『扉が閉まります、ご注意ください』
電車は、目の前で無情に走り去っていった。
ドア越しに、それまでスマホを見ていた乗客たちが顔を上げて私を見る。
「あーぁ、ドンマイ」とでも言いたげな視線が、容赦なく私を刺した。
深夜0時、静まり返った駅のホーム。
桐島遥、27歳。
会社から全力で駆け抜けた足が、ようやく疲れを思い出したかのように重くなりはじめた。
とりあえず、ホームのベンチに腰を下ろす。
もう電車は来ない。だから、ここにいても意味はない。だけど、ちょっとまだ歩けない。
あーぁ。なんであと1分早く会社を出なかったんだろ。
編集部での会議が長引いたせい、なんて言い訳は何度もしてきたけれど。
本当は、ちがう。私はいつだって、ひとより行動がワンテンポ遅いだけ。つまり自業自得。
「タクシー……は高いし、徒歩は無理。ネカフェ、まだ空いてるかな……」
スマホでネカフェの空き状況を検索しようとした、そのときだった。
「うわぁーっ、間に合わなかった!!」
風船がパンッと割れたような唐突さで、声がした。
顔を上げると、ホームの階段下に男性が立っていた。息を切らしながら膝に手をつき、肩を揺らしている。
終電を逃してショックなのは分かるけど……電車、けっこう前に出てますが。
余裕で間に合ってないのに、そこまで悔しがれる神経よ……――なんて、内心で感心していたら、目が合ってしまった。
「……あ」
どうしよう、気まずい。
慌てて目を逸らし、バッグを肩にかけ直して、足早に階段へ向かう。
軽く会釈して、男性の前を通りすぎようとした瞬間、
「あの」
ぴたっ、と足が止まる。
振り返ると、男性は、すでに階段を数段上がっている私を見上げていた。
やっぱり私に話しかけてきたらしい。
「あなたも、終電逃した組ですか?」
目を泳がせながらも、「えっと……まあ、はい」とうなずく。
「やっぱり、僕と一緒だ」
言いながら、男性はさらりと笑う。
なんだ、このひと。軽いのか、それとも酔っ払ってるのか……?
反応に困っていると、男性は少しだけ神妙な顔をして、言った。
「よかったら、今から僕と、ミステリーツアーしません?」
「……は?」
素っ頓狂な声が、深夜のホームに響いた。
***
ミステリーツアー、という言葉の意味もよくわからないまま、私は結局、男性といっしょに駅を出た。
見ず知らずのひとに声をかけられてホイホイついていくなんて……ふだんじゃぜったいに有り得ないのに。
今夜はあまり、危機回避能力が機能していないみたいだ。それもこれもすべて疲れのせいだということにして、私はそれ以上考えないようにする。
「それで、ミステリーツアーって……なにするんですか?」
訊ねると、男性が振り向く。
「決まってないです。深夜の街を、気の向くままに歩くだけ。目的地もナシ、地図もナシ! ミステリーというか、サプライズ散歩っていうか……うーん、なんて言うのかな。とにかく夜の街って、昼間とは別の顔を持ってて、歩くだけでいろんな発見がありません?」
軽やかにそう言って、男性は少し笑った。
その笑顔が、不思議と警戒心を和らげた。危ない感じは、しない。むしろ、なんとなく――退屈な夜を変えてくれそうな雰囲気がして。
ちょっとわくわくする……わけはないけど、まあ、ネカフェを探すのもめんどくさいし、歩き疲れたら途中で別れればいいか。
「……じゃあ、1時くらいまでで。なるべく道にひとがいそうなところメインでお願いします」
「はーい、了解。じゃあ、まずはこっち。あっ、そうだ。お腹減りません? たしか近くにありましたよね、コンビニ。寄りましょうよ」
改札を抜け、軽やかに階段を下りていく男性の背中について歩く。
だれかと一緒に帰るのなんて、何年ぶりだろう。
仕事帰りは、いつもひとりだ。興味もないスマホのニュースを惰性で見ながら、ただ電車に揺られていた。
「……あ、そういえば自己紹介してなかったですね。僕、雨宮碧っていいます」
「桐島遥です。出版社で働いてます」
「出版社! へぇ、なんだかかっこいい響きですね。忙しそうだけど」
「忙しいです。今日も、ギリギリまで原稿を追いかけてて……で、逃しました、終電」
