プロローグ はじまりの音
春の光がまだ冷たい風に揺れている。
午前の校舎には、人の気配が薄い。入学式の準備で人が動いているはずなのに、校舎全体が少しだけ眠っているような、そんな静けさだった。
音楽室に足を踏み入れたのは、まったくの気まぐれだった。
朝のうちに登校してしまったせいで、教室にはまだ誰もいなかった。だから、なんとなく廊下を歩きながら、鍵のかかっていなかったその扉を開けた。
ピアノは、静かにそこにあった。
何も語らず、ただ黙って存在していた。
蓋は閉じられていたけれど、僕にはその上に、まだ消えきらない音が浮かんでいるように見えた。
指先を伸ばす。
鍵盤に触れたのは、どれくらいぶりだっただろう。
??ぽろん。
やわらかい、最初の音が鳴る。
何の旋律でもない。ただの単音。
けれどその響きが、胸の奥を小さく震わせた。
音には、なにかが宿っている気がした。
それは懐かしさなのか、それとも怖れなのか、自分でもよくわからなかった。
もう一音、指を置く。
そしてまたひとつ。
音が、線になっていく。
それは、どこかで聞いたことのある旋律。
まだ完成していない、不完全で、どこか途切れている??でも、確かに知っている気がする。
目を閉じる。
遠くで誰かが笑ったような気がした。
「……あれ?」
声にならない声が、喉元で消える。
僕の記憶のなかに、この旋律がある。
でも、思い出そうとすると霧がかかる。まるで夢の途中で目を覚ましたときのように、輪郭だけがぼやけている。
けれど、その中に“誰か”がいた。
僕と並んでピアノに向かっていた、小さな背中。
名前も、顔も思い出せない。でも、その人の出す音だけは、確かに覚えていた。
指先を止めて、そっと目を開ける。
春の光が、斜めに差し込んでいた。
この旋律の続きを、いつかもう一度、弾ける日が来るのだろうか。
そしてそのとき、あの“誰か”にもう一度会えるだろうか。
??これは、はじまりの音だった。
何の旋律でもない、けれど僕のなかにずっとあった音。
これから始まる高校生活のなかで、この音がどんな意味を持つのかは、まだわからない。
でも今、音楽室に差し込む春の光と、この静かな空気が、すべての“予感”のように思えた。
僕はそっとピアノの蓋を閉じた。
音はもう鳴っていない。けれど、確かにそこには、何かが残っていた。
やわらかく風が吹く。
始業のチャイムが鳴る少し前の、何もない静けさのなかで、僕はもう一度、あの旋律のはじまりを胸に刻んだ。
シーン1.夢の始まり
鍵盤の上に、ふたつの手が重なっていた。
ひとつは小さく、細く、頼りない。
もうひとつは、それをそっと包むように添えられていて、
やわらかくて、ぬくもりがあった。
ふたつの手が同じ旋律をなぞるたびに、音が生まれる。
その音は、遠くで誰かの名前を呼ぶようで、
それでいて、何も語らない静けさに似ていた。
??あの旋律は、どこから来たのだろう。
はじめて聴いた気がしなかった。
それなのに、どうしても思い出せない。
けれど、確かに知っている。
この音、このぬくもり、この沈黙のなかにある、やさしい“何か”。
ふいに、隣にいる“誰か”が僕の手を離した。
その瞬間、音が止まり、世界が色を失う。
僕はその人の顔を見ようとする。
でも、光が強すぎて見えない。
ただ、誰かがこう言った気がした。
「また、会えるよ。きっと。」
その声だけが、いつまでも耳の奥に残っていた。
目を覚ますと、まぶたの裏にはまだ、あの白い光が残っていた。
呼吸が浅くて、胸の奥がざわついている。
夢のなかで聴いた旋律の断片が、静かに鼓膜の奥に響いていた。
「……あの音……」
どこかで、確かに聴いたことがある。
けれど、それがどこだったのか、誰といたのか、何を話したのか……何ひとつ思い出せなかった。
ただひとつ。
その旋律を、もう一度??今度は最後まで、弾きたいと思った。
シーン2.雨の駅
雨の音が、駅のホームに静かに降り積もっていた。放課後の薄暗い空の下、僕はベンチの端に座って、濡れた楽譜をそっとハンカチで拭っていた。指先に触れる紙の感触が、どこか遠い記憶を呼び起こすようで、胸の奥が少しだけざわつく。
