――ここの語順を変えたら……いや、まだしっくりこないな……。

 おれはこの時も教室から外を眺めていた。クラスメートたちの自己紹介を耳で聞き流しながら。
 小さなキャンパスノートを前に置き、何を詠もうか考えていたのだ。だから実際には外なんか見ちゃいない。
 自分の自己紹介はとうに終えた。

『榊原樹《さかきばらいつき》です。帰宅部です。趣味は読書。一年間よろしくお願いします』

 これだけだ。当たり障りのない、周囲から浮かない完璧な挨拶。根っからの隠キャを自認しているので、変に注目を浴びたい欲もなかった。

「はい、次の人」
「はい」

 担任の国語教師が次の自己紹介者を促し、椅子を引く音が聞こえた。

「お、おまえじゃん」
「がんばれがんばれ、王子」

 とたんにクラスが活気づく。やいのやいのと起立者を囃し立てるクラスメートたち。
 少し離れた席から目を向ければ爽やかなイケメン高校生がわざわざ教壇まで出てきた場面だった。歩く姿まで颯爽としている。春風を背負ってそうだ。

――同級生にあんなのいたか。

 ま、マンモス校だし、おれ自身も顔が広いほうではないので、知らない顔がいてもおかしくないが。
 その男は教壇に立つ。

「えー、こんにちは。去年から同じクラスの人はまたよろしく、初めて同じクラスになった人も、これまたよろしく。源朝陽です。部活は陸上部」

 ふふっ、と心地よいさざめきが波状となって広がっていく。
 なんだろう、声の抑揚といい、間の取り方といい、人を掴むのがうまいな、こいつ。笑顔が春の日差しみたいなやつだ。名前だけに。

「趣味は走ること、筋トレも少し。だれかまたカラオケに誘ってください。えーと、そうですね」

 ここで言い淀んだ源は、これで自己紹介を終えると思いきや、すっと視線を窓の外に向けた。
 ……目の色が変わった。ふと、そう感じた。
 源はまたおれを含めたクラスメートへ顔を向けた。

「せっかくなので自己紹介で一首詠みましょう」

 川を流れるせせらぎの音が気持ちいいですね、と言わんばかりの口調で「一首詠みましょう」と。
 いや、おれの気のせいじゃなかろうか。
 イッシュヨミマショウ。おれの聞き馴染みのない新たな日本語が今この場で誕生したのだ。
 そうだ、そうにちがいない。
 この高校には文芸部がない。ならばおれのような人間もよほど少ないはずで、おれのように隠しているのが大半ではないか。
 気づけばノートの上を意味もなくペン先が滑っていた。視界の端に、おれの書き留めた言葉の断片が散らばっている。形には、まだならない。

「今日は登校中に黒猫を見かけたので。そこから――」

 源の、息の吸う音。
 クラスの空気がしんと静まりかえる中、教壇に手をついた源は朗々とうたいあげた。

黒猫の目にはあさひがうつされて いきちがう春の交差点で

「今ぱっと浮かんだままで短歌を詠んでみました。おじいちゃんがちょっとやっていたもので。おれはこんなやつです。二年生も楽しいクラスにしましょー」

 源が一礼すると、クラスからぱちぱちと拍手があがった。女子たちなどは、源の美声に酔ったようにぽうっと頬を染めていた。
 先生などもにこにこしている。

「源くん、素敵な短歌でした。ありがとう。先生は感動しました」
 
 席につけば、周囲のクラスメートたちとは肘で突き合い、かっこつけやがって、とからかわれている。

「ははっ、カッケーだろ」
「はいはい、さすがだよ、『王子さま』」
「王子さまはやめてくれよ」

 その言葉で思い出した。
 同学年に「王子さま」と言われている人気者がいると。顔がよく、運動も学業も成績優秀、しかも実家がお金持ち。興味もなかったので、そんなものか、と思っていた。
 だが――。
 なんだよ、と心で毒づく。
 即興で? ぱっと浮かんだまま? ……冗談じゃねぇよ。

黒猫の目にはあさひがうつされて いきちがう春の交差点で

 あんな短歌を軽やかに詠まれてたまるかよ。しかも華麗に「あさひ」と自分の名前を入れ込んでやがる。あんなにみんなにも受け入れられて。
 おれが、どんな気持ちで……。
 汗ばんだ右手をひらく。もう一度シャープペンシルを握り直す。
 ――負けてたまるか。
 おれに新たなライバルが現れた。

 
 短歌は五・七・五・七・七の三十一音で作る詩のことを言う。源流は古く、平安時代から詠まれていた和歌もこの詩型にある。要は昔から日本人は短歌を愛し、自分の気持ちを伝えたり、託したりしてきたわけだ。
 おれが短歌をはじめたのは、ばあちゃんの影響だ。
 おれの両親が共働きだったのでよくばあちゃんに預けられたのだが、ばあちゃんはおれの世話をしつつ、短歌も作っていた。隣にいたおれもなんとなく作歌するようになった。
 やってみると、これが面白い。三十一文字で小さな物語が完結し、後にも引く余韻がたまらなかった。
 へたながらも少しずつ短歌を作っていた。最初こそおれの短歌を詠むのはばあちゃんだけだったが、今は少しずつSNSにもあげている。反応はいまいちだが。
 昨今が短歌ブームと言われつつも、この高校で短歌を趣味とし、ガチでやっているのはおれだけだ。
 そんな自負があったのだ。
 だが昼間のあれで、おれはとんでもない衝撃を味わうはめになったのだ。

