誰かが喚き立てる声とそれに応じる落ち着いた声のやり取りに、沙夜の意識は浮上した。
「どこから連れてきたんですかこの女の子!」
「その辺だ」
「他人様のお家のお嬢さんでしょう!? どうするんですか!」
「花嫁にする。花嫁選定の儀なんて茶番をせずに済んでよかったな」
「完全なる人攫いじゃないですか!」
「文句があるか? 本人に聞いてみるとしよう。——沙夜、起きたな?」
落ち着いている方の男に水を向けられて、沙夜はパチリと目を開けた。
広々とした洋室だった。やたらふわふわした物に体を包まれていると思ったら、豪奢なベッドに寝かされていた。ぎょっとして半身を起こし、辺りを見回す。
恐らく客間なのだろう。ベッドの他には机とソファが置かれ、そこに二人の男が座っていた。
一人は先ほどの長身の男で、優雅に足を組んでいる。その向かいに座った軍服姿の少年が、弾かれたように沙夜の方を向いた。
「あ、あの……ここは……? そしてあなた方はどなたでしょうか……」
「ここは鴛宮家の本邸だ。俺は鴛宮影玄。そっちの小さいのは部下の小嵐葵だ」
「小嵐家の次男、葵と申します。って影玄様、それさえ説明せずに誘拐したんですか!?」
「同意を得た上で来てもらっている。葵、彼女に茶を運んでくれ」
「ぐぬ……承知しました。沙夜さん、ゆっくり休んでくださいね」
葵と呼ばれた少年は一礼すると、部屋を去っていった。
室内に、しんと静寂が落ちる。
風が吹き込んだのか、大きな窓にかかったカーテンがわずかに翻った。隙間から窺える空は白み始めている。結構な時間、意識を失っていたようだ。
それでさっきまでの記憶が蘇り、沙夜は嵐のような混乱に襲われた。
(お……鴛宮影玄様!? あの鴛宮家の当主だという? そ、そんな方が私を花嫁にと仰ったの?……夢?)
「もしかすると、夢ではないかと思っているかもしれないが」
心を読まれたようでどきりとする。影玄は顔つきを引きしめ、真剣な視線を沙夜に注いでいた。嘘も揶揄もない、透き通った眼差しだった。
「俺は心の底から沙夜を望んでいる。俺の花嫁になれ。悪いようにはしない」
「な、なぜ私を……?」
沙夜はぎゅっと布団を握った。上質そうな布団に皺が寄ったが、構う余裕もなかった。
「なぜ、か。当然の問いだな」
影玄がおもむろに腕を差し出す。傷はすっかり塞がり、軍服だけが一文字に切り裂かれていた。
「本来、俺は霊力が高すぎるゆえに治癒が効きづらい。普段は月祓宮の巫女が十人がかりで穢れを祓っている。それでも足らないくらいだ」
「じゅ、十人……」
「それを沙夜は一人で完璧にやってのけた。沙夜も霊力が高いのだろう。花嫁になって、俺の治癒をしてくれないか」
沙夜は瞬き、意味を咀嚼してきょとんと首を傾げた。
「つまり、私は治療係ということですか? それなら花嫁にならなくてもよいのでは……?」
巫女として影玄の部下にでもなればよい。あの小嵐という少年のように。
影玄が薄く笑い、軍服の隠しから何かを取り出した。
かたわらの机にそれを放る。その禍々しい気配に、沙夜はハッと身を固くする。
黒ずんだ呪札に、髪の巻かれた藁人形。
呪具だった。
「これらは全て、俺を呪うための物だ。鴛宮家の当主かつ討禍隊の隊長という立場は、あらゆる危険を引き寄せる。この状況下で専属の巫女など作れば、結果は火を見るより明らかだろうよ。沙夜を守るためには、ただの巫女では足らん。花嫁にすれば、四六時中にともにいても文句を言われまいからな」
「し、四六時中……」
