沙夜は困っていた。
「え、ええと、亨様。父が呼んでいるからとついて参りましたが、まだ父は戻らないのですか……?」
「ううん、どうやら入れ違いになってしまったみたいだね。仕方がない。ゆっくり待とうか」
「はあ……」
見慣れた堂上家の座敷で、沙夜は居心地悪く肩を縮めていた。いつもは給仕側だったというのに、今は座卓を挟んで亨と座り、目の前にはお茶も出されている。茶菓まである。それがとっておきの来客にしか出さない舶来物のケーキだと、厨で働いていた沙夜は気づいた。
買い物をしようと帝都の大通りを歩いていたところ、警邏中の亨とばったり会い、父の巌が沙夜に用事があると告げられた。それでのこのこついて来たが、不用心だっただろうか。
気まずい空気に飲み食いする気にもなれず、お茶がぬるくなっていくのを無言で眺めていると、亨がにこやかに口火を切った。
「まずは結婚おめでとう、かな。沙夜が鴛宮様と面識があったなんて知らなかったよ」
「ありがとう、ございます……」
「でも悔しいな。沙夜はぼくの婚約者だったのに。鴛宮様に横から掻っ攫われた気分だ。ぼくがずっと沙夜を好きだった事、知っていたかい?」
「え、ええ……?」
沙夜はお茶から顔を上げた。頬杖をついた亨が、悲しげな顔をして沙夜を見つめている。月禍の娘となってからはついぞ向けられた覚えのない、沙夜を一人の人間として認識しているらしい表情だった。
沙夜は顔をそらし、「いえ」と口中で呟いた。
「ご冗談はおやめください。亨様は美朝様にずっと夢中でしたでしょう」
「そんなことはないよ」
亨が身を乗り出してくる。座卓が揺れて、お茶が少し飛び散った。
「ぼくは美朝より沙夜が好きだったんだ。沙夜は可愛いよ。優しくて、性格もよくて、まさに理想の女性だ。ぼくは君が好きだ。鴛宮影玄と決闘する事になったって、君を手に入れたい」
「な、何を……」
目の前に迫る亨のぎらついた目に、沙夜は知らず身を引いていた。混乱した頭の隅で、この人は一体誰だろう、と思う。月禍の娘をさっさと見捨てて美朝に乗り換え、自分を足蹴にした人と同一人物なのだろうか。
「ああ、ごめん。怖がらせちゃったかな」
亨が笑顔のまま首を傾け、沙夜の方へ手を伸ばした。
「ねえ、ぼくたちやり直せないかな。沙夜だってぼくを好きだっただろう?」
沙夜は愕然とした。
この人は、それを知っていて——。
蹴りつけられた痛みがぶわりと蘇る。
暴力を振るわれたのは一度や二度ではない。月禍の娘は不吉だからと難癖をつけられ幾度も殴られ蹴られた。享は見せつけるように沙夜の前で美朝を可愛がり、沙夜に暴言を吐いた。
確かに沙夜はかつて享に恋していた。だがそれは十年も前のことだ。
幼い心に芽生えた柔らかな恋を無情に摘み取っていったのは、他ならぬ亨自身だったのに。
(この方は何をしようとしているの……?)
