屋敷の皆が寝静まった頃を見計らい、沙夜は物置を抜け出した。
「……よし」
 誰もいない廊下を通り抜け、裏口から外へ出る。
 途端、眩い月の光に照らされて、沙夜は大きく息を吸い込んだ。
 深い藍色の夜空には満月が浮かぶ。それを見るだけで、体の奥から震えんばかりの喜びがわき起こる。降り注ぐ月光を受け取るように片手をかざせば、手袋から与えられる痛みがすうっと引いていった。
「ああ、なんて体が軽いの……」
 まるで月華を添えたごとく、沙夜の髪が目の覚めるような銀色に変わってゆく。瞳の色も、星火のような澄んだ金色に変じていく。
 直接浴びれば一分と経たずに体を蝕むという月光は、沙夜の体を鮮やかに彩るばかり。ここに誰かいれば、月の女神の化身かと思われただろう。
「月光はこんなに美しいのに、毒だなんて信じられない……」
 背中を軽くさすれば、寝間着代わりの浴衣の下、亨に蹴られた怪我がみるみる治っていく。
 これが沙夜の秘密だった。
 月が夜空に輝く時、呪われた沙夜の力は反転する。人の命を奪う破滅ではなく、人を癒す治癒となる。
 誰にも言えなかった。これに気づいたのは十年前、母が死んだ時で——治癒の力があろうと、結局誰も救えなかったのだから、もう意味はないと思った。
 それだけだった。
 春といえど、夜はまだ冷える。冷たい風が吹き寄せて、草履を履いた沙夜の裸足を撫でていった。薄い浴衣一枚では心許なくて、思わず体を震わせる。
 それでも、沙夜は歩き出した。
 帝都の夜は静かだ。
 蝕魔を恐れて、皆、窓も扉も閉ざして家に引きこもってしまう。商店が連なり、昼間は人で賑わう通りも、今は一様に寝静まった様子で、軽やかに歩く沙夜の他には誰もいなかった。
 時折剣戟が聞こえるが、あれは討禍隊が戦っているのだろう。
 沙夜とて蝕魔は恐ろしい。だから近所をぐるっと一周して、それで終わり。でもこの時は、人の命を奪う嫌われ者の忌み子ではなく、誰かを救える治癒の力を持った人間になれる。今だけは、ただの人間でいられる。
 誰もが恐れる夜だけが、沙夜の人生に許された唯一の安息だった。
 だから、その夜もそうなるはずだった。
 ——最後の曲がり角で、蝕魔と出会うまでは。
 はあ、はあ、という己の息遣いがやけに大きく聞こえる。心臓は限界まで脈打ち、耳元でどくどくと血の流れる音がする。
 夜道をひた走る沙夜の後ろからは、四つ足の獣の足音と、殺意に満ちた低い唸り声が聞こえてきた。
 蝕魔だ。
 黒い靄に覆われた、虎に似た獣の形をしていた。柘榴を割ったような口には鋭い牙が生え揃っており、沙夜の体くらい易々と切り裂いてしまえそうだった。
 曲がり角で蝕魔と鉢合わせた後、沙夜は素早く身を翻し、その場から逃げ出したのだった。だが蝕魔が獲物を見逃すはずもなく、後ろから追い立てられている。
 いくら走っても蝕魔との距離は広がらず、むしろどんどん気配は近づいてくる。蝕魔の唸り声と荒い呼吸の音がすぐ後ろまで迫っていた。両脇に立ち並ぶ商店はびゅんびゅん背後に飛び過ぎてゆくのに、目の前の道はどこまでも先へ伸びていくような錯覚に陥る。
「あ……っ!」
 急に視界が斜めに傾いだ。小石に蹴躓き、無様に転んだのだ。
(もう、だめ——)
 転んだ痛みは感じなかった。反射的に閉ざした瞼に、今までの人生が蘇る。走馬灯、というのだろうか。両手を苛む激痛と、妹の嘲りの言葉。虐げられて出口の見えない毎日。冷淡な父親の態度と、母親の死。
 幸いのない人生だった。喜びの少ない時間だった。苦しみばかりが降り積もり、もう息もできない。
 こんな人生、終わってしまっても、いいか。
 諦めが沙夜を侵し、うつ伏せになったまま手足から力が抜ける。蝕魔が背にのしかかってくる。獣臭い息がうなじにかかって、耳元で唸り声が轟いた。
 これでいい。もういい。やっと楽になれる。
 蝕魔に喰われる痛みなんて、沙夜の受けたこれまでの苦痛に比べれば軽いものだろう。
「——そこを動くなよ」
 けれど低い男の声が響いたと思った刹那、体の上から重みが消えた。
「え……?」
 瞼を上げてすぐ視界に映ったのは、月に照らされる黒衣の男だった。
 軍服だ。やたら背が高い。そして右手には抜き身の刀を握っている。
(だ、誰——?)
