第三話「白の影、血の花」
――戦場は、音を呑む場所だった。
最初の咆哮、矢の雨、金属のきしみと破裂音。
だがそのすべては、一瞬で“地鳴り”のような耳鳴りに呑まれていく。
砲声も、喉から洩れる断末魔も、湿った泥の上に落ちた瞬間に無音へ変わる。
沖田静が“その場所”に立ったとき、風は止んでいた。
吹き荒れるはずの火と煙の風向きが、まるで彼を避けるように逸れていた。
敵兵八名。
それは偵察任務中の小規模集団。
本来なら正面から斬り込むには無謀とされる数。
だが、静は迷わなかった。
彼は歩いた。
白い衣のまま。
ただ、歩いた。
※
兵営に戻ってきたのは、夜が深まる頃だった。
静の髪は泥に濡れ、袖口に乾いた血がしみ込んでいた。
白い道着は、裾から膝にかけて朱に染まっていた。
その血は、自分のものではない。
無傷で戻ったというのに、周囲は静まり返った。
誰も声をかけなかった。
ただ、視線だけが空気にぶらさがっていた。
「ひとりで、八人?」
杉浦副官の問いに、静はうなずいた。
「……いつも、そういうふうにやるのか」
静は答えなかった。
答える必要があるとは思わなかった。
質問に含まれていたのは驚愕ではなく、“異物”への畏れだったからだ。
「……斬っても、声を上げられなかったんだとよ。誰も」
それは、敵兵が“斬られたことに気づかないまま”絶命したという意味ではない。
反応する隙さえなかったという意味だった。
「最初の一人は、背後からだったんだろうけど……二人目も気づいてなくて、三人目も……」
それは、“鬼神”ではなかった。
“影”だった。
白い衣を纏った、影。
※
兵営の片隅に、新しい言葉が広がりはじめた。
「白い鬼神」
「白い剣」
「死を連れてくる子ども」
言葉は形を変えながら、静の背中に張りついていく。
本人はそれを知っていた。
けれど、否定もしなければ、肯定もしなかった。
ただ、焚き火の火に目を落とし、握った布を見つめていた。
「……血って、乾くと、黒くなるんですね」
ぽつりと落とされた言葉に、隣にいた兵士が息を飲んだ。
それは誰に向けられた問いでもなかった。
自分の掌に貼りついた血の記憶に対してだけ、静は語りかけていた。
※
その夜、静は一睡もできなかった。
横になり、目を閉じても、まぶたの裏にあったのは“断面”だった。
人の皮膚が裂ける瞬間。
骨が折れる手応え。
返り血の温度。
それでも、彼は一度も顔をしかめなかった。
感情が抜けていたわけではない。
あまりにも近すぎて、どこから苦しめばいいのか、わからなかっただけだ。
朝、誰よりも早く起きて、誰もいない兵舎裏で素振りを始める。
木刀ではなく、実戦用の剣で。
一振りごとに、空気のなかで過去が崩れていく。
「……護れたと思いますか」
自問だった。
誰もそこにはいなかった。
※
翌日、上官に呼び出された。
昇進の打診ではなかった。
ただ、報告書への署名と、負傷した敵兵の“処理”について確認するためのものだった。
「死因は、失血と衝撃。いずれにせよ即死」
「すべて単独で処理したということで、間違いないな?」
静はうなずいた。
その瞬間、将校の一人が呟いた。
「……まるで、刃そのものが人になったようだな」
誰かが茶化すように笑った。
「剣が歩いてた、ってか」
「違いねぇ、“護符”にしてもらいてぇくらいだ」
静はその笑いに、何も返さなかった。
ただ、そのとき彼は、初めて――
“自分が剣そのものに見られている”ことに気づいた。
斬る者。
殺す者。
武器の化身。
人ではない、何か。
「……僕は、何を護ったんですかね」
ぽつりと、そう口の中で転がした言葉は、誰にも届かなかった。
※
それから三日後。
静は再び前線に出た。
今度は夜間斥候。
気配だけを確認し、接触は避ける任務。
だが、事態は思わぬ形で変転した。
敵が、近すぎた。
森の中にふと、立ち尽くす一人の兵士を見つけた。
向こうも、こちらを見ていた。
何も言わなかった。
しかし、次の瞬間には、どちらも走り出していた。
静の剣が、相手の肩を斬る。
だが、致命傷にはならなかった。
敵兵は叫ぶ。
それが合図だった。
四方から、刃の音。
複数の気配。
包囲――
静は、下がらなかった。
むしろ、斬り込んだ。
前に。真っ直ぐに。
剣を振るいながら、彼は考えていた。
「……守るために、僕は前に出たはずなのに」
一人、二人、三人。
血が散るたびに、自分が“何か”を失っていく感覚。
“生き残ること”と、“護ること”は、別だ。
斬ってしまった時点で、もう“何か”は守られていない。
けれど、動きは止まらない。
止めれば死ぬ。
剣を握る手が、もはや自分のものではないように震える。
「剣って、なんですか」
問いかけるたびに、血が足元を濡らした。
※
静は、戻ってきた。
またしても、無傷で。
だが、口元には泥がついていた。
袖の内側に、裂けた布。
髪に、乾いた木の葉。
手のひらの皮膚が、薄く裂けていた。
報告は端的だった。
「五人を排除。位置確認、完了」
その夜から、兵営では“鬼神”の噂が定着した。
剣の音が聞こえないまま、敵が絶命していく。
姿を見た者は“白い影”を目撃したと証言した。
“あれは人じゃない”“あれは剣そのものだ”。
そして――その夜、ひとりの年配兵がつぶやいた。
「でもなぁ……あいつ、斬ったあと、笑ってねぇんだよな」
「むしろ、泣きそうな顔してたぜ」
