「先生?」
「遅くなったな」

 耳元で囁くその声に、何故だか涙が出てきた。嗚咽が喉からあふれ出て来る。

「泣くなよ、バーカ」

 聞いたことが無いほどの優しい声に、三善先生が無事に帰ってきてくれたことが分かった。

「あ、女の子泣かせてるし。女泣かせやなぁ、三善は」
「うるせぇ。もとはと言えば、お前が手間取るのが悪いんだろうが」

 悪態をつく話し方も、茶化した声も、どれもが結菜を絶望の淵から手を伸ばしてくれるように感じた。

「あれあれあれ? 君たち、どうして生きてるのかな?」
「最近のこそこそしたあれこれはてめぇだったのか、烏天狗」
「嫌だなぁ、ボクがいつ死んだって聞いてたの? 知っているでしょ、ボクが死なないってことくらいは」
「やっぱり、てめぇの脳天突き刺しとくべきだったか」
「その時、ボクは君の心臓を握りつぶしていたかもね」

 視界を遮られているせいか、ヤが付くお仕事の人の抗争にしか聞こえない。

「怖い話は、それまでにしよーや」

 はい、ダメです。関西系のソレが混じってきてます。
 違う方向の恐怖が湧き出てきた。この場は黙るしかない。ギュッと視界を塞いでいる手を握ると、何故か頭を撫でられた。

「その子、ボクにくれない?」
「誰がやるか、妖なんかに」
「そんな親の仇を見るような目で見ないでよ。まぁ、君の場合、あながち間違いではないか」

 鼻で笑うような言い方に、結菜の視界を遮る手に少しだけ力が入ったように感じた。恐る恐る指の間から見ると、声も出せないほどの極上の笑みを浮かべた御仁がいた。付けていた狐の面でパタパタと顔を仰ぐほどの余裕もお持ちでいらっしゃるらしい。
 そっと手を外して、三善先生の顔を見ると、こちらも見たことが無いほどの無表情さにぞっとした。

「やっぱり、君、かわいいね」

 すっと鼻筋が通り、ぱっちりとした二重、少しぽってりしている唇。大変顔立ちが整っていらっしゃる上に、ホワイトブロンドのような髪をひとくくりにしているのも、大変色っぽい。

 この人、本当に妖なの?

 結菜の疑問を見抜いたのか、目の前の着物男はゆっくりと口角をあげた。

「初めまして、お嬢さん。ボクは烏天狗の夜叉丸と申します。烏天狗って言っても、空を飛ぶのも好きですけど、休日はこうやってこっちに散歩に来て、お嬢さんみたいな方たちとお話をするのも好きです。初対面ですけど、御嬢さんのことを色々知りたいので、教えてもらえると嬉しいです。まずはお名前を教えてください」

 大変丁寧な自己紹介を妖にされた。こちらも自己紹介を返すべきだろうか。自己紹介を求められる場と言えば、クラス替えした時とが入学式の時くらいで、その時も面白いことを言うとかをしてこなかった。
 なんて返そうか悩んでいると、ぐっと頭を三善先生が結菜を再び引き寄せた。僅かに香ってきた煙草と汗の香りに、妙な安堵感を覚えた。

「君は相変わらず、独占欲が強いよね。そんなに怖い顔しなくても良いじゃないか」
「今なら、失せるか殺されるかのどっちかを選ばせてやる」

 なんでしょう。この二人の温度差。その間に挟まれるようにいる結菜は居心地が悪いことこの上ない。

「えー、じゃあ、殺し合い?」

 そんなに、明るく言うことじゃないですよ、絶対。
 小首を傾げて、軽く言いのけた相手――夜叉丸は腰にぶら下げていた日本刀から鞘を抜いた。夜叉丸の動作を見るなり、結菜の顔の真横で三善先生の手が術を使う前の形になった。

「結界」

 宮道先生が夜叉丸の周囲に結界を張った瞬間、夜叉丸はその結界を日本刀で横一線に切った。その勢いのまま、走り出してきた夜叉丸はすぐに結菜の目の前に現れた。刀の刃先を結菜の眼球に突き刺そうとしたが、それは三善先生によって寸前に回避された。
 なに、あのスピード。そして、あの人はどうして私を殺そうとしたの。先生が避けてくれなければ、殺されていた。
 後から襲ってくる恐怖に結菜は、三善先生にしがみつくしかなかった。

「避けんのは、相変わらず上手いねぇ。次はどうする?」

 下段に構え直した夜叉丸は、うっとりとした顔で訊いてきた。

「どうもこうもねぇよ。やることは決まっている、お前を殺す、それだけだ」

 結菜の肩に手を置き、三善先生が前に出てきた。ジャージの後ろ姿が見慣れないが、それ以上に怒気というものを放っている姿も見慣れなかった。

「宮道、頼んだぞ」
「わかってる」

 真剣な言葉のやり取りを交わしてから、三善先生は夜叉丸と距離を瞬時に詰めた。宮道先生はその瞬間に結菜の周りに結界を張った。振り返ると、宮道先生は手に何枚もの札を持って、臨戦態勢になっていた。その目は一瞬たりとも夜叉丸から離れていないように見えた。

「ここで大人しくまっとき? 参られよ、式神」

 白い札から作り出されたのは、犬の形になった白い式神が二頭。その二頭もすぐに結界を守るようにぐるぐると歩き回る。ドーベルマンのような強そうに見えるが、毛並みがモフモフしていて抱き着いたら、きっと気持ち良いに違いない。

「ほな、行ってくるわ」

 その辺に散歩に行ってくるようなノリで手を振っていく宮道先生を見送ってしまった。
 結界の中で大人しく待っているしかできないことをまざまざと突きつけられた。
 無力さは変わらない。
 この数日訓練したといっても、本格的にしたのは昨日までのわずか数日。そのうち結界が成功した数は、一回。結界を張ること以外はこれと言った術の練習はしていない。むしろ体力トレーニングの方が多かった。
 大人術者二人が相手になっても、夜叉丸を倒せる気配はない。
 自分にも何かできれば。
 せめて、足止めできるくらいの結界を張ることができれば。

 ――いいか、結界を張るときは、イメージと集中だ
 ――自分の中にある呪力を練り上げて、形作る。
 ――学は、真似るの語源だって聞いたことがある。真似するところから始めてみろ

 三善先生が教えてくれたポイントを反芻する。
 イメージは半球の結界。
 宮道先生のような繊細なデザインの結界はできない。シンプルに、かつ、瞬時に作る三善先生のような結界をイメージする。
 シンプルが故に、早い。
 人差し指と中指を立て、照準を夜叉丸に合わせる。だが、結菜の指先と夜叉丸の間には、三善先生や宮道先生が入ることが多い。
 先生たちを守りたいわけじゃない。夜叉丸の動きを一瞬でも止められたら違うはず。
 そう考えてるのに、タイミングがつかめない。
 先生たちが射線から外れた一瞬の隙をついて、夜叉丸を捕まえる。だが、それは夜叉丸が立ち止っている場合だけ。
 そんなことすら、今更になって気づいた。
 だったら、尚更、今の結菜では先生たちの助けになるどころか、邪魔になっている。自分さえいなければ、もしかしたら優位に状況は逆転するかもしれない。だけど、逃げようにも道はない。

「悲しいね、自分が足手まといになっているなんて」