「——ごめん。美月(みつき)のことは素敵だと思ってるんだけど、いざ恋人同士になったら、どう接していいかわかんなくなりそうで……うまく言えないんだけど。だから、もうちょっと、俺の覚悟ができるまで、もうちょっとこのままで居させてほしい」
「……そっか」

 1ヶ月前のことだった。どうしても好きで、何も手につかないくらい感情が溢れてきて仕方ないから、私は彼——香坂慶(こうさかけい)くんに想いを告げたのだった。しかし、結果はこの通り。関係が進展することはなかった。
 慶くんの私への態度は、告白する前と全く変わらないし、変えないようにしているんだろう。彼から遊びに誘ってくることもあれば、私の誘いを面倒がる様子もなかった。いや、私がそう信じたいだけかもしれないけれど。
 大学生の恋愛なのだ。言い寄ってきている女がいるのだから、セフレにしようと考えてもおかしくはないだろう。でも、慶くんはそれもしなかった。だから、本当に「関係を変えたくない」のだと思う。その誠実さが、むしろ私の恋心を加速させる。

 今日のデートは私から誘った。日曜日でお互いバイトは休み。月曜日はどちらも授業が昼からだから、帰りが遅くなっても大丈夫だ。
 映画を観て、本屋を回って、おしゃれなレストランでディナーを食べて……。大好きな人と過ごす時間は、風のごとく走り去っていく。東京の街は騒がしくて、それは夜になっても変わらない。眠らない街とは言い得て妙だ。
 そのあとは、二人とも歌うのが好きだから、当然のようにカラオケに入った。

「へえ、今はこれがランキングに入ってんだ」
「それ! 流行ってるよねえ」

 他愛のない会話でも、彼と一緒にいることを意識するだけで、胸が躍る。
 最近は、バイト先でこき使われたり、大学の試験期間が近かったり、サークルの人間関係がちょっとごたついていたりと、肉体的にも精神的にも忙しい日々だった。そんな現実の()()()()()()を忘れさせてくれる時間。
 交代でマイクを回しているうちに、時間は飛ぶように過ぎていく。止まってくれと願っても、時計の針は言うことを聞いてくれないのが常だ。

「美月、これデュエットしようよ」
「お、いいね! やろやろ!」

 慶くんの低いざらざらした声が私の名前を呼ぶのが、心地いい。
 これまで、誰かを好きになったことはそれなりにあったけれど、名前を呼ばれたらドキドキして、顔に熱が集まるのがわかる、そんなピュアな恋だった。でも、慶くんに向けたこの感情は違う。安心するのだ。とにかく一緒にいて心地がいい。胸が高鳴るよりむしろ、落ち着く。それでいて、恋しくて苦しい。こんな気持ちは本当に初めてで、でもだからこそ、この関係を手放したくないと思ってしまう。
 
 終電の時間が近づく。私が家に帰るためには、23時47分発の電車に乗らなくてはならない。今は23時30分。帰るのなら、そろそろカラオケを出ないといけない。
 でも、私は何も言わなかった。
 彼の目線がチラリと時計を見遣ったのが見えた。きっと慶くんも終電が近づいていることをわかっているのだろう。それなのに、お互い何も言い出さない。もっとも、彼の家はこの栄えた街の中心地から歩いて15分程度のところにあるから、心配する必要はないのだけれど。
 私は彼が何も聞いてこないことを言い訳に、気づかないフリをした。
 ——抱いてもらおうなんて思わない。抱かれても何も言わない。ただ、ただ、明日になれば日常に戻ってしまうのが、なんとなく怖くて、この時間を終わらせたくなかった。この一瞬を大切にしないと、大事にしないと、いつの間にかこぼれ落ちてしまいそうなほど、二人の時間は私にとって儚くて尊いから。
 そうやって、慶くんがマイクを置くのを見届けてから、私は次の曲を入れた。

「あっ!」

 歌い終わりに、スマホを見てわざとらしく声を上げる。

「どうした?」
「……終電、逃しちゃったかも」

 慌てて電車の時間を調べる、フリをする。調べなくたってわかっている。今は23時43分。どう足掻いたって無理だ。

「マジか、大丈夫? どうする?」

 慶くんは少し驚いたような声で聞いてくる。その表情は驚きを見せながらも、察しているように、見透かしているように見えた。言い出さなかった私はずるかったけど、彼も大概だ。

「……俺ん()、来る?」

 一瞬のためらいののち、遠慮がちに繰り出された言葉は、やっぱり安心で心を満たしてくれる。

「そう、しようかな」

 もう少し歌っていこうということになり、それから数曲歌って、私たちはカラオケを後にした。
 繁華街から離れて、住宅街に入るうちに、駅の喧騒がどんどん離れていって、夜の静けさが身に染みる。ぽつりぽつりと置かれている街灯が私たちの影を雑に道路に落とす。今日だけは、いつもの忙しなさも、うまくいかなくて奥歯を噛み締めるような重たい感情も、その影に全部置いていける気がした。

「コンビニ、寄ろっか」
「いいね。深夜のコンビニって静かで好きなんだよね」
「わかる」
 
 コンビニでお菓子を選ぶ。どちらともなく、お酒が並んだ冷蔵庫の前に立ち止まった。

「飲む?」
「たまにはそれもいいかも」

 短い会話ばかりだけれど、それで十分なくらい、わかり合えている気がした。
 精算をして外に出ると、涼しいコンビニの空気が一気に湿気の塊に変わって肌に張り付く。夜空は深い紫色で、星かと思った光は飛行機のそれで。東京の夜を実感する。
 東京は孤独な街だ。上京してからというもの、誰に対しても一定の距離かを保ってしまって、騒いでも騒いでも、ふと気づいた時に感じる寂しさは少しずつ、でも確実に心を蝕んでいく。大学で新しい友達はできた。サークルのメンバーと朝まで飲み明かしたこともある。そうやって普通の大学生をやっているのに、やっぱり東京はどこまでも独りだ。
 ——でも、今は違う。隣には慶くんがいて、私の心は少しだけ満たされる。今日だけは、私を、東京を、肯定できそうだ。
 会話下手な私も慶くんも、たまに会話が見つからなくて黙ってしまうことがある。でも、その沈黙すらも、全く気まずくない。話題を探さなくていいことの、どれほど気楽なことか。気の置けない間柄。この歳になると、そんな関係を作り上げられる相手が現れる確率は本当に小さいことくらい嫌というほどわからされているものだ。