やがて生家――もうわたくしが生まれ育った家はなくなってしまったのですが――のパーティーの日になり、わたくしはバッスルスタイルのドレスを、志貴様はフロックコートを纏い、横浜の椎名の家に向かいました。向かう道は変わらないのに、少しずつ見えてきた慣れ親しんだ土地の、周りは少ししか変わっていないのに、わたくしの家があったはずの場所だけが、ぽつんと、西洋の造りに変わっています。寂しいような、悲しい想いをしながらその煌びやかな家を見つめていたのですが、志貴様は何も言いませんでした。
煉瓦造りの家は、ここに来るまでに何度か見かけましたから、横浜では、わたくしが思っていたほど、西洋館は珍しいものではないのかもしれません。しかし招かれたパーティー用の部屋にはピアノが置かれていて、それだけで十分お金がかかっていると伺えます。それから、カーテンやら机やら椅子やら、皆外国で造られたと思われるものばかりが置いてあります。この部屋以外がどうなっているのかは分かりませんが、この部屋にあるものだけでも、男爵が本来持ちうるお金では到底手に入れることが叶わないはずのものだと分かりました。
「琥珀おねえさま」
呼ばれた声に振り向くと、やはりバッスル・ドレスに身を包んだほたるがいました。わたくしが久しぶり、と言うべきか元気だった、と言うべきか迷っている間に、彼女の絹繻子の靴の、高くつくられた踵の部分が、何の容赦もなくわたくしの足の上に食い込みました。
「いッ」
やめてと言えば彼女を喜ばせてしまいますので、悲鳴を飲み込んで耐えていますと、彼女はつまらないとばかりに足をどけ、代わりにわたくしの肩にしなだれかかり、「志貴様とはどう?」と聞いてくるのでした。彼女の胸元の、金剛石の首飾りがきらりと光ります。
これはわたくしが萩原の家に出された時に知ったのですが、椎名はわたくしを嫁に出す代わりに、多額の援助金を貰う約束になっていたのだそうです。どうりで、簡単に婚約を許してくれたわけだと、その時になってようやく理解しました。椎名の家に売られたのだと、その時に気が付いたわけですが、こうして西洋館に造りかえられた家と、腹違いの妹の煌びやかなドレスと首飾りを見ていると、そんな実感がひしひしと湧いて、痛みとは別に涙が出そうになります。
「だからァ、志貴様とはどう、って言っているのよ。わたくしが琥珀おねえさまの代わりに、萩原に行ってあげてもいいのよ? おねえさまは椎名に逆戻りするけれど」
志貴様は、決してお優しい人ではありません。わたくしが操り人形にならないと分かれば手をあげますし、ひどい言葉を投げつけてきます。しかしそれでも、憂さ晴らしのためにわたくしを殴り、踏みつけ、喜んで暴言を吐く彼らよりは、ずっと良いのです。しかし、だからといって、わたくしは椎名の家との縁を断ち切れるほどの強さもなく、「良い子」でいることで、大人しく萩原からの援助金を渡すのに貢献することで、彼らの役に立っていると、必要とされていると思い、自分を安心させているのでした。かといって、椎名の家に戻る勇気もありませんので、ほたるへの返事に迷いました。
「とても良くしてもらっているわ」
やっと選んだ言葉に、ほたるはフンと鼻を鳴らし、じろじろとわたくしのドレスを見ます。志貴様がお父様とお義母様と朗らかに話しているのを良いことに、わたくしのドレスにけちをつけてやろうと思っているようでした。わたくしのドレスはスカートに幾重にもレエスがかけられていて、わたくしに似合わないことを除けば、それはそれは上品な仕上がりなのですが、彼女のドレスは玉飾りや宝石などがあちこちに飾られていて、一目で贅を凝らしたものであると分かります。
うつくしいものは、それが贅沢であればあるほど良いものではなく、そこに品性やら美に対する感覚があるかどうかも問われるものですが、素人のわたくしからしても、彼女のドレスは、ただお金がかけられているだけの、下品なものでした。しかし彼女は、自分のドレスの方が良いと信じて疑っていないようです。
「わたくしね、ダイヤモンドのジュエリーも買ってもらったのよ。いくらしたか分かる?」
「志貴様に聞かれるわ」
わたくしのドレスの悪口を志貴様に聞かれると、損をするのは椎名の方だと暗に伝えると、頭の回転の速いほたるは気が付いたようでした。女に勉学は必要ないと言われている世の中ではありますが、賢さはやはり人を窮地に陥らせることはしないようです。どこか残念がるわたくしとほっとするわたくしの両方が存在することに少し辟易して、わたくしはほたるが早くわたくしに飽きて、他の来客の、綺麗な殿方の方に行ってくれないかと祈りました。
