その朝、帝都の西に居を構える堂上家では、美しい少女が声を弾ませていた。
「ねえ見て父様! あの鴛宮家から〈花嫁選定の儀〉の知らせが来たわ!」
朝餉の並べられた食卓について、少女——堂上美朝が、向かいに座った壮年の男に手紙を見せる。美朝の父親である堂上巌は、相好を崩して手紙に目を通した。
「鴛宮家当主の花嫁を選ぶために、娘を一人、儀式へ連れてくるように、との事だ。何も心配いらないな。美朝は特別な〈日輪の巫女〉だし、何より母さんに似て美しい。フフン、花嫁は決まったも同然だ」
「まあ、父様ったら気が早いんだから。私の通う月祓宮にも有力な巫女はたくさんいるのよ? でもそうね——お姉様よりは望みがあるかもしれないわ。ねえ、沙夜お姉様?」
艶やかな唇を意地悪げに吊り上げ、美朝が食堂の隅を振り返る。そこにはみすぼらしい絣をまとった少女が一人、ぽつねんと立っていた。体の前で揃えられた両手には、禍々しい呪言が刻まれた薄絹の手袋をつけている。艶もなくぱさついた長い髪に、血の気の失せた青白い肌。裾のすり切れた、元はもう何色だったかわからない灰色の絣。全体的に粗末な身なりの中で、手袋だけが異質だった。
そしてその顔は、ぼんやりした無表情に霞んでしまっているが、よくよく見れば美朝と同じ作りをしている。
沙夜と呼ばれた少女は、怯えたように美朝を見ると、従順に頭を下げた。
「美朝様の仰る通りでございます」
「うっふふ。お姉様には希望がないわよねえ。巫女を輩出する誉ある堂上家に生まれながら、蝕魔の穢れも祓えない。それどころか、周りの命を吸い取ってしまう化け物みたいな力を持っているなんて——ちょっと、その手袋、きちんとつけておきなさいよ」
「はい」
特にずれているわけでもなかったが、沙夜は諾々と手袋をつけ直した。沙夜の禍々しい力——直接触れた人間の命を奪う——を封じるための呪いがかけられた手袋は、焼きごてを押しつけるような激痛を常に沙夜に与え続ける。けれどその痛みにももう慣れてしまって、心にはさざなみ一つ立たなかった。
食堂の格子窓からは、温かな春の日差しが差している。柔らかな陽光に照らされ、美朝が愛らしく頬杖をついた。大きな目を瞬かせ、卓上に置かれた手紙を顎で示す。
「でも、私には篠井家の亨様という婚約者もいるでしょう? 花嫁選定の儀に出てしまってもよいかしら」
「むむ。しかし、この帝都において最上位である鴛宮家の命令には逆らえん。亨くんもわかってくれるだろう」
「それもそうよね。亨様は私を愛してくださっているもの。きっと許してくださるわ。ああ、でも私が鴛宮の当主様の花嫁に選ばれてしまったらどうしましょう! 鴛宮の当主様と言えば、近衛討禍隊の隊長として有名な帝都の英雄だわ。二人の殿方に求められたら……私、どうすれば……」
「確かに美朝ならその可能性もあるな。美朝は特別に優秀な巫女だ。誰もが求めるに違いない。むむ……どうすれば……」
二人の会話を聞きながら、沙夜は窓へ顔を向けた。外に広がる庭には色とりどりの花が咲くが、ただ一本、春になっても花をつけない木が寒々しく枝を揺らしている。
それが桜の木である事を、沙夜は知っていた。
——かつて、母親がそこで首を吊った事も。
「お姉様、こちらへ来なさいな」
葉さえつけない桜の木を見つめる沙夜の追憶を、美朝の澄んだ声が破る。「はい」と返事をして美朝に近づいた瞬間、顔面に味噌汁がぶちまけられた。
「……っ」
ぽたぽたと、前髪からぬるい液体が滴り落ちる。ろくに替えもない絣が濡れそぼり、胸元に染みを作った。
美朝の白い手が、漆器をそこらへ放り投げる。そうして彼女は、世にも美しく微笑んだ。
