影玄が沙夜と結婚して二週間が経った頃。近頃、討禍隊本部に行くたびに周りがざわめくので、影玄は怪訝に思って葵に聞いた。
「最近、周囲がうるさいのは何なんだ」
「え、気づいていらっしゃらないんですか?」
 葵は訳あって小嵐家から引き取り、幼い頃から鴛宮で育てているため影玄に対しても微妙に距離が近い。上司である影玄の問いにも驚きましたと言わんばかりにぽっかり口を開いている。
「沙夜さんと結婚されてから、影玄様の機嫌がずっと良いですから。皆、怯えているだけですよ。これから一体どんな天変地異が起きるのかと」
「俺の機嫌が……? だとしても怯える事ではないだろう」
「夜の討伐の後も、うきうきしながら帰られるでしょう。指導はいつも通り厳しいのに、帰る時の足取りの軽さと言ったら。結婚でこれほどまでに人は変わるものか、実は蝕魔が取り憑いているのではないか、とか好き勝手言って、周りは戦々恐々としてるんですよ」
「そうだったか……?」
 思い当たる節がない。本部の廊下を執務室に向かって歩きながら、影玄は宙を睨んだ。
 数奇な巡り合わせで出会った沙夜という少女は、全く奇妙な娘だった。
 そもそも、帝都で知らぬ者がいないであろう自分に対して治癒を申し出たところからして変だったし、恐るべき力を持ちながら、本人の気性がやたら素直なのも変だ。
 出会った時、沙夜の服装は貧相なものだった。〈月禍の娘〉という身の上から推し量れば、実家で良い待遇ではなかったのは想像がつく。だからこそ早くそこから引き離してやりたくて、強引に娶ったという面もある。
 それなのに、どうして彼女はあれほどまっすぐな性根をしているのだろう。
 挙げ句の果てに、影玄を守りたいなどと宣うのだろう。
 あの時の実直な眼差しを思い出すと、影玄はどうにも妙な気分になる。その目に絶えず自分を映していて欲しいような、それよりもっと美しい物を見ていて欲しいような。普段、他人に対してそんな事は思わないので自分でも驚いている。
 隣を歩く葵がほのぼのした口調で言った。
「沙夜さんのおかげですね。鴛宮本邸に帰宅するといつも出迎えてくださって、良い方だと分かります!」
「……まあ、そうだな」
 討伐後、本邸に戻るといつも沙夜が迎えてくれる。影玄が与えた手袋を付けた手を大きく振って「お帰りなさいませ」と玄関から駆け出てくる様は愛らしい。月の光を浴びて銀に変じた髪が揺らめくのも気に入っている。
 別にそこまで急いで出迎えなくてよいとは伝えてあるのだが、そうすると沙夜はしょんぼり肩を落として「……ですが、治癒は一秒でも早い方がよいかと」と譲らない。万事において控えめな娘だが、自分が固く決めた事に関しては引かない芯の強さがある。それもまた悪くない。
「あのお顔を見ると、沙夜さんの治癒が誰にでも効けば良かったのにと思います。嬉しそうに迎えてもらえると、討伐の疲れも吹き飛びますよね」
 霊力が高すぎるためか、沙夜の力は影玄にしか効かなかった。試しに葵を治癒させてみたところ、穢れは祓えたものの、過剰反応で葵が鼻血を出し実験はやむなく中止となった。
「誰にでも、か」
 その様子を想像するとむやみに面白くない心地になる。沙夜は自分の花嫁なのだ。他の誰にも触れさせたくない。別に愛を乞うて結婚した訳ではないから、彼女が誰を想おうが自由だが……。
 ——詮なき事を考えている。
 雑念を振り払うように軽く肩をすくめ、辿り着いた執務室の扉を開けると先客がいた。
「誰だお前は」
「お初にお目にかかります。〈日輪の巫女〉の堂上美朝ですわ。堂上沙夜の双子の妹でもあります」
「……ほう」
 胡乱な闖入者に、影玄はきつく眉根を寄せた。
 美朝と名乗る少女は、来客用の椅子に悠々と腰かけている。華やかな桜柄の振袖に身を包み、影玄に向かってにっこり微笑んだ。
 なるほど確かに、顔立ちは沙夜と瓜二つだ。
 背後の葵に目配せして退出を命じ、影玄は美朝の向かいに腰を下ろした。
「ここは討禍隊の本部だ。どうやって忍び込んだ?」
「いやですわ。私は〈日輪の巫女〉ですもの。多少の融通は利かせられますの。それに、鴛宮様の義理の妹でもありますし」
 警備の甘さを責任者に追及せねばなるまい。影玄は足を組み、肘掛けに肘をついた。
「こちらも忙しい。話なら早く済ませろ。何の用だ」
「姉の事ですわ。鴛宮様は、姉の罪をご存知?」
「——罪?」
「ああ、やっぱり姉はそれを話していなかったのですね。お可哀想に……」
 美朝が袖で顔を隠す。そのわざとらしい仕草に苛々した。出会った時、抱き上げた沙夜の軽さを思い出す。
 沙夜に呪いのかかった手袋を渡したのは、この妹と父親だという。だとすれば彼らの関係性は推して知るべしだ。こちらに会いに来たのもどうせ碌な用事ではあるまい。
 自分の仕草が少しも影玄に響いていないと気づいたのだろうか。美朝は泣き真似をやめると、すっと真顔になった。
「お姉様は、私たちの母を殺めたのですよ」