「はは、僕もいっしょ。納品期日が今日でド修羅場。そしたらPCフリーズして……気づいたら23時半」
「それは、それは……お疲れさまです」
「お疲れさまでした」
お互い頭を下げあって労い合う状況に、ふっと笑いが込み上げた。
夜の街を、ふたり並んで歩いていく。
ひとけの少ない裏通りでも、足音が重なると、なんとなく恐怖が薄れるようだった。
「雨宮さんは……よくこうやって、知らないひとに声かけて歩くんですか?」
ふと、気になって聞いてみる。すると、雨宮さんがははっと笑った。
「僕のことなんだと思ってるんですか」
「だって、声かけられたとき驚いたんですよ。なんだこのひと、と思って」
ふたたび、雨宮さんが笑う。
「それもそうか。いや、なんか終電逃した仲間見ると、話しかけたくなりません?」
なりません?って言われても。私は、なりません。
私なら、いっしょに終電を逃したであろう他人のことよりも、今夜どうしよう、とか、明日の朝のことばかり心配になってしまうから。まわりなんて見てる余裕はない。
「……変なひと」
「うわぁ、それよく言われる! でもさぁ、こういう『変な夜』にしか出会えないものってあるじゃないですか。終電に乗ってたら気付かなかった場所とか、それこそひととか」
その言葉に、少し胸がざわついた。
確かに、終電を逃さなければ――私は、このひととすれ違うことすらなかったんだろう。
「そしてここも」
雨宮さんが立ち止まる。目の前には、真っ暗な世界にぽつんと佇むコンビニエンスストア。
「つきましたよ」
雨宮さんはそう言って、先にコンビニへ入っていった。
私も続いて店内へ入って、缶コーヒーを目当てに奥の飲み物コーナーに進む。……と、缶コーヒーのとなりのお酒コーナーが目に入った。
「桐島さんって、お酒、いけるほうですか?」
「……まぁ、好きです。そんなに強くはないけど」
「あ、いいな。僕も弱いけど飲むのは好きなんですよ」
雨宮さんが、お酒コーナーの冷蔵扉を開けて、私を見る。
「じゃあ……1本」
缶コーヒーをやめて、素直に雨宮さんのほうに手を伸ばす。すると、雨宮さんは満足そうに笑っていた。
***
缶ビールをそれぞれ1本ずつ買って、近くの公園へ入った。ベンチに座り、息をつく。
深夜0時半。
ひと通りもなく、街灯のたよりない灯りだけが私たちを照らしている。
「……静かですね」
「ですねぇ。でも、静かなのに、ちゃんと生きてる街って感じがしますよね。あの、砂場のお山とか」
たしかに、分からなくはない。けど。
「……雨宮さんって、けっこう変なこと言いますよね」
「うわぁ、それもよく言われる」
雨宮さんはそう言って笑いながら、缶ビールのプルタブを引いた。
私は、その横顔をちらりと盗み見る。
正直、もしこのままホテルにでも誘われたらすぐに引き返そうと思ったけれど。
そんな気配は微塵もない。
……案外、いいひとなのだろうか。分からない。このひとはいったい、なにがしたいんだろう……と、考えていたとき、ふと彼に一度だけ感じた違和感を思い出した。
「……あの、さっきちょっと思ったんですけど……もしかして雨宮さん、ホームでだれか待ってました?」
「え?」
「なんとなく……わざと終電逃したのかなって気がして」
「……鋭いですね」
「だって、ぜんぜん間に合ってなかったですもん、電車」
「ははっ。やっぱり鋭い」
雨宮さんは小さく笑うと、缶ビールを脇に置いた。
「……大学の頃の友人とね、次終電を逃したらミステリーツアーをしよう、って話してたことがあって。今日、なんとなくそれを思い出して」
「えー。なんか、大学生っぽくて可愛いですね」
「当時はね、ロマンチックだと思ったんですよ。ま、その子とは結局、ミステリーツアーはできませんでしたが、今日桐島さんのおかげで無念を晴らせました!」
「ちなみに、その子とは、今……?」
控えめに訊ねると、雨宮さんが「あー」と苦笑する。
「連絡先ももう分かんないし、住んでる場所すら知らないですね」
「あ……そうなんだ」
「はい。その子、結婚してもう子どももいるみたいなので。こっちから連絡することはないだろうなぁ……」