 その男は刀を振り上げると、道端に吹き飛ばされた蝕魔を軽やかに両断した。
 キャン、と小型犬のような悲鳴があがったかと思うと、蝕魔は黒い靄と化す。それはすぐに千々に散って、後にはもう何も残らなかった。
「怪我はないだろうな」
 鞘に刀を収めた男が、地面に倒れ伏す沙夜に手を伸ばす。討禍隊なのだろう。胸に略綬のついた軍服に、月を斬る刀を模した徽章があしらわれた黒い制帽。月光をむやみに浴びないためか、口元には黒い薄絹を垂らしている。
 しかしそれでもはっきりとわかるくらい、美しい男だった。
 軍帽の下の髪は夜空に似た濃い藍色、けれど切れ長の瞳は朝焼けのような眩い金色で、人の視線を奪う端正な顔立ちだ。
 呆然と見上げる沙夜の前で、男がぎゅっと柳眉を寄せた。
「……おい、さっさと立て。お前、ろくに月光対策をしていないのに夜道を歩くな」
 伸ばされた手を掴もうとして、沙夜は慌てて手を引っ込めた。
 男の二の腕の辺りが、ざっくりと斬りつけられていた。自分を助けるために傷を負ったのだろうか。そう考えると、普段は知らない男性に声をかけるなんて絶対にできないのに、か細い声が喉を震わせた。
「あ、あの、お怪我を……」
「怪我?」
 男は沙夜の囁きを過たず聞き取り、ちらと腕に目をやる。それからすぐに軽く首を振った。
「こんなもの、大した傷ではない。それよりお前の方こそ月射病になるぞ。家はどこだ、早く帰れ」
「で、ですが……」
 軍服は一文字に裂かれ、その下の肌に薄く血が滲んでいた。軽傷に見えるが、蝕魔にやられたのであれば穢れでどんな風に悪化するかわからない。拍動がまた速まってきた。この人は沙夜を助けてくれた恩人なのに、何もできないのか。沙夜が嫌われ者で役立たずの月禍の娘だから?
 ——違う。
 雲一つない夜空を振り仰ぎ、燦然と輝く満月を直視する。帝都に君臨する災いの象徴。月禍の元凶。けれど沙夜にとっては、夜の優しい道連れだ。
 足に力を込めて立ち上がり、ぐ、と手を握りこむ。草履は転んだ拍子に脱げてしまったのか、裸足だった。男が訝しげに首を傾げた。
「なんだ?」
 美しい男は眉をわずかに動かすだけで迫力があって、沙夜の小さな心臓は縮み上がりそうだった。それでも逃げそうな足を必死に励まし、勢いよく頭を下げた。
「わ、私に、お怪我を治させてください……っ」
「この俺に治癒を? お前は巫女なのか」
 首を横に振る。けれどどうすればよいか、夜の沙夜はわかっている。男の腕を取り、傷口に指先を触れさせた。
「どうか、治って……」
 微かに空気を震わせるくらいの声で囁き、祈りを込める。すると月光と見紛う銀光が集まり、瞬く間に傷が塞がった。
「な……!?」
 男が驚いたように目を見張っている。沙夜はほっとして男から離れた。上手くやれた達成感と、他人の役に立てた喜びがひたひたと胸を洗う。こんな感覚は久しぶりだった。
「あの、助けてくださってありがとうございました。家はすぐ近くですので、もう帰ります」
「名前は?」
「え?」
「お前の、名前」
「ど、堂上沙夜と申します……」
「まさか……堂上家の〈月禍の娘〉か」
 男が沙夜を凝視する。正体を当てられて硬直する沙夜をよそに、男は薄く微笑んだ。
「沙夜、悪いがお前を家に帰すわけにはいかなくなった」
 月禍の娘とバレたからには、軍に逮捕されたりするのだろうか。血の気が引いて倒れかけた沙夜の体を、男がふわりと抱き上げる。背中と膝裏をたくましい腕が支えてくれているので落ちる心配はなさそうだが、急に高くなった視界に目眩がした。
 男は美しい微笑を唇に刻んだまま、当然のように沙夜に告げた。
「堂上沙夜、俺の花嫁となれ」
「は——?」
 唐突に投げられた言葉に理解が追いつかず、男をまじまじと見つめ返してしまう。
 けれど男は麗しく微笑むばかりで、冗談だ、とか嘘だ、とか取り消してくれる気配はない。思わず逃げるように身じろぎすれば、沙夜を抱える腕にぐっと力が込められた。
「ほ、本気、なのですか……?」
「この上なく」
「え……?」
 わななく唇からは掠れた声が漏れる。蝕魔の襲撃。急な求婚。立て続けに起こる出来事に流されるように、くらりと意識が遠のいた。