第一話「その背に立つ者」
乾いた風が吹き抜けた。水たまりには霜が降りている。小さく雪の降る朝だ。
瓦礫の多い野営地の端、岩と粘土が交じる斜面の上に、白い姿がひとつ、ぽつんと立っていた。
背には剣。肩には薄く剥げた布の外套。
足元には、倒れたまま回収されぬ壊れた荷車と、黒く乾いた血の痕。
――あれが、“沖田静”か。
その名を口にする者は、誰もいなかった。
だが、到着と同時に空気が変わったことを、矢野蓮は誰よりも敏感に察していた。
小さな部隊だった。もともと別の拠点で編成された寄せ集めで、人数も決して多くはない。
だからこそ、誰が来たかはすぐにわかる。
沈黙がひとつ増えた。
輪の外から、冷たいものが侵入してきた。
その中心にいたのが、件の男――
白装束の若者だった。
※
「“鬼神”が来るって噂、あれほんとだったのかよ……」
新兵のひとりが、薪を運ぶふりをして小声で言った。
周囲の者は顔を伏せたまま、誰も相槌を打たなかった。
噂は、届いていた。
――白装束の剣士、たったひとりで前線の斥候部隊を壊滅させた。
――敵兵八人を一撃で仕留め、返り血ひとつ浴びなかった。
――名前も階級もない、ただ「白い鬼神」とだけ呼ばれる兵がいる。
実際の話かは誰もわからない。だが、伝説は真偽よりも速く広がる。
「近づかねぇほうがいいぜ。見ただろ? あの目」
そう囁く兵たちのなかで、矢野は口を閉ざしたまま、ただその姿を遠巻きに見つめていた。
――あいつは、鬼か。
それとも、まだ人か。
答えはなかった。
※
初めて言葉を交わしたのは、翌朝だった。
前線の哨戒任務に選ばれたのは、矢野と、他二名の歩兵、そして“沖田静”。
簡素な地図と、方位磁石。携帯用の乾餉。
そのすべてを黙って受け取った沖田は、指揮官の指示が終わると、何も言わずにその場を離れようとした。
「おい、お前も、だろ」
矢野が声をかけた。
沖田は立ち止まり、ちらりとこちらを見た。
目が合った瞬間、矢野は自分の喉が少しだけ鳴るのを感じた。
深い。
濁っていない。
けれど、底がない。
まるで、誰の死を見ても何も感じなくなった者の目――いや、それともまだ、“何も知らない子ども”の目なのか。
「哨戒班、四人だ。合図くらい共有しろ」
矢野が短く言うと、沖田はふ、とだけ小さく息を吐いて、うなずいた。
「……了解です」
その声は、驚くほど静かだった。
※
任務の最中、沖田はほとんど言葉を発しなかった。
だが、行動は正確だった。
鳥の羽ばたき、風の向き、草の揺れ、すべてに耳を澄ませ、
一歩進むごとに足音の角度まで調整する。
誰よりも早く異変に気づき、誰よりも素早く身を伏せる。
その動きは、鍛錬の賜物ではない。
――生存本能の結晶。
矢野は、そのすべてを背後から見ていた。
“鬼神”と恐れられる者の、あまりに慎重で、あまりに孤独な歩き方。
それを知った瞬間、背筋を、冷たいものが走った。
この男は、戦っているのではない。
生き延びているのだ。
ただ、それだけのために。
※
敵兵との接触は、帰路の途中だった。
矢野と沖田が先頭、ふたりの兵が後方。
斜面の影から、五人の斥候が現れた。
刹那、空気が凍った。
誰かが叫びかける前に、
沖田の体が、矢野の前から消えた。
――音が、なかった。
一瞬のうちに、敵兵のひとりが崩れた。
その背後の男が振り返るより早く、白い刃が走った。
二、三――
そのとき、矢野は動かなかった。
いや、動けなかった。
初めて見る、あの“噂”の現実だった。
白装束のなかで、ただひとつだけ濡れていく“剣の軌道”に、目が奪われた。
音も、叫びもなかった。
沖田静は、まるで“演奏”でもするかのように、無音のまま、次々と敵を斬っていった。