「……なんで、思い出せないんだろう。」
小さく呟いた声は、雨音にすぐにかき消されてしまった。楽譜に書かれた旋律は、幼い頃からずっと頭の片隅に居座っている。けれど、どうしてこの曲を知っているのか、その理由だけはどうしても思い出せない。メロディの途中でいつも手が止まってしまうのも、何かが足りない気がしてならないのも、全部そのせいだ。
「……」
指先で五線譜をなぞりながら、僕は無意識に旋律を口ずさんでいた。雨の匂いと、紙の湿った感触。どこか懐かしいのに、はっきりとは思い出せない。そんなもどかしさが、今日もまた胸の奥に渦巻く。
「その曲、どこで習ったんだ?」
不意に、背後から声がした。驚いて振り返ると、そこには見知らぬ男子生徒が立っていた。制服の襟元から覗くシャツが少し濡れていて、傘を持っていないのか、髪も雨粒でしっとりしている。
「え……?」
僕が戸惑っていると、彼はゆっくりと僕の隣に腰を下ろした。目が合った瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚が走る。初めて会うはずなのに、なぜか見覚えがある気がした。
「ごめん、いきなり。……でも、その曲、どこかで聴いたことがある気がして。」
彼の声は、どこか懐かしさを含んでいた。僕は楽譜を抱え直しながら、どう答えればいいのか分からず黙り込む。
「僕も、よく分からないんだ。この曲、ずっと前から頭の中にあって……でも、どうして知ってるのかは思い出せない。」
そう言うと、彼は小さく頷いた。まるで僕の気持ちを分かってくれるような、優しい表情だった。
「俺も同じだよ。なんていうか……初めて聴いたはずなのに、知ってる気がする。変だよな。」
雨の音が、二人の間に静かなリズムを刻む。僕はもう一度楽譜を見つめ、彼の横顔をちらりと盗み見る。彼の目の奥にも、同じような戸惑いと懐かしさが揺れている気がした。
「君、名前は?」
「山本葉月。君は?」
「高梨透吾。今日、転校してきたばかりなんだ。」
透吾??その名前も、どこかで聞いたことがあるような気がする。でも、やっぱり思い出せない。
「……じゃあ、これも偶然なのかな。」
僕がそう呟くと、透吾は小さく笑った。
「偶然、か。……でも、なんか違う気がする。」
その言葉に、僕は少しだけ胸が温かくなるのを感じた。雨はまだ止みそうにない。けれど、この出会いがただの偶然じゃない気がして、僕はもう一度楽譜をそっと撫でた。
旋律の続きを、思い出せそうな気がした??そんな予感だけが、静かに胸の奥に残った。
シーン3.記憶の影
家に帰ってからも、雨の気配は頭の中に残っていた。ポタポタと窓を叩く音が、駅のベンチで交わした透吾との言葉を、何度も思い出させる。
「どうして……あの旋律を、僕は知ってるんだろう。」
机の上に置いた楽譜をぼんやりと見つめながら、僕はゆっくりと目を閉じた。すると、いつかの記憶が、ゆっくりとよみがえってくる。
??それは、たしか幼稚園の頃だった。
古びた音楽教室。色褪せたピアノ。窓から差し込む午後の光が、埃の舞う空間を柔らかく照らしていた。
「ほら、ここをこうやって、優しくね。」
小さな手の上に、誰かの手がそっと重なる。あたたかくて、優しくて、でもどこか切ない感触だった。
「この音が、君の音になるんだよ。」
その声は、今でもはっきりとは思い出せない。ただ、耳の奥にかすかに残っている。高くも低くもない、どこか中性的な声。目を凝らしても、顔は白く霞んでいて??誰だったのか、思い出せない。
それでも、そのときの旋律だけは、確かに今と同じだった。
ド・ミ・ファ・ソ……一音一音が静かに胸に染みていく感覚。
「……またね。きっと、また会えるから。」
夢か、現実かも分からない記憶。けれど、その最後の言葉だけが、どうしようもなく胸に焼きついていた。
??また、会える。
あのとき、そう言ってくれたのは、いったい誰だったのだろう。
目を開けると、部屋の明かりがまぶしく感じた。時計の針は、夜の十時を指している。
「透吾……」
名前を呟いた瞬間、心臓が小さく跳ねた。あの目、あの声、あの雰囲気??もしかして、彼は……?
