「……き。椿。どうしたの?」

 母の柔らかな声が聞こえる。
 椿はぼんやりとした意識の中で懐かしい光景を見た。

(これは夢だ。幼い頃の……)

 夢の中では椿の母と妹の白百合が微笑んでいた。

「椿は人を惹きつける才脳があるわ。きっと素敵な鬼になる」
「ふふふっ、お姉様すごいー」

 椿の頭を愛おしそうに撫でる母。無邪気に走り回る白百合。
 そんな幸せは、ある時突然崩れ去ってしまったのだ。



「椿、落ち着いてよく聞いて。お父様が遠くの地で亡くなったの。これからは私たちで天ヶ谷家を守っていかなければならないの」

 突然知らされた父の死。父の死から母は一変してしまった。
 母は椿を次期当主にするために厳しくなり、威厳のある鬼に育てるために心血を注いだ。まだ幼い白百合を放置し、椿だけに教育を施した。
 母の美しかった顔は般若のようになり、白百合の表情はどんどん消えていった。
 それでも椿は自分が立派な当主になれば、また元の家族に戻れると信じていた。

(今だけ。きっと今だけよ。ちゃんと私が当主になれば、優しいお母様と明るい白百合が戻ってくる。だから、頑張らなきゃ)

 けれどもその夢も、椿が十五になった時に潰えてしまった。
 ――人を喰らえなかったから。

「鬼が喰らえぬこと、決して他家に漏らしてはならぬ! お前は天ヶ谷の次期当主なのだから」
「恥さらしめ! 鬼をなんだと思っているの!? あぁ、お前さえ生まれてこなければ……」

 母の期待に応えたいという気持ちは段々と小さくなっていった。もう母と思えなくなっていったのだ。

(なぜ私は天ヶ谷に生まれてしまったのだろう)

 それでも妹の白百合だけは、椿をずっと応援してくれていた。
 そして度々、人を喰らう良さを伝えてくれてくれていた。

「ねぇお姉様。人を喰らうと、とーっても幸せな気分になれるのよ? 喰らう直前って、みーんな私に愛を囁いてくれるし、何でも言うことを聞いてくれるの!」
「お母様は私を無視するけれど、お姉様と喰らう人だけは、私を見てくれる……」
「大好きよ、お姉様」

 白百合の親切心は嬉しかったが、椿の心は張り裂けそうだった。

(私には出来ない。お母様も白百合も、ちゃんとした鬼なのに……私はきっと、間違って生まれてきたんだわ)

 自分は鬼のなり損ないなのだ。
 そう思うと、もう消えてしまいたかった。

 仲が良かった白百合の顔もまともに見られなくなった。
 きちんとした鬼である彼女を見ているのが辛かったのだ。

「お姉様……私のこと、嫌いなの?」
「違うの。ごめんなさい。私、ちょっと疲れていて……。ほら、明日も早朝からお母様に呼ばれているから、もう寝なくちゃ」

 そうやって白百合を避けるようになっていった。
 白百合が母を睨むようになったのは、その頃からだった。

「私、絶対、お姉様のことを助けてあげる! ……そうしたら、白百合のことを見てくれるわよね?」

 白百合の言葉が脳内に響く。

(白百合がお母様を殺したのは、私のせい……。嫌な夢だわ。まだ覚めないのかしら)

 起きようともがいてみても、覚める気配はなかった。

「お姉様、知ってる? 人って、鬼に喰われると極楽ってところへ行けるらしいわよ。羨ましいわよね、私に喰われる上に、幸せな所へ行けるなんて……」

 夢と現実の狭間で白百合の声が聞こえる。

(じゃあ、私は死んだらどこに行くのだろう)

 そんなことをぼんやりと考えた。