ほたるをやり過ごした後、元はお母様付きだった女中に、わたくしの飲み物を零され、やはりわたくしの足を踏む金剛のせいで転び、人の視線を集め、惨めに思いました。志貴様に妹弟にやられたのだと言えば、もしかすると助けてくれるのかもしれませんが、妹弟を陥れるのも気が進まず、わたくしが転んだ理由に気が付かないのか、気が付いても何も言わないのであろう志貴様を、ぼんやりと恨めしく思いました。
お義母様に、必ず志貴様との子を授かり、椎名の家にさらなる恩恵をもたらすように言われ、ドレスや部屋の内装をよく見るように言われました。いい、分かる? 萩原様が毎月送ってくれるお金では足りないから、借金したのよ? 何が言いたいか分かるわね? そうよ、決して椎名に戻されるようなことをするんじゃないわよ? へましたらどうなるか、分からないほど馬鹿ではないわよね――。
どうやらわたくしが今日ここに呼ばれたのは、もう後戻りのできない椎名の現状を見せて、わたくしを脅すためだったようです。わたくしは改めて、西洋館に造りかえられた我が家を見回しました。机も椅子も装飾品も、高価なものであると分かりますが、きっとそれらのものは、英吉利やら仏蘭西やら独逸やら、様々な国のものがごちゃごちゃに混ぜられているのでしょう。一つひとつは美しい造りなのが分かりますが、一つの空間として見ると、まとまりがなく、いっそ煌びやかすぎて毒々しいのです。そんな下品な空間の中で、さらに下品なドレスを纏うお義母様とほたるは、奇怪な存在であるように見えました。鹿鳴館ですら、日本人の恰好がなっていないとか言われていて、鹿鳴館での外交は難航しているわけですから、それよりもさらにひどいであろう椎名の家は、西洋人にとって格好の笑いものでしょう。案の定、招かれた西洋人たちの中には、笑いを堪えたり、白けた表情をしたりしている者たちがいて、このような見栄のためだけに、わたくしとお母様の過ごした場所がなくなってしまったことを、虚しく思いました。
付け焼刃で覚えた西洋風の踊りを志貴様と踊り、その下手さ加減に彼の機嫌を損ねました。彼だって上手ではないでしょうに、彼を立てられないことを、不快に思わせてしまったようです。パーティーがお開きになると、わたくしはぐったりと疲れ、馬車の中で罵られつつも家に帰って、着替えだけ済ませると、泥のように眠りました。
慣れぬ靴のせいで擦り切れた踵を気遣うものは、わたくしを含めて誰もいませんでした。
煉瓦造りの家は、ここに来るまでに何度か見かけましたから、横浜では、わたくしが思っていたほど、西洋館は珍しいものではないのかもしれません。しかし招かれたパーティー用の部屋にはピアノが置かれていて、それだけで十分お金がかかっていると伺えます。それから、カーテンやら机やら椅子やら、皆外国で造られたと思われるものばかりが置いてあります。この部屋以外がどうなっているのかは分かりませんが、この部屋にあるものだけでも、男爵が本来持ちうるお金では到底手に入れることが叶わないはずのものだと分かりました。
「琥珀おねえさま」
呼ばれた声に振り向くと、やはりバッスル・ドレスに身を包んだほたるがいました。わたくしが久しぶり、と言うべきか元気だった、と言うべきか迷っている間に、彼女の絹繻子の靴の、高くつくられた踵の部分が、何の容赦もなくわたくしの足の上に食い込みました。
「いッ」
やめてと言えば彼女を喜ばせてしまいますので、悲鳴を飲み込んで耐えていますと、彼女はつまらないとばかりに足をどけ、代わりにわたくしの肩にしなだれかかり、「志貴様とはどう?」と聞いてくるのでした。彼女の胸元の、金剛石の首飾りがきらりと光ります。
これはわたくしが萩原の家に出された時に知ったのですが、椎名はわたくしを嫁に出す代わりに、多額の援助金を貰う約束になっていたのだそうです。どうりで、簡単に婚約を許してくれたわけだと、その時になってようやく理解しました。椎名の家に売られたのだと、その時に気が付いたわけですが、こうして西洋館に造りかえられた家と、腹違いの妹の煌びやかなドレスと首飾りを見ていると、そんな実感がひしひしと湧いて、痛みとは別に涙が出そうになります。
「だからァ、志貴様とはどう、って言っているのよ。わたくしが琥珀おねえさまの代わりに、萩原に行ってあげてもいいのよ? おねえさまは椎名に逆戻りするけれど」