ともにいるつもりなのか。この美しい人の隣に自分が並んでいる情景なんて全く想像できなくて、沙夜は曖昧に頷いた。
状況はよく呑み込めないが、治癒を望まれるなら話さなくてはならないことがあった。
「あの……たぶん、ご期待には添えないと思います。私は月禍の娘です」
「噂には聞いている。人の命を奪う力を持っていると」
影玄はごまかさなかった。けれど責めるでもなく、特別視するわけでもない、ただ事実を述べただけのような温度に、沙夜の緊張がわずかに緩む。恐る恐る、手袋に覆われた両手を持ち上げた。
「わ、私は直接触れた相手の命を奪います。おそばにいれば、影玄様に危険が及びます」
「だが先ほどは治癒しただろう?」
不審げな影玄に、沙夜は詳しく事情を説明した。月禍の娘となってから、月夜だけは能力が反転する事まで。話せば話すほど影玄の眉間に皺が刻まれていく。暴君、と評した享の声がよぎった。泥でも飲んだように不愉快そうな表情に、やはり自分は忌み嫌われる存在なのではないかと不安が募る。
やがて話し終えると、影玄は恐ろしく凄みを帯びた声で言った。
「呪言が刻まれた手袋だと?」
「は、はい……」
「近くで見せてみろ」
立ち上がってベッドのそばまで来ると、影玄は沙夜の肘をそっと掴み、手袋に目を近づけた。朝焼けのような瞳が深みを増し、眩いほどの金色にきらめく。沙夜はちょっと瞬きをした。意識が吸い込まれてしまいそうだったのだ。
程なくして、ふ、と影玄が息を吐いた。
「これは能力封じの呪言ではない。ただ痛みを与えるだけの代物だ」
刹那、沙夜の頭は真っ白になった。
「痛み、を……?」
その言葉が頭に染み込むにつれて、両手が小刻みに震え始める。真っ黒な薄絹に、隙間なく呪言が書かれた手袋をかざした。この十年、沙夜に痛みを与え続けた物。母の死後、父と妹が「二度と人を殺めないように」と着用を命じた。神経を焼く痛みに耐えられたのは、人の命を奪わずに済むと信じていたからだ。
背中にじわりと嫌な汗が浮いた。急速に口が渇いてゆき、もつれる舌で縋るように問いかける。
「ほ、本当に……?」
「こういう類の呪物は腐るほど見てきた。間違いない」
「で、でも……」
幼少期、痛みにもがく沙夜を、父も妹も心配そうに見ていた——本当にそうだっただろうか。あまりの苦しみに記憶が捻じ曲がっていないか?
苦しむ自分を家族が嘲笑うなんて信じたくなくて、都合のいい夢を見たのではないか?
手袋に書かれた呪言がぐにゃりと歪む。違う、歪んだのは自分の視界だ。今まで信じてきた、かくあるべしと強いられてきた、世界の土台だ。
は、は、と呼吸が浅くなり、意識が闇に呑まれかける。
ふいに、温かなものが頬に触れた。
影玄の手のひらだった。
「呪言などなくとも、直接触れなければいいのだろう。それに、破滅の力は俺なら対抗できる。同程度の霊力の持ち主同士で、治癒と違って祈りが込められていないからだ。今も平気だろう」
影玄の右手が、沙夜の頬を優しく包んでいる。影玄は苦しむ気色もなく、ただ気遣わしげに沙夜を見つめていた。はく、と喘ぐように息を吸って、沙夜はぎこちなく首を振る。
「そ、れは、夜だから、で……」
「気づいていないのか? もう朝は来ているぞ」
そのとき風が吹き抜けて、カーテンが一際大きくはためいた。
あ、と沙夜は目を見開いた。
硝子窓の向こうに、金色の朝焼けが広がっている。帝都の街並みの向こうから顔を出した太陽が、晴空を神々しいばかりの光に染めていた。街はまだ微睡の中、この部屋にはどんな喧騒も届かない。
