彼の住んでいるアパートは、特に古くも新しくもなく、安そうでも高そうでもなかった。普通の大学生の家。入って、と言われて、小さくお邪魔します、と言いながら靴を脱ぐ。
オレンジの暖かな光が生活感溢れる部屋を照らし出す。
「綺麗じゃなくてごめん、片付けんの、あんま得意じゃなくて」
「あはは、全然大丈夫。片付けって後回しになっちゃうよね」
困ったように笑って目を逸らす慶くんの髪が、動きとともにさらりと流れる。
シャワーを借りて、慶くんがシャワーを浴びるのを待って、乾杯してお酒を開けた。慶くんのシャワーの水音には流石に意識してしまってドキドキしたが、それでもやっぱり、部屋の匂いが緊張以上の安心感を呼び起こす。きっと相性がいいんだ、なんて馬鹿げたことを考えて、いや、期待だけはやめようと被りを振った。
お酒はそんなに強くない。でも、ゆっくり飲めばいきなり酔うこともない。変なことを言わないように、今日は酔わなように気をつけないと。
そんなことを考える私とは対照に、彼はグイグイと飲み進めていく。あっという間に一缶目を飲み干して、次の缶を開け始めた。なんとなく、お酒の力を借りようとしているのかな? なんて考える。何に対して——?
「……味わかんなくなってきた」
生ハムとチーズをおつまみにしているが、どちらも結構味が濃い。それがわからなくなるなんて、早速かなり酔っているのだろう。
「ゆっくり飲みなよ」
笑いながら応じる。ああ、この時間がずっと続かないかな。このチルい感じがどうしようもなく心地いい。
「俺さ、不安なんだ」
ふと、慶くんが切り出す。その瞳は、お酒のせいか潤んで揺れていた。少しだけ、動揺してしまう。
「……俺、これまで彼女とかいたことないし、好きな人とかもいなかったから、恋愛がよくわかんないんだよね。美月は素敵な女性だと思うし、この人と付き合ったら幸せだろうなって思うこともあるんだけど、同時に俺、ちゃんと恋人として接することなんてできんのかなって——。美月のこと、傷つけずに大切にできんのかな、不安にさせたりしないで、やっていけるかなって考えるんだ」
レモンサワーを一口飲んで、缶を置いた。酔って感覚が鈍っているのだろうか、静かに置いたつもりなのだろうが、カンッと大きな音が鳴った。
「俺、結構友達大事にしてて、遊びとか結構行くし、恋愛と両立できる気がしないっていうか。工学部は試験も結構忙しいし、今の時点でも遊びと勉強の両立、本当にギリギリなのに、そこに恋愛が入ってきたら、キャパオーバーになりそうで。それで、美月のこと不安にさせても嫌だし、関係が変わるのが、変えるのが、怖い……」
「うん」
「でも、こうやって美月のこと待たせてるのは、それはそれで不安にさせてるって言われれば間違いないんだよな。誠実じゃないって思う。って、こんなこと美月に言っても仕方ねえんだけど——ほんと、情けねえわ」
自嘲の笑みを添えて、慶くんはそんなことを言った。赤く潤んだ瞳から透明な粒がこぼれ出したのが見えた——ような気がした。彼は隠すようにすぐにそっぽを向いてしまったから、わからないけれど。
「……慶くん、泣いてる?」
「……酒のせいだよ」
しばらくの沈黙。いつもは気まずくないはずのその時間が、なんだかとてつもなく長く感じられた。私はどうしたらいいのかわからず、誤魔化すように梅サワーの缶を持ち上げて、残りを確かめるようにくるくると回す。
「寝落ちしそうだわ」
「眠い?」
「うん」
かなり酔っていたのだろう、慶くんは絨毯に寝転ぶと、すぐに寝息を立て始めた。その目尻がうっすら光っている。
一度フラれているとはいえ、いい感じの関係の男の家に上がって、何も起きないまま相手が寝てしまったという事実は、客観的に見れば覚悟がもったいないような気がする悲しい出来事だが、そんなことは一切考えなかった。いや、考えられなかった。
私がこの間、自己中に想いを伝えてしまったから。そのせいで、大好きな人を困らせてしまっている。あの時、私が何も言わずに気持ちを抑えていたら? そのままの関係でいることを選んでいたら?
