宮道先生の切迫した声が耳に届いた。

「汝、滅せよっ」

 緊迫した声がするも、あの涼やかな声は聞こえてこなかった。
 誰かが倒れる音がしたところで、結菜は目を開けると、自分の足元近くに三善先生が蹲っていた。

「せ、先生?」

 先生の前には鎌を構えたままの妖がいた。刃先からポツリと何かが落ちた。暗くて良く見えない。目を凝らすとそれが血だとわかった。

「……バカ……逃げろ」

 肩で大きく息をしながら、ゆっくりと顔を上げて三善先生は妖を見た。ゆらりと立ち上がり、背中で隠すように左手で結菜の腕を掴んだ。血は付いていない。じゃあ、あの鎌の血は。
 掴まれていない側の腕は、体の右側でだらりとぶら下がっていた。こちらにも血は付いていない。ゆっくりと視線を三善先生の右肩あたりに移していくとスーツが裂けていた。

「せ、先生、それ」
「あー、うっせ。黙ってろ」
「でも、これ以上は無茶ですよ」

 助けを求めて三善先生の肩越しに宮道先生を見ているが、いつの間に増えたのか腐敗した犬妖に囲まれていた。次々に鮮やかに祓っていくさまは、必死そのものだった。

「あー、くらくらする。めんどくせぇ」
「何言ってるんですか、大丈夫ですか」
「あんまり近くでギャーギャー騒ぐなよ。体に障るだろ」
「せんせいっ」

 涙声に変わった結菜の声に反応したのか、三善先生はゆらゆらと右手を上げて、力なく人差し指と中指をまっすぐ伸ばした。大きな息を吐いてから、三善先生は顔をぐっと持ち上げた。

「滅」

 いつもよりも弱弱しい声でありながら、鎌を持った妖は跡形もなく破裂音と共に消滅した。

「すごい……」

 目の前で見せられると、術の展開の速さが違い過ぎた。結界一つ張ることができない自分の至らなさに、きゅっと唇を引き結んだ。

「おーい、宮道、手間取ってんじゃねーぞ」

 からかうような声で、三善先生が宮道先生に声をかけた。なんだ、思ったよりも元気そう。ほっと胸を撫でおろした。

「思ったよりも元気そうやなっ! はよ手伝えって」
「あー、はいはい」
「ハイは一回やろうがっ」

 数が多いことに苦戦をしているのか、倒しても倒しても増え続ける犬妖は、宮道先生に噛みつこうと次々に飛びつく。だが、宮道先生は噛みついてくる犬妖一体一体を確実に祓っていった。

「そのタイプは、本体叩かねぇとずっと増えんぞ?」
「そんな余裕があるように見えるかっ」
「……めんどくせぇ」

 舌打ちと共にぼそっと三善先生が呟した。ふっと軽めに息を吐いたところで、振り返って結菜を三善先生は見てきた。右肩あたりが裂けていたが、思ったよりも血が流れているようには見えない。かすっただけだろうか。

「日下部、実践訓練だ」
「え? 今ですか?」
「これ以上にないくらいの本番だろうが。めんどくせぇ飼い主は祓ったから、あの増える奴の本体を叩くだけだし、増える奴は宮道が対応してくれているから時間はかかっても大丈夫だ」

 戦い続けている宮道先生を見ていると、とてもそうには見えない。

「あの滑り台を丸ごと結界で張る。んで次に祓う。それだけだ」

 示された滑り台を見ても、特に変わった様子は見えない。先生の示した先をじっくりと見ていると、何かの足が見えた。

「あれで上手く隠れているように思っているくらいの低級妖だ。難しくはない」
「で、でも、私、全然結界張れなかったですし」
「練習と本番は違うかも知んねぇだろうが。きっかけさえあれば、なんとかなんだよ」

 先生と思えぬ発言に、結菜は三善先生を凝視した。

「危機感がねぇと発揮できない力ってのがあるんだよ」

 とうとう漫画のキャラみたいなこと言い始めた。脳筋系のやつ。

「とりあえず、イメージは、滑り台の向こうに見える家とかでも良い。おんなじモノを術で作る。やってみろ」

 言われるがままに、滑り台の向こうの家を見るとそれはごく普通の一軒家だった。それとおんなじモノが隣にもあるので、コピーをするように頭の中にイメージする。

「イメージしたら、対象を見て、結界って言ってみろ」

 いつもよりも優し気なその声に誘われるがままに、結菜は視線を映した。辛うじて見える足からどんな大きさかまでは想像できない。いっそ、滑り台ごと囲うしかなさそうだ。
 縮尺は変えずに、滑り台を家の中に入れるイメージを描いてから、結菜は口を開いた。

「結界」

 キンッと金属音が耳に届いた瞬間には、家を丸々コピーしたような結界が出来上がった。だが、戦い続けている宮道先生までも囲ってしまった。

「でけぇな、随分。でも、上等だ。そのまま滑り台くらいの大きさに縮小してみろ」
「ええっと、結界っ」

 自動的に縮尺されたのか、見る見るうちに結界が小さくなり、滑り台を覆う程度になった。

「意外と器用なところあるんだな。よし、そのまま『滅』で良いぞ。滅の時には内部が爆発するイメージだ」

 何と物騒なイメージをさせるんだ、この先生は。だが、言われるがままにやればできそうな気もした。

「滅」

 何かが爆発したのかと思うくらいの小さな爆発音と共に、足が見えていた妖が消えた。ぱちぱちと瞬きをはっきり何度か繰り返して見ても、そこには妖はいなくなっていた。
 ぽんと、頭に何かが乗った。

「やればできるな」

 優しい声と共に、ゆっくりと頭が撫でられた。小さい子供のような褒められ方に違いないが、それが今の結菜には妙にくすぐったかった。

「助かったわ、結菜ちゃん。もうあと何枚かで札も切れるところだったし、ありがとうな」

 土で服が埃っぽく汚れいてた宮道先生が駆け寄ってきてくれた。

「もう遅いし、帰ろうか」
「そ、それなら、うちで三善先生の手当てを」
「こんなものかすり傷だっつうの。心配すんな。宮道、送って行ってくれるか。俺はこの格好じゃな」

 肩をすくめた三善先生が苦笑する。確かに、その格好で家に来られたら刃傷沙汰に遭遇したと思われかねない。いや、実際に刃傷沙汰かもしれないが。兄に説明するのにはめんどくさすぎる。

「……そうやな。まかしとき。車、取ってきておいてくれや」
「わかったよ」

 さっさと公園を出て行こうとする三善先生に頭を下げてから、宮道先生に促されるまま家に帰った。
 家に帰るなり、勇人がすぐに駆け付けてきた。埃っぽさに目が行ったらしく、いろいろと聞かれたが、宮道先生が簡単に術の稽古を他の先生と共にしていることを説明すると納得してくれた。

「お兄、私、もっと術者の勉強がしたい。本を貸して」

 不思議な顔で勇人は見てきたが、無視して家の書庫に結菜は歩き出した。
 決めた。もう先生に頼らないくらいの術者になることを。
 そのレベルになれば、先生だってケガをしないし、迷惑をかけることもない。

 もっと強くならないと。

 テスト勉強に加えて、術者の勉強をし始めると、何故かすぐに眠くなり、結菜はいつの間にか机の上で突っ伏して寝てしまった。