名もなき剣に、雪が降る

第三話「深紅に濡れた問答」

 その日、空は朝から曇っていた。
 湿り気を帯びた灰の光が、地表に重たく降りていた。
 霧ではなかったが、景色の輪郭はどこかぼやけて、遠くの音もいつもより遠く感じた。
 矢野蓮は、斜め前を歩く白い背中を見つめていた。
 その装束は、濡れた土で裾が重たげに沈んでいるはずなのに、なぜか風の中でふわりと浮くように見えた。
「静、剣は……鞘に?」
「ええ。まだ匂いがしませんから」
 静はそう答えると、背負ったままの剣に指先だけを添えた。
 矢野の目には、それがまるで“剣と話している”かのように見えた。
     ※
 任務は、斥候の後詰だった。
 前夜に進軍した小隊が、敵軍の集落に近づいたという報が届き、状況の確認と、必要であれば救援を行うために、矢野たちが送られたのだ。
 ――そして、
 彼らが現地に辿り着いたときには、すでにそこには“戦”はなかった。
 あるのは、屍だけだった。
 斥候隊の兵士数名が倒れている。すべて、喉元を貫かれていた。
 そしてその中央に――
 敵兵が三十人以上。
 全員が、同じように斬られ、積み重なっていた。
「……何だよ、これ……」
 誰かがそう呟いた。
 それは矢野ではなかった。だが、矢野の喉も同じ言葉で詰まっていた。
 その場に、立っていた者がひとり。
 斥候隊の一人と思しき男が、口をぱくぱくと動かしていた。
 生きている。だが、正気ではなかった。
 矢野は、そばに駆け寄った。
 目の前にしゃがみこむと、男の瞳が虚空のまま焦点を結ばないまま、ぽつりと呟いた。
「ひとりだった……白い服の奴が……ひとりで全部……全部……」
 矢野の背後から、足音が一歩近づく。
 静だった。
 彼は、斬られた遺体の山を黙って見下ろしていた。
 そして、静かに言った。
「敵の剣士は三十六。斥候隊はこちらが七名。……全滅ですね。生きてるのは、彼ひとり」
「待て、それより――」
「ええ、見てますよ。……この斬り方は、全部、ひとつの剣筋で貫かれています。迷いがありません」
「まさか、全部――」
「ええ。……“ひとりで”斬ったんでしょうね」
 静の声は、淡々としていた。
 感情がないわけではなかった。けれど、必要以上に驚くことも、取り乱すこともなかった。
 矢野は、その横顔を見た。
 まなざしが、少しだけ濁っていた。
 あるいは、何かを知っている者の目。
「……お前、まさか……」
 問いかけかけた瞬間、遠くから砲声が響いた。
「矢野さん、戻りましょう。後詰に報告を。彼は僕が連れて行きます」
 静はそう言って、斥候の男に布をかけ、立ち上がった。
 そのとき、矢野ははっきりと見た。
 静の背負った剣の鞘に、乾いた血がついていた。
     ※
 夜、野営地に戻ったあとも、矢野は眠れなかった。
 さっきの戦場跡が、脳裏から離れない。
 なぜ、剣士ひとりで三十六人を斬れるのか。
 なぜ、それを静が“当然のこと”のように受け止められるのか。
 わからなかった。
 けれど、矢野は“何かを恐れている自分”を確かに感じていた。
 あの白装束の背中。
 あの剣の鞘の乾いた血。
 そして、斬られた者たちの顔に浮かんだ、驚愕と恐怖。
 “斬られたこと”よりも、“斬ったものの顔”に、何かを見たような表情。
 それは、獣を見るときのような、あるいは――
 神を見るときのような。
     ※
 翌朝。
 矢野は静を探していた。
 まだ日が昇る前だったが、直感的に「彼は外にいる」と思った。
 野営地の背後、小さな丘の上。
 木立の隙間から、白い装束が見えた。
「……おい、静」
 声をかけると、静はゆっくりと振り返った。
「矢野さん。おはようございます。……寝られませんでしたか?」
「そっちこそ」
 矢野は近づき、並んで腰を下ろした。
 丘の向こうに、まだ眠っている野営地が小さく見えた。
 しばらく、ふたりとも何も言わなかった。
 そして、矢野はぽつりと口を開いた。
「……あの三十六人、お前がやったんじゃないよな」
 静は、すぐには答えなかった。
 けれど、否定もしなかった。
「……僕は、ただ、助けたかっただけです」
 それだけを言った。
 矢野は言葉を失った。
 静が、真実を語っていることがわかってしまったからだった。
「お前……」
「怖いですよね、僕」
 静が、少しだけ笑った。
 その笑みは、寂しさと自嘲の混じった、鋭くも脆い表情だった。
「僕、自分でもよくわからないんです。……ただ、“ああすれば助かる”っていうのが、わかってしまうんですよ。身体が先に動くんです」
「……三十六人を?」
「斬っても、斬っても、終わらなかった。……気がついたら、周りは全部、倒れてて。……それだけです」
 矢野は、しばらく何も言えなかった。
 目の前にいるのは、自分と同じ兵士だ。
 同じ若さで、同じように汗を流している。
 だけど、あの剣筋。
 あの速度。あの冷静さ。
 そして、あのときの目。
 人間のそれとは、思えなかった。
「なあ、静……お前は、剣で何を護ってんだ?」
 それは、矢野の中でずっと渦巻いていた問いだった。
 静が一瞬だけ目を伏せる。
「……僕にも、わかりません。ただ、“何かを護らなきゃ”って、ずっと思ってるんです。たぶん、それだけが残ってる。……何かの記憶みたいに」
「記憶?」
「ええ。夢かもしれませんけど……」
 言葉がそこで途切れた。
 丘の上に、朝日が差し込む。
 静の白装束が、朝焼けに染まった。
 その赤は、血ではなかった。
 けれど、なぜか――
 矢野は、あの戦場の血の色を思い出していた。
     ※
 その日以降、矢野は静と行動を共にすることが増えた。
 それは命令ではなかった。自然と、そうなったのだ。
 矢野の中で、静に対する“恐怖”は、“信頼”へと変わりつつあった。
 ただしそれは、“背中を預けられる”という意味において、である。
 人間として、ではなかった。
 ――それでいいのか?
 矢野の中の何かが、そう問いかけていた。
 だが、彼にはまだ、その問いに答える術がなかった。