〈月問いの儀〉は、新月の深夜に行われるという。
控え室として用意された月祓宮の一室で、沙夜はそわそわと出番を待っていた。
壁に据えられた姿見を見ると、儀式用の巫女服に身を包んだ少女が緊張した面持ちで見返してくる。髪を綺麗に結い上げ、天冠を戴き、薄く化粧も施した姿は自分とは思えない。影玄は綺麗だと褒めてくれたが、変ではないだろうか。
(ええと、儀式が始まったら舞台に上がって、舞を舞って、名を名乗って、月の女神様を祀る廟に祈りを捧げて……)
儀式の順番を辿りながら、舞の為に渡された檜扇を落ち着きなく持ち替える。舞も習ったが付け焼き刃で、上手くできるとは到底考えられない。この先を思えば、不安が膨らんで消えてしまいたくなる。
(……でも、やるのよ)
影玄からこの話を聞いた時、断ろうとは思わなかった。もし沙夜が月華の姫だったとして、それが夜に怯える人々を救う事に繋がるなら、やらなくてはならないと思った。
コンコン、と部屋の扉が叩かれる。時間が来たのかと思い、沙夜は立ち上がって「どうぞ」と声をかけた。
「ご機嫌よう、お姉様」
扉を開けたのは巫女服姿の美朝だった。沙夜が何か言う間もなく、素早く部屋に入って後ろ手に扉を閉める。ガチャンと内鍵の閉まる音がして、沙夜の顔から血の気が引いた。
「み、あさ、さま……」
「ふふ、もしかして自分が月華の姫になれるんじゃないかって期待してしまった? 残念だけどそれは勘違いだわ。だって本当に特別なのは、私なんだもの」
玉石の触れ合うような声音で美朝は言う。華やかな顔には可憐な微笑が匂い立つ。けれどその目は新月の夜よりも真っ黒に底なしで、沙夜の背中がぞくりと粟立った。
「お姉様が結婚してから、全てが狂ってしまった。お姉様が不幸だったからこそ私の幸福は成り立っていたというのに。今の私は全然、幸福じゃないの。だってお姉様が私の幸せを持っていってしまったから」
「な、何の話です……?」
滔々と並べ立てられる言葉には全く覚えがなくて、沙夜はおずおずと聞き返した。美朝が話を止め、胸元に手を当てる。
「鴛宮様と結婚すべきなのは私よ。月華の姫になるべきなのも私。それはお姉様が持っていていい幸せじゃないから、返して頂戴。だってそうでしょう? お姉様が私より優れている所って、一つでもある?」
「それは……」
ない、としか言えなかった。沙夜は淑女として教育を受けてきた訳でもないし、美朝みたいな自信もないし、昼間は人の命を奪ってしまう。鴛宮家当主である影玄のそばにいるには、何もかもが足りなかった。
だけど。
手を握り合わせ、そっと指輪に触れる。
「い、嫌、です……」
美朝が驚いたように片眉を跳ね上げる。自分の口から溢れた言葉に励まされるようにして、沙夜はもう一度繰り返した。
「嫌です。私は……もう居場所を選びました。だから、美朝様には……いえ、他の誰にも、渡しません」
言い切ると、胸底から熱いものがこみあげた。こんなふうに妹に対して自分の意見を主張するのは初めてだ。いつも暴虐によって塞がれていた言葉を、けれど美朝は軽く首を傾げるだけで受け流した。
「どうしてそんな悲しい事を言うの?」
「え……」
「私たちは同じでしょう?」
いつの間にか、美朝が沙夜の前に立っていた。ひんやりとしたその手が、沙夜の頬を包む。
「双子の巫女は、ふたりでひとつ。お姉様は、私に幸せになって欲しくないの? 私が幸せになるためには、お姉様には不幸になってもらわないといけないのよ?」
全く意味がわからなかった。戸惑っているうちに、美朝の足元に小さな壺が転がっている事に気づく。蓋は開いていたが、中は空だった。陶器の表面には、何かの呪言が書かれている。
ふと姿見に影がよぎったような気がして、沙夜は横目にそちらを窺った。
鏡の中、傍に人影が現れる。その慕わしい面影に沙夜は息を詰めた。
「お母、様……」
