「失せろ」

 低音ボイスで言い放った三善先生の眉間の皺がいつもよりも深くなった。結菜は慌てて三善先生と入ってきた人の間に入って、その顔を隠す。

「先生、素が、素が出てますって」
「へぇ、お前が素を見せるなんてなぁ。珍しいこともあるもんやなぁ」

 糸目が少し開いた相手は結菜をじろっと見た。くせっ毛を軽く揺らして首を傾げた相手は、にんまりと口角をあげた。

「どーもー。宮道真守いいます。ここの古文の先生になります」
「え?」
「あれ、三善。まだ発表されてへんかった?」
「明日公式発表予定だ」
「えー、そうなんや。てっきりもう発表されてるのかと思って、来てしもたわ」
「バカの極みだな」
「三善、冷たいこと言わんといて。……で、そちらさんは?」

 な、なんて答えたら良いか、考えていると、三善先生が宮道の視線から隠すように結菜の前に立った。

「化学を担当しているクラスの生徒だ」
「それだけ?」
「それ以外に何がある」

 なにやら面白いものを見つけたような表情で、宮道は三善先生の肩越しに見てきた。何というか、得体の知れなさを隠しているその目に結菜は少し怖さを感じた。

「ほら、プリント持っていけ」
「は、はい」

 二人に頭を下げてから、結菜は指示されたプリントを抱えて、化学室を出た。
学校でずっと素を出したままの三善先生は珍しかった。学校にいる間はステルス状態だから、口が悪く粗野な印象は全くない。どこにでもいる普通の先生だ。

 それからの午後の授業は平和だった。各教科の担当先生は学年末に向けての範囲について説明が入るようになってきた。学年末テストまであと一週間と少し。そろそろテストを意識していかないといけない。

「今日のホームルームは、学年末テスト後にある恒例の球技大会メンバーを決めまーす」

 クラス委員長が黒板の前に立つと、クラスの誰もがだらけた雰囲気から背筋を伸ばした。

「この年に一回ある伝統の仁義なき戦いを制するよっ」

 委員長の掛け声に合わせて、男子にも劣らぬ声量でクラス全体が呼応した。ビリビリと窓が揺れたのは、恐らく気のせいではない。
 三年生は受験を控えていることもあり、球技大会に参加するのは有志のみ。実質一年生と二先生の戦いになる。女子高でありながらも、こういったイベントは男子さながら熱くなることが多い。

「ええと、今年はバスケ、ドッチボール、バレーか。チーム競技ばっかりだね。じゃあ、各々得意なモノで組もう。苦手なモノしかない場合は、人数調整で入ってもらうイメージで」

 冷静に委員長が取り仕切る中、配られたプリントに結菜は目を落とした。バスケ七人、ドッチボール十五人、バレー八人。三十五人で一クラスでチーム編成をするならば、この人数分けになるのかとぼんやり見た。

「結菜はどれにする?」
「え? ええと、バレーかな」

 中学の時に部活で入っていた。身長は大して高くないけど、なんとなくチームの雰囲気が良くて楽しかったのを覚えている。

「じゃあ同じのにしようかな」
「茉優はバスケ経験者じゃん」
「去年はバスケだったし、今年は違う競技をしたいんだよね」
「そういうもん?」
「そういうもん。それに現役離れて久しいから、今入ったら、邪魔になるだけだよ」

 眉を下げて笑った彼女は少し清々しそうに言った。

 やったことがあるから、それをやるということを茉優はあまり選ばない。自分の興味のあるものに素直なタイプだ。
 一方の自分はと、結菜は振り返った。
 やったことがあるものがあるなら、その方が楽。新しい経験を積むのは苦労が多いし、上手くいかないことだってきっと多い。
 
 三善先生と出会ってから、何故だか選べないことが一つだけある。
 
 陰陽師見習いの修業を終えれば、普通の社会人としてきっと会社員になるんだろう。
 家のことは兄が後を継ぐことになっているから、家のことは考えなくて良い。
 普通の女性として過ごして、たまに家の手伝いをする。多分そんな周りと当たり障りない将来しか考えていない。
 悪いことじゃないのはわかっている。
 
 でも、三善先生と出会ってから、結菜の中に疑問が生まれてきてしまった。
 
 このままで良いんだろうか、と。
 
 ぼんやり考えていると、あっという間にチーム分けが終わった。結菜と茉優は希望通りバレーに振り分けられた。
 ホームルームが終われば、早速チームごとに顔合わせと、練習日程を話し合う。バレーは体育館部活の練習が終わってからになる。予備校の授業開始には間に合いそうだけど、授業で寝ないように気をつけないと。
 
 下駄箱を出ると、日がゆっくりと傾き始めていた。あんまりこの時間で帰りたくないんだよね、本当は。

 妖というのは、夕方――黄昏時に活発になり始める。
 
 陰陽師の末裔の一族に生まれた場合、この時間をよく注意するように言われて育つ。特に現代の陰陽師――術者になるほどの実力者ならば、幼少期より修行に入る。だが、そこまでの実力がない場合は、多少の守る術を勉強するだけだ。
 
 少しだけ肩を落としながら、結菜は足早に駅に向かって歩きだす。
 
 にゅるん。
 
 妙な気配を感じて、振り返ったが特に変なものはない。気のせいだろうか。じっと後ろを見ても何も見つからない。
 今は急いで帰るしかない。結菜がもう一度歩き始めようとしたところで、左足に何かが絡みついた。慌てて足を引っ込めようとも、動かない。

 すぐに足を見ると、そこには暗い灰色のような緑色のような粘着質のある何かがいた。

 何で、ここに。

 自分の心臓がギュッと縮まったのを結菜は感じ取った。
 慌てて鞄をあさろうとしたが、別方向から出てきた触手に鞄を奪われた。

 まずい、まずい、まずい。
 
 このままでは、妖に食べられる。

 どうしたら、どうしたら。

 焦りは余裕をなくし、思考を鈍らせる。視界を狭め、選択肢を減らされていく。
 触手は徐々に徐々に腰に近づいていく。

 もう、だめっ。

「滅」