第四話「その剣は、奪わずに届いた」
雨が降ったあとだった。
あの夜の、ぬかるんだ土のにおいを、今も忘れられない。濡れた木の葉が兵の靴に貼りつき、剣の柄は泥で滑りやすく、炎の届かない山の斜面は、死体と、死にきれぬ呻き声と、空に帰れない魂でいっぱいだった。
俺は、捕虜になった。
戦いが終わったあとで、命を拾われた。
それがどういう意味を持つのか、最初はわからなかった。ただ、殺されなかった。あれだけ味方を斬り殺した者たちのあいだで、俺だけが、命を奪われなかったのだ。
それは赦しでもなければ、慈悲でもない。俺たちは、あまりにも無様だった。応戦もままならず、雪崩のような白装束の一団に呑み込まれて、壊れたように仲間が倒れていった。あれが、ひとりの剣士の手によるものだったと知ったのは、しばらく経ってからだ。
俺は、その男を見た。
名も知らぬその者が、ただ静かに歩いてきて、風のように抜き身の剣を振るい、命を絶たぬまま、俺の前に立った。
あれは――
本当に、人間だったのだろうか。
※
戦のあとは、記憶のなかでよく歪む。
どこから話せばいいのかわからない。思い出すと、喉が詰まるような息苦しさがある。それでも、語らねばならぬ気がしたのだ。あれは“何か”だった。確かに俺は、斬られなかった。命を奪われなかった。
だが、それは単なる「見逃された」とは違う。
剣が、届いたのだ。
心の奥に、深く。けれど、奪うことなく、貫かれた。
――目の前にいたのは、ひとりの少年だった。
否、少年と呼んでよいのかもわからぬ。
顔立ちは若く、年端もいかぬはずだ。だがその瞳だけは、酷薄な年月を生き延びた者のものだった。
その男は、静かだった。荒ぶることも、叫ぶことも、誇示することもなく、ただ、淡々と立っていた。白装束は、血で染まっていたが、本人のものかどうかはわからない。おそらく、多くの者の血が、あの布に沁み込んでいたのだろう。
――剣を持っていた。
それは鈍く光る刃で、鍔も柄も、軍の支給品のように質素だった。
何の飾り気もない。名もない。
だが、それは確かに“剣”だった。殺すためではなく、通すための道具だった。
俺がその場にひれ伏していたとき、その白い鬼神のような剣士は、歩を止めた。
そして、俺の目の前で、剣を構えた。
――来る、と思った。
首筋が冷える。次の瞬間には、すべてが終わる。そう、覚悟した。
だが、その剣は、振り下ろされなかった。
※
まばたきをした。
それだけの一瞬で、目の前の空気が、凪いだように感じた。
恐怖の向こう側で、何かが音もなくすり抜けた。
「……なぜ、俺を殺さない」
声に出たのは、そう問うような呟きだった。
自分の意思というより、身体が勝手に発した言葉だった気がする。
彼は答えなかった。
だが、代わりに、こう言った。
「――剣は、命を運ぶ道です。奪う道ではない」
そのとき、初めてその声を聞いた。
静かだった。澄んでいて、柔らかく、年齢の割に落ち着いていた。
だがそれは、“ひとを殺してきた声”だった。
すでに何十人、いや、百人以上の命を手にかけてきた者が持つ声。
それでいて、まるで何も背負っていないかのような、透明な音色だった。
「俺は、おまえを殺しても、何も得られない」
その言葉は、裁きではなかった。
宣告でもない。
それはただの、事実だった。
※
俺は震えた。
武器を握る手が汗で滑り、指先はもう感覚を失っていた。
敵として対峙したはずだったのに、その瞬間、俺はただの「ひと」だった。
生かされたことが、重たかった。
自分の存在が、値踏みされ、そのうえで「殺す価値もない」と見做されたこと。
それは惨めでもあったが――
同時に、どこか救いでもあった。
「名を、教えてくれ」と言おうとして、言えなかった。
なぜなら、そんなものは最初から、この戦場には存在していなかったからだ。
名を問うことすら、愚かに思えた。
