優しい手に撫でられたような感覚があって、沙夜は薄らと目を開けた。
 柔らかな風が、甘い桜の香りを運んでくる。葉のさざめく音がして、沙夜の目交いに薄桃色の花弁が着地する。幾度か瞬きして、自分が陽光差す春の庭の縁側に横たわっている事を認識した。
 頭の下には柔らかな枕がある。ほんのり温かい。何気なく視線を頭上に移して、沙夜の喉で言葉が絡まった。
「お、お母様……?」
 見間違えるはずもない。死んだはずの母がありし日のまま、美しい微笑みを浮かべて沙夜の頭を撫でていた。幼い子供にそうするように、沙夜の頭を膝に乗せて。
「どうして……っ、お母様はもう……!」
 慌てて縁側に手をついて、母から少し遠ざかる。庭に目をやれば、中央にはあの桜の木が、満開の花をつけていた。
 ざあ、と風が吹く。花吹雪が視界を覆う。隣に正座する母は、愛おしげな眼差しで沙夜を見つめ続けている。その目つきには見覚えがあった。沙夜が月禍の娘になる前、母はいつもこんな風に子供達を見守ってくれていた。
(これは私の見ている幻覚……? ううん、違う……それにしては、真に迫りすぎている……)
 冷や汗を流しながら思案する沙夜の脳裏に、最後に見た物が蘇った。蓋の開かれた空の壺。もしかして、と思う。まさか美朝は、母の魂をずっと地上に縛りつけていたのではないだろうか。あの呪言の書かれた壺の中に閉じ込めて。
 ぞっと背中の産毛が逆立った。
 母が黙ったまま、庭の向こうを指差す。そちらを見やり、沙夜は小さな悲鳴をあげた。塀の外には、黒い靄がぎっしりと押し寄せていた。蝕魔だ。しかしまるで何かに阻まれているかのように、塀からは一歩もこちらへ踏み入ってこない。でもあれでは外に出られない。
 ——外に。
「……私は月問いの儀の最中だった」
 遠ざかっていた現実をたぐり寄せるように、沙夜は小さく呟く。「帰らないと」と続ければ、母がわずかに首を傾げた。
「お母様、あれはどういう事ですか? ここから出るにはどうすればよいのでしょう」
 母は何も答えてはくれない。ただ無言で首を横に振り、自らの膝をぽんぽんと叩いた。にこ、と優しく笑う。悪意も害意も感じられない、ただこちらを労るような笑みで。
「……私に、ここにずっといてほしいのですか」
 母が頷く。懐かしい笑顔が、淡い春陽に照らされて輝いている。目が眩んだ。このまま母の膝に飛び込めたらどれほど楽だろう。何も考えずに微睡んで、いつまでも目覚めないで。
 でも。
「お母様は、私を殺そうとしましたよね……」
 震える声は凍てつく冬の刃のようだった。葉を揺らす風がぴたりと止まり、葉擦れも聞こえなくなる。母は悲しげに眉尻を下げ、そっと視線を下げた。
「私が憎かったのではないですか……?」
 俯いた母の表情は窺えない。けれどゆっくりと首を横に振った。否定の仕草だ。反射的に腹を押さえた。鳩尾を、あの夜刺された痛みが貫く。
「憎いのではないなら、どうして私を殺そうとしたのですか……」
 顔を上げた母の目には涙が浮かんでいた。ぱくぱくと口を動かして、でもその動きは声には繋がらない。悲痛に顔を歪め、母は沙夜に手を伸ばした。逃げる隙もなく、沙夜は子供みたいに抱きしめられていた。
 月の柄の織り出された千早越しに、ただ温もりだけが伝わってくる。どくん、どくん、という音は、沙夜の鼓動だ。一つだけ。ここに生者は一人だけ。
「これが本当か、なんて、私にはわかりません……」
 死者の声は聞こえない。生者にその思いを測る事はできない。
 けれど声が届かなくても、行動から伝わるものもあるだろう。
「お母様、ずっと私を膝枕してくださっていたのですか……」
 この庭は澱んだ瘴気に囲まれているが、蝕魔は絶対に入って来ない。
 一体、誰が守っているというのか。
 美朝を思えば、本当は、あの蝕魔の群れに沙夜は突き落とされようとしていたのではないか。
「お母様……顔が……」
 ふと気づけば母の美しい顔が黒い靄に侵食されていて、沙夜は目を見開いた。
「蝕魔になりかけています……!」
 十年も狭い壺に閉じ込められて、こんな呪術に利用されて。
 その魂が歪むのも無理はないのだろう。
 いつしか沙夜は母を抱きしめ返していた。
「お母様、私は行かなくてはなりません。でも、こんなのはあんまりです」
 母が泣き笑いの顔になる。沙夜はそっと腕を離した。
「だから、私は祈ります。——お母様のために」
 どうかこの人の魂が、安らかでありますように。
 そして。
(影玄様、どうか来てください——!)
 左手の薬指に嵌った指輪に向かって、切なる祈りを捧げた。