「それ、ぬるかったわ。作り直して」
「ねえ見て父様! あの鴛宮家から〈花嫁選定の儀〉の知らせが来たわ!」
朝餉の並べられた食卓について、少女——堂上美朝が、向かいに座った壮年の男に手紙を見せる。美朝の父親である堂上巌は、相好を崩して手紙に目を通した。
「鴛宮家当主の花嫁を選ぶために、娘を一人、儀式へ連れてくるように、との事だ。何も心配いらないな。美朝は特別な〈日輪の巫女〉だし、何より母さんに似て美しい。フフン、花嫁は決まったも同然だ」
「まあ、父様ったら気が早いんだから。私の通う月祓宮にも有力な巫女はたくさんいるのよ? でもそうね——お姉様よりは望みがあるかもしれないわ。ねえ、沙夜お姉様?」
艶やかな唇を意地悪げに吊り上げ、美朝が食堂の隅を振り返る。そこにはみすぼらしい絣をまとった少女が一人、ぽつねんと立っていた。体の前で揃えられた両手には、禍々しい呪言が刻まれた薄絹の手袋をつけている。艶もなくぱさついた長い髪に、血の気の失せた青白い肌。裾のすり切れた、元はもう何色だったかわからない灰色の絣。全体的に粗末な身なりの中で、手袋だけが異質だった。
そしてその顔は、ぼんやりした無表情に霞んでしまっているが、よくよく見れば美朝と同じ作りをしている。
沙夜と呼ばれた少女は、怯えたように美朝を見ると、従順に頭を下げた。
「美朝様の仰る通りでございます」
「うっふふ。お姉様には希望がないわよねえ。巫女を輩出する誉ある堂上家に生まれながら、蝕魔の穢れも祓えない。それどころか、周りの命を吸い取ってしまう化け物みたいな力を持っているなんて——ちょっと、その手袋、きちんとつけておきなさいよ」
「はい」
特にずれているわけでもなかったが、沙夜は諾々と手袋をつけ直した。沙夜の禍々しい力——直接触れた人間の命を奪う——を封じるための呪いがかけられた手袋は、焼きごてを押しつけるような激痛を常に沙夜に与え続ける。けれどその痛みにももう慣れてしまって、心にはさざなみ一つ立たなかった。
食堂の格子窓からは、温かな春の日差しが差している。柔らかな陽光に照らされ、美朝が愛らしく頬杖をついた。大きな目を瞬かせ、卓上に置かれた手紙を顎で示す。
「でも、私には篠井家の亨様という婚約者もいるでしょう? 花嫁選定の儀に出てしまってもよいかしら」
「むむ。しかし、この帝都において最上位である鴛宮家の命令には逆らえん。亨くんもわかってくれるだろう」
「それもそうよね。亨様は私を愛してくださっているもの。きっと許してくださるわ。ああ、でも私が鴛宮の当主様の花嫁に選ばれてしまったらどうしましょう! 鴛宮の当主様と言えば、近衛討禍隊の隊長として有名な帝都の英雄だわ。二人の殿方に求められたら……私、どうすれば……」
「確かに美朝ならその可能性もあるな。美朝は特別に優秀な巫女だ。誰もが求めるに違いない。むむ……どうすれば……」
二人の会話を聞きながら、沙夜は窓へ顔を向けた。外に広がる庭には色とりどりの花が咲くが、ただ一本、春になっても花をつけない木が寒々しく枝を揺らしている。
それが桜の木である事を、沙夜は知っていた。
——かつて、母親がそこで首を吊った事も。
「お姉様、こちらへ来なさいな」
葉さえつけない桜の木を見つめる沙夜の追憶を、美朝の澄んだ声が破る。「はい」と返事をして美朝に近づいた瞬間、顔面に味噌汁がぶちまけられた。
「……っ」
ぽたぽたと、前髪からぬるい液体が滴り落ちる。ろくに替えもない絣が濡れそぼり、胸元に染みを作った。
美朝の白い手が、漆器をそこらへ放り投げる。そうして彼女は、世にも美しく微笑んだ。
「それ、ぬるかったわ。作り直して」



