名もなき剣に、雪が降る

第六話「斥候の夜、剣の沈黙」

 夕餉の鐘が遠くで鳴っていた。
 響きはかすかだった。まるで、誰かの祈りが地の底でくぐもったような音。
 斥候としての初任務――その出撃前、沖田静は、隊の者とは別の天幕にいた。
 すでに着替えを終え、装束を正し、帯刀していた。
 薄鼠の旅装は、動きを殺すために襞が深く、外気を吸ってやや湿っている。
 布の内側の冷たさが、身体を少しずつ戦いの温度に染めていった。
 静の耳に届くのは、風音と、自分の鼓動だけだった。
 軍の命令は簡潔だった。
 ――北東の尾根を越えた山道沿いに敵軍の移動がある。部隊数の推定と、行軍路の把握。
 発見されることなく戻り、必要なら斬れ。
 判断は任せる。
 任せる、というのは、命を預けるという意味ではない。
 判断を誤った時、誰も助けないという意味だった。
 孤独は、命令よりも先に彼に付き従っていた。
 静は顔を上げ、天幕の布を払って外に出た。
 夜は深い。
 黒ではなく、藍でもなく――どこか、鉛のような色をしていた。
 風がないのに、空が揺れている気がした。
     ※
 斥候の道は、ほとんど音のない時間だった。
 落ち葉を踏まず、風にまぎれて移動する。
 呼吸を抑え、目に映るものすべてから情報を拾う。
 それは“戦う”というよりも、“消える”ことに近かった。
 山道を進んで五里ほど、静は獣道の分岐を抜けた先で、敵の足跡を見つけた。
 刃の先ほどの土の凹み。草のなぎ倒され方。
 枝に触れた衣の繊維が微かに残っている。
 すべてが、何人かの兵士が数時間前に通った証だった。
 気配が、生温い。
 まだ近くにいるかもしれない。
 静は、息を吸った。
 そして、森に身を溶かすように、一歩、踏み込んだ。
     ※
 彼が見たのは、四人の敵兵だった。
 おそらくは斥候の一隊。軽装、短剣と弓。
 皆、若く、戦い慣れているというより、警戒の仕草に癖がない者たち。
 ただ、そのうちのひとり――左の奥に控えていた若い男が、膝を抱えて震えていた。
 疲労か、病か。
 あるいは、恐怖か。
 静は、彼らに気づかれぬよう、木立の陰に立ったまま、視線を注いだ。
 剣には手をかけない。
 命令通りなら、彼らを殺すべきだった。
 気づかれる前に、一息で片をつける。それが“優秀な斥候”だった。
 しかし、静の足は動かなかった。
 声が聞こえた。
「……なあ、戻ろうぜ。もう、俺、無理だよ……」
「だめだ、あと少しで本隊と合流できる。地図だって半分しかないんだぞ」
「でもさ、あんたも気づいてるだろ……あっちの山道で全滅した部隊の話」
「“白い影に斬られた”ってやつか。迷信だろ」
「本当にいたんだよ……全部、一撃だったって……」
 その会話を、静はただ聞いていた。
 目を伏せ、耳を澄ませ、誰の呼吸が浅く、誰が斬る意思を持っていないか、すべてを感じ取っていた。
 そして、最後に、心の中でつぶやいた。
 ――彼らは、斬られるべき存在だろうか。
     ※
 その問いが、静の足を止めさせた。
 戦いは続いている。
 敵を見逃すということは、仲間が死ぬ可能性を増やすことだ。
 “情”をかけることは、裏切りだと教えられてきた。
 けれど、それでも。
 目の前にいる者たちは、戦っていなかった。
 誰も、剣を振るってはいなかった。
 ならば――今ここで、何を以て、彼らの命を奪うのか。
 静は、一歩、前に出た。
 枯れ枝が折れる音が、夜に響いた。
 敵兵が、一斉に振り向いた。
 短剣を構え、弓を取った者もいたが、
 そのうちのひとりが、静を見た瞬間、声を失った。
「……おまえ……!」
 声が、宙で切れた。
 そして、沈黙のなかに、剣の鯉口が切られる音だけが走った。
 静は、剣を抜いた。
 だが、それは、斬るためではなかった。
 腰を落とし、柄を横に、刃を上に構え――
 まるで、こちらが“敵意を持たぬこと”を示すように。
 敵兵たちは固まった。
 誰も動けなかった。
 その静けさが、どれほど続いたか、誰にもわからない。
 そして、次の瞬間、
 静は、背を向けた。
 一歩、また一歩。
 夜の森に、音もなく歩いてゆく。
 敵兵たちは、追わなかった。
 斬られなかったことに、言葉も持たなかった。
 ただ、その背中を見ていた。
 月の光が、雲間からわずかに差した。
 “白い”旅装が、森に溶けて消えた。
     ※
 斥候任務からの帰還後、静は報告書を提出した。
「敵兵、四名。軽装。接触を回避し、移動方向のみ確認。交戦なし」
 その文面に、誰も異議を唱えなかった。
 だが、司令部の空気は冷えていた。
 命令に反して敵を斬らなかった――その事実は、誰も明言せずとも、すでに知れ渡っていた。
 静は、剣を手入れするため、道具箱を開いた。
 布に油を染ませ、刀身をぬぐう。
 今日、斬らなかった剣。
 血を浴びていない刃。
 その重さだけが、確かに、手に残っていた。