箱根の旅行の後半は、ほとんどゆったりして過ごしました。蘿月様が少々酒を飲みすぎてしまったこともありましたが、床に気持ち悪そうに寝転ぶだけで、お父様のようにすぐに怒るわけでもなく、叩くわけでもなく、ただ、彼に一生懸命水を飲ませるだけで良かったので、むしろ、吐き気が落ち着いてきた後の彼の寝顔を可愛らしく、いじらしく思ったほどでした。
抱いてほしいと頼み込んだその日以降、彼に再び同じお願いをすることはありませんでしたが、夜が冷え込んできたのを言い訳に、布団に潜り込むのはやめませんでした。お母様に抱きかかえられながら眠ったことを思い出した、と彼に伝えると、驚いたような、嬉しいような、悲しいような、複雑そうな顔をされましたが、少し経つと、彼を夫だと意識して、少々恥ずかしく思いましたが、そうすると彼は、わたくしを揶揄うように、離さないとばかりに抱きしめてくるのです。彼の裸体に触れ、わたくしもまた触れられたことを思い出し、頬を熱くするわたくしを彼は愛おしそうに見つめて、幸せのかたちを、また一つ知りました。
そうやって何度も触れ合ったからか、彼の身体の靄は胸のあたりにまで下がり、彼の顔色も、少しずつ良くなってきたように見えました。しかし、彼に尋ねると、表に滲んでいる祟りや呪いが少し消えてきただけで、体内にはまだたくさんの呪いや恨みつらみが隠れているということで、わたくしの前世が果たせなかったお役目を、わたくしが果たしてみせようと思うのです。そうすれば、翡翠もいくらか救われるでしょうから。そして蘿月様も。
その日の昼間、腕羅さんの元を訪れると、腕羅さんは出来上がった刀の横で、大きくいびきをかきながら寝ていました。蘿月様が鼻提灯を破ると、腕羅さんは慌てて飛びのいて、「あ、はい、できました、この通り」と言うのでした。
太刀になるのでしょうか。大ぶりの刀を蘿月様が腰に下げると、まるで初めからそこにあったかのように、馴染みます。ただ、勇ましいというよりは、どこか悲しいような気がしました。
「良い出来だな」
蘿月様が刀を抜きはらい、ひゅっと振ると、空気がしんと冷たくなるような、そういう痛みに似た何かを感じます。蘿月様もそれを感じ取ったようで、慌てたようにこちらを見たのですが、腕羅さんは「人間には悪さしねえよ」と言いました。少々この手のことに勘が鋭い人間が、気を感じる程度だそうです。
「それは屍鬼特化の刀さ。他のあやかしも斬れることは斬れるが、まあ、特別な効果を持ちはしない。代わりに、屍鬼のための呪符を五百枚、染み込ませた」
一太刀浴びせれば真っ二つ、もう一太刀浴びせれば消滅――。腕羅さんがまるで舞台に立つ役者のように、大げさな身振り手振りで刀を振るう動きをして、蘿月様がじっくりとそれを目で追います。
「ただ、しばらくはお前とその刀、喧嘩するだろうよ。持っていて苦しいだろう」
喧嘩、とは。わたくしが蘿月様の刀を見下ろしますと、わたくしにはよく分からないものではあるのですが、不思議な、そして怪しい「気」を纏っているような気がします。蘿月様が、ほんの少し脂汗をかいて刀を収めたのを、わたくしは見逃しませんでした。
「俺の刀は持ち主よりも強い。そう信じている粋なやつだ。飼いならすまでは志貴に挑むのはやめることだな。やりあってる間にへそ曲げられたらたまらねえからな」
刀の名は黒橡。喪服にも用いられる染料の名でもあります。腕羅さん曰く、蘿月様は戦う力を本来持っていないとのことで、今はその身体から滲む呪いがその役割を果たしているが、すぐに戦えるだけの呪いは消えるだろうと。その刀にも呪いを染み込ませてあるが、多すぎるそれは意思を持っていると。飼いならしさえすれば、蘿月様のうちに収まりつつある呪いや祟りの力を引き出して戦えると、そういうことなのだそうです。
「当然、お前の身体の祟りが多い方が力を引き出せる。早急に飼いならせ」
「分かった」
「ちょっと山に入って振ってきてごらん。危ないから琥珀は置いていけ」
