名もなき剣に、雪が降る

第十二話「問いを抱いて歩む者」

 霧が降っていた。
 雨にはなりきれず、空気のなかに溶けた白い水が、まるで沈黙の衣のように兵たちの肩を覆っていた。
 夜明け前と同じ空。だが、その湿度は違っていた。
 そこにあるのは、ただの水ではない。戦のあとの血と、煙と、焼けた木の香りが混ざりあって、どこか鈍い匂いを放っている。
 野営地は静まりかえっていた。
 朝には再び移動の号令がかかるはずだが、それを待つ者たちの間に、言葉はなかった。
 誰もが焚き火を囲み、煙に目を細めていた。
 沖田静は、その火の輪から、少し離れた場所にいた。
 彼の背には、誰も立たない。
 彼の名を呼ぶ者も、いない。
 それは「孤独」ではなかった。
 それは「敬意」でもなかった。
 それは、「沈黙という形式」でしか保てない、危うい均衡だった。
     ※
 夜、静は剣の手入れをしていた。
 拭っても拭っても落ちぬ色を、彼は無言で磨き続ける。
 その剣に、名はない。
 それを渡されたとき、上官は言った。
「支給品だ。前の持ち主は……まあ、戻らなかった。名前はなかったが、切れ味は悪くない」
 彼は何も返さず、受け取った。
 そして今、こうして拭い続けている。
 ――名もなき剣。
 ――名もなき兵。
 ――名もなき戦い。
 その連鎖のなかに、自分自身が落ちていく音を、静は確かに感じていた。
     ※
 あの手紙のことが、頭から離れなかった。
「とうさま、はやくかえってきてくださいね。ふみをかいてくださいね。おうちにあるいてかえってきてくださいね」
 それを読んだとき、自分の呼吸がどれだけ浅くなったかを、彼は覚えていない。
 あの男は、敵だった。剣を持ち、自分たちの命を狙った。
 けれど、父親だった。
 誰かにとっての、帰り道だった。
 そして、自分は――
 何を護ったのだろう。
 誰かの命を護るためだったのか。
 それとも、ただの反射だったのか。
 殺すことが、当然の動作になりかけていたのではないか。
「護るために、剣を振るっている」
 そう思っていた。
 だが、護るべき命の形が、日ごとに崩れていく。
 敵を殺せば、その背後にいる誰かの涙が浮かぶ。
 味方を護れば、他の誰かを殺す責任がついてくる。
 勝てば、殺す。
 殺せば、生き残る。
 その簡潔すぎる構造のなかで、彼は何度も「正しさ」を失っていた。
     ※
 翌朝、転属命令が下った。
 新たに集結する部隊へ向かえ、とだけ。
 理由は語られなかった。
 だが、兵たちは皆、わかっていた。
 ――あの“鬼神”を、この地に長く置いてはおけない。
 存在があまりに大きく、異質で、戦局をねじ曲げるほどの異物だった。
 そしてそれは、軍にとっても「制御不能」という意味を含んでいた。
     ※
 出発の朝。
 霧雨が続いていた。
 兵のひとりが、濡れた火打石を乾かしながら、小声で呟いた。
「……あの人、どこ行くんだろうな」
 誰も答えなかった。
 問いに意味がないことを、皆、わかっていた。
 その時、天幕の奥から音がした。
 白装束の裾が、濡れた土をすべるように進んでいく。
 誰も声をかけない。誰も立ち上がらない。
 彼は背を伸ばし、荷を最小限にまとめて、剣を背にして立っていた。
 ただひとつ、彼が懐に収めていたものがある。
 ――あの、手紙だった。
 それはもう、読めぬほどに滲んでいた。
 だが、捨てられなかった。
 名もなき剣よりも、名もなき戦よりも、そこにだけは、確かな「声」があったから。
 誰かが、誰かを呼んでいた。
 それを、自分は奪った。
     ※
 見送りも、言葉もない。
 ただ、雨と霧のなかを、彼は歩いていった。
 足元の草は濡れており、泥が跳ねた。
 だが、彼の歩みは一度も止まらなかった。
 誰のために斬るのか。
 何のために立つのか。
 その問いは、まだ彼の胸のなかで形を成していない。
 ただ、手の中の熱だけが、言葉の代わりだった。
 やがて彼の姿が、霧の向こうに消えた。
 残された兵のひとりが、火の前でぽつりと呟いた。
「……あれでも、まだ十六だってさ」
 沈黙が返ってきた。
 誰も、信じようとはしなかった。
 白い鬼神に、年齢などあるものか。
     ※
 霧の奥で、静は歩きながら思っていた。
 名は、ない。
 肩書きも、ない。
 英雄と呼ばれることにも、重みを感じない。
 ただ、守りたいものが、確かにどこかにあった気がする。
 その輪郭が、霧のなかにぼんやりと浮かび上がっていた。
 それを、思い出せる日が来るのだろうか。
 それを、もう一度掴むことができるのだろうか。
 その答えは、まだ遠い。
 だが、歩みは止めなかった。
 剣を背にし、手紙を懐に抱え、
 白き鬼神は、まだ名のない地へと、
 問いを抱いたまま、歩いていった。