鴛宮本邸へ帰還した後、沙夜はすぐに影玄の自室に通された。
 影玄が妙に深刻そうな面持ちをしているので、急に訪れた夜について尋問されるものと思っていたが、投げられたのは思いもよらぬ問いだった。
「堂上美朝から、ご母堂の話を聞いた。——沙夜が殺めたのだと」
 ひゅ、と喉の辺りで呼吸の音が鳴った。
 いつか知られるとは思っていた。その時が来ただけだ。鳴り響く鼓動を必死に抑え、沙夜は小さく頷いた。
「……その通りです。申し開きのしようもございません」
「どういうことだ。沙夜はそんな事をするような娘ではないだろう。何があった」
 信頼が胸を軋ませる。沙夜はゆっくりと口を開いた。
「……私が月禍の娘となった夜、母は私を殺めようとしました」
 いまだに覚えている。
 押し込められた物置で一人で眠っていると、人の気配を感じた。
 おかあさまが来てくれた、と幼い沙夜は思った。
 けれど違った。その手にはぎらつくものがあった。
『月禍の娘だなんて。生きていても仕方がないわ……』
 そう呟く母の表情は闇に隠されて見えなかった。ただその声から発される悲しげな気配に首を傾げていると、母が沙夜の腹に包丁を突き立てた。
 痛みは熱となって沙夜を焼いた。
 おかあさま、と何度も呼んだ。しかし母は決して包丁から手を離さなかった。
 たくさん血を流して意識が遠ざかった頃、雲が途切れて、月の光が沙夜に注いだ。
 髪は銀に変じた。怪我は見る間に治った。
 包丁が床に転がった。
『化け物!』
 母は叫んで部屋を出て行った。
 そのまま首を吊ったのだと聞いたのは、翌朝のことだ。
 話し終えると、影玄は眉間に皺を寄せて片手で額を押さえていた。
「今の話のどこをどう聞けば、沙夜が母を殺した事になるんだ」
「母はきっと、化け物を産んだ事に耐えられなかったのだと思います。私が生まれていなければ、母は自死を選ばなかった……いえ」
 深く息を吸う。この十年間、胸底に押し込めてきた気持ちが暴れ回っていた。
「私があの時、ちゃんと死んでいれば良かったのです」
 そうだ。沙夜が死んでさえいれば、母は死ななかった。もうずっと、息をするだけで罪悪感で押し潰されそうだった。家族から虐げられても当然の罰だった。沙夜は彼らから妻と母を奪った。憎まれても仕方がない。
「ふざけた事を言うな」
 けれど力強い声とともに手を引かれて、沙夜はすっぽりと影玄の腕に収まっていた。彼に抱きしめられるのは今日だけで二度目。でもただ労るようだった一度目とは違う、沙夜を離さないとでも言うような強さだった。
 耳朶に低い囁きが触れる。
「誰がなんと言おうと、沙夜が生きて俺と出会ってくれた事は喜びだ」
 何かを堪えるように、影玄の声が掠れる。
「死者の声などに惑わされるな。死んだ者とはもう二度と話せない。死者の思いは、生きている俺たちには分からない」
「……そうでしょうか」
 母の真意は明らかだと思う。沙夜を疎み、悍ましく思って絶望とともに死んでいった。それだけの悲劇だ。
「ご母堂がどう考えていたのか、今となっては何を思っても全て空想だ。沙夜を化け物と呼んだとして、それで自死を選ぶのは筋が通っていないだろう。他に何か想いがあってもおかしくはない」
「……例えば?」
「決まっているだろう。愛する娘を手にかけようとした自責の念だ」
 その言葉は、流れ星みたいに沙夜の胸に飛び込んできた。
 花を付けなくなった桜の木が眼裏に浮かぶ。死の間際、母の胸には何があったのか。遺書もなく亡くなった彼女の真意は、影玄の言う通りもうこの世の誰にも測れない。
 十年こびりついた罪悪感が、惑わされるなと薄暗く嘯く。沙夜への憎しみと恐怖で、苦しみの中逝ったのだと決めつける。
(……でも)
 それだけではないのかもしれない、と思う。
 沙夜を化け物ではなく、娘として想ってくれた瞬間が——あったのかもしれないと。
「……あ」
 気づけば頬を涙が伝っていた。慌てて離れようとすると、影玄の手がますます強く沙夜を抱き寄せる。
「俺の前で痛みを我慢する必要はない」
「痛くは……ありません」
 影玄は不思議な事を言う。今の沙夜は怪我もしていない。
 だが影玄は痛ましげに眉根を寄せた。
「体の話ではなく、心の話だ。沙夜はずっと苦しんできたんだろう」
「心……」
 涙ははらはらと止まらない。喉が変な風に震えて、みっともなくしゃくりあげてしまう。体が言うことを聞かなくて、ますます息苦しくなる。
(ああ、私は……)
 ずっと泣きたかったのだと、やっとわかった。
 しばし影玄の胸で泣いた後、沙夜は気まずく呟いた。
「ご、ごめんなさい。子供みたいに泣いてしまって……」
「構わない。妻の涙を慰めるのは夫の役目だ。俺だけの特権だ」
 生真面目に影玄が告げてくる。妻、という単語に沙夜は照れた。事実ではあるが、影玄の口から紡がれると、何だか特別な響きを持って聞こえる。
「もしかすると、沙夜の力を巡って周囲が少し騒がしくなるかもしれんが……」
 影玄が渋い顔をする。だがすぐに不敵な笑みを浮かべて、沙夜の手を握った。
「何があっても俺が守る。だから次は、夜など呼ぶな。——俺を呼べ」
 自然な仕草で左手を取られる。薬指にひやりとしたものを感じて、沙夜は目を落とした。
「これは……指輪ですか」
「呪具だ。沙夜の祈りに反応して、居場所を伝えるようになっている。一度使えばそれきりだが十分だろう」
 一瞬、結婚指輪を渡されたのかと思って焦ってしまった。それでも嬉しさには変わりなく、指輪を嵌めた手を押し包み沙夜は微笑った。