「……そうでしたか」
たぶん雨宮さんのなかでこの話は、悲しい思い出というわけではないんだろう。むしろ、いい思い出であるように聞こえる。
でも。
今はほんのちょっとだけ、その思い出にすがりたくなっている……そんなふうに、見える。
わかる気がする、なんて安易だろうか。
雨宮さんはときおり缶ビールをくいっとあおりながら、どこか遠くを見つめていた。
過去のひとに思いを馳せているのだろうか。それとも、まだ会ったことのないだれかを待っているのだろうか。たとえば今日出会った、私のような……。
ただただ静かで、切実なまなざし。
でも――そこに、寂しさよりもどこか希望のようなものを感じたのは、きっと気のせいじゃない。
不意に、パッと雨宮さんが私のほうを見た。
「変な話して、すみません」
「変じゃないですよ。べつに」
「……そう、ですかね」
じぶんでも驚くほど自然に言葉が出た。
「桐島さんは、恋人とかいないんですか?」
「あー……私は、恋愛はあんまりなので」
缶ビールのラベルを見下ろしながら、あいまいに笑う。
「へぇーちょっと意外かも」
「はは」
笑いながら、ビールを飲む。
「なにか、トラウマがあるとかですか?」
「そうじゃないけど、白黒つけるのが好きじゃないというか、向いてないというか」
「付き合うか、ってこと?」
「それもだけど、付き合ってからも選択肢って消えないでしょ? 別れるか、結婚するか。たとえ結婚しても離婚っていう選択肢は常に消えないし。そういうの、考えるだけでなんだか疲れちゃうんですよね」
なら、なにも考えずに行動すればいいとも思うが、それはできない性分なのだ。
それだけじゃない。
私は、今の生活にそれなりに満足している。
平日は働いて、寝るまでのほんの少しの時間に好きなことをして。
休日は甘いものを食べに行ったり、買い物をしたりして。
つまらない日常だけど、そこそこ楽しい。
ここになにかを付け足す余裕はないし、だからといってこの生活をいちから変える気なんて、さらさらない。
「だれかの介入によって、じぶんが作り上げた今の日常を壊されるのがいやというか」
「あーそれ、すげー分かるかも」
雨宮さんが、うんうんと大きくうなずく。
「だから私は、今のじぶんに納得してるし、満足もしてる。――でもたまに、絶望……みたいなものを感じるときがあって」
だれに決められたわけでもない、じぶんで選んだ道なのに。
ふとした瞬間、家族や友だちの視線が、こわくなるときがある。
本当にこのままでいいの?
今は良くても、あとで後悔するんじゃない?
「周りには、いい歳して……とか、思われてるんだろうなぁって、思っちゃうじぶんがいて」
そんなふうに、言われている気分になるのだ。
だったら相手を探して、身を固めればいい。今の日常を変えればいい。
だけど、それをしたら、後悔するじぶんの姿が浮かぶのだ。
その選択をしないのか、できないのか。それすら分からなくなる夜がある。
じぶんでもわがままだなぁと思う。だから、だれにも言えなかった。
雨宮さんは、静かに私の話を聞いてくれていた。
これまでひとりぼっちで抱えていた感情が、深夜という隙間にゆっくりと溶け出していくようだった。
***
公園を出て、川沿いの遊歩道に出た。
ひとけのない夜道。ときおりすれ違う自転車がベルを鳴らして闇のなかに消えていく。
歩きながら、雨宮さんがふと立ち止まる。
自動販売機の前だった。
「ねぇ、桐島さん。自販機の前って、ちょっとだけロマン感じません?」
「ロマン?」
「自販機で飲み物買ってるひと見ると、ついなに買うのかなって見ちゃうんですよ。どの飲み物を選ぶかで、そのひとのことが分かる気がして」
「えーたとえば?」
ちょっと笑いながら、私は、深夜に場違いなまでに存在を主張する自動販売機を見上げる。
「コーヒーを買うひとは頑張り屋、ココアを選ぶひとは甘えたがりで、炭酸を選ぶ男は遊び人!」
「偏見がすぎません?」
ふたり、顔を見合わせ合って笑う。
「じゃあ……さっき私が選んだビールは?」
「うーん……“ちゃんとしてなきゃいられないひと”?」
