第五話「はじまりの横並び」
その日、空は透き通るように晴れていた。
春の冷気は名残を惜しむように地を這っていたが、陽光だけは、まるで何かを赦すように、戦場に降り注いでいた。兵たちはそれぞれ武具の点検を終え、集落の外れに設営された野営地で待機していた。けれど、誰の表情にも余裕はなかった。今日が「前哨」ではなく、「本戦」であることを、彼らの背筋が語っていた。
その中央、ほかの班から少しだけ距離を置いた場所に、ふたりの兵士が並んで腰掛けていた。
背中はまだ触れていない。けれど、互いの存在を否応なく意識する、そんな間合いだった。
ひとりは、白装束を上から羽織った細身の少年――沖田静。
もうひとりは、均整の取れた体格の槍兵、矢野蓮。
「……なんか、もう馴染んでるな。俺ら」
矢野が言った。口調は飄々としているが、内心は少しばかり戸惑っていた。
この二週間、彼らは同じ隊で複数の戦場に投入された。そのたびに、何故か編成上の理由で横並びに配置され、自然と共に動くことが多くなった。命令されたわけではない。ただ、そのほうが効率が良かった。
「どうですかね」
静は、陽の眩しさに目を細めながら、茶目っ気のある声で応じた。
相変わらず、敬語は崩れない。
「静、おまえさ、俺のこと“矢野さん”って呼ぶけど、ちょっと堅くないか?」
「……そうですか?」
「まあ、いいけどさ」
軽い笑いを交わし、ふたりは再び沈黙する。
その沈黙が、気まずくないことに、矢野はふと気づいた。
※
最初は、警戒心からだった。
白装束をまとう剣士。
鬼神と呼ばれ、名前も不確かだと噂される男。
最初の戦闘で矢野は、それが虚名でないことを知った。
静の剣は、冗談のように速く、致命を避けながら敵を崩していく。
刀身は濁らず、表情は動かず、ただ斬る。ただ、斬る。
だが――矢野には、それが“優しさ”だとは思えなかった。
殺さないための技ではなかった。
それは、殺しきることさえも拒絶した、“無関心の剣”だった。
あまりにも整っていた。
人を人として見ずに済ませるために、すべてを研ぎ澄ませたような剣だった。
「静……おまえ、怖くねえのか?」
それが、初めて矢野が問うた言葉だった。
夜の火の前で、二戦目を終えたあとのことだった。
「怖いですよ。――でも、斬らないと、僕らは生き残れません」
静は、遠くで鳴く夜鴉に視線を向けたまま、静かに言った。
「矢野さんは、僕の後ろを見てください。僕は、矢野さんの横を見ますから」
「……おい、なんだよその言い方」
「背中を任せるのは、まだ少し怖いです。でも、横なら、並べますから」
その夜、矢野は火を見つめたまま、長いこと眠れなかった。
※
三戦目の夜。
ふたりは初めて「一隊」として任務を任された。
敵斥候の捕縛。先鋒から後衛までをカバーしながらの哨戒行軍。
他の兵は三名。だが、実質的に動くのは、矢野と静だった。
泥濘の山道を越え、夜気に冷える橋を渡り、黒ずんだ林に足を踏み入れたとき、静がぴたりと足を止めた。
「右奥、三。……背中にひとつ残ります」
矢野は息を殺して構えた。
その言葉の意味を理解していた。
静が「残る」と言ったとき、それは“誰かが来る”という意味だ。
暗闇の中、斬撃音は風に紛れ、矢野は無言のまま槍を繰った。
彼の背を預けるのは、静ではなかった。
だが、彼の肩に寄り添うようにして、その剣士は常に斜めの間合いを保っていた。
まるで、ふたりで一枚の盾のようだった。
敵の姿が消えたあと、矢野はふと静の顔を見た。
「おまえ、息切れてないのか?」
「……切れたら、終わりますから」
その言葉に、冗談の響きはなかった。
※
その後の戦で、ふたりは常に「並ぶ」ように配置されるようになった。
誰に言われたわけでもない。だが、上官の目配せも、兵士たちの視線も、そうなることを当然としていた。
「沖田と組めるのは、矢野だけだろうな」
「なんつうか……あいつら、呼吸が合いすぎてて気持ち悪いくらいだ」
「でも、あれがいちばん無事で済む。誰かが斬られるくらいなら、あのふたりに任せとけって感じ」
そんな声が、次第に周囲で広がっていった。
矢野はそのたびに、肩のうしろがぞわりとするのを感じていた。
あの剣は、人を護っているのではない。
ただ、効率的に敵を排除しているだけだ。
斬らないように見えるのは、そのほうが次の一手が速くなるから。
そう思えてならなかった。
――このまま、あいつの“剣”に慣れていいのか?
