「もう、亨様。だめよ、こんなところで……」
 朝餉の後、沙夜が屋敷の掃除をしていると、廊下の向こうから美朝の甘い声が聞こえてきた。
 そういえば、先ほど婚約者の亨が訪ねてきていた。どうやら使われていない奥の部屋で、美朝と亨が逢引きしているらしい。沙夜は少し眉をひそめた。婚約者同士とはいえ、巌が知ればいい顔はしないだろう。
「いいだろ、美朝。君はぼくのものだ。可愛いから我慢できないんだよ。どうせ結婚するんだし……」
 戯れかかるような亨の声に、衣擦れの音と熱っぽい吐息が混ざる。けれどすぐに、美朝の泣き声が続いた。
「実は私、鴛宮家当主の花嫁選定の儀に出る事になったの……」
「なんだって? 鴛宮家当主といえば、鴛宮影玄様か。まさかあの方が花嫁選びを!?」
 ごそごそした衣擦れの音が止まる。唖然とした亨の顔が浮かぶようだった。立ち聞きはよくない、と踵を返そうとした沙夜の耳を、美朝のすすり泣きが打つ。
「私は嫌だって言ったのに、父様がどうしてもって。しょうがないのよ。ほら、うちには娘が一人しかいないでしょう?」
 さらりと嘘をついて、美朝はくすんくすんと鼻を鳴らした。享は当然それには気づかず、憤ったように舌打ちした。
「まあ、そうだな。沙夜を影玄様の前にお出しするわけにもいかないだろう。あんな不吉な娘を表に出せば、堂上家の家名にも傷がつく。美朝の代わりもできないなんて本当に役立たずだよ。幼い頃とはいえ、一時でも月禍の娘が許嫁だったのはぼくの恥だ」
 自分の名前が出て、いけないと思っているのに足が止まった。心底忌々しげな声音に、手にした雑巾をぎゅっと握りしめる。
 沙夜はかつて、享の許嫁だった。
 彼の生家である篠井家は討禍隊と繋がりの深い家柄で、享も今は軍属である。
 霊力は遺伝するとわかっているから、巫女と討禍隊の家々が結びつくのはよくある。享と沙夜の婚約も、そういう利害の一致の結果だった。
 でも三歳年上の享は、沙夜からすれば優しくてかっこいいお兄さんで、幼心にほのかな恋を抱えていたのだ。
 沙夜が月禍の娘になった後、人形の首をすげ替えるように美朝が許嫁となった。二人の交際は順調で、この夏にも結婚するという話も出ている。
(私はもう、享様からも嫌われている……)
 わかりきっていた事だ。それでも、改めて突きつけられると胸が苦しくなる。
 沙夜は触れるだけで他者の命を奪う月禍の娘。忌み嫌われるのは当然だ。家族からも愛されなかった人間を、愛してくれる人がいるわけがない。
(今更、何を期待していたの……)
 静かに首を横に振って引き返そうとした時、足元で廊下が軋んだ。
 背後で会話がふつりとやむ。次の瞬間大きな足音が廊下に弾け、沙夜はその場に引き倒された。
「お前、こそこそ立ち聞きなんかしてたのか!」
 上から降り注ぐ怒声にびくりと身がすくんだ。ビリビリ震える空気に背中が粟立ち、これから起こる事を予想して体を丸め頭を抱える。「ごめんなさい」とこぼした声は、沙夜を蹴りつける重い音に紛れて消えた。
「おい、ぼくたちの話を聞いてたのか? 忌々しい月禍の娘め!」
「ねえ、お姉様は馬鹿だから、何を黙っているべきかわからないと思うの。もっときちんと教えて差し上げないと、私、不安だわ」
「それもそうだな。いいか月禍、ぼくたちがここにいた事は誰にも話すなよ!」
 何度も何度も足蹴にされて、背中に鈍い痛みが走る。軍属で鍛えられた男の足は重く、痩せた沙夜の体は板張りの廊下に激しく叩きつけられた。背骨は軋み、内臓が弾けてしまいそうだった。
「ご、ごめんなさ……」
 沙夜は身を縮め、ほんの少し腕を開いて亨を見上げる。途端、血走った彼の目とかち合って喉からひっと悲鳴が漏れた。
 常は良家の好青年然とした亨の顔は憎々しげに歪んでいた。昔の優しい許婚の顔はもはやどこにもなく、面影さえも重ならない。遠く離れた距離を思うと、体よりも心が痛かった。それでもできる事は何もなくて、どこにも届かない謝罪を繰り返す。
 亨が一頻り沙夜を打ち据えた頃、朗らかな声が廊下に響いた。
「ふふっ。それだけやれば、馬鹿なお姉様でも黙っていられるでしょう。それより鴛宮影玄様ってどんな方? 何がお好きなの?」
 ボロ雑巾のように廊下に横たわる沙夜には目もくれず、美朝が甘えるように亨にしなだれかかる。亨は邪魔くさそうに沙夜を足で廊下の隅に蹴り寄せると、美朝の肩を優しく抱いた。
「なんだ、他の男が気になるのかい?」
「そうじゃないわ。万が一にも気に入られたらいけないでしょう? 嫌われるような事をすれば、私は亨様の下へ帰って来られると思ったの」
 そうは言うものの、美朝の目には狡猾な光が宿っている。先に情報収集をして鴛宮家の当主に気に入られようという魂胆を、愛らしい微笑みが隠していた。
「そうかい。美朝は可愛い事を言うな」
 一転して態度を変えた享は何も気づかぬ風情だ。
「蝕魔討伐の腕は一級だよ。歴代最強と言われるだけある手練れだ。鴛宮家の当主で、討禍隊の隊長で、帝の信頼も厚い。腹立たしいほど欠けるところのない男だ。だがその代わりにとても傲慢でね。討伐に失敗した部下が叱り飛ばされるのは日常茶飯事。暴君ともあだ名されるくらいさ。ああいう男が花嫁に選ぶのは、自分と同じくらいの才色兼備ではないかな」
「才色兼備、ね……ふふ。どんな顔をされているの?」
「とんでもない醜男だ……と言えたら良かったんだが。逆だよ。男から見ても美しい顔立ちをしている。美朝の心が奪われないか、正直ちょっと不安だ」
「うふふ、私には亨様しかいませんわ」
「美朝……!」
「亨様……!」
 廊下の端に横たわった沙夜は全身の痛みに耐えながら、心を遠くへ飛ばしていた。
(ああ——)
 口の中には血の味がする。両手を覆う手袋が少しずれていた。その端を掴み、さらにずらそうか少し躊躇い——結局、また元のように付け直す。
 もしこの力を思うがままに振るったら、なんて悪夢に近い夢物語だ。この屋敷の全員の命を奪ったって、心が満たされる気は微塵もしない。沙夜が願うのは、たった一つ。ほんの些細な願い事。
(——はやく夜になればいいのに)