慶くんの寝顔を見て、愛おしさが溢れてくる。幸せで幸せで、でも同時に苦しくて苦しくて。こんなに辛い思いをするんだったら、恋なんてしなければよかったんじゃないかって思うくらい。でも、同じくらいこの人を好きになってよかったとも思う。
そんなことを考えてもどうせ、私はどんな形であれ、この人と出会ってこの人のことを好きになって、この人に自分勝手にも告白してしまうんだ。
起こさないようにゆっくりと毛布をかけて、隣に横たわる。ごめん、と呟いてから、また起こさないように気をつけながら手を取った。
ずっと夜のままでいてくれないかな。このまま夜が明けないで、慶くんも起きないで、私だけ起きたままで。この世界に私一人だけが、慶くんを眺めていられる今が一番幸せなのかもしれない。
起きてしまったら、また関係は少しずつ変わっていってしまうのだろう。慶くんがいくら変わらないでと願っても、私がいくら付き合いたいと願っても。その両方から遠ざかるように、両方を嘲笑うかのように、二人をつなぐ糸は薄れていって、消えてしまうのだろう。
だったら、朝なんて来なくていい。ずっとこのままでいさせて。
何度もぬくもりを確かめるように彼の手を握り直す。やっと酔いが回ってきて、少しずつ眠気がやってくるけれど、寝たくない。眠ってしまえば、矢のように時間は過ぎ去っていくから。この幸せを噛み締めることすらできなくなってしまうのだから。
夢と間違えるような、静寂だけが横たわるオレンジの部屋。夢ならば、覚めないで。いや、夢でもいいから、覚めないで。
午前5時14分。
朝を待つ光の中、1秒でも多く、刹那でも長く、ただ慶くんの隣にいようとする。これ以上を望んだら、叶わないのだ、きっと。だから、これでいい。
この一瞬だけは、慶くんと私だけのものだから——。
静かに辺りを片付けて、荷物をまとめた。ぐっすり眠っている大好きな人の頬に優しいキスを落として、小さくありがとうと呟いて、私は古くも新しくもない慶くんのアパートを後にした。
幸せだったな、と余韻に浸りながら、始発の電車で家に帰る。ほとんど人の乗っていない電車から見える朝日に、人知れず涙が流れた。
やっぱり、東京は孤独だ。
Fin.
オレンジの暖かな光が生活感溢れる部屋を照らし出す。
「綺麗じゃなくてごめん、片付けんの、あんま得意じゃなくて」
「あはは、全然大丈夫。片付けって後回しになっちゃうよね」
困ったように笑って目を逸らす慶くんの髪が、動きとともにさらりと流れる。
シャワーを借りて、慶くんがシャワーを浴びるのを待って、乾杯してお酒を開けた。慶くんのシャワーの水音には流石に意識してしまってドキドキしたが、それでもやっぱり、部屋の匂いが緊張以上の安心感を呼び起こす。きっと相性がいいんだ、なんて馬鹿げたことを考えて、いや、期待だけはやめようと被りを振った。
お酒はそんなに強くない。でも、ゆっくり飲めばいきなり酔うこともない。変なことを言わないように、今日は酔わなように気をつけないと。
そんなことを考える私とは対照に、彼はグイグイと飲み進めていく。あっという間に一缶目を飲み干して、次の缶を開け始めた。なんとなく、お酒の力を借りようとしているのかな? なんて考える。何に対して——?
