名もなき剣に、雪が降る

第二話「まだ名もなき信頼」

 朝霧がまだ溶けきらぬ時刻、矢野蓮は薄明かりの中で立ち止まり、周囲を見渡した。
 地を這うような靄が、草の葉にまとわりつき、気配を濁す。遠くから聞こえるのは鳥の鳴き声ではなく、風に運ばれた砲声。
 それは、いずれ自分たちが踏み込んでいく音だった。
 その日、彼は任務として補給路の迂回確認に出ることになっていた。道案内として同行するのは三人。うちひとりは、白装束の剣士――沖田静。
「……矢野さん、こちらで間違いないかと」
 小声で、沖田が矢野の背後に並ぶ。敬語だが、硬くはない。親しみの温度が少しだけ上がった声音。
 昨日の共闘を経て、少し距離が縮まったのかもしれない。けれど、まだ互いに探り合っているのがわかった。
 矢野は頷いた。
「合ってる。たぶん二百メートル先の森が、地図で言う“切れ間”だな。行ってみよう」
 静はそれ以上言わず、頷いて先を歩き出した。柔らかい足音。剣を背負った影は、濃霧の中でぼんやりと滲んでいた。
     ※
 ――静。
 そう、呼ぶようになったのは、ほんの昨日のことだ。
 最初は、白装束の男、と呼ぶ以外に言いようがなかった。何を考えているかわからない。何も語らない。だが剣だけは、すべてを語る。
 矢野の中で、あの男は“恐怖”に近かった。
 だが同時に、それは“感覚的な安心”でもあった。
 敵を斬るのに一切の躊躇がない。
 正確無比で、速い。判断も早い。
 それでいて、斬った敵の遺体を見下ろすまなざしには、どこか――憐憫のようなものがあった。
 そういう目をする奴を、矢野はこれまで戦場で見たことがなかった。
     ※
「矢野さん」
 澄んだ呼び声に、矢野は思考から引き戻された。
 足元の草が濡れている。朝露ではない――血だ。
「これは……昨日の戦闘とは別口か?」
 静が小さく頷いた。
「たぶん、夜明け前にあった小競り合いですね。靴の跡がまだ新しいです。……敵もまだ近くにいるかもしれません」
「引き返すべきか」
「いえ……このまま進んでも大丈夫だと思います。痕跡は、森の南側へ抜けています」
 静は膝をつき、地面に触れる。
 その仕草が、妙に丁寧だった。まるで誰かに触れるように、地面の温度を感じ取ろうとしているかのようだった。
「静」
 呼びかけると、静はふと顔を上げた。
「お前、そういうの……どこで覚えたんだ?」
「“どこで”というより……気づいたら、できてたんですよね。気配とか、音とか、そういうの」
「剣術の道場でも行ってたのか?」
「……ええ、少しだけ。兄弟子の真似をしてただけですけど」
 そう答えると、静は口元に微かな笑みを浮かべた。けれど、その笑みは、どこか痛ましかった。思い出したくない記憶を、無理やり微笑みに変えたような――
 矢野はそれ以上、何も訊かなかった。
     ※
 戻った野営地では、小競り合いに巻き込まれて負傷した雑兵が運び込まれていた。
 肩を深く斬られたらしい若者は、必死に叫んでいた。
「やめてくれ、頼む、まだ死にたくないんだ……!」
 その声に、静がわずかにまなざしを落とす。
 彼の隣に立っていた矢野は、その横顔を、しばらく黙って見ていた。
 何も言わない静。けれど、胸の奥で何かが騒いでいるのが、確かに伝わってきた。
 手のひらを、わずかに握っていた。
     ※
 その日の午後。
 矢野と静は、野営地外縁の補給口で監視任務についていた。
「なあ、静」
 矢野がぽつりと声をかけたのは、日が傾き始めた頃だった。
「お前、名前、変わってるよな。静って。……誰がつけたんだ」
「……え」
 静が振り向く。
 予想していなかったらしい問いに、素直な顔をしていた。
「お世話になっていた道場の方です」
「ん……?」
「僕、小さい頃から……その、戸籍がないんです。拾われたみたいなもんで。正式な名前って、よくわからないんですよ」
 淡々と語る口調のなかに、わずかな寂しさがあった。
 けれど、それを矢野は責めようとは思わなかった。
「それで、道場でも“沖田”って名乗ってたのか」
「ええ。名乗らないと、いろいろ不便だったので」
「……なんで“静”なんて名前がついたんだろうな」
「……静かに生きてほしい、みたいな意味じゃないですか。皮肉みたいですけど」
 静の言葉に、矢野はふと笑った。
「確かにな」
「でも、ほんとは――」
 その先を、静は言わなかった。
 けれど矢野には、十分だった。
     ※
 その夜、野営地の南端で騒ぎが起きた。
 物資を運ぶ別動隊の一人が、森に紛れていた敵兵と鉢合わせたというのだ。
 駆けつけた矢野が見たのは、血まみれの雑兵と、倒れている敵兵。
 そして、雑兵をかばうように立っていた沖田静の姿だった。
 剣はまだ鞘に収められていた。
「静……お前が、やったのか?」
 矢野の問いに、静はほんの少しだけ間を置いて、頷いた。
「相手が、剣を抜く前に踏み込みました。あれ以上、彼が叫んでいたら、敵兵の仲間が集まってきてたはずです」
 言い訳ではない。ただの説明だった。
 冷静で、静かで、穏やかで、それでも――
「矢野さん」
 静が、はっきりと矢野を見た。
「……僕、人を斬るの、ほんとは嫌いなんです」
 それは、これまで聞いたどんな言葉よりも、矢野の胸を刺した。
 あれほどに剣を振るい、あれほどに迷いなく命を奪ってきた男の口から出た言葉が、それだった。
 ――なら、お前はなぜ、ここにいる。
 喉まで出かかった言葉を、矢野は飲み込んだ。
 そして代わりに、こう言った。
「知ってるよ。見てたからな、お前が斬ったあとの顔。……お前、泣きそうだった」
 静が、目を見開いた。
 矢野はそれ以上、何も言わず、その場を離れた。
     ※
 その夜、矢野は眠れなかった。
 白装束の背中が、脳裏に焼きついていた。
 誰よりも剣を知り、誰よりも命を奪う術を持ちながら、
 その実、誰よりもそれを嫌う者。
 ――こいつは、鬼神じゃない。
 そう思った。
 そうではなく、
 “ただの人間”なんだと。
 人を斬って、
 生き延びることを選んだ、
 まだ、若すぎるほどの。
     ※
 そして、矢野はその晩、夢を見た。
 白い霧の中。血の海。無数の死体。
 そのなかで、ひとり立ち尽くす静の姿。
 誰の手も届かぬところに立ち、それでも、誰かを斬り続けなければならない背中。
 自分は、その背を、遠くから見ていた。
 ただ、何も言えずに。
 夢の中で、彼は静の名を呼ぼうとした。
 けれど、声は出なかった。