ぱらぱらとガラスが床に落ちてきた。音が鳴った方を見ると、そこには三善先生と宮道先生が揃っていた。
 状況を素早く把握した三善先生は手を構えて、瞬時に結界を張った。ドーム状の結界は結菜だけではなく先生たち自身も覆っていた。

「日下部、無事かっ」

 先生たちの姿が見えるなり、視界が涙で歪んだ。なんとか涙を手で拭って、先生に状況を話す。

「またまぁ、めんどいのがおるんやな」

 苦笑いを浮かべたまま辺りを観察していた宮道先生が、ため息交じりに言った。

「さすがにこれ、俺は対処しきれんで?」
「つかえねぇな」
「そないな冷たいこと言わんといてくれへんっ!」
「事実を言ったまでだ」
「いけずやなぁ」

 大物の妖のはずなのに、二人はどこか余裕があるように見える。
 どれだけ経験を積めば、これほどの余裕を持てるのかわからない。

「いいか、日下部、このタイプは陣取り合戦みたいなやり方をしてくる。陣取り合戦で勝つにはどうしたら良いかわりますか?」

 突然の教師モードに、結菜は目をぱちぱちと繰り返し、三善先生を見た。ジャージ姿に丸眼鏡。隣に立つ宮道先生もジャージ姿だから、教師モードでも違和感はない。
 ないけど、今のこの状況でそれを出されても、反応に困る。

「日下部?」
「え? あ、はい! 陣地を取り返す、です!」

 背筋を伸ばし、慌てて答えると三善先生が少しだけ驚いたような顔をした。
 なぜ、驚くの、この先生は。
 首を傾げていると、三善先生が軽く咳払いをした。

「ちなみに、影が弱いのは?」
「ええと……光です」
「と言うわけで、これ渡しておく」

 渡されたのは、小型のライトだった。キーチェーン付の。
 カチカチと光らせて、試しに影に向けると、さっと妖が引っ込んだように見えた。

「……なんというか、ちょろい、ですね」
「でかいだけのこの手のタイプはそうだな。最もこのライトじゃ効果はたかが知れているがな。宮道」

 三善先生が振り返ると、そこには宮道先生はいなかった。
 足元の影を見ても、範囲は変わっていない。
 なんで。どこに消えたの。

「……ヘマしたか?」

 さっきまでの余裕が三善先生の顔から消えていた。眉間に深く皺を刻んで、目を細めている。

「日下部、俺から離れる」

 言い終わるうちに、三善先生が一瞬で影に食われた。跡形もない。

 なんで。どうして。

 慌ててライトを当てても、影は同じような動きしかしなかった。
 大した相手じゃなかったんでしょ。ただの陣地取りの妖なんでしょ。陣取りならば、人を喰ったりしない。
 なのに、どうして、この絶望感。
 今更のように押し寄せて来る恐怖に、奥歯がカタカタと音を鳴らし始める。

「きみ、大丈夫?」

 突然、耳元で囁かれた甘い声に結菜はすぐに振り向いたが、そこには誰もいなかった。慎重に辺りを見回しても、人の影すら一つもない。一体、今の声は。

「そんなに怯えなくても、大丈夫だよ」

 声につられてもう一度振り返ると、狐の面をつけた顔がそこにあった。辛うじて悲鳴を喉で押し殺した。
 誰、この人。
 甘く切ない声、すらりと伸びた体躯には柄が一切入っていない真っ黒な着物、腰には日本刀が一つだけぶら下がっていた。

「これだけの影を使っているのに吞み込まれないとは、稀有な人だね。良かったら、ボクとお話しない?」

 カフェに行かない? と気軽に友達に誘うような言い方をするが、この人を全く知らない人。

「怖くないよ、ほら」

 伸ばしてきた手のひらは、煌びやかな和紙のような包み紙に包まれた何かがあった。

「あれ? あめは嫌いだったかい? 最近の子は警戒心が強すぎるね」

 もう一度握って開かれた手には、先ほどよりもいくつか飴が増えていた。そのうちの一つを長い爪で取ったその人は、にっこりと微笑んだように見えた。面の向こう側にある笑い方の形容詞が美しい以外にないのだと結菜は思い知らされた。
 美しい。のに、怖い。
 これだけきれいな人が微笑んでいるというのに、怖い、という言葉が何故出てきたのが結菜にはわからなかった。

「ほら、手を出してごらん」

 誘われるがままに、結菜は右手を広げて差し出すと、その人はつまんでいた飴ををそっと置いた。

「美味しいよ」

 渡してくれた人は自分でも長い爪を使って器用に包み紙を一つ剥がして、面の下側から飴を食べた。
 なんて、美味しそうに食べるんだろう。あれ、食べたい。
 渡された包み紙をそろそろと開けようとしたところで、目の前を誰かの手が塞いだ。そのままグイっと後ろに引き寄せた。
 ふわりと鼻腔をくすぐってきたのは、煙草の匂い。何度か嗅いだことがあるこの香りは、誰のだっけ。

「知らん人からお菓子を貰ったら、危ないで?」

 ああ、この声も知っている。
 でも、誰だっけ。
 そんなことよりも、今はこの手にある飴を食べたい。
 視界を塞がれたところで、手にあるのはわかっている。手探りで包み紙を剥がして、口に入れようとしたところで、その手を誰かが強く握った。

「戻って来い、日下部結菜」

 涼やかな声に、ハッと気づいた。