そこにいたのはただ、“剣”だったのだ。
※
捕虜となった俺は、しばらく別の村で留め置かれた。
やがて、戦が終結したとき、解放された。
だが、その後の日々、俺のなかであの剣の記憶は、消えなかった。
いや、むしろ時が経つほどに、あの一太刀の“無”が、深く染み込んできた。
あれは、殺さない剣だった。
だが、届いていた。確かに、届いていた。
あの日の俺にとって、それは「命を奪われる」よりも、ずっと重かった。
――赦されたわけじゃない。
――救われたのでもない。
ただ、目を逸らされなかった。
それだけだったのに。
それだけだったのに――俺は、泣いてしまった。
※
その剣士の名は、最後まで聞かされなかった。
風の噂に、白装束の若き剣士の話を耳にしたことはある。
だが、それが彼だったのかどうかは、今となってはわからない。
人は“鬼”と呼び、“神”と呼んだらしい。
だが、俺はそうは思わなかった。
あれは、ただの“人”だった。
誰かのために、何かのために、剣を抜き、血の海を歩いてきた少年。
血に濡れた手で、なおも剣を握りつづけなければならなかった者。
だからこそ、あの剣は、
奪わなかったのだ。
何も、奪わずに、ただ、届いていた。
※
今でも、夢に見る。
ひらりと翻る白の布。
足音すら立てぬ、静かな足取り。
殺意も怒気も持たぬ、ただの剣の動き。
そのすべてが、今も、脳裏に焼きついて離れない。
俺は戦を離れたあと、武器を捨てた。
二度と、誰かに刃を向けることはなかった。
平凡な暮らしを選び、耕し、家族を持った。
けれど、心のなかには、今もあの剣がある。
届いたままの剣。
奪われなかった命。
あのときの、名もなき声。
もし、彼がまだ生きていたのなら。
もし、今どこかで、新しい名を持って生きているのなら――
俺は伝えたい。あの剣は、確かに、俺を変えたと。
奪わずに、届いたその一太刀が。
誰より深く、俺を貫いたのだと。
雨が降ったあとだった。
あの夜の、ぬかるんだ土のにおいを、今も忘れられない。濡れた木の葉が兵の靴に貼りつき、剣の柄は泥で滑りやすく、炎の届かない山の斜面は、死体と、死にきれぬ呻き声と、空に帰れない魂でいっぱいだった。
俺は、捕虜になった。
戦いが終わったあとで、命を拾われた。
それがどういう意味を持つのか、最初はわからなかった。ただ、殺されなかった。あれだけ味方を斬り殺した者たちのあいだで、俺だけが、命を奪われなかったのだ。
それは赦しでもなければ、慈悲でもない。俺たちは、あまりにも無様だった。応戦もままならず、雪崩のような白装束の一団に呑み込まれて、壊れたように仲間が倒れていった。あれが、ひとりの剣士の手によるものだったと知ったのは、しばらく経ってからだ。
俺は、その男を見た。
名も知らぬその者が、ただ静かに歩いてきて、風のように抜き身の剣を振るい、命を絶たぬまま、俺の前に立った。
あれは――
本当に、人間だったのだろうか。
※
戦のあとは、記憶のなかでよく歪む。
どこから話せばいいのかわからない。思い出すと、喉が詰まるような息苦しさがある。それでも、語らねばならぬ気がしたのだ。あれは“何か”だった。確かに俺は、斬られなかった。命を奪われなかった。
だが、それは単なる「見逃された」とは違う。
剣が、届いたのだ。
心の奥に、深く。けれど、奪うことなく、貫かれた。
――目の前にいたのは、ひとりの少年だった。
否、少年と呼んでよいのかもわからぬ。
顔立ちは若く、年端もいかぬはずだ。だがその瞳だけは、酷薄な年月を生き延びた者のものだった。
その男は、静かだった。荒ぶることも、叫ぶことも、誇示することもなく、ただ、淡々と立っていた。白装束は、血で染まっていたが、本人のものかどうかはわからない。おそらく、多くの者の血が、あの布に沁み込んでいたのだろう。
――剣を持っていた。