「ちゃんと?」
「たぶん桐島さん、ふだんは家族の前でも気を抜けないタイプでしょ?」
思わず、笑ってしまった。
「当たってるかも。……でも雨宮さんも私と似たようなタイプでしょ?」
「えっ」
「お酒飲めるかーって聞いてきた時点で、相手のことを先に考えるクセがついたひとだなって思った」
雨宮さんはちょっと驚いたような顔をしてから、ははっと笑った。
「バレてましたか。じつは僕、こう見えてやさしいんですよ〜」
夜の静けさに、ふたりぶんの笑い声が溶けていった。
***
空気が、少し変わった。
静かで、澄んでいて、それでいて少し切ない。
スマホを見ると、午前0時57分。
あと3分で、午前1時。
私がゆっくり立ち上がると、雨宮さんも同じように立ち上がった。
「……そろそろ、帰りますね」
「送りますよ。タクシー拾いましょう」
「ううん、大丈夫。ちょっと歩きたい気分だから」
駅へ戻る道の途中、雨宮さんがふと立ち止まった。
「桐島さん」
「はい」
「……もし、また終電を逃したらって話なんですけど」
「はい」
「絶望したときのための、約束、しません?」
その言葉は、胸の隙間にすっと入り込んできた。
これはきっと、実際会うための約束ではない。
今日の続きをするためのものでもない。
だけどそれは確実に、絶望した私を……いや、私たち甘やかしてくれる言葉だった。
私はうなずいた。
「……じゃあ、そのときはまたミステリーツアーのガイドをお願いします」
「まかせてください」
そう言って、私たちは別れた。
***
――1ヶ月後。
時計の針は、23時42分。
私は、駅のホームには向かわなかった。
会社からの帰り道。ゆっくり歩いて、コンビニで1本だけ、缶ビールを買う。
深夜の街は相変わらず静かで、相変わらず寂しい匂いがする。
午前0時42分、あの公園のベンチ。
だれもいない。
私はベンチに座って、缶ビールを開ける。
夜風が、そっと髪を揺らす。
缶ビールの冷たさが、じんわりと手に伝わる。
――耳の奥で、また、あの声が聞こえた気がした。
『……うわぁーっ、間に合わなかった!!』
静かな公園に、優しい午前1時が近づいていた。
電車は、目の前で無情に走り去っていった。
ドア越しに、それまでスマホを見ていた乗客たちが顔を上げて私を見る。
「あーぁ、ドンマイ」とでも言いたげな視線が、容赦なく私を刺した。
深夜0時、静まり返った駅のホーム。
桐島遥、27歳。
会社から全力で駆け抜けた足が、ようやく疲れを思い出したかのように重くなりはじめた。
とりあえず、ホームのベンチに腰を下ろす。
もう電車は来ない。だから、ここにいても意味はない。だけど、ちょっとまだ歩けない。
あーぁ。なんであと1分早く会社を出なかったんだろ。
編集部での会議が長引いたせい、なんて言い訳は何度もしてきたけれど。
本当は、ちがう。私はいつだって、ひとより行動がワンテンポ遅いだけ。つまり自業自得。
「タクシー……は高いし、徒歩は無理。ネカフェ、まだ空いてるかな……」
スマホでネカフェの空き状況を検索しようとした、そのときだった。
「うわぁーっ、間に合わなかった!!」
風船がパンッと割れたような唐突さで、声がした。
顔を上げると、ホームの階段下に男性が立っていた。息を切らしながら膝に手をつき、肩を揺らしている。
終電を逃してショックなのは分かるけど……電車、けっこう前に出てますが。
余裕で間に合ってないのに、そこまで悔しがれる神経よ……――なんて、内心で感心していたら、目が合ってしまった。
「……あ」
どうしよう、気まずい。
慌てて目を逸らし、バッグを肩にかけ直して、足早に階段へ向かう。
軽く会釈して、男性の前を通りすぎようとした瞬間、
「あの」
ぴたっ、と足が止まる。
振り返ると、男性は、すでに階段を数段上がっている私を見上げていた。
やっぱり私に話しかけてきたらしい。
「あなたも、終電逃した組ですか?」
目を泳がせながらも、「えっと……まあ、はい」とうなずく。
「やっぱり、僕と一緒だ」
言いながら、男性はさらりと笑う。
なんだ、このひと。軽いのか、それとも酔っ払ってるのか……?
