鬼――それは人を喰らう化け物。
 鬼は人々を惑わすために美しい容姿をしているらしい。
 
 夜、鈴のような声が聞こえたら振り返ってはいけない。
 それは鬼があなたを惑わそうとしているのだ。


◇◇◇


 山のふもとにある小さく古い寺。そこで僧侶が一人、仏前で倒れ込んでいた。
 齢八十になる彼はこの寺の住職だ。けれど、もう長くはない。己の最期を感じた彼は、穏やかな気持ちで目を閉じていた。

 カタン。

 小さな物音に住職が目を開けると、目の前に美しい白い着物を着た女性が座っていた。
 艶やかで長い黒髪と透き通るほど白い肌、紅をさしたような赤い唇の女性は、美しい容姿に不釣り合いなほど痩せこけている。
 僧侶は横たわったまま目を細めた。 

「お迎えですかな」

 すると女性は小さく首を横に振った。

「違います。ごめんなさい。私は……鬼なのです。貴方を喰らいに来ました」

 消えてしまいそうな小さな声は、まるで鈴が鳴っているように透明だった。
 僧侶は驚くこともなく、目を閉じた。

「そんな顔をする必要はありません。貴女が何者だろうと、お迎えには違いないのですから」
「ごめんなさい……」

 鬼だという女は、謝るばかりで僧侶を喰らおうともしない。
 僧侶は力を振り絞って座り直すと、女の頭を撫でた。

「お名前は何と言うのですか?」
「椿……」

「椿さん、知っていますか? 貴女方のご先祖様は、魂を極楽へと運んでいたとされているのです。きっと、今でもそれは変わりません。貴女がこの老いぼれを哀れに思うなら、極楽への道を祈ってください。さあ、お食べなさい」

 僧侶はそれだけ言うと、座ったまま、眠るように動かなくなってしまった。

 椿はしばらく僧侶を見つめていたが、小さく「いただきます」と呟くと彼の魂を取り出した。
 その魂は弱々しい白い光を放っていたが、椿がそっと口づけると泡のように消えてしまった。

(喰らってしまった。人の……)

 全身は震えるほど喜んでいるのに、それがますます椿を落ち込ませた。
 椿は静かに涙を流すと仏像へ手を合わせる。

「どうかご住職の魂が極楽へと導かれますように」