戸惑って声も出せないでいると、享が沙夜の肩に触れた。着物越しでもぬるい体温が伝わってくるようで、沙夜の二の腕に鳥肌が立つ。
「鴛宮影玄との結婚なんて嘘だろう? あの男は蝕魔の討伐にしか興味のない冷血漢だ。もしかして脅されているんじゃないかい? 取引の末に結婚するはめになったとか——」
取引。胸に冷たい痛みがさした。
(それは、そう、なのだけれど……)
影玄が沙夜を娶ったのは、沙夜の力が目的だ。愛されているわけではない。わかっていても、どうしてか息が苦しくなってくる。
亨は優しげに笑うと、俯く沙夜の肩をゆっくり撫でた。
「やっぱりそうなんだね。でも大丈夫、ぼくが君を守るよ。だから鴛宮影玄とは離縁して、ぼくを選びなよ」
「なっ……?」
座卓に落ちた視線を跳ね上げる。亨のニヤニヤ顔が眼前にあった。
「花嫁に捨てられた男の顔は見ものだろうなぁ。それがぼくを選んだと知ったら、さぞ胸がすくだろうよ。ふん、討禍隊でぼくを降格させやがって。ちょっと討伐に失敗しただけなのに……」
ぶつぶつぼやいている。それからはっと表情を繕い、沙夜に触れる手に力をこめた。
「なあ沙夜、どうせあの男は沙夜を愛したりしない。それよりはぼくのそばにいろ。ぼくは月禍の娘だとしても気にしないよ。直接触れなくたって、心は繋がれる。そうだろう?」
嫌だ、と思った。
ただただ触らないでほしかった。
あの夜、影玄だって沙夜の手を握った。でもあの時とは全然違った。どうしてだろう。影玄は霊力が釣り合っていて、直接触れるから?
そんな訳がない。
(あの方は、私を傷つけようとはしなかった)
レースの手袋に包まれた手を握る。影玄が贈ってくれた、繊細な花模様が刺繍された純白のそれは、沙夜のお気に入りだった。
急に娶るなんて強引だった。けれど影玄は沙夜の呪いを解いて、当たり前のように守ろうとしてくれた。だから沙夜だって、彼を守ろうと思ったのだ。そこに愛がなくたって。
享と影玄は、全然違う。
「なあ沙夜、いいだろう?」
享の顔が迫ってくる。沙夜は思い切り彼をつき飛ばそうとして、できなかった。逆に腕を掴まれてしまう。力が強い。敵わない。
(いや、嫌、来ないで——!)
いつだって願うのはただ一つ。
(夜よ、早く来い——!)
その瞬間、月光の弾けるような音ともに、昼の天蓋が砕け散った。
「え、ええと、亨様。父が呼んでいるからとついて参りましたが、まだ父は戻らないのですか……?」
「ううん、どうやら入れ違いになってしまったみたいだね。仕方がない。ゆっくり待とうか」
「はあ……」
見慣れた堂上家の座敷で、沙夜は居心地悪く肩を縮めていた。いつもは給仕側だったというのに、今は座卓を挟んで亨と座り、目の前にはお茶も出されている。茶菓まである。それがとっておきの来客にしか出さない舶来物のケーキだと、厨で働いていた沙夜は気づいた。
買い物をしようと帝都の大通りを歩いていたところ、警邏中の亨とばったり会い、父の巌が沙夜に用事があると告げられた。それでのこのこついて来たが、不用心だっただろうか。
気まずい空気に飲み食いする気にもなれず、お茶がぬるくなっていくのを無言で眺めていると、亨がにこやかに口火を切った。
「まずは結婚おめでとう、かな。沙夜が鴛宮様と面識があったなんて知らなかったよ」
「ありがとう、ございます……」
「でも悔しいな。沙夜はぼくの婚約者だったのに。鴛宮様に横から掻っ攫われた気分だ。ぼくがずっと沙夜を好きだった事、知っていたかい?」
「え、ええ……?」
沙夜はお茶から顔を上げた。頬杖をついた亨が、悲しげな顔をして沙夜を見つめている。月禍の娘となってからはついぞ向けられた覚えのない、沙夜を一人の人間として認識しているらしい表情だった。
