名もなき剣に、雪が降る

第八話「別れの稽古」

 六月の終わり、陽は長かった。
 空は澄んでいたが、どこか遠くに霞がかかっているようで、見えるはずの山の輪郭が曖昧だった。空気も乾ききらず、湿った風が地面を撫でていた。
 道場の床は、その日も静かに汗を吸っていた。
 夏が始まる。草木が黙って伸び、虫の声が聞こえはじめる頃。
 その日は朝から少しだけ涼しくて、まるで季節が名残惜しそうに、もう一度春の手触りを戻してくれたかのようだった。
 沖田静は、白い道着に袖を通していた。
 竹刀ではなく、木刀を手にしていた。
 それは、彼が初めて道場の門をくぐった日と、何も変わらない姿だった。
     ※
「最後の稽古なんだって?」
 新藤が、少しだけ声を潜めて言った。
 縁側で黙っていた榎本は、うなずくこともせずに、静のほうを見ていた。
「行くのか、本当に」
「決まったことだ」
「でもさ……」
 そのとき、新藤がそれ以上言葉を繋げなかったのは、静がこちらに歩いてきたからだった。
 彼はいつも通りの歩き方で、音もなく、風のように足を運んでくる。
 けれどその日だけは、どこか違って見えた。
 たとえば、背中。
 たとえば、歩幅。
 たとえば、手の握り方。
 ほんのわずかに、微かに、何かが違っていた。
 何が違うのかは、誰にも言えなかった。
 けれど、“これが最後だ”ということだけは、皆の体に染みつくように伝わっていた。
     ※
「お願いします」
 静がそう言って、木刀を持って正面に立った。
 相手は宗兵衛だった。
 それは予定されていたことではなかったが、自然とそうなった。
 誰も反対しなかった。誰も異を唱えなかった。
 道場の空気が、静まり返った。
 誰も声を出さなかった。虫の音も止んだかと思うほどだった。
 構えたのは、上段。
 静の構えには“流派”がなかった。
 けれどその一歩先には、血と死と、祈りと願いのすべてがあった。
 宗兵衛も、無言で構えをとった。
「始め!」
 号令もなかった。ただ、始まった。
 打ち合いではなかった。
 競い合いでもなかった。
 それは、対話だった。
 木刀を通して、自分が何者であったか、何をここに置いていこうとしているのか。
 静はその一太刀一太刀に、心を込めた。
 宗兵衛はそれを受け、捌き、返した。
 力ではない。型でもない。
 長い時間をかけて築いた“信”と“敬”のすべてが、そこにあった。
 やがて、ふたりの動きが止まる。
 構えを解いたその瞬間、誰かが小さく息をのんだ。
 静は、深く一礼した。
 宗兵衛も、同じように頭を下げた。
 言葉はなかった。
 それで、すべてだった。
     ※
 夕方、静は道場の掃除をひとりで始めていた。
 小太郎が声をかけた。
「……静」
「うん?」
「なあ……いつ、戻ってくるの?」
 静はほうきを止めなかった。
 その手の動きのなかに、答えがあった。
「帰ってこられるなら、帰ってきます。でも――」
 言いかけて、少しだけ微笑んだ。
「“戻ってこられる”って、思えるような剣を、まだ振ったことがないんです」
 小太郎は、何も返せなかった。
     ※
 夜、榎本と静が並んで縁側に座っていた。
 ふたりの間に、風が通っていた。
 言葉はなかった。
 それでも、伝わるものがあった。
 しばらくして、静がぽつりと呟いた。
「僕、名前がなくてよかったかもしれません」
「……なぜ」
「名を持っていたら、もっと誰かに何かを残したくなったと思うんです。僕は、誰のものでもないから、行ける」
「でも、誰かの記憶には残る」
 静は黙っていた。
 けれどその顔は、少しだけ安らいで見えた。
     ※
 翌朝、静は誰よりも早く起きていた。
 竹林のあいだから朝日が差し込むなか、彼は白い衣を着て立っていた。
 門の前には、誰もいなかった。
 けれど、彼はふりかえることなく、門をくぐった。
 何も言わなかった。
 何も持たなかった。
 ただ、剣だけを置いていった。
 それは木刀だった。
 道場の床に、静かに立てかけられていた。
 誰かがそれを見つけたとき、ふいに風が吹いた。
 強い風ではなかった。
 けれど、何かが確かに通り過ぎたあとだった。
 その日、誰も竹刀を握ろうとはしなかった。
     ※
 静は、いなかった。
 でも、確かに“いた”。
 その背中は、目に焼きついていた。
 その構えは、手に残っていた。
 その間合いは、風のなかにあった。
 そして――
 その静けさだけが、誰の言葉にもならずに、道場の空気のなかに残った。
 剣を置いて、去っていった少年。
 名を持たぬまま、誰かの心の奥深くに、確かに“剣”の形を残した者。
 その記憶は、のちに彼の最期を知る誰かの胸に、ゆっくりと降り積もることになる。
 まるで、花びらのように。
 あるいは、雪のように。