反応に困っていると、男性は少しだけ神妙な顔をして、言った。
「よかったら、今から僕と、ミステリーツアーしません?」
「……は?」
素っ頓狂な声が、深夜のホームに響いた。
***
ミステリーツアー、という言葉の意味もよくわからないまま、私は結局、男性といっしょに駅を出た。
見ず知らずのひとに声をかけられてホイホイついていくなんて……ふだんじゃぜったいに有り得ないのに。
今夜はあまり、危機回避能力が機能していないみたいだ。それもこれもすべて疲れのせいだということにして、私はそれ以上考えないようにする。
「それで、ミステリーツアーって……なにするんですか?」
訊ねると、男性が振り向く。
「決まってないです。深夜の街を、気の向くままに歩くだけ。目的地もナシ、地図もナシ! ミステリーというか、サプライズ散歩っていうか……うーん、なんて言うのかな。とにかく夜の街って、昼間とは別の顔を持ってて、歩くだけでいろんな発見がありません?」
軽やかにそう言って、男性は少し笑った。
その笑顔が、不思議と警戒心を和らげた。危ない感じは、しない。むしろ、なんとなく――退屈な夜を変えてくれそうな雰囲気がして。
ちょっとわくわくする……わけはないけど、まあ、ネカフェを探すのもめんどくさいし、歩き疲れたら途中で別れればいいか。
「……じゃあ、1時くらいまでで。なるべく道にひとがいそうなところメインでお願いします」
「はーい、了解。じゃあ、まずはこっち。あっ、そうだ。お腹減りません? たしか近くにありましたよね、コンビニ。寄りましょうよ」
改札を抜け、軽やかに階段を下りていく男性の背中について歩く。
だれかと一緒に帰るのなんて、何年ぶりだろう。
仕事帰りは、いつもひとりだ。興味もないスマホのニュースを惰性で見ながら、ただ電車に揺られていた。
「……あ、そういえば自己紹介してなかったですね。僕、雨宮碧っていいます」
「桐島遥です。出版社で働いてます」
「出版社! へぇ、なんだかかっこいい響きですね。忙しそうだけど」
「忙しいです。今日も、ギリギリまで原稿を追いかけてて……で、逃しました、終電」
「はは、僕もいっしょ。納品期日が今日でド修羅場。そしたらPCフリーズして……気づいたら23時半」
「それは、それは……お疲れさまです」
「お疲れさまでした」
お互い頭を下げあって労い合う状況に、ふっと笑いが込み上げた。
夜の街を、ふたり並んで歩いていく。
ひとけの少ない裏通りでも、足音が重なると、なんとなく恐怖が薄れるようだった。
「雨宮さんは……よくこうやって、知らないひとに声かけて歩くんですか?」
ふと、気になって聞いてみる。すると、雨宮さんがははっと笑った。
「僕のことなんだと思ってるんですか」
「だって、声かけられたとき驚いたんですよ。なんだこのひと、と思って」
ふたたび、雨宮さんが笑う。
「それもそうか。いや、なんか終電逃した仲間見ると、話しかけたくなりません?」
なりません?って言われても。私は、なりません。
私なら、いっしょに終電を逃したであろう他人のことよりも、今夜どうしよう、とか、明日の朝のことばかり心配になってしまうから。まわりなんて見てる余裕はない。
「……変なひと」
「うわぁ、それよく言われる! でもさぁ、こういう『変な夜』にしか出会えないものってあるじゃないですか。終電に乗ってたら気付かなかった場所とか、それこそひととか」
その言葉に、少し胸がざわついた。
確かに、終電を逃さなければ――私は、このひととすれ違うことすらなかったんだろう。
「そしてここも」
雨宮さんが立ち止まる。目の前には、真っ暗な世界にぽつんと佇むコンビニエンスストア。
「つきましたよ」
雨宮さんはそう言って、先にコンビニへ入っていった。
私も続いて店内へ入って、缶コーヒーを目当てに奥の飲み物コーナーに進む。……と、缶コーヒーのとなりのお酒コーナーが目に入った。
「桐島さんって、お酒、いけるほうですか?」
「……まぁ、好きです。そんなに強くはないけど」
「あ、いいな。僕も弱いけど飲むのは好きなんですよ」
雨宮さんが、お酒コーナーの冷蔵扉を開けて、私を見る。
「じゃあ……1本」
缶コーヒーをやめて、素直に雨宮さんのほうに手を伸ばす。すると、雨宮さんは満足そうに笑っていた。
***
缶ビールをそれぞれ1本ずつ買って、近くの公園へ入った。ベンチに座り、息をつく。
