名もなき剣に、雪が降る

第四話「沈黙の剣、夜の声」

 風が止んだ夜だった。
 月はまだ出ていなかった。
 雲の層は厚く、遠雷が、まるで地の奥底で呻いているように響いていた。
 沖田静は、その夜、ひとりで座っていた。
 兵営裏、薪置き場の側の朽ちた丸太に腰かけて、古い布を膝に敷いている。
 その上にあったのは、刃。
 自らが使う軍刀。
 油を含ませた布で、一本の剣を黙々と磨いていた。
 研いでいるわけではない。
 ただ、拭っている。
 血の跡が残っていないことを、確認している。
 それだけの行為を、静は三十分以上も繰り返していた。
 あたりには誰もいない。
 声をかける者はいない。
 ここ最近、兵営では、静はひとりであることが多くなっていた。
 “異物”への敬遠。
 それが恐れと尊敬を併せ持つものだとわかっていても、
 静の中では、それは「距離」のひとことでまとめられていた。
     ※
 その数日前――
 前線の小競り合いで、静は三度目の出撃を命じられた。
 今度は、四人の兵士とともに移動。
 小隊単位での奇襲掃討任務。
 斥候の情報によれば、森の中に敵の少数部隊が潜んでいるという。
 初めての“共同作戦”。
 だが、隊を共にした三人は、終始、静と目を合わせようとしなかった。
 作戦の確認も、食糧の分配も、すべて彼を除いた三人の間で完結していた。
 誰も直接的な侮蔑の言葉は投げない。
 ただ、剣が近すぎるように、静の存在そのものが“鋭利すぎる”のだ。
 夜が明けて、作戦が開始された。
 森は霧に包まれていた。
 足元の草が濡れている。
 鳥の気配が一切ない。
 ――つまり、何かがいる。
 誰かが息を呑む音がした瞬間、霧の向こうから影が浮かび上がった。
 敵だ。
 四人。
 気配が割れている。
 だが、こちらも同数。
 小隊のリーダー格である年長の兵士が、静の方を見た。
「……一歩も、出るなよ」
 それだけ言って、剣を抜いた。
 まるで、牽制のようだった。
 だが、その言葉通りに、静は動かなかった。
 他の三人が突撃していった。
 敵の動きは速くなかった。
 練度の低さもあった。
 それでも、接戦になった。
 戦いは十数秒の応酬だった。
 一人が負傷し、もう一人が倒れた。
 残る一人も息が乱れていた。
 そのとき、敵の残り二人が反転し、逃走を図った。
 後ろ姿が、霧の奥へと消えかける。
「……沖田!」
 静は、走った。
 命令はなかった。
 合図もなかった。
 ただ、自分が行くべきだと判断した。
 森の中。
 霧の中。
 草を掻き分け、土を蹴り上げて駆けた。
 追いついたのは、敵の背が木に引っかかった瞬間だった。
 斬った。
 反射だった。
 無意識だった。
 刃が肩口から斜めに入り、沈んだ。
 声がなかった。
 ただ、肉が裂ける湿った音だけが、空間に残った。
 振り返ると、もう一人が立ち尽くしていた。
 驚愕していたのではない。
 恐怖していたのでもない。
 ただ、静の方を、見つめていた。
 その視線に、静は足を止めた。
 次の瞬間、敵兵は剣を捨てた。
 ゆっくりと、腰に差していた剣を鞘ごと落とし、両手を上げた。
 降伏だった。
 抵抗の意思はなかった。
 おそらく、仲間の死を見て、自らの限界を悟ったのだ。
 静は、剣を構えたまま立ち尽くした。
 目の前には、ただの人間がいた。
 武器を捨てた敵。
 呼吸の速い、少年のような兵士。
 自分とそう変わらぬ年の――命。
 斬れるか。
 斬らねばならぬか。
 “白い鬼神”という異名は、こういうときに、何を命ずるのか。
 静は、剣を下ろした。
 風が、霧をわずかに揺らした。
 その中で、敵兵は数歩、後ずさった。
 だが、逃げなかった。
 逃げられないことを理解していた。
 そのとき、静の胸に、はっきりとした感情が浮かんだ。
「この人間を、殺したら、何が残る」
 名誉か。
 異名か。
 正義か。
 それとも――
 護るべきものは、どこにある。
 斬らないことが、弱さなのか。
 刃を振るうことが、正義なのか。
 静は剣を収めた。
「降伏を、受け入れます」
 そう呟いたとき、ようやく自分が人間であることを思い出した。
     ※
 帰還後、捕虜を連れたという報告は大きな話題になった。
 静の行動は称賛されなかった。
 敵を殺さなかったことは「判断の危うさ」として記録された。
 だが、彼の周囲では、新たな噂が囁かれはじめた。
「白い鬼神が、命を奪わなかった」
「剣を振るわなかった」
「敵を、見逃したらしい」
 そして、それを聞いた他の兵士の一人が、ぽつりと呟いた。
「……それが一番、こええよ」
 その言葉が、静の心に残った。
 斬らないことが、恐怖を生む。
 沈黙が、戦場を凍らせる。
 剣とは何か。
 正義とは何か。
 そして、沈黙とは何か――