沙夜は顔をそらし、「いえ」と口中で呟いた。
「ご冗談はおやめください。亨様は美朝様にずっと夢中でしたでしょう」
「そんなことはないよ」
亨が身を乗り出してくる。座卓が揺れて、お茶が少し飛び散った。
「ぼくは美朝より沙夜が好きだったんだ。沙夜は可愛いよ。優しくて、性格もよくて、まさに理想の女性だ。ぼくは君が好きだ。鴛宮影玄と決闘する事になったって、君を手に入れたい」
「な、何を……」
目の前に迫る亨のぎらついた目に、沙夜は知らず身を引いていた。混乱した頭の隅で、この人は一体誰だろう、と思う。月禍の娘をさっさと見捨てて美朝に乗り換え、自分を足蹴にした人と同一人物なのだろうか。
「ああ、ごめん。怖がらせちゃったかな」
亨が笑顔のまま首を傾け、沙夜の方へ手を伸ばした。
「ねえ、ぼくたちやり直せないかな。沙夜だってぼくを好きだっただろう?」
沙夜は愕然とした。
この人は、それを知っていて——。
蹴りつけられた痛みがぶわりと蘇る。
暴力を振るわれたのは一度や二度ではない。月禍の娘は不吉だからと難癖をつけられ幾度も殴られ蹴られた。享は見せつけるように沙夜の前で美朝を可愛がり、沙夜に暴言を吐いた。
確かに沙夜はかつて享に恋していた。だがそれは十年も前のことだ。
幼い心に芽生えた柔らかな恋を無情に摘み取っていったのは、他ならぬ亨自身だったのに。
(この方は何をしようとしているの……?)
戸惑って声も出せないでいると、享が沙夜の肩に触れた。着物越しでもぬるい体温が伝わってくるようで、沙夜の二の腕に鳥肌が立つ。
「鴛宮影玄との結婚なんて嘘だろう? あの男は蝕魔の討伐にしか興味のない冷血漢だ。もしかして脅されているんじゃないかい? 取引の末に結婚するはめになったとか——」
取引。胸に冷たい痛みがさした。
(それは、そう、なのだけれど……)
影玄が沙夜を娶ったのは、沙夜の力が目的だ。愛されているわけではない。わかっていても、どうしてか息が苦しくなってくる。
亨は優しげに笑うと、俯く沙夜の肩をゆっくり撫でた。
「やっぱりそうなんだね。でも大丈夫、ぼくが君を守るよ。だから鴛宮影玄とは離縁して、ぼくを選びなよ」
「なっ……?」
座卓に落ちた視線を跳ね上げる。亨のニヤニヤ顔が眼前にあった。
「花嫁に捨てられた男の顔は見ものだろうなぁ。それがぼくを選んだと知ったら、さぞ胸がすくだろうよ。ふん、討禍隊でぼくを降格させやがって。ちょっと討伐に失敗しただけなのに……」
ぶつぶつぼやいている。それからはっと表情を繕い、沙夜に触れる手に力をこめた。
「なあ沙夜、どうせあの男は沙夜を愛したりしない。それよりはぼくのそばにいろ。ぼくは月禍の娘だとしても気にしないよ。直接触れなくたって、心は繋がれる。そうだろう?」
嫌だ、と思った。
ただただ触らないでほしかった。
あの夜、影玄だって沙夜の手を握った。でもあの時とは全然違った。どうしてだろう。影玄は霊力が釣り合っていて、直接触れるから?
そんな訳がない。
(あの方は、私を傷つけようとはしなかった)
レースの手袋に包まれた手を握る。影玄が贈ってくれた、繊細な花模様が刺繍された純白のそれは、沙夜のお気に入りだった。
急に娶るなんて強引だった。けれど影玄は沙夜の呪いを解いて、当たり前のように守ろうとしてくれた。だから沙夜だって、彼を守ろうと思ったのだ。そこに愛がなくたって。
享と影玄は、全然違う。
「なあ沙夜、いいだろう?」
享の顔が迫ってくる。沙夜は思い切り彼をつき飛ばそうとして、できなかった。逆に腕を掴まれてしまう。力が強い。敵わない。
(いや、嫌、来ないで——!)
いつだって願うのはただ一つ。
(夜よ、早く来い——!)
その瞬間、月光の弾けるような音ともに、昼の天蓋が砕け散った。