残ったひとりが逃げようとしたとき――
「矢野!」
後方の兵が叫んだ。
矢野の名。
その瞬間、残りの斥候がこちらに弓を構えた。
だが、その矢が放たれる前に、沖田の体が滑り込んだ。
剣が弦を弾き、矢を断ち切る。
そのまま、静の背が、矢野の目の前に立った。
背中があった。
白く、濡れた布が揺れた。
風のなかで、まるで“盾”のように、その背が立っていた。
矢野は、その背中を、初めて見た。
斬るための背ではなかった。
護るための背だった。
ただ、それだけ。
※
戦いは、三分もせずに終わった。
誰も喋らなかった。
ただ、倒れた敵兵の懐から転がり落ちた、家族の印の入った小袋を、沖田が黙って拾い、
それを再び元の場所に戻したのを、矢野は見ていた。
※
帰還後、ふたりは並んで座っていた。
兵舎の裏手。焼け焦げた木材の影。
夕暮れの風が通り抜ける。
沈黙が、ただ在った。
「……お前、名前は」
矢野がようやく口を開いた。
沖田は、目を伏せて、小さく答えた。
「静。……沖田静です」
矢野は、ふっと笑った。
「名前、あるんだな」
その言葉に、静は眉を動かした。
「まさか……ないと思ってたんですか?」
「うん、ちょっとだけ」
笑って言う矢野の声に、静は、かすかに笑みを浮かべた。
※
その日以来、ふたりは互いの“背”に立つことが増えた。
名を呼ぶこともあった。
会話も交わした。
だが、心の奥までは、まだ届かない。
矢野は思っていた。
――この男は、誰の命も奪いたくないと思っている。
けれど、剣は、その手にある。
それは、優しさのようで、残酷だった。
※
夜。矢野は夢を見た。
無数の血と、砂のなか、ひとりで立ち尽くす白い鬼神の姿。
誰も近づけないその背に、自分だけが、呼吸を殺して立っていた。
その夢が、何を意味しているのかは、まだ知らない。
乾いた風が吹き抜けた。水たまりには霜が降りている。小さく雪の降る朝だ。
瓦礫の多い野営地の端、岩と粘土が交じる斜面の上に、白い姿がひとつ、ぽつんと立っていた。
背には剣。肩には薄く剥げた布の外套。
足元には、倒れたまま回収されぬ壊れた荷車と、黒く乾いた血の痕。
――あれが、“沖田静”か。
その名を口にする者は、誰もいなかった。
だが、到着と同時に空気が変わったことを、矢野蓮は誰よりも敏感に察していた。
小さな部隊だった。もともと別の拠点で編成された寄せ集めで、人数も決して多くはない。
だからこそ、誰が来たかはすぐにわかる。
沈黙がひとつ増えた。
輪の外から、冷たいものが侵入してきた。
その中心にいたのが、件の男――
白装束の若者だった。
※
「“鬼神”が来るって噂、あれほんとだったのかよ……」
新兵のひとりが、薪を運ぶふりをして小声で言った。
周囲の者は顔を伏せたまま、誰も相槌を打たなかった。
噂は、届いていた。
――白装束の剣士、たったひとりで前線の斥候部隊を壊滅させた。
――敵兵八人を一撃で仕留め、返り血ひとつ浴びなかった。
――名前も階級もない、ただ「白い鬼神」とだけ呼ばれる兵がいる。
実際の話かは誰もわからない。だが、伝説は真偽よりも速く広がる。
「近づかねぇほうがいいぜ。見ただろ? あの目」
そう囁く兵たちのなかで、矢野は口を閉ざしたまま、ただその姿を遠巻きに見つめていた。
――あいつは、鬼か。
それとも、まだ人か。
答えはなかった。
※
初めて言葉を交わしたのは、翌朝だった。
前線の哨戒任務に選ばれたのは、矢野と、他二名の歩兵、そして“沖田静”。
簡素な地図と、方位磁石。携帯用の乾餉。
そのすべてを黙って受け取った沖田は、指揮官の指示が終わると、何も言わずにその場を離れようとした。
「おい、お前も、だろ」
