翌日、昼が近くなった頃に目を覚ますと、どろりと足の間から何かが垂れるのを感じました。月のものが来たと分かり、慌てて取っておいたぼろ布を当てた、手ぬぐいを身体に合わせて縫ったものを足の間に履きます。月のものの間、こまめに血のついた布たちを捨てれば、志貴様に見つかることはないと思うのですが、わたくしの部屋の様子を見に来る女中が気が付かないとも限りません。女中の方たちは、決して悪い人ではないのですが、この家の主は志貴様です。彼女たちにとって、志貴様の指示は絶対です。彼がわたくしが女の身体になった際に報告しろと命じれば、彼女たちはそうします。ですから、女中の誰にも知られないように、細心の注意を払わなければいけません。
幸い、布団も着物も汚れてはいませんでした。下腹部が痛くはありましたが、家にいると、肝を冷やさなければならないことが多いので、女中たちの目を盗んで、屋敷の外に出ました。
志貴様が所持している嶋神社は、非常に広く、神職にあたる方たちが時折境内を通ります。わたくしは志貴様の許可がない限りは家を出ることが出来ない約束になっているので、見つかれば連れ戻されるでしょう。幸い、本殿や拝殿の側にも、摂社の側にも、志貴様に決して開けてはいけないと言われている倉のようなものの側にも、誰もいませんでした。たっと境内を駆け、外に出ますと、ほっと一息つきました。神社から志貴様のお祓いをする声が聞こえて来たので、また走って、神社が見えなくなったところで、切らした息を整えます。下腹部が鈍い痛みを訴えていて、一人での外出を楽しむ余裕はなさそうでした。
お金は少しだけ持ってきましたので、これでお茶屋さんで休憩すべきかと考えていますと、急に周りの空気が冷えたように感じました。あまり外に出されないので忘れがちなのですが、周りは澄んだ空が広がっていて、秋の空気がそこにあることを思い出させます。ただ、走ったとはいえ、汗をかいたというほどかいてもいませんし、急に冷えるのはおかしいように思います。すると急に背筋がぞうと泡立って、明らかな異変が今から訪れると、予感させました。
「――く」
ずず、と遠くから何か、黒いものが進んでくるように、見えました。
「こ――」
名を呼ばれているのだと、直感しました。冷や汗が、身体を流れます。
その黒いものは、人の形をしているようで、していません。身体は黒い靄で覆いつくされ、わずかに手足が出たかと思えば戻るのを繰り返していて、人であったもの、と称するのがぴったりであるように思いました。足が震えて、立つのがやっとでした。
「――おれ――とモに――」
それの姿が少しずつ近づいて、わたくしに手を伸ばしているのだと気がついた時、わたくしはやっと、弾かれたように走り出しました。志貴様がお祓いをしているくらいですから、人ならざる者の存在があることを知ってはいたのですが、いざこうして、目にしてみると、恐ろしくてたまりません。
誰か助けて。そう叫びたかったのですが、恐怖で凍り付いた喉は、声を出すことを拒みました。志貴様なら、助けてくれるでしょうか。そんな考えが浮かびましたが、正直、彼がわたくしなんかを助けてくれるとは、思えませんでした。なぜわたくしを嫁に選んだのかも未だに明かしてくれず、ただ人形のように扱う彼が、わたくしの窮地に馳せ参じてくれるとは思えません。しかし、頼れる人は、彼しかいませんでした。
物の怪の足は遅く、わたくしの足でも追い付かれることはありませんでした。しかしそれはわたくしの後を確実に追ってきます。
「志貴様。しきさま」
やっと出せるようになった声で叫ぶと、「滅せよッ」と志貴様の声がして、黒い装束を纏った彼が、ふわりと降り立ちました。思わず安堵の涙が出そうになりますが、彼はわたくしに一瞥だけくれると、すぐに物の怪の方を見ました。
「やはり来おったか、化け物め」
彼の口ぶりは、まるであの物の怪が何者かを知っているようです。彼に詳しいことを聞く間もなく、後ろに突き飛ばされました。地面がぐっと近づいて、手と肘が土に擦れます。痛みの走る腕に、思わず鈍い悲鳴が零れます。
「彼岸より来し魂よ、我が呪の元に平伏せ。そして去ね!」
見上げると、呪文と共に、志貴様の持っていた呪符が、物の怪に向かって飛んでくところでした。呪符は物の怪に触れると、それはひどく苦しんで、後ずさりを始めます。
「あァ、こは――」
もう一度放たれた呪符がそれに張り付くと、それは転げまわるようにして逃げていきます。後に残されたわたくしは呆然とそれを見送っていましたが、腹部に激しい痛みが走り、今度はわたくしが転がる羽目になりました。蹴られたのだと気が付いた時には、もう一度、わたくしの身体が転がっていました。
「どうしてお前が勝手に外に出ているんだ!?」
腹や背を乱暴に蹴られ、あまりの痛みに声も出ません。
「お前は僕のものだって! 僕の許可なしに、外に出るなと言っただろう!」
「も、もうしわけ」
転がったままのわたくしの髪をぐいと掴み、無理やり視線を合わせられました。そうでした。前に、開けるのを禁じられた倉を覗き込もうとした時も、こうやって蹴られて、最後に服従を誓わされました。今日も彼はそのつもりなのでしょう。
