すっかり人としての暮らしになれた頃、椿は夢を見るようになった。
 椿に白百合が何かを語り掛けてくる夢だ。

『お姉様……どうして……』
「白百合? 聞こえないわ?」
『裏切ったの? ……って言ったのに』
「何? もっと大きい声で言って!」

 まるで竜巻の中にいるかのように大きな風音が聞こえている。
 どんなに声を張り上げても、白百合の返事は途切れ途切れだ。

「白百合ー!」

 喉が千切れるほど叫ぶと、風が止み、急にあたりが静寂に包まれた。
 そして――。

『お姉様、許さないから』

 恨みのこもった声が、なくなったはずの角を刺激する。
 あたりを見渡すと、突然右腕を掴まれた。

「……っ! ……またこの夢」

 目を覚ますと、全身がじっとりと汗で冷たくなっている。
 椿はそろりと起き上がると、台所へと向かった。


「ふぅ……」

 水を飲むとようやく汗が落ち着いてくる。
 掴まれた右腕には痣が残っており、椿はそれをゆっくりとさすった。

(あの夢、最近毎日だわ。白百合が呼んでいるのかしら?)

 白百合。
 椿には彼女の考えがよく分からなかった。
 母を殺すほど憎み、椿に歪んだ愛情を求めている――。でもそれが何故なのか、椿には理解が出来なかった。

(私に何を望んでいるの? 鬼の力も使えない私に……。角を折り、人間まがいの生活をさせて……)

 嫌な予感がじわりと滲む。
 急に空気が薄くなったような、首を絞められているかのような、じりじりとした息苦しさを覚えた。

「はあっ……はあっ……」

 立っていられなくなりその場に座り込むと、部屋の外から物音が聞こえた。

「椿? 眠れないのか?」

 現れた刹那を見たら、ほんの少しだけ呼吸が楽になる。

「刹那様……」
「怖い夢でも見たか?」

 刹那は椿の隣にしゃがみ込み、背中をゆっくりとさすった。
 刹那の手の温もりが背中から伝わるにつれて、だんだんと息が吸えるようになる。
 椿は大きく深呼吸をすると、ふらふらと立ち上がった。

「ありがとうございます。目が覚めてしまって」
「最近、よく夜中に起きているな。……何か不安なことでもあるのか?」
「気づいていたのですか?」

 椿が目を見開くと、刹那は真面目な顔で頷いた。

「心配事があるなら言ってくれ。俺は……婚約者だろう?」

 刹那の口から出た言葉に、椿の胸がじんわりと温かくなる。

(かりそめの婚者なのに、心配してくださるのね)

 椿は微笑むと、刹那の両手をそっと握った。

「刹那様がいてくださったから、心配事が消えました」
「……本当か?」
「はい」

 翡翠色の瞳を見ていると、力が湧いてくる。
 椿はしっかりと床を踏みしめた。

(大丈夫。白百合の思惑なんか関係ないわ。私はここで、刹那様のお役に立つって決めたのだから)