志貴様は、決してお優しい人ではありません。わたくしが操り人形にならないと分かれば手をあげますし、ひどい言葉を投げつけてきます。しかしそれでも、憂さ晴らしのためにわたくしを殴り、踏みつけ、喜んで暴言を吐く彼らよりは、ずっと良いのです。しかし、だからといって、わたくしは椎名の家との縁を断ち切れるほどの強さもなく、「良い子」でいることで、大人しく萩原からの援助金を渡すのに貢献することで、彼らの役に立っていると、必要とされていると思い、自分を安心させているのでした。かといって、椎名の家に戻る勇気もありませんので、ほたるへの返事に迷いました。
「とても良くしてもらっているわ」
やっと選んだ言葉に、ほたるはフンと鼻を鳴らし、じろじろとわたくしのドレスを見ます。志貴様がお父様とお義母様と朗らかに話しているのを良いことに、わたくしのドレスにけちをつけてやろうと思っているようでした。わたくしのドレスはスカートに幾重にもレエスがかけられていて、わたくしに似合わないことを除けば、それはそれは上品な仕上がりなのですが、彼女のドレスは玉飾りや宝石などがあちこちに飾られていて、一目で贅を凝らしたものであると分かります。
うつくしいものは、それが贅沢であればあるほど良いものではなく、そこに品性やら美に対する感覚があるかどうかも問われるものですが、素人のわたくしからしても、彼女のドレスは、ただお金がかけられているだけの、下品なものでした。しかし彼女は、自分のドレスの方が良いと信じて疑っていないようです。
「わたくしね、ダイヤモンドのジュエリーも買ってもらったのよ。いくらしたか分かる?」
「志貴様に聞かれるわ」
わたくしのドレスの悪口を志貴様に聞かれると、損をするのは椎名の方だと暗に伝えると、頭の回転の速いほたるは気が付いたようでした。女に勉学は必要ないと言われている世の中ではありますが、賢さはやはり人を窮地に陥らせることはしないようです。どこか残念がるわたくしとほっとするわたくしの両方が存在することに少し辟易して、わたくしはほたるが早くわたくしに飽きて、他の来客の、綺麗な殿方の方に行ってくれないかと祈りました。
ほたるをやり過ごした後、元はお母様付きだった女中に、わたくしの飲み物を零され、やはりわたくしの足を踏む金剛のせいで転び、人の視線を集め、惨めに思いました。志貴様に妹弟にやられたのだと言えば、もしかすると助けてくれるのかもしれませんが、妹弟を陥れるのも気が進まず、わたくしが転んだ理由に気が付かないのか、気が付いても何も言わないのであろう志貴様を、ぼんやりと恨めしく思いました。
お義母様に、必ず志貴様との子を授かり、椎名の家にさらなる恩恵をもたらすように言われ、ドレスや部屋の内装をよく見るように言われました。いい、分かる? 萩原様が毎月送ってくれるお金では足りないから、借金したのよ? 何が言いたいか分かるわね? そうよ、決して椎名に戻されるようなことをするんじゃないわよ? へましたらどうなるか、分からないほど馬鹿ではないわよね――。
どうやらわたくしが今日ここに呼ばれたのは、もう後戻りのできない椎名の現状を見せて、わたくしを脅すためだったようです。わたくしは改めて、西洋館に造りかえられた我が家を見回しました。机も椅子も装飾品も、高価なものであると分かりますが、きっとそれらのものは、英吉利やら仏蘭西やら独逸やら、様々な国のものがごちゃごちゃに混ぜられているのでしょう。一つひとつは美しい造りなのが分かりますが、一つの空間として見ると、まとまりがなく、いっそ煌びやかすぎて毒々しいのです。そんな下品な空間の中で、さらに下品なドレスを纏うお義母様とほたるは、奇怪な存在であるように見えました。鹿鳴館ですら、日本人の恰好がなっていないとか言われていて、鹿鳴館での外交は難航しているわけですから、それよりもさらにひどいであろう椎名の家は、西洋人にとって格好の笑いものでしょう。案の定、招かれた西洋人たちの中には、笑いを堪えたり、白けた表情をしたりしている者たちがいて、このような見栄のためだけに、わたくしとお母様の過ごした場所がなくなってしまったことを、虚しく思いました。
付け焼刃で覚えた西洋風の踊りを志貴様と踊り、その下手さ加減に彼の機嫌を損ねました。彼だって上手ではないでしょうに、彼を立てられないことを、不快に思わせてしまったようです。パーティーがお開きになると、わたくしはぐったりと疲れ、馬車の中で罵られつつも家に帰って、着替えだけ済ませると、泥のように眠りました。
慣れぬ靴のせいで擦り切れた踵を気遣うものは、わたくしを含めて誰もいませんでした。



