志貴様に逆らうと、何か呪いをかけられるようで、夜中の間ずっと、身体を縛り付けられたように動けませんでした。頭も割れるように痛んだのに、楽な態勢を取ることが出来ず、蹴られて痛むあちこちを労わることもできないまま、夜を明かしました。血が布団についていなかったのは幸いでしたが、それでもほとんど眠れませんでした。
志貴様は自分で殴ったのに関わらず、わたくしの腫れた顔を見て、ひどく嫌な顔をしました。その、醜いものを見るような目に耐えることはできず、わたくしは朝食を済ませると、部屋でひとり、静かに、静かに、涙を零しました。どうしてか、わたくしの有様が、昨日の物の怪の哀れな姿と重なって、そして不思議なことに、あの物の怪が何か懐かしい存在であるような気がして、仕方ありませんでした。物の怪は、わたくしに助けを求めようとしていた、知古の者であるような気がして、胸がつきりつきり、痛みます。
家事をさせてもらえたら、いくらか気が紛れるのかもしれませんが、志貴様はわたくしが家のことをするのをひどく嫌がります。良家のお嬢様は家を守るため、皆がそうだとは言いませんが、その一環として家のことをしますので、わたくしが女中に混ざって働くのは、世間的に何らおかしいことではないのですが、志貴様はわたくしにその一切をさせようとしないのです。女中らしいことも出来なければ、子が出来ないとして追い出されても、働き口がありません。それは困るのですが、どうやら志貴様は、わたくしの考えを見通しているようでした。
することもなく、泣き疲れて、いつの間にか、眠りに落ちていました。すると誰かに頭を、腹を、背中を撫でられる夢を見たのです。
夢は案外、鮮明でした。足首に届きそうなほど長い黒髪を持った、この世の者とは思えぬほどうつくしい男が、痛みに呻くわたくしをそっと撫で、介抱しようとしているのでした。琥珀、助けられなくてすまない。琥珀、きっと助けてあげよう。琥珀――。優しい声が耳に届き、温かくて、涙で視界が滲みます。わたくしが彼の背に手を伸ばそうとした途端、彼がその場に崩れ落ちました。男の姿が黒い靄で覆い隠されていきます。そして靄が人の姿を隠し、昨日の物の怪になりました。
きっとわたくしがあなたをお助けします。らげつさま。蘿月様、だからどうか、まだ祟り神にならないでください。夢の中で、わたくしはそう必死に叫びました。どうしてわたくしが彼を蘿月と呼んだのか、祟り神にならないでと言ったのか、分からないまま、ただただ、彼を想う一心で叫びました。そして、身体が持ち上げられるような感覚と共に、目を覚ましました。
瞳から零れる涙を拭うと、大きな雫が手の甲につきました。それはどうしてか、わたくしに立ち上がる決心をつけさせます。あの優しい人から与えられた涙なら、愛おしいと思い、手についた雫を唇ですくいます。
何が起きても良いように、ぼろ布として裁断するつもりだった着物に着替え、昨日と同じように、周りの目を盗んで、屋敷から、神社の敷地から飛び出します。今日の外出が見つかれば、また同じように殴られるどころか、鎖で繋がれてしまうかもしれません。しかし、それでも良いと思いました。物の怪――蘿月様に優しく声をかけてほしい。苦しんでいるあの方を救いたい。昨日逃げてしまったことを謝りたい。そればかりを考えて、彼の元に向かいます。どうしてか、どこに行けば彼がいるのかは、本能で知っていました。
「蘿月様」
そこは、家からいくらか離れた山のふもとにある、打ち捨てられたような、寂れた神社でした。鳥居には蔦がまきつき、境内に草は生い茂り、若者が面白半分で入ってきそうな、そういう恐ろしさと好奇心の両方を掻き立てる雰囲気がありましたが、意を決して足を踏み入れます。草を踏み踏み、本殿らしき場所に向かうと、朽ち果てて半分落ちた扉の向こうに、黒い靄が倒れているのでした。
「蘿月様、まだ、御無事ですか」
彼はぐったりと横たわっていて、ぴくりとも動きません。ですが、もう一度声をかけると、薄っすら目を開けたような気配がしました。埃と草の葉だらけの床に座り、彼の顔を探し当てます。鼻も口も目も、靄で覆われていましたが、それの払い方は、身体が知っていました。
探し当てた唇にそっと触れ、それからわたくしの唇を押し付けます。その今にも朽ちそうな身体に命の芽吹きを送るように、優しく。生きてと願うように、甘く。わたくしが息を整えるための休憩を挟んで、何度も何度もそれを繰り返すと、次第に、彼の顔が少しずつ、見えてきました。夢に出て来た、あの美しいお方でした。
手の場所を探して握り、胸を探して触れました。生きて。どうか生きて。そう願い続けて、ただずっと、傍にいました。箒代わりの枝を探して、本殿の中を簡単に掃除し、まだ眠ったままの彼が、少しでも安らかに休めるように、祈ります。まだどうして自分が、これほど彼を想っているのかは分からないのですが、彼を慈しみ、助けることが、この命や魂というものに刻まれた、使命であるように感じていました。
やがて夕暮れになり、最後に眠ったままの蘿月様に口づけて、ぼろ布ではありますが、羽織を彼の身体にかけて、そっと嶋神社に戻りました。誰にも気が付かれないように、そっと戻ったつもりでしたが、部屋の中に入った途端、足元に置かれていた縄が、わたくしに向かってまっすぐに飛んできて、驚くような勢いで巻き付いてきます。志貴様に気が付かれていたのです。
あっという間に呪術により縛り上げられ、その場に転んだわたくしの元に、足音が近づいてきます。