眩さが目に沁みて、どうしようもなく涙がこみあげた。
頬に触れていた影玄の指が、沙夜の髪を一筋掬う。
「髪も黒色に戻っているな。あの銀色も美しかったが、黒もよく似合う」
影玄の唇に、淡い笑みが滲む。沙夜は両手を握りしめ、その朝焼けみたいな金色の瞳を見上げた。
「私……私は、月禍の娘です。でも、この力で誰かの命を奪いたくはないのです……」
「そうか、ならば後で手袋を贈ろう。もちろん呪言のかかっていない物を。だからこれはもう不要だ」
影玄がそっと沙夜の手に触れる。固く握った拳を解き、長い指を沙夜の指に絡めた。す、と指先から手袋を引き抜こうとする。
沙夜の耳元で、鼓動が大きく轟いた。十年。十年だ。沙夜をずっと縛めてきた物だ。
「本当にいいのでしょうか……」
「いいに決まっている。不安なら俺の手でも握っておけ」
そうしてあっさりと手袋は外された。言葉通り、影玄はぎゅっと沙夜の両手を握ってくれた。久しぶりに外気に触れた素肌に、他人の温もりが柔らかく染み透る。それは長らく凍りついた沙夜の心まで溶かすようで、目から一滴、涙が零れた。手の甲に落ちた雫はじきに滲んで見えなくなる。
影玄が沙夜の顔を覗き込んだ。
「それで、求婚の返事はどうなんだ」
沙夜の答えはもう決まっていた。ゆっくり頭を巡らせて、テーブルに放置された呪具の数々を見やる。当たり前のように取り出されたそれ。影玄に向けられた悪意の塊。
「……あの呪いは、一体どなたから?」
「うん? まあ、様々だ。他の部隊長やら弟やらだな」
「……ご家族からも?」
「当然だろう。俺が死ねば、少なくとも鷲宮家当主の座は転がり込んでくる。妬ましくてならないだろうよ」
沙夜の急な問いに、やや面食らったように影玄が眉を上げた。沙夜はふっと顔を曇らせる。
悪意をぶつけられる痛みはよく知っている。それを当たり前に呑み込んでしまえるくらい、この人は強いのだろう。たぶん、本当は沙夜の助けなんか必要ないくらい。
でも。
(私のこの力で、少しでもお役に立てるなら)
ずっとずっと、恐れられ、忌み嫌われて生きてきた。この世の誰も、寄り添ってはくれないのだと思っていた。
それでも沙夜を望んで、求めてくれるというのなら。
肺の底まで息を吸い込み、沙夜は小さく頷いた。
「謹んでお受けいたします。……影玄様は私を守ると仰ってくださいました。だから、私も影玄様をお守りします。どれほど影玄様がお強くても、そういう人間が一人くらいいてもよいはずです」
「……なるほど、そうきたか」
影玄は虚を衝かれたように瞬き、そのまましばらく黙っていた。屋敷の使用人が起き出してきたのか、開け放した窓から微かな騒めきが流れ込んでくる。チチ、という軽やかな小鳥の鳴き声も。
何か間違った事を言っただろうかと沙夜が不安になった頃、おかしくてたまらないというように、影玄は肩を震わせて笑い出した。
「……ふっ、ふふ、この俺を守るとはな」
「私はおかしなことを言ってしまいましたか……?」
「いいや、これはとんだ幸運を引き当てたと思っただけだ」
扉の外からドタドタとした足音が近づいてくる。きっと葵が茶を持ってきたのだろう。そちらへ視線を移した影玄の横顔を眺めながら、沙夜はもう一度彼の手を握り返した。
(私が影玄様のお役に立てば……少しは、罪滅ぼしになるでしょうか、お母様)
すでに呪言の疼痛は霧散している。それでも過去を思えば胸に刺すような痛みが走って、沙夜は静かに目を伏せた。