次の瞬間、沙夜の意識は暗転した。
控え室として用意された月祓宮の一室で、沙夜はそわそわと出番を待っていた。
壁に据えられた姿見を見ると、儀式用の巫女服に身を包んだ少女が緊張した面持ちで見返してくる。髪を綺麗に結い上げ、天冠を戴き、薄く化粧も施した姿は自分とは思えない。影玄は綺麗だと褒めてくれたが、変ではないだろうか。
(ええと、儀式が始まったら舞台に上がって、舞を舞って、名を名乗って、月の女神様を祀る廟に祈りを捧げて……)
儀式の順番を辿りながら、舞の為に渡された檜扇を落ち着きなく持ち替える。舞も習ったが付け焼き刃で、上手くできるとは到底考えられない。この先を思えば、不安が膨らんで消えてしまいたくなる。
(……でも、やるのよ)
影玄からこの話を聞いた時、断ろうとは思わなかった。もし沙夜が月華の姫だったとして、それが夜に怯える人々を救う事に繋がるなら、やらなくてはならないと思った。
コンコン、と部屋の扉が叩かれる。時間が来たのかと思い、沙夜は立ち上がって「どうぞ」と声をかけた。
「ご機嫌よう、お姉様」
扉を開けたのは巫女服姿の美朝だった。沙夜が何か言う間もなく、素早く部屋に入って後ろ手に扉を閉める。ガチャンと内鍵の閉まる音がして、沙夜の顔から血の気が引いた。
「み、あさ、さま……」
「ふふ、もしかして自分が月華の姫になれるんじゃないかって期待してしまった? 残念だけどそれは勘違いだわ。だって本当に特別なのは、私なんだもの」
玉石の触れ合うような声音で美朝は言う。華やかな顔には可憐な微笑が匂い立つ。けれどその目は新月の夜よりも真っ黒に底なしで、沙夜の背中がぞくりと粟立った。
「お姉様が結婚してから、全てが狂ってしまった。お姉様が不幸だったからこそ私の幸福は成り立っていたというのに。今の私は全然、幸福じゃないの。だってお姉様が私の幸せを持っていってしまったから」
「な、何の話です……?」
滔々と並べ立てられる言葉には全く覚えがなくて、沙夜はおずおずと聞き返した。美朝が話を止め、胸元に手を当てる。
「鴛宮様と結婚すべきなのは私よ。月華の姫になるべきなのも私。それはお姉様が持っていていい幸せじゃないから、返して頂戴。だってそうでしょう? お姉様が私より優れている所って、一つでもある?」
「それは……」
ない、としか言えなかった。沙夜は淑女として教育を受けてきた訳でもないし、美朝みたいな自信もないし、昼間は人の命を奪ってしまう。鴛宮家当主である影玄のそばにいるには、何もかもが足りなかった。
だけど。
手を握り合わせ、そっと指輪に触れる。
「い、嫌、です……」
美朝が驚いたように片眉を跳ね上げる。自分の口から溢れた言葉に励まされるようにして、沙夜はもう一度繰り返した。
「嫌です。私は……もう居場所を選びました。だから、美朝様には……いえ、他の誰にも、渡しません」
言い切ると、胸底から熱いものがこみあげた。こんなふうに妹に対して自分の意見を主張するのは初めてだ。いつも暴虐によって塞がれていた言葉を、けれど美朝は軽く首を傾げるだけで受け流した。
「どうしてそんな悲しい事を言うの?」
「え……」
「私たちは同じでしょう?」
いつの間にか、美朝が沙夜の前に立っていた。ひんやりとしたその手が、沙夜の頬を包む。
「双子の巫女は、ふたりでひとつ。お姉様は、私に幸せになって欲しくないの? 私が幸せになるためには、お姉様には不幸になってもらわないといけないのよ?」
全く意味がわからなかった。戸惑っているうちに、美朝の足元に小さな壺が転がっている事に気づく。蓋は開いていたが、中は空だった。陶器の表面には、何かの呪言が書かれている。
ふと姿見に影がよぎったような気がして、沙夜は横目にそちらを窺った。
鏡の中、傍に人影が現れる。その慕わしい面影に沙夜は息を詰めた。
「お母、様……」
次の瞬間、沙夜の意識は暗転した。