何度も殴られた後に、呪具で三日ほど拘束されることが決まりましたが、蘿月様のために殴られたのだと思うと、後悔はありませんでした。
志貴様は自分で殴ったのに関わらず、わたくしの腫れた顔を見て、ひどく嫌な顔をしました。その、醜いものを見るような目に耐えることはできず、わたくしは朝食を済ませると、部屋でひとり、静かに、静かに、涙を零しました。どうしてか、わたくしの有様が、昨日の物の怪の哀れな姿と重なって、そして不思議なことに、あの物の怪が何か懐かしい存在であるような気がして、仕方ありませんでした。物の怪は、わたくしに助けを求めようとしていた、知古の者であるような気がして、胸がつきりつきり、痛みます。
家事をさせてもらえたら、いくらか気が紛れるのかもしれませんが、志貴様はわたくしが家のことをするのをひどく嫌がります。良家のお嬢様は家を守るため、皆がそうだとは言いませんが、その一環として家のことをしますので、わたくしが女中に混ざって働くのは、世間的に何らおかしいことではないのですが、志貴様はわたくしにその一切をさせようとしないのです。女中らしいことも出来なければ、子が出来ないとして追い出されても、働き口がありません。それは困るのですが、どうやら志貴様は、わたくしの考えを見通しているようでした。
することもなく、泣き疲れて、いつの間にか、眠りに落ちていました。すると誰かに頭を、腹を、背中を撫でられる夢を見たのです。
夢は案外、鮮明でした。足首に届きそうなほど長い黒髪を持った、この世の者とは思えぬほどうつくしい男が、痛みに呻くわたくしをそっと撫で、介抱しようとしているのでした。琥珀、助けられなくてすまない。琥珀、きっと助けてあげよう。琥珀――。優しい声が耳に届き、温かくて、涙で視界が滲みます。わたくしが彼の背に手を伸ばそうとした途端、彼がその場に崩れ落ちました。男の姿が黒い靄で覆い隠されていきます。そして靄が人の姿を隠し、昨日の物の怪になりました。
きっとわたくしがあなたをお助けします。らげつさま。蘿月様、だからどうか、まだ祟り神にならないでください。夢の中で、わたくしはそう必死に叫びました。どうしてわたくしが彼を蘿月と呼んだのか、祟り神にならないでと言ったのか、分からないまま、ただただ、彼を想う一心で叫びました。そして、身体が持ち上げられるような感覚と共に、目を覚ましました。
瞳から零れる涙を拭うと、大きな雫が手の甲につきました。それはどうしてか、わたくしに立ち上がる決心をつけさせます。あの優しい人から与えられた涙なら、愛おしいと思い、手についた雫を唇ですくいます。
何が起きても良いように、ぼろ布として裁断するつもりだった着物に着替え、昨日と同じように、周りの目を盗んで、屋敷から、神社の敷地から飛び出します。今日の外出が見つかれば、また同じように殴られるどころか、鎖で繋がれてしまうかもしれません。しかし、それでも良いと思いました。物の怪――蘿月様に優しく声をかけてほしい。苦しんでいるあの方を救いたい。昨日逃げてしまったことを謝りたい。そればかりを考えて、彼の元に向かいます。どうしてか、どこに行けば彼がいるのかは、本能で知っていました。
「蘿月様」
そこは、家からいくらか離れた山のふもとにある、打ち捨てられたような、寂れた神社でした。鳥居には蔦がまきつき、境内に草は生い茂り、若者が面白半分で入ってきそうな、そういう恐ろしさと好奇心の両方を掻き立てる雰囲気がありましたが、意を決して足を踏み入れます。草を踏み踏み、本殿らしき場所に向かうと、朽ち果てて半分落ちた扉の向こうに、黒い靄が倒れているのでした。
「蘿月様、まだ、御無事ですか」
彼はぐったりと横たわっていて、ぴくりとも動きません。ですが、もう一度声をかけると、薄っすら目を開けたような気配がしました。埃と草の葉だらけの床に座り、彼の顔を探し当てます。鼻も口も目も、靄で覆われていましたが、それの払い方は、身体が知っていました。
探し当てた唇にそっと触れ、それからわたくしの唇を押し付けます。その今にも朽ちそうな身体に命の芽吹きを送るように、優しく。生きてと願うように、甘く。わたくしが息を整えるための休憩を挟んで、何度も何度もそれを繰り返すと、次第に、彼の顔が少しずつ、見えてきました。夢に出て来た、あの美しいお方でした。
手の場所を探して握り、胸を探して触れました。生きて。どうか生きて。そう願い続けて、ただずっと、傍にいました。箒代わりの枝を探して、本殿の中を簡単に掃除し、まだ眠ったままの彼が、少しでも安らかに休めるように、祈ります。まだどうして自分が、これほど彼を想っているのかは分からないのですが、彼を慈しみ、助けることが、この命や魂というものに刻まれた、使命であるように感じていました。
やがて夕暮れになり、最後に眠ったままの蘿月様に口づけて、ぼろ布ではありますが、羽織を彼の身体にかけて、そっと嶋神社に戻りました。誰にも気が付かれないように、そっと戻ったつもりでしたが、部屋の中に入った途端、足元に置かれていた縄が、わたくしに向かってまっすぐに飛んできて、驚くような勢いで巻き付いてきます。志貴様に気が付かれていたのです。
あっという間に呪術により縛り上げられ、その場に転んだわたくしの元に、足音が近づいてきます。
何度も殴られた後に、呪具で三日ほど拘束されることが決まりましたが、蘿月様のために殴られたのだと思うと、後悔はありませんでした。