矢野が声をかけた。
沖田は立ち止まり、ちらりとこちらを見た。
目が合った瞬間、矢野は自分の喉が少しだけ鳴るのを感じた。
深い。
濁っていない。
けれど、底がない。
まるで、誰の死を見ても何も感じなくなった者の目――いや、それともまだ、“何も知らない子ども”の目なのか。
「哨戒班、四人だ。合図くらい共有しろ」
矢野が短く言うと、沖田はふ、とだけ小さく息を吐いて、うなずいた。
「……了解です」
その声は、驚くほど静かだった。
※
任務の最中、沖田はほとんど言葉を発しなかった。
だが、行動は正確だった。
鳥の羽ばたき、風の向き、草の揺れ、すべてに耳を澄ませ、
一歩進むごとに足音の角度まで調整する。
誰よりも早く異変に気づき、誰よりも素早く身を伏せる。
その動きは、鍛錬の賜物ではない。
――生存本能の結晶。
矢野は、そのすべてを背後から見ていた。
“鬼神”と恐れられる者の、あまりに慎重で、あまりに孤独な歩き方。
それを知った瞬間、背筋を、冷たいものが走った。
この男は、戦っているのではない。
生き延びているのだ。
ただ、それだけのために。
※
敵兵との接触は、帰路の途中だった。
矢野と沖田が先頭、ふたりの兵が後方。
斜面の影から、五人の斥候が現れた。
刹那、空気が凍った。
誰かが叫びかける前に、
沖田の体が、矢野の前から消えた。
――音が、なかった。
一瞬のうちに、敵兵のひとりが崩れた。
その背後の男が振り返るより早く、白い刃が走った。
二、三――
そのとき、矢野は動かなかった。
いや、動けなかった。
初めて見る、あの“噂”の現実だった。
白装束のなかで、ただひとつだけ濡れていく“剣の軌道”に、目が奪われた。
音も、叫びもなかった。
沖田静は、まるで“演奏”でもするかのように、無音のまま、次々と敵を斬っていった。
残ったひとりが逃げようとしたとき――
「矢野!」
後方の兵が叫んだ。
矢野の名。
その瞬間、残りの斥候がこちらに弓を構えた。
だが、その矢が放たれる前に、沖田の体が滑り込んだ。
剣が弦を弾き、矢を断ち切る。
そのまま、静の背が、矢野の目の前に立った。
背中があった。
白く、濡れた布が揺れた。
風のなかで、まるで“盾”のように、その背が立っていた。
矢野は、その背中を、初めて見た。
斬るための背ではなかった。
護るための背だった。
ただ、それだけ。
※
戦いは、三分もせずに終わった。
誰も喋らなかった。
ただ、倒れた敵兵の懐から転がり落ちた、家族の印の入った小袋を、沖田が黙って拾い、
それを再び元の場所に戻したのを、矢野は見ていた。
※
帰還後、ふたりは並んで座っていた。
兵舎の裏手。焼け焦げた木材の影。
夕暮れの風が通り抜ける。
沈黙が、ただ在った。
「……お前、名前は」
矢野がようやく口を開いた。
沖田は、目を伏せて、小さく答えた。
「静。……沖田静です」
矢野は、ふっと笑った。
「名前、あるんだな」
その言葉に、静は眉を動かした。
「まさか……ないと思ってたんですか?」
「うん、ちょっとだけ」
笑って言う矢野の声に、静は、かすかに笑みを浮かべた。
※
その日以来、ふたりは互いの“背”に立つことが増えた。
名を呼ぶこともあった。
会話も交わした。
だが、心の奥までは、まだ届かない。
矢野は思っていた。
――この男は、誰の命も奪いたくないと思っている。
けれど、剣は、その手にある。
それは、優しさのようで、残酷だった。
※
夜。矢野は夢を見た。
無数の血と、砂のなか、ひとりで立ち尽くす白い鬼神の姿。
誰も近づけないその背に、自分だけが、呼吸を殺して立っていた。
その夢が、何を意味しているのかは、まだ知らない。



