「沙夜が母親を殺めた——」
 美朝の言葉に、影玄は顔をしかめた。この娘の言う事を真に受けるつもりはない。だが沙夜を貶めるにしても物騒な話である。
 美朝は真顔のまま頷き、秘密を打ち明けるように声を落とした。
「あの子は七歳の頃に、母親を殺したのです。それ以来我が家はあの子を恐れ、力を封印しました。だってそうでしょう? 触れるだけで命を奪える人間と、どうやって暮らしていけますか。もしかするとあの子は私たちの悪口を鴛宮様に吹き込んでいるかもしれませんが、そういう事情がありましたのよ」
「それにしては、あの手袋はただの呪物だったようだが」
 淡々と指摘してやると、「あら」と美朝は目を丸くした。しかしすぐに柔らかく微笑む。
「まあ、そうでしたの。でもおかげで私たちは生きておりますわ。重要なのは結果ではなくて?」
「知らなかったと?」
「あれを用意したのは父ですもの……。それならお姉様はずっと苦しんでいらしたのね。なんてお可哀想なのかしら。もし私が知っていたらきっとお止めしたのに」
 あたかも憤っているかのように美朝の語気が強まる。だが影玄はすでに白けた気分になっていた。発言がコロコロ変わって全く信用できない。こういう手合いは無視するに限る。
 だが、と、美しく装った美朝に目を眇めた。見目だけは愛らしい少女だ。しかも日輪の巫女だ。この少女が尤もらしく言えば、信じてしまう人間はいるだろう。美貌と地位がどのように周囲の人間を圧倒するか、影玄自身よく理解していた。
 だからこそ、影玄は人の本質を見極める時、行動だけを注視する。
「何を心配しているのか知らんが、沙夜はお前たち父子の悪口など一言も言わなかった。ただ自らの務めを果たしているだけだ」
「……ふふっ。さすがはお姉様ですわ。いかにも可哀想な様子で、気を引くのがお上手」
 美朝の唇の端がひくりと歪む。華やかな紅の塗られた唇も、そこから吐き出される言の葉も、何もかもが無性に汚く感じられて、影玄は畳みかけた。
「沙夜が母親を殺めたと言うが、お前の話を一方的に信じる気はない。詳しくは沙夜から聞く。以上だ。日輪の巫女殿にはお帰り願おう」
「そんな、お待ちくださいな」
 立ち上がった影玄を引き止めるように美朝が声をあげた。耳に刺さる声の甲高さに眉をひそめていると、美朝が椅子を蹴立て、ひしと影玄に抱きついてくる。
「私の方があの子より鴛宮様にふさわしいですわ」
「何をほざいている? 一刻も早く離れろ」
 この女を構成する全てが不愉快だった。こちらを締めつける腕の力も、ほのかに香る甘ったるい香水の匂いも、間近で見上げてくる潤んだ瞳も。社交界で数多の女から秋波を送られてきたと自負している影玄だが、その中でも一二を争う不快さだった。
「嫌です、離れませんわ」
「俺はお前に『お願い』している訳ではない。離れろと命じたのが聞こえなかったか?」
 腕力の差にものを言わせ、美朝をはっきりと遠ざける。美朝は「きゃあっ」といかにもか弱そうによろめいたが、影玄の心には何ら動揺を与えなかった。これが沙夜だったら、と思考の端で考える。たぶん、自分は手を差し出すだろう。治癒をしてくれる唯一の花嫁だから——いや違う。彼女が転ぶところを見たくないからだ。彼女は転んでも、きっと平気な顔をしているから。あの蝕魔に襲われていた夜のように。
「乱暴ですわ、私は日輪の巫女ですのよ」
 たたらを踏んだ美朝が、大きな目を潤ませる。意味深に襟元に手をやり、白い首筋を曝け出した。
「影玄様とて一人の殿方でしょう。美しい女が欲しいと思いませんの?」
「滑稽だな、そんなものはとうに手に入っている。お前のような下劣な人間には一生理解できないだろうが」
「な……っ!」
 あからさまな侮辱に気色ばむ美朝の背後、陽光の差し込む窓がふいに真っ暗になり、影玄は弾かれたように窓辺に駆け寄った。
「まあ、影玄様っ。やはり私を選んでくださるのね」
「どけ、邪魔だ。……何が起きている」
 まるで夜が訪れたようだった。本部の前庭では、隊員が泡を食って月光の当たらない軒下へ避難しようとしている。するとその内の一人がある方向を指差し、逃げ惑っていた隊員たちが呆然とした表情で天を仰いだ。
 影玄もつられてそちらを向く。暗黒の夜空に煌々と輝く満月、その一条の光が差す先を。
 執務室の扉がバタンと開き、飛び込んできた葵が息を切らして報告した。
「影玄様! 緊急事態です! 帝都の西、堂上邸に月禍が現れました!」