いってらっしゃいまし。わずかに不安そうにこちらを見る彼に微笑むと、彼はすぐに戻ると言って、わたくしの頭を撫でて、古い民家から出ていきます。後にはわたくしと腕羅さんが取り残され、少々気まずく思ったのですが、きっと彼が話したいことがあるのではないかと思いましたので、刀の礼を言うことにしてみました。すると彼はどこか晴れやかな笑顔で、昔話をしても良いか、と聞いてくるのです。
「え、ええ。もちろん。蘿月様に関わること、でしょうか」
「ああ。あと躑躅だな」
彼はわたくしに茶を出そうとして、古すぎる茶葉しかないことに気が付いたようで、手いたずらをして誤魔化しながら座りなおします。そして語り出したのは、彼がまだ千子村正に弟子入りする前の、まだ、ただ妖刀を作ろうと苦心していた頃の話でした。それは、蘿月様に聞こうとして、話が逸れてしまった、二人の過去の話でもありました。
彼の元に最初に訪れたのは躑躅さんだったそうです。わたくしを志貴様に殺された後だったとのことで、真っ先に復讐の炎を燃やし、悲しみを復讐で癒そうとしたのでしょう。騙すこと、ひとに紛れて暮らすことに長けている妖狐であっても、化け物となった人間に太刀打ちすることはできないようで、腕羅さんに刀を打ってくれと頼みこんだそうです。しかし躑躅さんには戦う力に変えることのできる妖力が存在しないことが判明し、ならば蘿月様に復讐をさせようと、躑躅さんは腕羅さんを、当時の住処であった三重から鎌倉に引きずっていったようで。そうして蘿月様と出会ったそうです。
「あれは脆い男よ。お前を喪ってから寝込みがちだったようでな。躑躅も業を煮やして、蘿月を復讐に焚きつけようと必死だった。あいつ、自分なら結界の中に潜り込めるのに、自分が何もできないというんで、相当悔しかったんだろうな。下手をして志貴に食われたら、もう屍鬼が手に負えなくなっちまう。だから蘿月にやらせようとした」
「ですが、蘿月様は出来なかったのですね」
わたくしが呟くと、腕羅さんは頷きました。
「そうさね。悲しみに悲しんで、それからやっと、せめて骨を取り返しに行きたいと言って、三百年近く。躑躅が復讐で悲しみを隠したのに対して、あれはそのまま、癒す方法も隠す方法も分からずに悲しんだ。お前に復讐なんか出来るわけなかろうよ、と言ったんだがな、復讐ではない、けじめだと言うんだ」
蘿月様らしい、と思い、少々微笑ましく思ったのですが、腕羅さんは、ここでは笑わず、ただ手いたずらを続けます。
「まあ、取りに来なかったがな。ああ、こいつには無理だったのだ、とおれはなんだか安心しちまって、百年前に刀を溶かしたんだな。だがまあ、今になって、お前さんを守るための刀が欲しいと言う。それはもう、作るしかなかろうよ」
あれは守り神である時がもっとも感情が豊かだよ、と彼は付け足しました。それから恐る恐る、「お前も復讐を望まない生き物だろう。我慢している方が良いと思うだろう? お前のためでなく、あいつのために許してくれないか」と言うのでした。わたくしは少々困り、曖昧に微笑みました。そう、わたくしは復讐など望んではいません。ただわたくしが、これから先、穏やかに暮らせれば良いと願う気持ちの方が強く、わたくしが彼らを反対に虐げても、わたくしの安寧に繋がらないと分かりますから、わたくしのため、とは言わないでほしいとは思ってしまいます。皆それを分かって、蘿月様のためだと言うのでしょう。
「志貴様が、咎められることを、わたくし以外にもしているようですから。わたくしのためだとしても、わたくしは止めません」
それに、このままにしておけば、わたくしの生まれ変わりの子が可哀そうですから。そう付け足して、頷くと、腕羅様はほっとしたように笑うのでした。
「聞いた話だと、お前と魂を同じくするかんなぎたちは皆、しなやかでありながらも強い心を持っていた、という。まさにお前さんのようだな」
「褒められ、ました?」
「褒めてるよ、受け取れ」
首を傾げるわたくしに彼がけらけらと笑い、それから、蘿月様の帰りを待ちました。わたくしが蘿月様と躑躅さんの話をねだっている頃に、嫌な汗をどうやら泉で洗い流して来たらしい蘿月様が戻ってきて、「暴れ馬だが、良い出来だ」と言うのでした。
