「この進路希望調査で三年生のクラス分けも決まるから、提出は忘れないように」
朝から配られたのは進路希望調査表だった。
日下部結菜は、自分の眉間がきゅっと狭くなるのが分かった。
一昨年、高校に入学して、一年を過ぎ、二年目が終わろうとしていると、そろそろ周りも受験モードに入ってくる。
「ねぇねぇ、結菜は進路、どうするか決まってるの?」
前の席に座っているクラスメイトの望月茉優が、ホームルームが終わるなり、振り返って訊いてきた。茉優の顔も少しだけ渋い顔をしているのは、さっきの進路希望調査表が配られたのが原因じゃないとは言い切れない。
「うーん、関西方面の国立大、かなぁ」
「関西だと、一人暮らしじゃん。すごいなぁ」
「そうかなぁ」
高校入学した時からの決定事項なので、特に疑問に持ったことは無い。
関西の国立大学。
そこに進学する必要があるのは、家柄が理由である。
結菜の家は陰陽師の一族の末裔であり、妖を視ることができる能力を持った者は京都で陰陽師見習いとして、高校卒業後最低三年は修行をしなくてはならない。
なぜ京都かというと、これまでに多くの陰陽師を輩出してきた地域であり、研究が日本の中で一番進んでいるからというシンプルな理由である。
「私は、大学は東京に出たいから頑張んないといけないんだよねぇ」
「お互い受験頑張らないとね」
話の切りが良いタイミングで授業開始のチャイムが鳴った。教室のざわめきは少し小さくなり、各々が机の中から教科書やノートを取り出し始めた。
チャイムが鳴り終わるころに教室の扉が開き、一時間目の授業を担当する教員が入ってきた。
百八十くらいの身長を少しだけ屈めて、両手いっぱいのノートの山を抱えていた。やや色素の薄い瞳は丸眼鏡の向こうで緩く垂れていた。
校内で恐らく最若手で、化学担当の三善先生が軽く息を吐いて、ノートを教壇の上に置いた。先週金曜日に出した化学の課題用ノートだと結菜は一目でわかった。
「さて」
「三善先生は、どーして化学の先生になろうと思ったんですか?」
藪から棒に発せられた質問に、少し切れ長の目は丸くなった。しかし、その丸くなった目もすぐさま元通りの目の形に戻った。
「進路希望調査表でも配られたんですか?」
穏やかなバリトンの声で三善先生が訊いてきた。クラスの何人かが少しバツが悪そうに頷いた。
「もうそんな時期ですよね」
「それで、先生はどうして化学の先生に?」
「化学が生活に密着していて面白かったから、ですからね。教員免許は持っていれば、仕事に困ることはないかなと思ったからですよ。そんなに面白い理由がなくて申し訳ないですが、普通ですよ」
三善先生が答えた内容が思ったよりも普通だったからか、それ以上の理由を追求するクラスメイトもいなく、授業が始まった。
化学の授業は話が脱線することは無く、いつも通りに終わった。もっとも、学年末テストも近いせいか、宿題が多かった。この先生、優しそうに見えて、意外とスパルタだと気づいたのは割と早かった気がする。
「ああ、それと、今日の日直の人、昼休みに配布物があるので取りに来てください」
日直……。
三善先生の言葉で気づいて、黒板を見ると自分の名前が書かれていた。結菜は手を挙げて、三善先生を見ると、大変満足そうにこちらを見ていた。
「えー、一緒に進路希望調査表のこと話したかったのに」
「しょうがないよ。お手伝い終わったら、すぐ戻ってくるから」
本音を言えば、化学準備室に行きたくない。
穏やかな顔で三善先生が結菜を呼びつける時は大抵面倒ごとがらみであるのは、この数カ月で嫌というほどわかった。しかも、日直の仕事や廊下ですれ違ったときに話しかけてくるなど、巧妙な呼び出し方法がほとんどで、誰も疑問に思う様子はない。