——この力で一人殺めた自分でも、それくらいの夢は見てよいだろうか。
「どこから連れてきたんですかこの女の子!」
「その辺だ」
「他人様のお家のお嬢さんでしょう!? どうするんですか!」
「花嫁にする。花嫁選定の儀なんて茶番をせずに済んでよかったな」
「完全なる人攫いじゃないですか!」
「文句があるか? 本人に聞いてみるとしよう。——沙夜、起きたな?」
落ち着いている方の男に水を向けられて、沙夜はパチリと目を開けた。
広々とした洋室だった。やたらふわふわした物に体を包まれていると思ったら、豪奢なベッドに寝かされていた。ぎょっとして半身を起こし、辺りを見回す。
恐らく客間なのだろう。ベッドの他には机とソファが置かれ、そこに二人の男が座っていた。
一人は先ほどの長身の男で、優雅に足を組んでいる。その向かいに座った軍服姿の少年が、弾かれたように沙夜の方を向いた。
「あ、あの……ここは……? そしてあなた方はどなたでしょうか……」
「ここは鴛宮家の本邸だ。俺は鴛宮影玄。そっちの小さいのは部下の小嵐葵だ」
「小嵐家の次男、葵と申します。って影玄様、それさえ説明せずに誘拐したんですか!?」
「同意を得た上で来てもらっている。葵、彼女に茶を運んでくれ」
「ぐぬ……承知しました。沙夜さん、ゆっくり休んでくださいね」
葵と呼ばれた少年は一礼すると、部屋を去っていった。
室内に、しんと静寂が落ちる。
風が吹き込んだのか、大きな窓にかかったカーテンがわずかに翻った。隙間から窺える空は白み始めている。結構な時間、意識を失っていたようだ。
それでさっきまでの記憶が蘇り、沙夜は嵐のような混乱に襲われた。
(お……鴛宮影玄様!? あの鴛宮家の当主だという? そ、そんな方が私を花嫁にと仰ったの?……夢?)
「もしかすると、夢ではないかと思っているかもしれないが」
心を読まれたようでどきりとする。影玄は顔つきを引きしめ、真剣な視線を沙夜に注いでいた。嘘も揶揄もない、透き通った眼差しだった。
「俺は心の底から沙夜を望んでいる。俺の花嫁になれ。悪いようにはしない」
「な、なぜ私を……?」
沙夜はぎゅっと布団を握った。上質そうな布団に皺が寄ったが、構う余裕もなかった。
「なぜ、か。当然の問いだな」
影玄がおもむろに腕を差し出す。傷はすっかり塞がり、軍服だけが一文字に切り裂かれていた。
「本来、俺は霊力が高すぎるゆえに治癒が効きづらい。普段は月祓宮の巫女が十人がかりで穢れを祓っている。それでも足らないくらいだ」
「じゅ、十人……」
「それを沙夜は一人で完璧にやってのけた。沙夜も霊力が高いのだろう。花嫁になって、俺の治癒をしてくれないか」
沙夜は瞬き、意味を咀嚼してきょとんと首を傾げた。
「つまり、私は治療係ということですか? それなら花嫁にならなくてもよいのでは……?」
巫女として影玄の部下にでもなればよい。あの小嵐という少年のように。
影玄が薄く笑い、軍服の隠しから何かを取り出した。
かたわらの机にそれを放る。その禍々しい気配に、沙夜はハッと身を固くする。
黒ずんだ呪札に、髪の巻かれた藁人形。
呪具だった。
「これらは全て、俺を呪うための物だ。鴛宮家の当主かつ討禍隊の隊長という立場は、あらゆる危険を引き寄せる。この状況下で専属の巫女など作れば、結果は火を見るより明らかだろうよ。沙夜を守るためには、ただの巫女では足らん。花嫁にすれば、四六時中にともにいても文句を言われまいからな」
「し、四六時中……」
