵の先遣隊が、林の陰から襲いかかってきた。
交戦は、短かった。
だが、問題はその“終わり方”だった。
沖田が、一撃で止めたのだ。
否、正確には、“止めてしまった”。
敵兵の一人が、後衛の仲間に向かって走り出したときだった。
静はふっと姿を消すように走り、次の瞬間にはその男の目の前に立っていた。
剣が、振るわれた。
斬ったようには見えなかった。
ただ、風が動いた。
次の瞬間、その敵兵は、のけぞるようにして膝をついた。
呻きもせず、声も発さず、ただ地面に両手をついたまま、目を見開いたまま、ゆっくりと動かなくなった。
――斬られていない。
だが、立ち上がれなかった。
倒れた男の身体には、傷ひとつなかった。
にもかかわらず、命の火は消えていた。
※
「……あいつ、斬ってないよな?」
戦のあと、矢野は思わず周囲の者にそう言った。
けれど、誰も明確な答えを返さなかった。
誰もが、“あれは見なかった”というような顔をしていた。
静は、何も言わなかった。
火のそばに座り、黙って柄を布で拭っていた。
刀身に、血はついていなかった。
矢野は言葉を飲み込んだ。
あれが何だったのか、訊くことができなかった。
――斬っていないのに、殺してしまった。
そんな剣が、あるのか。
それは技術の話ではなかった。
彼にはわかっていた。
あれは、“剣”そのものが、生き物のように命を奪ったのだ。
静の手を通して、あるいは、その手をすら通さずに。
※
「ねえ、矢野さん」
火がすっかり小さくなった頃、静が声を出した。
「ん」
矢野は返事をしたが、目は合わせられなかった。
あの昼の光景が、脳裏を焼いて離れなかった。
「今日、僕が何をしたのか、訊かないんですね」
その声は、妙に淡々としていた。
自白でも、弁明でもなかった。
「訊きたくない。訊いたら……全部、わかってしまいそうで」
矢野の言葉は、自分でも驚くほど正直だった。
「僕も、わかりたくありません」
静は、そう言った。
「でも、手は、動くんです。目が覚めると、立っているんです。……相手の前に」
矢野は、焚き火の火を見た。
かすかに、灰が宙に舞っていた。
そのひと粒が、静の頬に当たって、白い皮膚に消えていった。
「おまえ、どこまで行く気なんだ?」
「――え?」
「……いや」
言ってから、矢野は少し後悔した。
問いがあまりに曖昧だった。
どこまで“強く”なるつもりか、どこまで“狂って”しまうのか、あるいは、――どこまで“殺す”つもりか。
そのどれとも取れるような、問いだった。
静は、しばらく黙っていた。
そして、ごく微かに微笑んだ。
「たぶん、僕はもう……途中なんです。どこへ向かっているのかも、自分ではわかっていない。でも、それでも、――誰かの命を、もう増やさないために、進むしかない」
※
矢野は、その夜、眠れなかった。
それが初めてではなかったが、その晩の眠れなさは、質が違っていた。
静が言った言葉は、ずっと頭のなかを反芻していた。
誰かの命を“もう”増やさないために。
それは、ただの軍人の言葉ではなかった。
それは、“命を積んできた”者の言葉だった。
どれだけの命を、自分の手で終わらせてきたのか。
数えたことはないのか。
数えることを、やめたのか。
――矢野には、そこまでの世界はわからなかった。
でも、わからないままに、同じ場所に立っていることが、怖かった。
※
翌朝、編成表に目を通した上官が、隊員たちに言った。
「今回の前線、沖田と矢野は、そのまま組で動け。他の者は第三班に移動しろ」
自然な決定だった。
誰も疑問を持たなかった。
ふたりの名前は、常に並んで記された。
矢野は、紙の端に書かれた自分の名と、沖田の名を眺めながら、これが“信頼”なのだと知った。
戦場における信頼――それは、命を投げ出す準備があるということ。
相手の判断を、結果がどうであれ肯定する覚悟のこと。
でも同時に、それは、相手がどこかへ向かうのを黙って見送る“許可”でもある。
矢野は、そこにある危うさを、ようやく意識し始めていた。
※
戦が始まった。
敵地へ踏み込み、伏兵を退け、味方を導く。
いつものように静は前へ進み、矢野はそのすぐ脇を支えた。
剣と槍が交差し、動線が交わり、気配が波紋のように広がる。
ふたりはもう、目を合わせずに息を合わせることができた。
だが、矢野の胸の奥には、火がともり続けていた。
あの剣は、何を選び、何を拒み、誰を斬っているのか。
そのすべてを理解できないまま、自分はこの背に立っていいのか――。
※
その夜、矢野は再び夢を見た。
真っ白な戦場。
人の声も、死の匂いも、血の色も消えた景色で、
沖田静だけが、歩いていた。
彼の足元には、倒れた兵たちの影が、光のように広がっていた。
誰も彼を止められず、誰も彼に名を呼ばなかった。
矢野は夢の中で、何度もその名を呼んだ。
けれど、声は届かなかった。
その背中は、どこか“人間”ではなかった。
目覚めたとき、矢野は汗をかいていた。
胸の奥が、冷えていた。
――俺は、あいつの何を、見ていたんだろう。
そう思った。