それは鈍く光る刃で、鍔も柄も、軍の支給品のように質素だった。
何の飾り気もない。名もない。
だが、それは確かに“剣”だった。殺すためではなく、通すための道具だった。
俺がその場にひれ伏していたとき、その白い鬼神のような剣士は、歩を止めた。
そして、俺の目の前で、剣を構えた。
――来る、と思った。
首筋が冷える。次の瞬間には、すべてが終わる。そう、覚悟した。
だが、その剣は、振り下ろされなかった。
※
まばたきをした。
それだけの一瞬で、目の前の空気が、凪いだように感じた。
恐怖の向こう側で、何かが音もなくすり抜けた。
「……なぜ、俺を殺さない」
声に出たのは、そう問うような呟きだった。
自分の意思というより、身体が勝手に発した言葉だった気がする。
彼は答えなかった。
だが、代わりに、こう言った。
「――剣は、命を運ぶ道です。奪う道ではない」
そのとき、初めてその声を聞いた。
静かだった。澄んでいて、柔らかく、年齢の割に落ち着いていた。
だがそれは、“ひとを殺してきた声”だった。
すでに何十人、いや、百人以上の命を手にかけてきた者が持つ声。
それでいて、まるで何も背負っていないかのような、透明な音色だった。
「俺は、おまえを殺しても、何も得られない」
その言葉は、裁きではなかった。
宣告でもない。
それはただの、事実だった。
※
俺は震えた。
武器を握る手が汗で滑り、指先はもう感覚を失っていた。
敵として対峙したはずだったのに、その瞬間、俺はただの「ひと」だった。
生かされたことが、重たかった。
自分の存在が、値踏みされ、そのうえで「殺す価値もない」と見做されたこと。
それは惨めでもあったが――
同時に、どこか救いでもあった。
「名を、教えてくれ」と言おうとして、言えなかった。
なぜなら、そんなものは最初から、この戦場には存在していなかったからだ。
名を問うことすら、愚かに思えた。
そこにいたのはただ、“剣”だったのだ。
※
捕虜となった俺は、しばらく別の村で留め置かれた。
やがて、戦が終結したとき、解放された。
だが、その後の日々、俺のなかであの剣の記憶は、消えなかった。
いや、むしろ時が経つほどに、あの一太刀の“無”が、深く染み込んできた。
あれは、殺さない剣だった。
だが、届いていた。確かに、届いていた。
あの日の俺にとって、それは「命を奪われる」よりも、ずっと重かった。
――赦されたわけじゃない。
――救われたのでもない。
ただ、目を逸らされなかった。
それだけだったのに。
それだけだったのに――俺は、泣いてしまった。
※
その剣士の名は、最後まで聞かされなかった。
風の噂に、白装束の若き剣士の話を耳にしたことはある。
だが、それが彼だったのかどうかは、今となってはわからない。
人は“鬼”と呼び、“神”と呼んだらしい。
だが、俺はそうは思わなかった。
あれは、ただの“人”だった。
誰かのために、何かのために、剣を抜き、血の海を歩いてきた少年。
血に濡れた手で、なおも剣を握りつづけなければならなかった者。
だからこそ、あの剣は、
奪わなかったのだ。
何も、奪わずに、ただ、届いていた。
※
今でも、夢に見る。
ひらりと翻る白の布。
足音すら立てぬ、静かな足取り。
殺意も怒気も持たぬ、ただの剣の動き。
そのすべてが、今も、脳裏に焼きついて離れない。
俺は戦を離れたあと、武器を捨てた。
二度と、誰かに刃を向けることはなかった。
平凡な暮らしを選び、耕し、家族を持った。
けれど、心のなかには、今もあの剣がある。
届いたままの剣。
奪われなかった命。
あのときの、名もなき声。
もし、彼がまだ生きていたのなら。
もし、今どこかで、新しい名を持って生きているのなら――
俺は伝えたい。あの剣は、確かに、俺を変えたと。
奪わずに、届いたその一太刀が。
誰より深く、俺を貫いたのだと。