黒猫の目にはあさひがうつされて いきちがう春の交差点で

 聞き取った短歌はすぐにノートに書き写した。漢字が多少違っているかもしれないがそれはいい。
 問題は、だ。
 おれは自室の机に座ってノートを睨みつけた。

 ――ねじ伏せてやる。やってやる。

 しょうもないプライドだと笑われてもいい。
 だが、おれは源に勝ちたいのだ。あの、春らしいカジュアルで軽々しい短歌に、おれの短歌で。
 参りました、と言わせたい。敗北を知らなさそうなイケメン野郎に。
 おれは短歌用の万年筆を握り、源の短歌を脇に置きつつ作歌をはじめたのだった。


 翌日。おれはいつもより朝早い時間に家を出た。
 朝練と始業の合間の時間。朝練のない生徒が少ないうちに、おれは下駄箱のフタを開け、おみくじのように結んでおいた一筆箋をすばやく放り込んだ。
 よし、だれにも見られなかった。
 一度トイレに寄り、頃合いを見て、また下駄箱の近くを通りかかったふりをした。
 すると折よく、朝練終わりの源朝陽が校舎内に入るところだった。おれは物陰に隠れて、スマホをいじる。
 生徒たちが次々と登校してくるし、その場でしゃべるやつらも多いのでおれの姿は目立たないだろう。
 おれが細目でちらちら確認するうちに、源は下駄箱を開け、下足を履き替えようとして――おれの入れた結び文に気づく。
 いぶかしげに眺めていた源だが、それは捨てられることなく――ブレザーのポケットに入れたのだった。
 ここまで見届けたおれは満足して、一足先に教室へ行った。

 ――「あれ」を読んだら、源のやつも心穏やかではいられまい……。

 メガネの奥にある目は黒猫のようにあやしげに光っていたことだろう。
 源の下駄箱に放り込んだ投げ文は、おれからの挑戦状ともいうべき代物だ。
 挑戦状とはなにか。
 もちろん、短歌である。
 短歌で悔しい思いをしたのなら、短歌で返すしかあるまい。
 そんなわけで、おれは昨晩、寝る間を惜しんで短歌を作った。自信作である。
 それは。

桜にも心はありて薄明に散るか否かを決めかねる枝 《詠み人知らず》

 どうだろう。美しい言葉の並びだろう。桜、薄明、散る、枝。
 桜にも心がある、というのは和歌からの引用だし、言葉で浮かび上がる情景は神秘的ですらある。
 さらに『朝日』が出てくる前の桜の心は迷っているのだ。おまえの短歌にはなびかねーよ、と言わんばかりである。
 ――完璧だ!
 源のような軽々しいやつには、こんな示唆に富んだ短歌は詠めないに違いない。文面から匂い立つ、おれの教養の深さに恐れ慄け。はっはっは。
 シンプルな一筆箋にブルーブラックの万年筆で丁寧に書いた、こだわりの一首だ。
 源からしたら、《詠み人知らず》と名乗る謎の人物が、自分より良い短歌を作ってきたので、びびったことだろう。
 今後の源はもっと謙虚な気持ちになり、謎の人物(俺だ)への尊敬の念を深めるのではないか。
 すばらしい。実にすばらしい結果である。
 心の中でほくそ笑みながら自分の席に座っていると、おれの耳にこんな会話が聴こえてきた。

「俺、今朝、ラブレターをもらってさ」
「お、今年初か! さすがだな、『王子さま』」

 源と、同じくクラスメートである藤井が顔を突き合わせて話していた。

 ――ラブレター……?

 スマホの普及により告白するやり方もメールだのメッセだの多様化しているのに、今どき恋文を作るやつなんているのか? 暇なやつだな。
 
「いや、それはいいって。たださぁ」
「……? なんだよ。どうせまた断るんだろ」
「うーん、ちょっと毛色が違っててさ……相手もわからないし」
「え、なんだって、そんなことある?」
「そう。詠み人知らず、ってあった」

 おれは吹き出したくなるのを懸命にこられた。
 なんで!?
 なんで、ラブレターと呼称したんだよ!?
 馬鹿じゃねえの!?
 おれは心でわなわなと震える。これほどの恥辱があるものか。
 渾身の挑戦状が、ラブレターと思われていたなんて。
 源という男はモテすぎて、なんでもかんでも恋愛に結びつけたがる幸せ野郎らしかった。

「変な子だなぁ! ……なら、仮名は『よみ』ちゃんかぁ」
「……ちゃん、でいいのかはわからないけどさ」
「俺にも見せてくれね?」
「それはだめ」
「まぁ、そうか」

 一瞬、藤井にも読まれるかも、と想像してひやっとしたが、安堵した。さすがに源にもデリカシーはあるようだ。
 源は、うーん、と頬杖をつきながら、思索していたが、

「ま、考えてもしかたない。放課後までに返事を書くよ」
「そうだなあ。そうしないと可哀想だよなぁ」
「だよね」

 俺は頭を抱え、ついで憤然とした。
 ラブレターと、挑戦状。……どこまでも通じてないじゃないか!
 やっぱあいつだめだ! おれのほうが歌人として上なんだ。
 俺はまたこっそりと短歌用ノートを開いた。シャープペンシルを繰り出してから、ふと手を止める。
 源の返事もまた、短歌になるだろう。つまり、返歌というものになる。
 きっとそれは相手が名乗らないものだから、最初に届けたのと同じ方法――源の下駄箱に入れられることだろう。

――源は、どんな返歌をするんだろうか。

 正直、気になっていた。