第一話「軍道、白き影を連れ」

 その日、馬の蹄の音はなかった。
 道場を発って軍へと赴く静の足取りは、まるで“音”というものを拒絶していた。
 白装束の上に簡素な外套を羽織り、背に一本の木刀だけを携えて。
 彼は、誰にも手を振らなかった。
 誰にも告げずに、ただ“行く”という行為だけを置いてゆくように、山道を下っていった。
 誰も、止めなかった。
 止められなかった。
 すでに彼は、“名を持たぬ者”として、この世のどこにも属していなかったからだ。
     ※
 軍の駐屯地は、麓の町からさらに馬車で半日かかる平野にあった。
 砦というほどでもない。仮設の野営地に近い、未完成の軍営。
 そこに静は連れてこられた。
 十五になったばかりの少年としての身体に、与えられたのは粗末な兵衣。
 洗っても落ちきらない血と泥の染みが、布地の底に沈んでいた。
 それを羽織ることは、「おまえもまた“戦場のもの”だ」と言われるようなものだった。
 木刀は、取り上げられた。
 代わりに――剣が、与えられた。
 本物の、鉄の剣。
 誰かを斬り、血を吸い、また新たな命を奪うためだけに存在する道具。
 静は、その重みを何度も握り直した。
 何も言わず、誰にも問わず、ただ重さだけを確かめるように。
     ※
「名は」
 隊長格の男が問うた。
 声は硬質で、刃がこすれるような語調だった。
「沖田静、と呼ばれております」
「本名ではないな」
「……はい。僕は、戸籍がありません」
「剣は使えるのか」
「振れます」
 その答えに、男は眉を動かさなかった。
 ただ、一言だけ発した。
「なら、斬れ」
 その言葉が、静の胸に重く落ちた。
 斬れ、と言われた。
 名も、過去もいらない。ただ斬ること。それが“戦場の役割”だと、告げられた。
 静は頷いた。
 拒まなかった。けれど、頷いた瞬間、どこかの空が少しだけ、色をなくした気がした。
     ※
 初日は、何も命じられなかった。
 ただ、座らされ、待たされた。
 その静けさのなかにあっても、静は落ち着いていた。
 むしろ、静寂を好んだ。
 道場でもそうだった。声が交わされる前の沈黙が、静にはいちばん“落ち着く場所”だった。
 だが、軍の沈黙には意味がなかった。
 そこには“恐れ”も“怒り”も“感情”もなかった。
 ただ、命令が下るのを待つだけの“生きた兵器”たちの、使われる順番を待つだけの空気。
 その沈黙のなかに、静は少しだけ違和感を覚えた。
 ――ここには、「問い」がない。
 そう思った。
 剣は、問いかけるものだった。
 誰かと向き合うとき、自分自身を写すとき、それは“答え”を求める手段ではなく、“問い”そのものとして在った。
 だが、ここでは違った。
 剣はただ“使われる”。
 問いも、理由も、何もいらなかった。
     ※
 翌日、命令が下った。
「周辺の斥候を掃討せよ」
「追撃部隊に参加せよ」
「必要であれば、斬れ」
 配属されたのは“第六小隊”。
 新兵と徴集兵で構成された、いわば“捨て駒”だった。
 静は文句を言わなかった。
 他の兵も、何も言わなかった。
 最前線ではなかった。
 だが、“いつ死んでもおかしくない場所”には、間違いなかった。
     ※
 初陣は、森だった。
 雨のあとの湿った草が靴のなかに入り込み、地面はやわらかく、歩を重ねるたびに“ぬるり”と土の手が足首を握ってくるようだった。
 敵は、数人。
 偵察中の部隊だったと記録にはある。
 けれど、静の目には、まるで“闇”のなかに潜む獣のようにしか見えなかった。
 初めて剣を抜いた。
 その瞬間、自分の中で何かが変わった。
 空気の流れが変わった。
 指先が鋭くなる。
 耳が、音の細部を捉える。
 敵の息づかい、足音、空の雲の動きまでもが、全部“音”になった。
 ――斬れる。
 そう、思った。
 自分が、“斬れるように作られている”とわかってしまった。
 その事実に、静は一瞬、息を呑んだ。
 敵兵がこちらに気づくより早く、動いた。
 歩を踏み出す。
 斜めに跳ぶ。
 剣を振る。
 音はなかった。
 一人、二人、三人。
 誰も叫ばなかった。
 ただ、倒れた。
 血が跳ねた。
 白装束の袖口が赤く染まった。
 その赤を、静は見つめた。
 “これは、自分の色ではない”
 そう思った。
 だから、振り返らなかった。
 倒れた者を見なかった。
 けれど、確かに、自分の剣が“命”を断ったことだけは、わかっていた。
     ※
 その日から、噂が広がり始めた。
 ――「白い影が、森で兵を斬った」
 ――「音もなく、刃も見えず、ただ全員が倒れていた」
 ――「鬼神のようだった」
 静は、自分が何をしたのか、誰を斬ったのかを、覚えていなかった。
 斬ること自体が、記憶を曇らせるようだった。
 だが、あるとき――雨の夜、ふと思った。
「……剣とは、何を護るためにあるのか」
 その問いだけが、自分のなかにぽつりと残っていた。
 斬った命の重みは感じなかった。
 痛みも、熱も、怒りもなかった。
 ただ、その問いだけが、ひとつの“切れ端”のように、自分の胸に貼りついていた。