涼やかな声が聞こえた瞬間、触手が破裂した。鞄を奪った触手は何かを察したのか、地面の底に戻って行った。
膝をついて振り返ると、呆れた顔で三善先生が立っていた。その隣には宮道が目を丸くしている。
「なんや、妙な気配辿って来てみれば」
「……日下部さん、気を付けて帰ってくださいね」
「で、三善は何その善人面を被ってて」
「宮道先生、教師が生徒の前でそのような発言をされるのはいかがと思いますが」
やけに圧が強めな雰囲気を醸し出している三善先生に、宮道は首を傾げた。
「それより、彼女はなんなん? 妖に好かれるのって」
「……とりあえず、ここから場所を移しましょう。日下部さんも遅いので送りますよ」
有無を言わさぬ圧に、結菜は頷くしかなかった。
教員の駐車場は校舎の裏にある。三善先生が前を歩き、その後ろを歩いていると宮道が隣にやってきた。
「なぁなぁ、自分、名前は? さっき、三善が日下部いうてたけど」
「日下部結菜、と言います」
「結菜ちゃんか、よろしゅうな。オレのことは真守くんで」
「いや、先生をそのような呼び方をするのはちょっと」
「じゃあ、宮道先生で。結菜ちゃんは古文は好き?」
「宮道先生、生徒が困ってますよ。先生もお送りしますので、乗って行ってください」
白いセダンの前に立った三善先生の額には、うっすらと青筋が出ていた。あ、まずい。この人相当キレてる。どうか、無事に帰宅できますように。
助手席に宮道先生が乗り、後部座席に結菜が座ったのを確認すると、三善先生は黙ったまま車を動かした。
「三善、これからどうするん?」
宮道先生の問いに、三善先生が重々しいため息を吐いた。
「お前と俺は初対面の設定だって言われてんだろ。そう馴れ馴れしくすんじゃねぇ」
「嫌やわー、この人。オレとの出会いを忘れるなんて」
「そう言う話じゃない。設定を忘れて、仕事をしに来るんじゃねぇって言ってんだ」
舌打ちがひどい。バックミラー越しに三善先生の顔を見ると、見たことが無いくらいに眉間に皺を寄せて、顔を歪めていた。イケメン顔はどこに行ったのだろうか。
「み、三善先生、お知り合いなんですか」
「せやで。陰陽師寮でのルームメイトやったし、同じ部署やしな」
「偶然だ、偶然。それより、日下部どうして遅くなったんだ?」
「球技大会のチーム分けがあったんです」
「また面倒なイベントがあるのか。教師って、どう考えてもブラックすぎるだろ」
ぶつぶつと何か文句を言わずにはいられないくらいのストレスが溜まっているようだ。
「先生は、どうして先生になったんですか?」
「なんだ藪から棒に」
「進路希望調査表が配られて」
「なんでも良いだろ、別に」
あんまり聞かれたくなかったのだろうか。三善先生は教室で話した理由を繰り返さずに、口を閉じた。
「せや、君は術者にならへんの?」
「え?」
「妖が視えるんやろ? それに妖を呼び寄せるほどの呪力を持っている。その状態で術者にならん選択があるんか?」
宮道先生の言葉に、結菜は瞬きをはっきり繰り返した。
自分にそれほどの力があるとは思わなかった。
「見たところ、修行もしてへんみたいやし。オレが鍛えたろうか?」
「黙ってろ、宮道」
「三善、冷たいなぁ。お前もこの子のこと気にかけてんやろ?」
宮道先生の問いに三善先生は何も答えない。顔を見なくてもわかるほどの不機嫌な空気を醸し出しているのがわかる。
「てことで、そこの公園でおろしてや」
「お前だけ降りろ」
この空気の中にいるのが、辛すぎる。結菜は首をすくめて、窓の外を見た。
すっかり日も暮れ、星が瞬き始めている。電車で数駅と言えども、黄昏時の時間帯から外に出ることは技を持たない術者モドキにとっては危険極まりない。
三善先生もそれを知っていて、送ってくれているけれど、この空気の中にあまりいたくない。