少し休憩を取り、蘿月様がお代として妙薬と神酒を腕羅さんに渡し、そうして、箱根での旅行も用事もすべて終わりました。ばくぜんと、自分の運命というものを身に染みて感じた一週間でした。
抱いてほしいと頼み込んだその日以降、彼に再び同じお願いをすることはありませんでしたが、夜が冷え込んできたのを言い訳に、布団に潜り込むのはやめませんでした。お母様に抱きかかえられながら眠ったことを思い出した、と彼に伝えると、驚いたような、嬉しいような、悲しいような、複雑そうな顔をされましたが、少し経つと、彼を夫だと意識して、少々恥ずかしく思いましたが、そうすると彼は、わたくしを揶揄うように、離さないとばかりに抱きしめてくるのです。彼の裸体に触れ、わたくしもまた触れられたことを思い出し、頬を熱くするわたくしを彼は愛おしそうに見つめて、幸せのかたちを、また一つ知りました。
そうやって何度も触れ合ったからか、彼の身体の靄は胸のあたりにまで下がり、彼の顔色も、少しずつ良くなってきたように見えました。しかし、彼に尋ねると、表に滲んでいる祟りや呪いが少し消えてきただけで、体内にはまだたくさんの呪いや恨みつらみが隠れているということで、わたくしの前世が果たせなかったお役目を、わたくしが果たしてみせようと思うのです。そうすれば、翡翠もいくらか救われるでしょうから。そして蘿月様も。
その日の昼間、腕羅さんの元を訪れると、腕羅さんは出来上がった刀の横で、大きくいびきをかきながら寝ていました。蘿月様が鼻提灯を破ると、腕羅さんは慌てて飛びのいて、「あ、はい、できました、この通り」と言うのでした。
太刀になるのでしょうか。大ぶりの刀を蘿月様が腰に下げると、まるで初めからそこにあったかのように、馴染みます。ただ、勇ましいというよりは、どこか悲しいような気がしました。
「良い出来だな」
蘿月様が刀を抜きはらい、ひゅっと振ると、空気がしんと冷たくなるような、そういう痛みに似た何かを感じます。蘿月様もそれを感じ取ったようで、慌てたようにこちらを見たのですが、腕羅さんは「人間には悪さしねえよ」と言いました。少々この手のことに勘が鋭い人間が、気を感じる程度だそうです。
「それは屍鬼特化の刀さ。他のあやかしも斬れることは斬れるが、まあ、特別な効果を持ちはしない。代わりに、屍鬼のための呪符を五百枚、染み込ませた」
一太刀浴びせれば真っ二つ、もう一太刀浴びせれば消滅――。腕羅さんがまるで舞台に立つ役者のように、大げさな身振り手振りで刀を振るう動きをして、蘿月様がじっくりとそれを目で追います。
「ただ、しばらくはお前とその刀、喧嘩するだろうよ。持っていて苦しいだろう」
喧嘩、とは。わたくしが蘿月様の刀を見下ろしますと、わたくしにはよく分からないものではあるのですが、不思議な、そして怪しい「気」を纏っているような気がします。蘿月様が、ほんの少し脂汗をかいて刀を収めたのを、わたくしは見逃しませんでした。
「俺の刀は持ち主よりも強い。そう信じている粋なやつだ。飼いならすまでは志貴に挑むのはやめることだな。やりあってる間にへそ曲げられたらたまらねえからな」
刀の名は黒橡。喪服にも用いられる染料の名でもあります。腕羅さん曰く、蘿月様は戦う力を本来持っていないとのことで、今はその身体から滲む呪いがその役割を果たしているが、すぐに戦えるだけの呪いは消えるだろうと。その刀にも呪いを染み込ませてあるが、多すぎるそれは意思を持っていると。飼いならしさえすれば、蘿月様のうちに収まりつつある呪いや祟りの力を引き出して戦えると、そういうことなのだそうです。
「当然、お前の身体の祟りが多い方が力を引き出せる。早急に飼いならせ」
「分かった」
「ちょっと山に入って振ってきてごらん。危ないから琥珀は置いていけ」
いってらっしゃいまし。わずかに不安そうにこちらを見る彼に微笑むと、彼はすぐに戻ると言って、わたくしの頭を撫でて、古い民家から出ていきます。後にはわたくしと腕羅さんが取り残され、少々気まずく思ったのですが、きっと彼が話したいことがあるのではないかと思いましたので、刀の礼を言うことにしてみました。すると彼はどこか晴れやかな笑顔で、昔話をしても良いか、と聞いてくるのです。