「……味わかんなくなってきた」
生ハムとチーズをおつまみにしているが、どちらも結構味が濃い。それがわからなくなるなんて、早速かなり酔っているのだろう。
「ゆっくり飲みなよ」
笑いながら応じる。ああ、この時間がずっと続かないかな。このチルい感じがどうしようもなく心地いい。
「俺さ、不安なんだ」
ふと、慶くんが切り出す。その瞳は、お酒のせいか潤んで揺れていた。少しだけ、動揺してしまう。
「……俺、これまで彼女とかいたことないし、好きな人とかもいなかったから、恋愛がよくわかんないんだよね。美月は素敵な女性だと思うし、この人と付き合ったら幸せだろうなって思うこともあるんだけど、同時に俺、ちゃんと恋人として接することなんてできんのかなって——。美月のこと、傷つけずに大切にできんのかな、不安にさせたりしないで、やっていけるかなって考えるんだ」
レモンサワーを一口飲んで、缶を置いた。酔って感覚が鈍っているのだろうか、静かに置いたつもりなのだろうが、カンッと大きな音が鳴った。
「俺、結構友達大事にしてて、遊びとか結構行くし、恋愛と両立できる気がしないっていうか。工学部は試験も結構忙しいし、今の時点でも遊びと勉強の両立、本当にギリギリなのに、そこに恋愛が入ってきたら、キャパオーバーになりそうで。それで、美月のこと不安にさせても嫌だし、関係が変わるのが、変えるのが、怖い……」
「うん」
「でも、こうやって美月のこと待たせてるのは、それはそれで不安にさせてるって言われれば間違いないんだよな。誠実じゃないって思う。って、こんなこと美月に言っても仕方ねえんだけど——ほんと、情けねえわ」
自嘲の笑みを添えて、慶くんはそんなことを言った。赤く潤んだ瞳から透明な粒がこぼれ出したのが見えた——ような気がした。彼は隠すようにすぐにそっぽを向いてしまったから、わからないけれど。
「……慶くん、泣いてる?」
「……酒のせいだよ」
しばらくの沈黙。いつもは気まずくないはずのその時間が、なんだかとてつもなく長く感じられた。私はどうしたらいいのかわからず、誤魔化すように梅サワーの缶を持ち上げて、残りを確かめるようにくるくると回す。
「寝落ちしそうだわ」
「眠い?」
「うん」
かなり酔っていたのだろう、慶くんは絨毯に寝転ぶと、すぐに寝息を立て始めた。その目尻がうっすら光っている。
一度フラれているとはいえ、いい感じの関係の男の家に上がって、何も起きないまま相手が寝てしまったという事実は、客観的に見れば覚悟がもったいないような気がする悲しい出来事だが、そんなことは一切考えなかった。いや、考えられなかった。
私がこの間、自己中に想いを伝えてしまったから。そのせいで、大好きな人を困らせてしまっている。あの時、私が何も言わずに気持ちを抑えていたら? そのままの関係でいることを選んでいたら?
慶くんの寝顔を見て、愛おしさが溢れてくる。幸せで幸せで、でも同時に苦しくて苦しくて。こんなに辛い思いをするんだったら、恋なんてしなければよかったんじゃないかって思うくらい。でも、同じくらいこの人を好きになってよかったとも思う。
そんなことを考えてもどうせ、私はどんな形であれ、この人と出会ってこの人のことを好きになって、この人に自分勝手にも告白してしまうんだ。
起こさないようにゆっくりと毛布をかけて、隣に横たわる。ごめん、と呟いてから、また起こさないように気をつけながら手を取った。
ずっと夜のままでいてくれないかな。このまま夜が明けないで、慶くんも起きないで、私だけ起きたままで。この世界に私一人だけが、慶くんを眺めていられる今が一番幸せなのかもしれない。
起きてしまったら、また関係は少しずつ変わっていってしまうのだろう。慶くんがいくら変わらないでと願っても、私がいくら付き合いたいと願っても。その両方から遠ざかるように、両方を嘲笑うかのように、二人をつなぐ糸は薄れていって、消えてしまうのだろう。
だったら、朝なんて来なくていい。ずっとこのままでいさせて。
何度もぬくもりを確かめるように彼の手を握り直す。やっと酔いが回ってきて、少しずつ眠気がやってくるけれど、寝たくない。眠ってしまえば、矢のように時間は過ぎ去っていくから。この幸せを噛み締めることすらできなくなってしまうのだから。
夢と間違えるような、静寂だけが横たわるオレンジの部屋。夢ならば、覚めないで。いや、夢でもいいから、覚めないで。
午前5時14分。
朝を待つ光の中、1秒でも多く、刹那でも長く、ただ慶くんの隣にいようとする。これ以上を望んだら、叶わないのだ、きっと。だから、これでいい。
この一瞬だけは、慶くんと私だけのものだから——。
静かに辺りを片付けて、荷物をまとめた。ぐっすり眠っている大好きな人の頬に優しいキスを落として、小さくありがとうと呟いて、私は古くも新しくもない慶くんのアパートを後にした。
幸せだったな、と余韻に浸りながら、始発の電車で家に帰る。ほとんど人の乗っていない電車から見える朝日に、人知れず涙が流れた。
やっぱり、東京は孤独だ。
Fin.



