何が起きているのか、沙夜にはわからなかった。
ついさっきまで昼だったはずの帝都は、すっかり夜の帳に覆われていた。屋敷の外からは、人々が右往左往する声が聞こえてくる。当然、帝都の人々にとって夜は恐怖の象徴だ。
(どうして、急に夜に——? まさか私が祈ったから——?)
亨に迫られ、いつものように夜を願った。けれどそれは虚しい祈りで、こんなふうに本当に夜を呼び寄せるものではなかったはずなのに。
「ひ、ひぃ、ぼくを照らすなぁ!」
亨は客間の隅で頭を抱え、がたがたと震えている。それで気づいた。開け放たれた障子から、銀色の月影がまっすぐにこの客間に差し込んでいる。正確には——亨のところだけに。
ぐるる、と獣のような唸り声が庭から響いた。かと思うと黒い靄をまとった蝕魔が一つ、二つと現れる。沙夜はひゅっと息を呑んだ。追いかけられた記憶が浮かび、恐怖が足を竦ませる。
「うわぁ、蝕魔だぁ! もうお終いだぁ!」
亨は怯えた様子で、腰に差した刀を抜く気力もないらしい。それどころか沙夜と目が合うと、口角から唾を飛ばして喚き散らした。
「お、おい、月禍。お前が囮になれよ。これは命令だ。ぼくを守れ。お前なんかより、ぼくの方がずっと世の役に立つんだからな!」
これには沙夜も唖然としてしまった。命を賭して守って欲しいなどとは思わないが、帝都を護るべき討禍隊の一員がこんな事を言って恥ずかしくないのだろうか。あの夜、怪我しながらも沙夜を救ってくれた影玄を思うとあまりの違いに目眩がしてくる。少しの失敗で降格されたというのも、どこまで信じていいものか。
しかしそんな事を考えていても事態は一向に好転しない。誰だって、蝕魔に襲われて欲しくはない。
(もしこの夜をもたらしたのが私なら、蝕魔も言う事を聞いてくれないかしら……)
両手を組み合わせ、来ないで、と必死に祈る。けれど無駄だった。蝕魔は全く意に介さない風情で、じりじりと客間に近づいてくる。
やはり自分ではだめなのか、と沙夜が震える唇を噛んだ時。
「沙夜、無事か!」
聞き慣れた声がして、全ての蝕魔が両断された。
「か、影玄様……っ」
闇夜をかき分けるようにして影玄の長身が姿を現す。彼は真っ先にこちらへ駆けつけると、安堵したように沙夜を抱きしめた。
「……よし、怪我はないようだな」
「は、はい」
大きな手が沙夜の頬を撫でるたびに、その温かさが恐怖を溶かしてくれるようだった。強張っていた体から、みるみる力が抜けていく。影玄にぐったりともたれかかってしまったが、たくましい腕がしっかりと抱き留めてくれた。
四囲を包む闇がどんどん薄くなってゆく。差し込む月光も途切れて、太陽が顔を覗かせる。空は天色に晴れ渡り、もうすっかり、どこにでもある春の午後だった。
恐怖から解放されたらしい亨が、信じられないという声をあげた。
「た、隊長! その女は月禍ですよ、よく触れられますね」
「妻に触れられない夫がどこにいる」
影玄は冷たく言い捨てると、躊躇なく沙夜を抱き上げた。そして驚く沙夜に柔らかく微笑みかけ、迷いのない足取りで青空の下に歩を進める。
「もうここに用はないだろう。——帰ろう」
ついさっきまで昼だったはずの帝都は、すっかり夜の帳に覆われていた。屋敷の外からは、人々が右往左往する声が聞こえてくる。当然、帝都の人々にとって夜は恐怖の象徴だ。
(どうして、急に夜に——? まさか私が祈ったから——?)
亨に迫られ、いつものように夜を願った。けれどそれは虚しい祈りで、こんなふうに本当に夜を呼び寄せるものではなかったはずなのに。
「ひ、ひぃ、ぼくを照らすなぁ!」
亨は客間の隅で頭を抱え、がたがたと震えている。それで気づいた。開け放たれた障子から、銀色の月影がまっすぐにこの客間に差し込んでいる。正確には——亨のところだけに。
ぐるる、と獣のような唸り声が庭から響いた。かと思うと黒い靄をまとった蝕魔が一つ、二つと現れる。沙夜はひゅっと息を呑んだ。追いかけられた記憶が浮かび、恐怖が足を竦ませる。
「うわぁ、蝕魔だぁ! もうお終いだぁ!」
亨は怯えた様子で、腰に差した刀を抜く気力もないらしい。それどころか沙夜と目が合うと、口角から唾を飛ばして喚き散らした。
「お、おい、月禍。お前が囮になれよ。これは命令だ。ぼくを守れ。お前なんかより、ぼくの方がずっと世の役に立つんだからな!」
これには沙夜も唖然としてしまった。命を賭して守って欲しいなどとは思わないが、帝都を護るべき討禍隊の一員がこんな事を言って恥ずかしくないのだろうか。あの夜、怪我しながらも沙夜を救ってくれた影玄を思うとあまりの違いに目眩がしてくる。少しの失敗で降格されたというのも、どこまで信じていいものか。
しかしそんな事を考えていても事態は一向に好転しない。誰だって、蝕魔に襲われて欲しくはない。
(もしこの夜をもたらしたのが私なら、蝕魔も言う事を聞いてくれないかしら……)
両手を組み合わせ、来ないで、と必死に祈る。けれど無駄だった。蝕魔は全く意に介さない風情で、じりじりと客間に近づいてくる。
やはり自分ではだめなのか、と沙夜が震える唇を噛んだ時。
「沙夜、無事か!」
聞き慣れた声がして、全ての蝕魔が両断された。
「か、影玄様……っ」
闇夜をかき分けるようにして影玄の長身が姿を現す。彼は真っ先にこちらへ駆けつけると、安堵したように沙夜を抱きしめた。
「……よし、怪我はないようだな」
「は、はい」
大きな手が沙夜の頬を撫でるたびに、その温かさが恐怖を溶かしてくれるようだった。強張っていた体から、みるみる力が抜けていく。影玄にぐったりともたれかかってしまったが、たくましい腕がしっかりと抱き留めてくれた。
四囲を包む闇がどんどん薄くなってゆく。差し込む月光も途切れて、太陽が顔を覗かせる。空は天色に晴れ渡り、もうすっかり、どこにでもある春の午後だった。
恐怖から解放されたらしい亨が、信じられないという声をあげた。
「た、隊長! その女は月禍ですよ、よく触れられますね」
「妻に触れられない夫がどこにいる」
影玄は冷たく言い捨てると、躊躇なく沙夜を抱き上げた。そして驚く沙夜に柔らかく微笑みかけ、迷いのない足取りで青空の下に歩を進める。
「もうここに用はないだろう。——帰ろう」