「え、ええ。もちろん。蘿月様に関わること、でしょうか」
「ああ。あと躑躅だな」
彼はわたくしに茶を出そうとして、古すぎる茶葉しかないことに気が付いたようで、手いたずらをして誤魔化しながら座りなおします。そして語り出したのは、彼がまだ千子村正に弟子入りする前の、まだ、ただ妖刀を作ろうと苦心していた頃の話でした。それは、蘿月様に聞こうとして、話が逸れてしまった、二人の過去の話でもありました。
彼の元に最初に訪れたのは躑躅さんだったそうです。わたくしを志貴様に殺された後だったとのことで、真っ先に復讐の炎を燃やし、悲しみを復讐で癒そうとしたのでしょう。騙すこと、ひとに紛れて暮らすことに長けている妖狐であっても、化け物となった人間に太刀打ちすることはできないようで、腕羅さんに刀を打ってくれと頼みこんだそうです。しかし躑躅さんには戦う力に変えることのできる妖力が存在しないことが判明し、ならば蘿月様に復讐をさせようと、躑躅さんは腕羅さんを、当時の住処であった三重から鎌倉に引きずっていったようで。そうして蘿月様と出会ったそうです。
「あれは脆い男よ。お前を喪ってから寝込みがちだったようでな。躑躅も業を煮やして、蘿月を復讐に焚きつけようと必死だった。あいつ、自分なら結界の中に潜り込めるのに、自分が何もできないというんで、相当悔しかったんだろうな。下手をして志貴に食われたら、もう屍鬼が手に負えなくなっちまう。だから蘿月にやらせようとした」
「ですが、蘿月様は出来なかったのですね」
わたくしが呟くと、腕羅さんは頷きました。
「そうさね。悲しみに悲しんで、それからやっと、せめて骨を取り返しに行きたいと言って、三百年近く。躑躅が復讐で悲しみを隠したのに対して、あれはそのまま、癒す方法も隠す方法も分からずに悲しんだ。お前に復讐なんか出来るわけなかろうよ、と言ったんだがな、復讐ではない、けじめだと言うんだ」
蘿月様らしい、と思い、少々微笑ましく思ったのですが、腕羅さんは、ここでは笑わず、ただ手いたずらを続けます。
「まあ、取りに来なかったがな。ああ、こいつには無理だったのだ、とおれはなんだか安心しちまって、百年前に刀を溶かしたんだな。だがまあ、今になって、お前さんを守るための刀が欲しいと言う。それはもう、作るしかなかろうよ」
あれは守り神である時がもっとも感情が豊かだよ、と彼は付け足しました。それから恐る恐る、「お前も復讐を望まない生き物だろう。我慢している方が良いと思うだろう? お前のためでなく、あいつのために許してくれないか」と言うのでした。わたくしは少々困り、曖昧に微笑みました。そう、わたくしは復讐など望んではいません。ただわたくしが、これから先、穏やかに暮らせれば良いと願う気持ちの方が強く、わたくしが彼らを反対に虐げても、わたくしの安寧に繋がらないと分かりますから、わたくしのため、とは言わないでほしいとは思ってしまいます。皆それを分かって、蘿月様のためだと言うのでしょう。
「志貴様が、咎められることを、わたくし以外にもしているようですから。わたくしのためだとしても、わたくしは止めません」
それに、このままにしておけば、わたくしの生まれ変わりの子が可哀そうですから。そう付け足して、頷くと、腕羅様はほっとしたように笑うのでした。
「聞いた話だと、お前と魂を同じくするかんなぎたちは皆、しなやかでありながらも強い心を持っていた、という。まさにお前さんのようだな」
「褒められ、ました?」
「褒めてるよ、受け取れ」
首を傾げるわたくしに彼がけらけらと笑い、それから、蘿月様の帰りを待ちました。わたくしが蘿月様と躑躅さんの話をねだっている頃に、嫌な汗をどうやら泉で洗い流して来たらしい蘿月様が戻ってきて、「暴れ馬だが、良い出来だ」と言うのでした。
少し休憩を取り、蘿月様がお代として妙薬と神酒を腕羅さんに渡し、そうして、箱根での旅行も用事もすべて終わりました。ばくぜんと、自分の運命というものを身に染みて感じた一週間でした。



