名もなき剣に、雪が降る

第五話「剣に名はなく、ただ斬るばかり」

 ――風が、ない。
 その晩、兵営の空は、まるで息を潜めていた。
 雲は低く垂れ込め、月は見えず、虫の音もなかった。
 ただ、遠くで誰かが火を焚いている匂いが、湿った夜気に混じっていた。
 沖田静は、その静けさの中にいた。
 天幕の隅で、彼は剣を膝に置いて座っていた。
 灯りは落としていた。
 この夜の暗さを、自分の目で測りたかったのだ。
 先日の戦で、敵兵を斬らずに“見逃した”という噂は、あっという間に広がった。
 それが事実であるかどうかは、もはや問題ではなかった。
 ――“白い鬼神が、剣を止めた”。
 その事実だけが、一種の異常として、兵たちの間に伝播していた。
 沈黙が、静の居場所を蝕みはじめていた。
 最初に変化が現れたのは、配属された中隊の編成だった。
 以前までは三人の班と共に行動していたが、次の任務から静は単独行動を命じられるようになった。
 理由は「機動性の確保」とされた。
 だが、静にはわかっていた。
 彼は「集団に属さぬ剣」として扱われはじめていたのだ。
     ※
 初めての単独任務は、山間の廃村の偵察だった。
 敵の斥候が拠点にしているという情報があり、様子を探れという命令だった。
 廃村の集落は静かだった。
 風に揺れる戸板の音と、崩れかけた屋根の影が、午後の陽を裂いていた。
 静は歩を進めながら、心の中に奇妙な違和感を抱いていた。
 ここには、誰もいない。
 けれど、何かがいた気がする。
 誰かがここに、生きていた気配――
 土間の跡に残った足跡、灰になりかけた炭火、誰のものともわからぬ、子どもの靴。
 戦は、人の営みを壊す。
 だが、壊されたその跡にも、人が、生きていた。
 ふと、自分が手にする剣が重く感じられた。
 自分は、何を護ったのか。
 何を壊したのか。
 今、自分が立っているこの地に、“命”があったというだけで、背負っているものが、見えない重さを帯びてくる。
     ※
 任務を終えて戻った翌朝。
 兵営の食堂で、静はひとりで粥を啜っていた。
 そのとき、隣の卓で、二人の兵士が話しているのが耳に入った。
「なあ……あいつ、ほんとに人か?」
「なにがだ」
「いや、“白いやつ”。……斬らねえで帰ってきたって噂だろ」
「でも、死なずに帰ってくるんだぜ。どいつも……あいつが行った後は、敵がいなくなってんだ」
「それが、よけいに怖えんだよ……」
 笑い声ではなかった。
 ただ、恐怖と不確かさの滲む囁きだった。
 静は、それに何の感情も抱かなかった。
 怒りも、哀しみも、安堵もなかった。
 ただ、粥の味がわからなくなっていた。
     ※
 その夜、静は剣を持って歩いた。
 兵営の裏から森へ、そしてさらに奥へと。
 誰にも言わなかった。
 命令でもない。
 ただ、歩きたかった。
 土を踏みしめる音、
 葉が衣擦れに触れる音、
 自分の呼吸。
 そのすべてが、剣の音に聞こえた。
 なぜ、斬るのか。
 なぜ、斬らぬのか。
 なぜ、剣を持たねばならないのか。
 静は、その問いを口にはしなかった。
 声にした瞬間、
 その問いが“言葉に堕ちる”ような気がしたからだ。
 だが、心の奥には確かにあった。
 ――剣に名はない。
 ――けれど、誰かがそれに名前をつける。
 鬼神。
 剣鬼。
 白い悪魔。
 死神。
 英雄。
 どれも、自分ではない。
 けれど、誰もがそう呼びたがる。
 それは、恐怖をかき消すためだろうか。
 あるいは、罪悪を誰かに預けるためだろうか。
 静は、草の茂みに腰を下ろした。
 夜風が吹いた。
 頬にあたる風は、わずかに湿っていた。
 そして、その風の音に紛れて、誰かの声がした気がした。
 ――「それでも、おまえは、剣を捨てぬのか」
 静は立ち上がった。
 返す言葉はなかった。
 だが、剣を見た。
 それは、沈黙していた。
 何も語らない。
 何も否定しない。
 だからこそ、
 その沈黙は、何よりも重かった。
     ※
 翌朝、静は報告書を提出しに本部に向かった。
 そこで、初めて言われた。
「沖田静――貴君を、前線の斥候隊へ転属させる」
 前線。
 つまり、それは“最も早く斬るべき場所”。
 斥候――敵の影を探し、足跡を追い、死の香りを先んじて嗅ぐ者。
 命令に逆らう権利はなかった。
 静は、ただ頭を下げた。
 そのとき、上官のひとりが、目を伏せたまま呟いた。
「……貴様の剣が、本当に“斬るためのもの”であることを、示せ」
 静は、黙って頷いた。
 何も言えなかった。
 何も言わなかった。
 だが、その沈黙の奥で、ひとつの声が確かに生まれていた。
「僕は、斬るためだけに、生きるのか」