ともにいるつもりなのか。この美しい人の隣に自分が並んでいる情景なんて全く想像できなくて、沙夜は曖昧に頷いた。
状況はよく呑み込めないが、治癒を望まれるなら話さなくてはならないことがあった。
「あの……たぶん、ご期待には添えないと思います。私は月禍の娘です」
「噂には聞いている。人の命を奪う力を持っていると」
影玄はごまかさなかった。けれど責めるでもなく、特別視するわけでもない、ただ事実を述べただけのような温度に、沙夜の緊張がわずかに緩む。恐る恐る、手袋に覆われた両手を持ち上げた。
「わ、私は直接触れた相手の命を奪います。おそばにいれば、影玄様に危険が及びます」
「だが先ほどは治癒しただろう?」
不審げな影玄に、沙夜は詳しく事情を説明した。月禍の娘となってから、月夜だけは能力が反転する事まで。話せば話すほど影玄の眉間に皺が刻まれていく。暴君、と評した享の声がよぎった。泥でも飲んだように不愉快そうな表情に、やはり自分は忌み嫌われる存在なのではないかと不安が募る。
やがて話し終えると、影玄は恐ろしく凄みを帯びた声で言った。
「呪言が刻まれた手袋だと?」
「は、はい……」
「近くで見せてみろ」
立ち上がってベッドのそばまで来ると、影玄は沙夜の肘をそっと掴み、手袋に目を近づけた。朝焼けのような瞳が深みを増し、眩いほどの金色にきらめく。沙夜はちょっと瞬きをした。意識が吸い込まれてしまいそうだったのだ。
程なくして、ふ、と影玄が息を吐いた。
「これは能力封じの呪言ではない。ただ痛みを与えるだけの代物だ」
刹那、沙夜の頭は真っ白になった。
「痛み、を……?」
その言葉が頭に染み込むにつれて、両手が小刻みに震え始める。真っ黒な薄絹に、隙間なく呪言が書かれた手袋をかざした。この十年、沙夜に痛みを与え続けた物。母の死後、父と妹が「二度と人を殺めないように」と着用を命じた。神経を焼く痛みに耐えられたのは、人の命を奪わずに済むと信じていたからだ。
背中にじわりと嫌な汗が浮いた。急速に口が渇いてゆき、もつれる舌で縋るように問いかける。
「ほ、本当に……?」
「こういう類の呪物は腐るほど見てきた。間違いない」
「で、でも……」
幼少期、痛みにもがく沙夜を、父も妹も心配そうに見ていた——本当にそうだっただろうか。あまりの苦しみに記憶が捻じ曲がっていないか?
苦しむ自分を家族が嘲笑うなんて信じたくなくて、都合のいい夢を見たのではないか?
手袋に書かれた呪言がぐにゃりと歪む。違う、歪んだのは自分の視界だ。今まで信じてきた、かくあるべしと強いられてきた、世界の土台だ。
は、は、と呼吸が浅くなり、意識が闇に呑まれかける。
ふいに、温かなものが頬に触れた。
影玄の手のひらだった。
「呪言などなくとも、直接触れなければいいのだろう。それに、破滅の力は俺なら対抗できる。同程度の霊力の持ち主同士で、治癒と違って祈りが込められていないからだ。今も平気だろう」
影玄の右手が、沙夜の頬を優しく包んでいる。影玄は苦しむ気色もなく、ただ気遣わしげに沙夜を見つめていた。はく、と喘ぐように息を吸って、沙夜はぎこちなく首を振る。
「そ、れは、夜だから、で……」
「気づいていないのか? もう朝は来ているぞ」
そのとき風が吹き抜けて、カーテンが一際大きくはためいた。
あ、と沙夜は目を見開いた。
硝子窓の向こうに、金色の朝焼けが広がっている。帝都の街並みの向こうから顔を出した太陽が、晴空を神々しいばかりの光に染めていた。街はまだ微睡の中、この部屋にはどんな喧騒も届かない。