「あ、先生、この辺りで良いです。家もすぐですし」
三善先生は黙って公園の脇に車を止めた。礼を言って降りようとしたところで、オレも、と宮道先生が扉を開けた。
「それじゃあ、オレが送ってくで。学校の先生が家の前に送っていくのはまずいもんなぁ」
「お前っ……!」
ばたんと扉を勢いよく閉めた宮道先生は結菜の肩を軽く抱いて、歩き始めた。
なに、この状況。目をぱちぱちとしながら、促されるままに結菜は歩かざるを得なかった。
「あ、あの、宮道先生?」
「大丈夫、大丈夫。えっと、家はどっち方向?」
こちらも、大概マイペースタイプでしたか。
とにかく家の前で別れれば、今の状態から解放される。ここは大人しく歩くしかない。
にゅりゅん。
また、あの気持ち悪い気配がした。辺りをキョロキョロ見渡しても、あの触手を持った妖が見当たらない。確か、さっきは足元から。
結菜が足元を見ようとした瞬間、左足に何かが巻き付いた。学校内で巻き付かれた時よりも力強い巻き付き方に、結菜は態勢を崩した。
「あー、めんどいなぁっ」
腕を掴んでくれた宮道先生の手には白い札があった。あれは。
「汝、滅せよ」
短い言葉を宮道先生が発した言葉に呼応するように、白い札が金色に光った。光輝いたその瞬間、じゅわっと音を立てて妖が消えた。
「す、すごい」
「まあな、こう見えても術者やし?」
「術者ってみんなこんな感じのことができるんですか?」
「人によってタイプは違うんやけど、大抵はできるんと違うかな?」
宮道先生の言葉を聞いて、結菜はぱっと顔を上げた。
「私にもできますかっ」
「食い気味やねぇ。なに、結菜ちゃんも術者目指しとるん?」
「目指すって言うか、気になっていて」
これまで言われた通りに術者について簡単に勉強したし、言われた通りの進学先に歩もうとしていた。
それを疑問に思ったことは無い。
術者としての三善先生に出会うまでは。
妖が視えることで、他の人と違うことに苦しんだ時期の方が多かったから、術者になるという選択肢はこれまで全く出てこなかった。
少し術者というモノに興味を出てきたのは、最近だ。
だから、聞きたい。自分にできるのか、どうかを。
「俺が見たところによると、結菜ちゃんは向いてると思うで」
「本当ですか?」
「術者の力というのは、才能とも呼ばれているんや。力が強いかどうかは、血によるとも言われてる。その力を結菜ちゃんは持っている。妖に追いかけられたり、捕まったりされやすいのがその証拠かな。あいつらは、力を持った術者が好物なんや」
宮道先生の悲しんでいるような、微笑んでいるような中途半端な表情を、結菜はじっと見た。彼の目の奥では悲しみが満たされてしまっている。そんな気がした。
「と、言うわけで、俺に稽古されてみぃひん?」
「え?」
「こう見えても術者協会所属の術者やし、三善よりは力もあると思うで?」
宮道先生の誘いに、結菜は戸惑いを隠せなかった。
「まぁ、考えといて。今日はお疲れさん。また、明日」
結局宮道先生に家の前まで送ってもらった。その間は術者に関しても妖に関しても話を出すことは無かった。
家に帰ってからは、いつも通りの生活だった。ご飯食べて、お風呂入って、宿題して、テスト勉強して。ベッドの上に横になって、天井を見れば、変わり映えない天井があった。
ベッドサイドボードに置いていた大学案内の本を手に取って、うつ伏せになった。一枚二枚とページを捲っていく。付箋を貼っていた大学のページに辿り着いた。
国公立大、関西。
これだけは家の都合上、外せない条件。
進学したい学部は自由に選ばせてくれるし、一人暮らしもさせてくれる。人によっては羨ましいかもしれない。
「術者か」
術者になるには京都での修行が本筋なのは理解している。でも、今更だ。今更、術者になれるんだろうか。
