「学年末テスト前の最後の授業ということで、自習にします」

 何事もなかったかのように、翌日の授業にやってきた。教壇に立った三善先生は、いつもと変わらぬ穏やかな顔で生徒たちの質問に答えていた。

 学年末テストの出来次第では三年生の時に希望の進学コースに進めない場合がある。誰も彼もがテストに向けて真剣に自習をしている中、結菜はどこか集中できないでいた。
 肘をついて、ぼんやりと化学の問題集に目をやる。化学は特に苦手でも得意でもない。ただ、今後の進学希望先のことを考えたら、もう少し点が取れるようにはなっておきたい。シャーペンを握り直し、問題を解こうとしたところで、質問に回答し終えた三善先生がゆっくりと見回りに来ていた。

 ぱっと顔を上げると、視線を逸らされた。心なしか疲れているように見えるのは、昨日の今日だからだろうか。

「どうしましたか、日下部さん」

 困ったように眉を下げた三善先生が声をかけてきた。しかし、眼鏡の奥の瞳には、冷凍庫よりも冷たい光がそこにあった。

(何も訊くんじゃねぇ)

 おかしいな。教師というのは、生徒を気にして、声をかけるモノじゃないんだっけ。
 幻聴とも言える三善先生の声が聞こえた気がした。結菜は慌てて首を横に振った。
 先生と生徒。
 それ以上の関りを持たないようにしている三善先生の邪魔だけはできない。ましてや、大変強面なお仕事をされていることも絶対に知られたくはないらしいので、学校ではあまり関わらない方が得策だ。

 チャイムが鳴ってから、先生はいつもと変わらない様子を装って教室を出て行ってしまった。最後の方は少しだけ息が整っていないようにも見えただけに、どうしても心配という感情が湧いて出てきてしまう。
 追いかけようと教室を出ようとしたところで、隣のクラスから出てきた宮道先生とぶつかった。よろけたところを優しく宮道先生が腕を掴んで引き寄せてくれた。

「元気なんは良いけど、走ってたらあぶないでぇ」
「あ、はい」

 引き寄せてくれた拍子に、宮道先生が耳元でこそっと呟く。

「放課後化学準備室でな」

 柔らかい声に、思わずドキッとした。

 これは、あれだ。少女マンガに出て来る秘密の約束的なやつ。
 但し、大体が約束の場所に行くとめんどくさいことに巻き込まれる系のアレに違いない。
 気を引き締め直した結菜はただ頷いて、トイレに向かって方向転換した。
 危ない。他の子に勘違いされるところだったかもしれない。
 あまり周りを気にしない茉優でさえ、結菜が化学準備室に割と頻繁に出入りしていることを察知している。三善先生のファンに見つかろうものならば、体育館裏に呼び出されること間違いなしの案件に繋がりかねない。

 トイレの鏡で、自分の顔を見て見ると、何とも言えない無の表情になっていた。

 これで、間違いない。

 結菜はふっと軽く息を吐いてから、教室に戻った。