――戦場は、音を呑む場所だった。
最初の咆哮、矢の雨、金属のきしみと破裂音。
だがそのすべては、一瞬で“地鳴り”のような耳鳴りに呑まれていく。
砲声も、喉から洩れる断末魔も、湿った泥の上に落ちた瞬間に無音へ変わる。
沖田静が“その場所”に立ったとき、風は止んでいた。
吹き荒れるはずの火と煙の風向きが、まるで彼を避けるように逸れていた。
敵兵八名。
それは偵察任務中の小規模集団。
本来なら正面から斬り込むには無謀とされる数。
だが、静は迷わなかった。
彼は歩いた。
白い衣のまま。
ただ、歩いた。
※
兵営に戻ってきたのは、夜が深まる頃だった。
静の髪は泥に濡れ、袖口に乾いた血がしみ込んでいた。
白い道着は、裾から膝にかけて朱に染まっていた。
その血は、自分のものではない。
無傷で戻ったというのに、周囲は静まり返った。
誰も声をかけなかった。
ただ、視線だけが空気にぶらさがっていた。
「ひとりで、八人?」
杉浦副官の問いに、静はうなずいた。
「……いつも、そういうふうにやるのか」
静は答えなかった。
答える必要があるとは思わなかった。
質問に含まれていたのは驚愕ではなく、“異物”への畏れだったからだ。
「……斬っても、声を上げられなかったんだとよ。誰も」
それは、敵兵が“斬られたことに気づかないまま”絶命したという意味ではない。
反応する隙さえなかったという意味だった。
「最初の一人は、背後からだったんだろうけど……二人目も気づいてなくて、三人目も……」
それは、“鬼神”ではなかった。
“影”だった。
白い衣を纏った、影。
※
兵営の片隅に、新しい言葉が広がりはじめた。
「白い鬼神」
「白い剣」
「死を連れてくる子ども」
言葉は形を変えながら、静の背中に張りついていく。
本人はそれを知っていた。
けれど、否定もしなければ、肯定もしなかった。
ただ、焚き火の火に目を落とし、握った布を見つめていた。
「……血って、乾くと、黒くなるんですね」
ぽつりと落とされた言葉に、隣にいた兵士が息を飲んだ。
それは誰に向けられた問いでもなかった。
自分の掌に貼りついた血の記憶に対してだけ、静は語りかけていた。
※
その夜、静は一睡もできなかった。
横になり、目を閉じても、まぶたの裏にあったのは“断面”だった。
人の皮膚が裂ける瞬間。
骨が折れる手応え。
返り血の温度。
それでも、彼は一度も顔をしかめなかった。
感情が抜けていたわけではない。
あまりにも近すぎて、どこから苦しめばいいのか、わからなかっただけだ。
朝、誰よりも早く起きて、誰もいない兵舎裏で素振りを始める。
木刀ではなく、実戦用の剣で。
一振りごとに、空気のなかで過去が崩れていく。
「……護れたと思いますか」
自問だった。
誰もそこにはいなかった。
※
翌日、上官に呼び出された。
昇進の打診ではなかった。
ただ、報告書への署名と、負傷した敵兵の“処理”について確認するためのものだった。
「死因は、失血と衝撃。いずれにせよ即死」
「すべて単独で処理したということで、間違いないな?」
静はうなずいた。
その瞬間、将校の一人が呟いた。
「……まるで、刃そのものが人になったようだな」
誰かが茶化すように笑った。
「剣が歩いてた、ってか」
「違いねぇ、“護符”にしてもらいてぇくらいだ」
静はその笑いに、何も返さなかった。
ただ、そのとき彼は、初めて――
“自分が剣そのものに見られている”ことに気づいた。
斬る者。
殺す者。
武器の化身。
人ではない、何か。
「……僕は、何を護ったんですかね」
ぽつりと、そう口の中で転がした言葉は、誰にも届かなかった。
※
それから三日後。
静は再び前線に出た。
今度は夜間斥候。
気配だけを確認し、接触は避ける任務。
だが、事態は思わぬ形で変転した。
敵が、近すぎた。
森の中にふと、立ち尽くす一人の兵士を見つけた。
向こうも、こちらを見ていた。
何も言わなかった。
しかし、次の瞬間には、どちらも走り出していた。
静の剣が、相手の肩を斬る。
だが、致命傷にはならなかった。
敵兵は叫ぶ。
それが合図だった。
四方から、刃の音。
複数の気配。
包囲――
静は、下がらなかった。
むしろ、斬り込んだ。
前に。真っ直ぐに。
剣を振るいながら、彼は考えていた。
「……守るために、僕は前に出たはずなのに」
一人、二人、三人。
血が散るたびに、自分が“何か”を失っていく感覚。
“生き残ること”と、“護ること”は、別だ。
斬ってしまった時点で、もう“何か”は守られていない。
けれど、動きは止まらない。
止めれば死ぬ。
剣を握る手が、もはや自分のものではないように震える。
「剣って、なんですか」
問いかけるたびに、血が足元を濡らした。
※
静は、戻ってきた。
またしても、無傷で。
だが、口元には泥がついていた。
袖の内側に、裂けた布。
髪に、乾いた木の葉。
手のひらの皮膚が、薄く裂けていた。
報告は端的だった。
「五人を排除。位置確認、完了」
その夜から、兵営では“鬼神”の噂が定着した。
剣の音が聞こえないまま、敵が絶命していく。
姿を見た者は“白い影”を目撃したと証言した。
“あれは人じゃない”“あれは剣そのものだ”。
そして――その夜、ひとりの年配兵がつぶやいた。
「でもなぁ……あいつ、斬ったあと、笑ってねぇんだよな」
「むしろ、泣きそうな顔してたぜ」