結菜はその疑問を抱えたまま、その日の夜は目を瞑った。
膝をついて振り返ると、呆れた顔で三善先生が立っていた。その隣には宮道が目を丸くしている。
「なんや、妙な気配辿って来てみれば」
「……日下部さん、気を付けて帰ってくださいね」
「で、三善は何その善人面を被ってて」
「宮道先生、教師が生徒の前でそのような発言をされるのはいかがと思いますが」
やけに圧が強めな雰囲気を醸し出している三善先生に、宮道は首を傾げた。
「それより、彼女はなんなん? 妖に好かれるのって」
「……とりあえず、ここから場所を移しましょう。日下部さんも遅いので送りますよ」
有無を言わさぬ圧に、結菜は頷くしかなかった。
教員の駐車場は校舎の裏にある。三善先生が前を歩き、その後ろを歩いていると宮道が隣にやってきた。
「なぁなぁ、自分、名前は? さっき、三善が日下部いうてたけど」
「日下部結菜、と言います」
「結菜ちゃんか、よろしゅうな。オレのことは真守くんで」
「いや、先生をそのような呼び方をするのはちょっと」
「じゃあ、宮道先生で。結菜ちゃんは古文は好き?」
「宮道先生、生徒が困ってますよ。先生もお送りしますので、乗って行ってください」
白いセダンの前に立った三善先生の額には、うっすらと青筋が出ていた。あ、まずい。この人相当キレてる。どうか、無事に帰宅できますように。
助手席に宮道先生が乗り、後部座席に結菜が座ったのを確認すると、三善先生は黙ったまま車を動かした。
「三善、これからどうするん?」
宮道先生の問いに、三善先生が重々しいため息を吐いた。
「お前と俺は初対面の設定だって言われてんだろ。そう馴れ馴れしくすんじゃねぇ」
「嫌やわー、この人。オレとの出会いを忘れるなんて」
「そう言う話じゃない。設定を忘れて、仕事をしに来るんじゃねぇって言ってんだ」
舌打ちがひどい。バックミラー越しに三善先生の顔を見ると、見たことが無いくらいに眉間に皺を寄せて、顔を歪めていた。イケメン顔はどこに行ったのだろうか。
「み、三善先生、お知り合いなんですか」
「せやで。陰陽師寮でのルームメイトやったし、同じ部署やしな」
「偶然だ、偶然。それより、日下部どうして遅くなったんだ?」
「球技大会のチーム分けがあったんです」
「また面倒なイベントがあるのか。教師って、どう考えてもブラックすぎるだろ」
ぶつぶつと何か文句を言わずにはいられないくらいのストレスが溜まっているようだ。
「先生は、どうして先生になったんですか?」
「なんだ藪から棒に」
「進路希望調査表が配られて」
「なんでも良いだろ、別に」
あんまり聞かれたくなかったのだろうか。三善先生は教室で話した理由を繰り返さずに、口を閉じた。
「せや、君は術者にならへんの?」
「え?」
「妖が視えるんやろ? それに妖を呼び寄せるほどの呪力を持っている。その状態で術者にならん選択があるんか?」
宮道先生の言葉に、結菜は瞬きをはっきり繰り返した。
自分にそれほどの力があるとは思わなかった。
「見たところ、修行もしてへんみたいやし。オレが鍛えたろうか?」
「黙ってろ、宮道」
「三善、冷たいなぁ。お前もこの子のこと気にかけてんやろ?」
宮道先生の問いに三善先生は何も答えない。顔を見なくてもわかるほどの不機嫌な空気を醸し出しているのがわかる。
「てことで、そこの公園でおろしてや」
「お前だけ降りろ」
この空気の中にいるのが、辛すぎる。結菜は首をすくめて、窓の外を見た。
すっかり日も暮れ、星が瞬き始めている。電車で数駅と言えども、黄昏時の時間帯から外に出ることは技を持たない術者モドキにとっては危険極まりない。
三善先生もそれを知っていて、送ってくれているけれど、この空気の中にあまりいたくない。
「あ、先生、この辺りで良いです。家もすぐですし」