そんな疑問が、矢野の中でかすかに膨らんでいた。
※
「矢野さん」
ある晩、静がふいに話しかけた。
「もし、僕が、あなたの背を見て斬ったら――怒りますか?」
「……どういう意味だ、それ」
「いえ、たとえばの話です。僕が、あなたの背中を“護る”つもりで、勝手に斬ってしまったら」
矢野は一瞬、言葉に詰まった。
「……怒る。そりゃ、怒る。背を護るのは、自分でやるもんだろ」
「ですよね」
静は少しだけ笑った。その表情は、どこか救われたようにも見えた。
「だから、僕はあなたの“横”で、斬ります」
「――……」
「それが、いちばん僕にとって、楽な位置なんです」
※
その夜、矢野は夢を見た。
泥まみれの戦場。血の海。
その中を、ただひとり歩いていく白い背中。
剣は、何かを護るためではなく、すべてを捨てるように振るわれていた。
矢野はその背中を追いかけた。けれど、どれだけ足を速めても追いつけなかった。
――その背中に、声が届かない。
目覚めたとき、額には汗が浮いていた。
息を吐きながら、矢野は思った。
――いつか、あの背中に並び、声が届く日が来るだろうかと。
その日、空は透き通るように晴れていた。
春の冷気は名残を惜しむように地を這っていたが、陽光だけは、まるで何かを赦すように、戦場に降り注いでいた。兵たちはそれぞれ武具の点検を終え、集落の外れに設営された野営地で待機していた。けれど、誰の表情にも余裕はなかった。今日が「前哨」ではなく、「本戦」であることを、彼らの背筋が語っていた。
その中央、ほかの班から少しだけ距離を置いた場所に、ふたりの兵士が並んで腰掛けていた。
背中はまだ触れていない。けれど、互いの存在を否応なく意識する、そんな間合いだった。
ひとりは、白装束を上から羽織った細身の少年――沖田静。
もうひとりは、均整の取れた体格の槍兵、矢野蓮。
「……なんか、もう馴染んでるな。俺ら」
矢野が言った。口調は飄々としているが、内心は少しばかり戸惑っていた。
この二週間、彼らは同じ隊で複数の戦場に投入された。そのたびに、何故か編成上の理由で横並びに配置され、自然と共に動くことが多くなった。命令されたわけではない。ただ、そのほうが効率が良かった。
「どうですかね」
静は、陽の眩しさに目を細めながら、茶目っ気のある声で応じた。
相変わらず、敬語は崩れない。
「静、おまえさ、俺のこと“矢野さん”って呼ぶけど、ちょっと堅くないか?」
「……そうですか?」
「まあ、いいけどさ」
軽い笑いを交わし、ふたりは再び沈黙する。
その沈黙が、気まずくないことに、矢野はふと気づいた。
※
最初は、警戒心からだった。
白装束をまとう剣士。
鬼神と呼ばれ、名前も不確かだと噂される男。
最初の戦闘で矢野は、それが虚名でないことを知った。
静の剣は、冗談のように速く、致命を避けながら敵を崩していく。
刀身は濁らず、表情は動かず、ただ斬る。ただ、斬る。
だが――矢野には、それが“優しさ”だとは思えなかった。
殺さないための技ではなかった。
それは、殺しきることさえも拒絶した、“無関心の剣”だった。
あまりにも整っていた。
人を人として見ずに済ませるために、すべてを研ぎ澄ませたような剣だった。
「静……おまえ、怖くねえのか?」
それが、初めて矢野が問うた言葉だった。
夜の火の前で、二戦目を終えたあとのことだった。