気もそぞろになりながら午前中の授業を受け終わるなり、結菜は眉に声をかけてから教室を出た。
化学準備室は結菜の教室から最も遠い。授業間の休み時間では移動だけで終わってしまう。さっさと戻らないとお昼ご飯を食べる時間すら無くなってしまうのは明白だ。
軽くノックするとすぐに返事が返ってきた。恐る恐る扉を開けると、窓際に置かれた机に腰かけながら、何やら難しい顔で分厚い本を読んでいた。軽く頭を下げてから、結菜は扉を閉めた。
メガネさえかけていなければ、絵になるんだけどなぁ。
それが。
「おせぇ」
はい、知ってました、このパターン。慣れました。
茉優よ、この人は眼鏡取っただけじゃ、少女漫画のようなイケメンにはなりませんよ。裏表が激しすぎるんで。
「おまえ、進路はどうするんだ?」
「はい?」
何をまともに先生らしい発言を。驚いて思わず訊き返してしまった。
分厚い本から顔を上げもせず、三善先生はこちらを横目で見てきた。
「えっと、関西の国立大学ですかね。学部はまだ何も決めてないです」
「向こうの見習い修行に入るのか?」
「そうですね。そういえば、先生もあちらで修行されていたんですか?」
「俺は……こっちで修行していたから」
「こっちって、東京支部のですか?」
「ああ」
なんだろう、この先生と生徒の普通の会話。
結菜はきょろきょろと化学準備室の中を見渡すが、相変わらずきれいに整頓されていた。書棚の脇に置かれているサイドテーブルにはプリントが積まれていた。きっと結菜をここに呼びつけるための名目用に用意されていたものに違いない。
「お前、他の術者に」
「失礼しまーすっ」
結菜と三善先生の会話に割って入るように、化学準備室の入口が勢いよく開いた。
「久しぶりやんなぁ、三善」
関西イントネーションの男がそう言うなり、大きな舌打ちが窓際から聴こえてきた。
朝から配られたのは進路希望調査表だった。
日下部結菜は、自分の眉間がきゅっと狭くなるのが分かった。
一昨年、高校に入学して、一年を過ぎ、二年目が終わろうとしていると、そろそろ周りも受験モードに入ってくる。
「ねぇねぇ、結菜は進路、どうするか決まってるの?」
前の席に座っているクラスメイトの望月茉優が、ホームルームが終わるなり、振り返って訊いてきた。茉優の顔も少しだけ渋い顔をしているのは、さっきの進路希望調査表が配られたのが原因じゃないとは言い切れない。
「うーん、関西方面の国立大、かなぁ」
「関西だと、一人暮らしじゃん。すごいなぁ」
「そうかなぁ」
高校入学した時からの決定事項なので、特に疑問に持ったことは無い。
関西の国立大学。
そこに進学する必要があるのは、家柄が理由である。
結菜の家は陰陽師の一族の末裔であり、妖を視ることができる能力を持った者は京都で陰陽師見習いとして、高校卒業後最低三年は修行をしなくてはならない。
なぜ京都かというと、これまでに多くの陰陽師を輩出してきた地域であり、研究が日本の中で一番進んでいるからというシンプルな理由である。
「私は、大学は東京に出たいから頑張んないといけないんだよねぇ」
「お互い受験頑張らないとね」
話の切りが良いタイミングで授業開始のチャイムが鳴った。教室のざわめきは少し小さくなり、各々が机の中から教科書やノートを取り出し始めた。
チャイムが鳴り終わるころに教室の扉が開き、一時間目の授業を担当する教員が入ってきた。
百八十くらいの身長を少しだけ屈めて、両手いっぱいのノートの山を抱えていた。やや色素の薄い瞳は丸眼鏡の向こうで緩く垂れていた。
校内で恐らく最若手で、化学担当の三善先生が軽く息を吐いて、ノートを教壇の上に置いた。先週金曜日に出した化学の課題用ノートだと結菜は一目でわかった。