眩さが目に沁みて、どうしようもなく涙がこみあげた。
頬に触れていた影玄の指が、沙夜の髪を一筋掬う。
「髪も黒色に戻っているな。あの銀色も美しかったが、黒もよく似合う」
影玄の唇に、淡い笑みが滲む。沙夜は両手を握りしめ、その朝焼けみたいな金色の瞳を見上げた。
「私……私は、月禍の娘です。でも、この力で誰かの命を奪いたくはないのです……」
「そうか、ならば後で手袋を贈ろう。もちろん呪言のかかっていない物を。だからこれはもう不要だ」
影玄がそっと沙夜の手に触れる。固く握った拳を解き、長い指を沙夜の指に絡めた。す、と指先から手袋を引き抜こうとする。
沙夜の耳元で、鼓動が大きく轟いた。十年。十年だ。沙夜をずっと縛めてきた物だ。
「本当にいいのでしょうか……」
「いいに決まっている。不安なら俺の手でも握っておけ」
そうしてあっさりと手袋は外された。言葉通り、影玄はぎゅっと沙夜の両手を握ってくれた。久しぶりに外気に触れた素肌に、他人の温もりが柔らかく染み透る。それは長らく凍りついた沙夜の心まで溶かすようで、目から一滴、涙が零れた。手の甲に落ちた雫はじきに滲んで見えなくなる。
影玄が沙夜の顔を覗き込んだ。
「それで、求婚の返事はどうなんだ」
沙夜の答えはもう決まっていた。ゆっくり頭を巡らせて、テーブルに放置された呪具の数々を見やる。当たり前のように取り出されたそれ。影玄に向けられた悪意の塊。
「……あの呪いは、一体どなたから?」
「うん? まあ、様々だ。他の部隊長やら弟やらだな」
「……ご家族からも?」
「当然だろう。俺が死ねば、少なくとも鷲宮家当主の座は転がり込んでくる。妬ましくてならないだろうよ」
沙夜の急な問いに、やや面食らったように影玄が眉を上げた。沙夜はふっと顔を曇らせる。
悪意をぶつけられる痛みはよく知っている。それを当たり前に呑み込んでしまえるくらい、この人は強いのだろう。たぶん、本当は沙夜の助けなんか必要ないくらい。
でも。
(私のこの力で、少しでもお役に立てるなら)
ずっとずっと、恐れられ、忌み嫌われて生きてきた。この世の誰も、寄り添ってはくれないのだと思っていた。
それでも沙夜を望んで、求めてくれるというのなら。
肺の底まで息を吸い込み、沙夜は小さく頷いた。
「謹んでお受けいたします。……影玄様は私を守ると仰ってくださいました。だから、私も影玄様をお守りします。どれほど影玄様がお強くても、そういう人間が一人くらいいてもよいはずです」
「……なるほど、そうきたか」
影玄は虚を衝かれたように瞬き、そのまましばらく黙っていた。屋敷の使用人が起き出してきたのか、開け放した窓から微かな騒めきが流れ込んでくる。チチ、という軽やかな小鳥の鳴き声も。
何か間違った事を言っただろうかと沙夜が不安になった頃、おかしくてたまらないというように、影玄は肩を震わせて笑い出した。
「……ふっ、ふふ、この俺を守るとはな」
「私はおかしなことを言ってしまいましたか……?」
「いいや、これはとんだ幸運を引き当てたと思っただけだ」
扉の外からドタドタとした足音が近づいてくる。きっと葵が茶を持ってきたのだろう。そちらへ視線を移した影玄の横顔を眺めながら、沙夜はもう一度彼の手を握り返した。
(私が影玄様のお役に立てば……少しは、罪滅ぼしになるでしょうか、お母様)
すでに呪言の疼痛は霧散している。それでも過去を思えば胸に刺すような痛みが走って、沙夜は静かに目を伏せた。
——この力で一人殺めた自分でも、それくらいの夢は見てよいだろうか。