「二度と僕に逆らわないと言え」
志貴様の言うことを聞きます。聞きますから、お許しください。何度か叩かれながらもそうやって口にすると、彼はやっとわたくしの髪から手を離し、ほとんど引きずるようにして、神社の奥の屋敷にわたくしを連れていくのでした。
幸い、布団も着物も汚れてはいませんでした。下腹部が痛くはありましたが、家にいると、肝を冷やさなければならないことが多いので、女中たちの目を盗んで、屋敷の外に出ました。
志貴様が所持している嶋神社は、非常に広く、神職にあたる方たちが時折境内を通ります。わたくしは志貴様の許可がない限りは家を出ることが出来ない約束になっているので、見つかれば連れ戻されるでしょう。幸い、本殿や拝殿の側にも、摂社の側にも、志貴様に決して開けてはいけないと言われている倉のようなものの側にも、誰もいませんでした。たっと境内を駆け、外に出ますと、ほっと一息つきました。神社から志貴様のお祓いをする声が聞こえて来たので、また走って、神社が見えなくなったところで、切らした息を整えます。下腹部が鈍い痛みを訴えていて、一人での外出を楽しむ余裕はなさそうでした。
お金は少しだけ持ってきましたので、これでお茶屋さんで休憩すべきかと考えていますと、急に周りの空気が冷えたように感じました。あまり外に出されないので忘れがちなのですが、周りは澄んだ空が広がっていて、秋の空気がそこにあることを思い出させます。ただ、走ったとはいえ、汗をかいたというほどかいてもいませんし、急に冷えるのはおかしいように思います。すると急に背筋がぞうと泡立って、明らかな異変が今から訪れると、予感させました。
「――く」
ずず、と遠くから何か、黒いものが進んでくるように、見えました。
「こ――」
名を呼ばれているのだと、直感しました。冷や汗が、身体を流れます。
その黒いものは、人の形をしているようで、していません。身体は黒い靄で覆いつくされ、わずかに手足が出たかと思えば戻るのを繰り返していて、人であったもの、と称するのがぴったりであるように思いました。足が震えて、立つのがやっとでした。
「――おれ――とモに――」
それの姿が少しずつ近づいて、わたくしに手を伸ばしているのだと気がついた時、わたくしはやっと、弾かれたように走り出しました。志貴様がお祓いをしているくらいですから、人ならざる者の存在があることを知ってはいたのですが、いざこうして、目にしてみると、恐ろしくてたまりません。
誰か助けて。そう叫びたかったのですが、恐怖で凍り付いた喉は、声を出すことを拒みました。志貴様なら、助けてくれるでしょうか。そんな考えが浮かびましたが、正直、彼がわたくしなんかを助けてくれるとは、思えませんでした。なぜわたくしを嫁に選んだのかも未だに明かしてくれず、ただ人形のように扱う彼が、わたくしの窮地に馳せ参じてくれるとは思えません。しかし、頼れる人は、彼しかいませんでした。
物の怪の足は遅く、わたくしの足でも追い付かれることはありませんでした。しかしそれはわたくしの後を確実に追ってきます。
「志貴様。しきさま」
やっと出せるようになった声で叫ぶと、「滅せよッ」と志貴様の声がして、黒い装束を纏った彼が、ふわりと降り立ちました。思わず安堵の涙が出そうになりますが、彼はわたくしに一瞥だけくれると、すぐに物の怪の方を見ました。
「やはり来おったか、化け物め」
彼の口ぶりは、まるであの物の怪が何者かを知っているようです。彼に詳しいことを聞く間もなく、後ろに突き飛ばされました。地面がぐっと近づいて、手と肘が土に擦れます。痛みの走る腕に、思わず鈍い悲鳴が零れます。
「彼岸より来し魂よ、我が呪の元に平伏せ。そして去ね!」
見上げると、呪文と共に、志貴様の持っていた呪符が、物の怪に向かって飛んでくところでした。呪符は物の怪に触れると、それはひどく苦しんで、後ずさりを始めます。
「あァ、こは――」
もう一度放たれた呪符がそれに張り付くと、それは転げまわるようにして逃げていきます。後に残されたわたくしは呆然とそれを見送っていましたが、腹部に激しい痛みが走り、今度はわたくしが転がる羽目になりました。蹴られたのだと気が付いた時には、もう一度、わたくしの身体が転がっていました。
「どうしてお前が勝手に外に出ているんだ!?」
腹や背を乱暴に蹴られ、あまりの痛みに声も出ません。
「お前は僕のものだって! 僕の許可なしに、外に出るなと言っただろう!」
「も、もうしわけ」
転がったままのわたくしの髪をぐいと掴み、無理やり視線を合わせられました。そうでした。前に、開けるのを禁じられた倉を覗き込もうとした時も、こうやって蹴られて、最後に服従を誓わされました。今日も彼はそのつもりなのでしょう。
「二度と僕に逆らわないと言え」
志貴様の言うことを聞きます。聞きますから、お許しください。何度か叩かれながらもそうやって口にすると、彼はやっとわたくしの髪から手を離し、ほとんど引きずるようにして、神社の奥の屋敷にわたくしを連れていくのでした。