「さて」
「三善先生は、どーして化学の先生になろうと思ったんですか?」
藪から棒に発せられた質問に、少し切れ長の目は丸くなった。しかし、その丸くなった目もすぐさま元通りの目の形に戻った。
「進路希望調査表でも配られたんですか?」
穏やかなバリトンの声で三善先生が訊いてきた。クラスの何人かが少しバツが悪そうに頷いた。
「もうそんな時期ですよね」
「それで、先生はどうして化学の先生に?」
「化学が生活に密着していて面白かったから、ですからね。教員免許は持っていれば、仕事に困ることはないかなと思ったからですよ。そんなに面白い理由がなくて申し訳ないですが、普通ですよ」
三善先生が答えた内容が思ったよりも普通だったからか、それ以上の理由を追求するクラスメイトもいなく、授業が始まった。
化学の授業は話が脱線することは無く、いつも通りに終わった。もっとも、学年末テストも近いせいか、宿題が多かった。この先生、優しそうに見えて、意外とスパルタだと気づいたのは割と早かった気がする。
「ああ、それと、今日の日直の人、昼休みに配布物があるので取りに来てください」
日直……。
三善先生の言葉で気づいて、黒板を見ると自分の名前が書かれていた。結菜は手を挙げて、三善先生を見ると、大変満足そうにこちらを見ていた。
「えー、一緒に進路希望調査表のこと話したかったのに」
「しょうがないよ。お手伝い終わったら、すぐ戻ってくるから」
本音を言えば、化学準備室に行きたくない。
穏やかな顔で三善先生が結菜を呼びつける時は大抵面倒ごとがらみであるのは、この数カ月で嫌というほどわかった。しかも、日直の仕事や廊下ですれ違ったときに話しかけてくるなど、巧妙な呼び出し方法がほとんどで、誰も疑問に思う様子はない。
気もそぞろになりながら午前中の授業を受け終わるなり、結菜は眉に声をかけてから教室を出た。
化学準備室は結菜の教室から最も遠い。授業間の休み時間では移動だけで終わってしまう。さっさと戻らないとお昼ご飯を食べる時間すら無くなってしまうのは明白だ。
軽くノックするとすぐに返事が返ってきた。恐る恐る扉を開けると、窓際に置かれた机に腰かけながら、何やら難しい顔で分厚い本を読んでいた。軽く頭を下げてから、結菜は扉を閉めた。
メガネさえかけていなければ、絵になるんだけどなぁ。
それが。
「おせぇ」
はい、知ってました、このパターン。慣れました。
茉優よ、この人は眼鏡取っただけじゃ、少女漫画のようなイケメンにはなりませんよ。裏表が激しすぎるんで。
「おまえ、進路はどうするんだ?」
「はい?」
何をまともに先生らしい発言を。驚いて思わず訊き返してしまった。
分厚い本から顔を上げもせず、三善先生はこちらを横目で見てきた。
「えっと、関西の国立大学ですかね。学部はまだ何も決めてないです」
「向こうの見習い修行に入るのか?」
「そうですね。そういえば、先生もあちらで修行されていたんですか?」
「俺は……こっちで修行していたから」
「こっちって、東京支部のですか?」
「ああ」
なんだろう、この先生と生徒の普通の会話。
結菜はきょろきょろと化学準備室の中を見渡すが、相変わらずきれいに整頓されていた。書棚の脇に置かれているサイドテーブルにはプリントが積まれていた。きっと結菜をここに呼びつけるための名目用に用意されていたものに違いない。
「お前、他の術者に」
「失礼しまーすっ」
結菜と三善先生の会話に割って入るように、化学準備室の入口が勢いよく開いた。
「久しぶりやんなぁ、三善」
関西イントネーションの男がそう言うなり、大きな舌打ちが窓際から聴こえてきた。