深夜0時半。
ひと通りもなく、街灯のたよりない灯りだけが私たちを照らしている。
「……静かですね」
「ですねぇ。でも、静かなのに、ちゃんと生きてる街って感じがしますよね。あの、砂場のお山とか」
たしかに、分からなくはない。けど。
「……雨宮さんって、けっこう変なこと言いますよね」
「うわぁ、それもよく言われる」
雨宮さんはそう言って笑いながら、缶ビールのプルタブを引いた。
私は、その横顔をちらりと盗み見る。
正直、もしこのままホテルにでも誘われたらすぐに引き返そうと思ったけれど。
そんな気配は微塵もない。
……案外、いいひとなのだろうか。分からない。このひとはいったい、なにがしたいんだろう……と、考えていたとき、ふと彼に一度だけ感じた違和感を思い出した。
「……あの、さっきちょっと思ったんですけど……もしかして雨宮さん、ホームでだれか待ってました?」
「え?」
「なんとなく……わざと終電逃したのかなって気がして」
「……鋭いですね」
「だって、ぜんぜん間に合ってなかったですもん、電車」
「ははっ。やっぱり鋭い」
雨宮さんは小さく笑うと、缶ビールを脇に置いた。
「……大学の頃の友人とね、次終電を逃したらミステリーツアーをしよう、って話してたことがあって。今日、なんとなくそれを思い出して」
「えー。なんか、大学生っぽくて可愛いですね」
「当時はね、ロマンチックだと思ったんですよ。ま、その子とは結局、ミステリーツアーはできませんでしたが、今日桐島さんのおかげで無念を晴らせました!」
「ちなみに、その子とは、今……?」
控えめに訊ねると、雨宮さんが「あー」と苦笑する。
「連絡先ももう分かんないし、住んでる場所すら知らないですね」
「あ……そうなんだ」
「はい。その子、結婚してもう子どももいるみたいなので。こっちから連絡することはないだろうなぁ……」
「……そうでしたか」
たぶん雨宮さんのなかでこの話は、悲しい思い出というわけではないんだろう。むしろ、いい思い出であるように聞こえる。
でも。
今はほんのちょっとだけ、その思い出にすがりたくなっている……そんなふうに、見える。
わかる気がする、なんて安易だろうか。
雨宮さんはときおり缶ビールをくいっとあおりながら、どこか遠くを見つめていた。
過去のひとに思いを馳せているのだろうか。それとも、まだ会ったことのないだれかを待っているのだろうか。たとえば今日出会った、私のような……。
ただただ静かで、切実なまなざし。
でも――そこに、寂しさよりもどこか希望のようなものを感じたのは、きっと気のせいじゃない。
不意に、パッと雨宮さんが私のほうを見た。
「変な話して、すみません」
「変じゃないですよ。べつに」
「……そう、ですかね」
じぶんでも驚くほど自然に言葉が出た。
「桐島さんは、恋人とかいないんですか?」
「あー……私は、恋愛はあんまりなので」
缶ビールのラベルを見下ろしながら、あいまいに笑う。
「へぇーちょっと意外かも」
「はは」
笑いながら、ビールを飲む。
「なにか、トラウマがあるとかですか?」
「そうじゃないけど、白黒つけるのが好きじゃないというか、向いてないというか」
「付き合うか、ってこと?」
「それもだけど、付き合ってからも選択肢って消えないでしょ? 別れるか、結婚するか。たとえ結婚しても離婚っていう選択肢は常に消えないし。そういうの、考えるだけでなんだか疲れちゃうんですよね」
なら、なにも考えずに行動すればいいとも思うが、それはできない性分なのだ。
それだけじゃない。
私は、今の生活にそれなりに満足している。
平日は働いて、寝るまでのほんの少しの時間に好きなことをして。
休日は甘いものを食べに行ったり、買い物をしたりして。
つまらない日常だけど、そこそこ楽しい。
ここになにかを付け足す余裕はないし、だからといってこの生活をいちから変える気なんて、さらさらない。
「だれかの介入によって、じぶんが作り上げた今の日常を壊されるのがいやというか」
「あーそれ、すげー分かるかも」
雨宮さんが、うんうんと大きくうなずく。
「だから私は、今のじぶんに納得してるし、満足もしてる。――でもたまに、絶望……みたいなものを感じるときがあって」
だれに決められたわけでもない、じぶんで選んだ道なのに。
ふとした瞬間、家族や友だちの視線が、こわくなるときがある。
本当にこのままでいいの?
