名もなき剣に、雪が降る

第九話「名を持たぬ剣、語られる影」

 風が、かすかに鳴いた。
 低い草叢をかすめて、獣道をなぞるようにして過ぎていく。
 戦場の音が消えたあと、残るのはたいてい、こうした名もなき自然の吐息だった。
 それが、誰かの気配に変わるには、少しの沈黙と、少しの記憶があればよかった。
     ※
「お前、“あの白いやつ”を見たんだろ?」
「……いや。見たっていうか……気づいたら、俺らの方が逃げてたんだ」
「声は?」
「なかった。気配だけ。剣を抜いたかも、わかんなかった。……ただ、あの目。白装束の影の中で、目だけが光ってた気がした」
 若い斥候兵たちが焚き火を囲み、言葉を交わしていた。
 冬の前の晩秋、寒さが骨に触れ始める頃だった。
 彼らの誰もが、命を長らえることの意味を探すように、夜な夜な“剣の影”について語り出した。
「“白い鬼神”ってやつ、あれ、味方だって言ってたけどよ……どこが味方なんだよ、味方だったら、あんな目しねえよ」
「でも、誰も殺さなかったんだろ?」
「それが一番怖いんだって。“殺せたのに殺さなかった”――つまり、“いつでも殺せる”って意味じゃねぇか」
 言葉は恐怖の上に転がり、やがて信仰のように歪む。
 “白装束の剣士”というただの影法師は、いつしか誰の手にも届かぬ存在となった。
     ※
 同じころ、補給部隊の一人、湯浅という年配の男が、野営の裏で焚き火を焚いていた。
「……昔の話になるがな」
 傍らにいた見習い兵に、湯浅は少しばかりの焼き芋を手渡しながら言う。
「わしが若ぇ頃に、京の近くの剣道場で手伝いしてたことがあってな。白装束の若ぇのがいた。名は……忘れちまったが、ずいぶんと“澄んだ目”をしてたよ」
「それが……今、戦場に出てるってことですか?」
「いや、同じ人間かはわからん。……だが、あの目だけは、覚えてる。人を斬るような目じゃなかった。……けどな、誰よりも強かった。誰よりも、静かだった」
 見習い兵は、その“澄んだ目”という言葉に引っかかったように、火の揺れを見つめた。
「名前を……聞いてたら、よかったですね」
「ああ。聞いてたら……いや、もしかしたら、今のあの子には、もう名は残ってないかもしれん」
 風が吹いた。
 焚き火が少しだけ揺れ、赤く膨らんだ。
 湯浅は、黙ってその火を見つめた。
「――名のない剣は、風に紛れて、生き延びるんだ」
     ※
 沖田静という名を、誰も知らなかった。
 兵たちは彼を“白い鬼神”と呼び、幹部たちは「沈黙の剣士」と記録し、斥候たちは「見えない影」と語った。
 だが、そのどれもが、“人間”ではなかった。
 ただの伝承、あるいは幽鬼。
 剣の理を離れ、形を失い、“誰かの目撃談”として漂い続けるだけの存在。
 そして、静自身は、それらの噂を知らぬまま、次なる戦の準備に入っていた。
 補給を終えた彼は、野営地の端で黙々と木剣を振っていた。
 人が近づけば止め、誰も見ていなければまた始める。
 打ち振る音もなく、風を裂く音だけが草を鳴らす。
 そこに在るのは、ただ一人の剣士だった。
 鬼でもなければ、神でもない。
 名もなく、声もなく、命令に従って生きるだけの、若い兵だった。
 だが、その背中を見た者がいれば、
 きっとこう言っただろう。
 ――あれは、鬼のように静かだった。
     ※
「“鬼神”って言葉、誰が最初に言い出したんだろうな……」
 そうぼやいたのは、情報兵の男だった。
「誰だっていいさ。あいつが、あいつでなくなるなら。……怖さを言葉にして渡せるなら、それが一番、兵を動かす」
 少尉が、空を見上げながら言った。
「伝説は、戦に必要だ。誰かが“死なずに戻ってきた”って、それだけで兵は信じる。それが、ひとりの少年だったとしても」
 そのとき、遠くで鐘が鳴った。
 前線が動く合図だった。
「……白い鬼神、か」
 少尉は、地図の端に印をつけながら、呟いた。
「名前があったとしても、それを使わない者は、もう“名を持たぬ剣”だ。――だが、そういう剣こそが、戦場では最後まで残ることもある」
     ※
 夜。
 焚き火の煙が、夜空に溶けていく。
 ある斥候兵は夢の中で、白い影とすれ違ったという。
 ある補給兵は、戦場でただ一人、“その影に膝をついて頭を垂れた”という。
 名前は、ない。
 でも誰もが知っている。
 それが、
 沖田静という剣士が、最初に“影”として記録された夜だった。