「怖いですよ。――でも、斬らないと、僕らは生き残れません」
静は、遠くで鳴く夜鴉に視線を向けたまま、静かに言った。
「矢野さんは、僕の後ろを見てください。僕は、矢野さんの横を見ますから」
「……おい、なんだよその言い方」
「背中を任せるのは、まだ少し怖いです。でも、横なら、並べますから」
その夜、矢野は火を見つめたまま、長いこと眠れなかった。
※
三戦目の夜。
ふたりは初めて「一隊」として任務を任された。
敵斥候の捕縛。先鋒から後衛までをカバーしながらの哨戒行軍。
他の兵は三名。だが、実質的に動くのは、矢野と静だった。
泥濘の山道を越え、夜気に冷える橋を渡り、黒ずんだ林に足を踏み入れたとき、静がぴたりと足を止めた。
「右奥、三。……背中にひとつ残ります」
矢野は息を殺して構えた。
その言葉の意味を理解していた。
静が「残る」と言ったとき、それは“誰かが来る”という意味だ。
暗闇の中、斬撃音は風に紛れ、矢野は無言のまま槍を繰った。
彼の背を預けるのは、静ではなかった。
だが、彼の肩に寄り添うようにして、その剣士は常に斜めの間合いを保っていた。
まるで、ふたりで一枚の盾のようだった。
敵の姿が消えたあと、矢野はふと静の顔を見た。
「おまえ、息切れてないのか?」
「……切れたら、終わりますから」
その言葉に、冗談の響きはなかった。
※
その後の戦で、ふたりは常に「並ぶ」ように配置されるようになった。
誰に言われたわけでもない。だが、上官の目配せも、兵士たちの視線も、そうなることを当然としていた。
「沖田と組めるのは、矢野だけだろうな」
「なんつうか……あいつら、呼吸が合いすぎてて気持ち悪いくらいだ」
「でも、あれがいちばん無事で済む。誰かが斬られるくらいなら、あのふたりに任せとけって感じ」
そんな声が、次第に周囲で広がっていった。
矢野はそのたびに、肩のうしろがぞわりとするのを感じていた。
あの剣は、人を護っているのではない。
ただ、効率的に敵を排除しているだけだ。
斬らないように見えるのは、そのほうが次の一手が速くなるから。
そう思えてならなかった。
――このまま、あいつの“剣”に慣れていいのか?
そんな疑問が、矢野の中でかすかに膨らんでいた。
※
「矢野さん」
ある晩、静がふいに話しかけた。
「もし、僕が、あなたの背を見て斬ったら――怒りますか?」
「……どういう意味だ、それ」
「いえ、たとえばの話です。僕が、あなたの背中を“護る”つもりで、勝手に斬ってしまったら」
矢野は一瞬、言葉に詰まった。
「……怒る。そりゃ、怒る。背を護るのは、自分でやるもんだろ」
「ですよね」
静は少しだけ笑った。その表情は、どこか救われたようにも見えた。
「だから、僕はあなたの“横”で、斬ります」
「――……」
「それが、いちばん僕にとって、楽な位置なんです」
※
その夜、矢野は夢を見た。
泥まみれの戦場。血の海。
その中を、ただひとり歩いていく白い背中。
剣は、何かを護るためではなく、すべてを捨てるように振るわれていた。
矢野はその背中を追いかけた。けれど、どれだけ足を速めても追いつけなかった。
――その背中に、声が届かない。
目覚めたとき、額には汗が浮いていた。
息を吐きながら、矢野は思った。
――いつか、あの背中に並び、声が届く日が来るだろうかと。