今は良くても、あとで後悔するんじゃない?
「周りには、いい歳して……とか、思われてるんだろうなぁって、思っちゃうじぶんがいて」
そんなふうに、言われている気分になるのだ。
だったら相手を探して、身を固めればいい。今の日常を変えればいい。
だけど、それをしたら、後悔するじぶんの姿が浮かぶのだ。
その選択をしないのか、できないのか。それすら分からなくなる夜がある。
じぶんでもわがままだなぁと思う。だから、だれにも言えなかった。
雨宮さんは、静かに私の話を聞いてくれていた。
これまでひとりぼっちで抱えていた感情が、深夜という隙間にゆっくりと溶け出していくようだった。
***
公園を出て、川沿いの遊歩道に出た。
ひとけのない夜道。ときおりすれ違う自転車がベルを鳴らして闇のなかに消えていく。
歩きながら、雨宮さんがふと立ち止まる。
自動販売機の前だった。
「ねぇ、桐島さん。自販機の前って、ちょっとだけロマン感じません?」
「ロマン?」
「自販機で飲み物買ってるひと見ると、ついなに買うのかなって見ちゃうんですよ。どの飲み物を選ぶかで、そのひとのことが分かる気がして」
「えーたとえば?」
ちょっと笑いながら、私は、深夜に場違いなまでに存在を主張する自動販売機を見上げる。
「コーヒーを買うひとは頑張り屋、ココアを選ぶひとは甘えたがりで、炭酸を選ぶ男は遊び人!」
「偏見がすぎません?」
ふたり、顔を見合わせ合って笑う。
「じゃあ……さっき私が選んだビールは?」
「うーん……“ちゃんとしてなきゃいられないひと”?」
「ちゃんと?」
「たぶん桐島さん、ふだんは家族の前でも気を抜けないタイプでしょ?」
思わず、笑ってしまった。
「当たってるかも。……でも雨宮さんも私と似たようなタイプでしょ?」
「えっ」
「お酒飲めるかーって聞いてきた時点で、相手のことを先に考えるクセがついたひとだなって思った」
雨宮さんはちょっと驚いたような顔をしてから、ははっと笑った。
「バレてましたか。じつは僕、こう見えてやさしいんですよ〜」
夜の静けさに、ふたりぶんの笑い声が溶けていった。
***
空気が、少し変わった。
静かで、澄んでいて、それでいて少し切ない。
スマホを見ると、午前0時57分。
あと3分で、午前1時。
私がゆっくり立ち上がると、雨宮さんも同じように立ち上がった。
「……そろそろ、帰りますね」
「送りますよ。タクシー拾いましょう」
「ううん、大丈夫。ちょっと歩きたい気分だから」
駅へ戻る道の途中、雨宮さんがふと立ち止まった。
「桐島さん」
「はい」
「……もし、また終電を逃したらって話なんですけど」
「はい」
「絶望したときのための、約束、しません?」
その言葉は、胸の隙間にすっと入り込んできた。
これはきっと、実際会うための約束ではない。
今日の続きをするためのものでもない。
だけどそれは確実に、絶望した私を……いや、私たち甘やかしてくれる言葉だった。
私はうなずいた。
「……じゃあ、そのときはまたミステリーツアーのガイドをお願いします」
「まかせてください」
そう言って、私たちは別れた。
***
――1ヶ月後。
時計の針は、23時42分。
私は、駅のホームには向かわなかった。
会社からの帰り道。ゆっくり歩いて、コンビニで1本だけ、缶ビールを買う。
深夜の街は相変わらず静かで、相変わらず寂しい匂いがする。
午前0時42分、あの公園のベンチ。
だれもいない。
私はベンチに座って、缶ビールを開ける。
夜風が、そっと髪を揺らす。
缶ビールの冷たさが、じんわりと手に伝わる。
――耳の奥で、また、あの声が聞こえた気がした。
『……うわぁーっ、間に合わなかった!!』
静かな公園に、優しい午前1時が近づいていた。