三善先生は黙って公園の脇に車を止めた。礼を言って降りようとしたところで、オレも、と宮道先生が扉を開けた。
「それじゃあ、オレが送ってくで。学校の先生が家の前に送っていくのはまずいもんなぁ」
「お前っ……!」
ばたんと扉を勢いよく閉めた宮道先生は結菜の肩を軽く抱いて、歩き始めた。
なに、この状況。目をぱちぱちとしながら、促されるままに結菜は歩かざるを得なかった。
「あ、あの、宮道先生?」
「大丈夫、大丈夫。えっと、家はどっち方向?」
こちらも、大概マイペースタイプでしたか。
とにかく家の前で別れれば、今の状態から解放される。ここは大人しく歩くしかない。
にゅりゅん。
また、あの気持ち悪い気配がした。辺りをキョロキョロ見渡しても、あの触手を持った妖が見当たらない。確か、さっきは足元から。
結菜が足元を見ようとした瞬間、左足に何かが巻き付いた。学校内で巻き付かれた時よりも力強い巻き付き方に、結菜は態勢を崩した。
「あー、めんどいなぁっ」
腕を掴んでくれた宮道先生の手には白い札があった。あれは。
「汝、滅せよ」
短い言葉を宮道先生が発した言葉に呼応するように、白い札が金色に光った。光輝いたその瞬間、じゅわっと音を立てて妖が消えた。
「す、すごい」
「まあな、こう見えても術者やし?」
「術者ってみんなこんな感じのことができるんですか?」
「人によってタイプは違うんやけど、大抵はできるんと違うかな?」
宮道先生の言葉を聞いて、結菜はぱっと顔を上げた。
「私にもできますかっ」
「食い気味やねぇ。なに、結菜ちゃんも術者目指しとるん?」
「目指すって言うか、気になっていて」
これまで言われた通りに術者について簡単に勉強したし、言われた通りの進学先に歩もうとしていた。
それを疑問に思ったことは無い。
術者としての三善先生に出会うまでは。
妖が視えることで、他の人と違うことに苦しんだ時期の方が多かったから、術者になるという選択肢はこれまで全く出てこなかった。
少し術者というモノに興味を出てきたのは、最近だ。
だから、聞きたい。自分にできるのか、どうかを。
「俺が見たところによると、結菜ちゃんは向いてると思うで」
「本当ですか?」
「術者の力というのは、才能とも呼ばれているんや。力が強いかどうかは、血によるとも言われてる。その力を結菜ちゃんは持っている。妖に追いかけられたり、捕まったりされやすいのがその証拠かな。あいつらは、力を持った術者が好物なんや」
宮道先生の悲しんでいるような、微笑んでいるような中途半端な表情を、結菜はじっと見た。彼の目の奥では悲しみが満たされてしまっている。そんな気がした。
「と、言うわけで、俺に稽古されてみぃひん?」
「え?」
「こう見えても術者協会所属の術者やし、三善よりは力もあると思うで?」
宮道先生の誘いに、結菜は戸惑いを隠せなかった。
「まぁ、考えといて。今日はお疲れさん。また、明日」
結局宮道先生に家の前まで送ってもらった。その間は術者に関しても妖に関しても話を出すことは無かった。
家に帰ってからは、いつも通りの生活だった。ご飯食べて、お風呂入って、宿題して、テスト勉強して。ベッドの上に横になって、天井を見れば、変わり映えない天井があった。
ベッドサイドボードに置いていた大学案内の本を手に取って、うつ伏せになった。一枚二枚とページを捲っていく。付箋を貼っていた大学のページに辿り着いた。
国公立大、関西。
これだけは家の都合上、外せない条件。
進学したい学部は自由に選ばせてくれるし、一人暮らしもさせてくれる。人によっては羨ましいかもしれない。
「術者か」
術者になるには京都での修行が本筋なのは理解している。でも、今更だ。今更、術者になれるんだろうか。
結菜はその疑問を抱えたまま、その日の夜は目を瞑った。