いや、そんなはずはない。だって、あれは十年以上も前の記憶だ。
けれど、出会ったばかりの彼の存在が、まるで再会のように感じられたのも、また事実だった。
僕はそっと、濡れたままの楽譜を開いた。五線譜の途中で止まる旋律。その先に、あの時と同じ音が続いている気がした。
そして??いつか交わした、あの“また会える”という言葉が、静かに胸の奥に響いていた。
シーン4.初めての言葉
駅のホームに響くアナウンスが、雨音と混じり合って遠くに消えていく。僕と透吾は、しばらく無言のままベンチに並んで座っていた。傘を持っていない透吾の肩に、雨粒が静かに落ちているのが見える。
「その曲、どこで習った?」
透吾がもう一度、今度は少しだけ真剣な声で問いかけてきた。僕は楽譜を見つめたまま、どう答えればいいのか迷う。
「……小さい頃から、ずっと頭の中にあったんだ。誰かに教わった記憶はないんだけど、気がついたら、いつもこの旋律が浮かんでて。」
言葉にしてみると、自分でも不思議な気がした。透吾は僕の言葉をじっと聞いている。彼の視線が、楽譜の上をなぞるように動く。
「俺も……いや、僕も、なんだか似てる。どこかで聴いたことがあるはずなのに、思い出せない。……でも、続きが知りたいって、ずっと思ってた。」
透吾の声が、雨音の中でやけに鮮明に響いた。僕は彼の横顔をそっと見つめる。彼の瞳の奥に、僕と同じようなもどかしさが揺れているのが分かった。
「……君も、ピアノを弾くの?」
「うん。ギターも少しやるけど、ピアノの音が一番落ち着くんだ。」
「そうなんだ。」
会話はどこかぎこちないけれど、言葉の一つ一つが心の奥に静かに染み込んでいく気がした。透吾は僕の手元の楽譜をじっと見つめている。
「その楽譜、見せてもらってもいい?」
「うん。」
僕は少し戸惑いながらも、濡れた楽譜を透吾に差し出した。彼はそれをそっと受け取り、指先で五線譜をなぞる。まるで、紙の感触から何かを確かめるように。
「……この部分、なんとなく覚えてる気がする。」
透吾が小さく呟いた。僕は驚いて彼の顔を見上げる。透吾は、楽譜の途中の空白をじっと見つめていた。
「ここから先が、どうしても思い出せないんだよな。」
「僕も、同じ。」
僕の胸が、またざわつく。まるで、ずっと探していた何かに、ようやく手が届きそうな気がした。
「……もし、よかったらさ。今度、一緒に弾いてみない?」
透吾が、少しだけ照れたように笑いながら言った。その笑顔が、やけに眩しく見えた。
「うん……いいよ。」
僕は自然と頷いていた。言葉にするのは苦手だけど、今だけは素直な気持ちを伝えたかった。
「ありがとう。なんか、君となら続きを思い出せそうな気がする。」
透吾の言葉が、雨の音に溶けていく。僕の心臓が、静かに高鳴っていた。初めて会ったはずなのに、どうしようもなく懐かしい。そんな不思議な感覚が、僕の胸の奥で静かに波紋を広げていく。
「……よろしくね、葉月。」
「うん、透吾。」
雨はまだ止まない。だけど、僕の中には小さな光が灯った気がした。透吾となら、きっと旋律の続きを見つけられる。そんな予感が、今は確かにあった。
シーン5.静かな輪郭
その夜、僕はピアノに触れなかった。
代わりに、窓際の机に座ったまま、楽譜とハンカチを並べてじっと見つめていた。
透吾の声が、何度も頭の中で反響する。
「君となら、続きを思い出せそうな気がする」??その言葉は、雨音よりも深く、心の奥に残っていた。
僕は思い出す。
ピアノを始めたのは、小学校に入る少し前だった。特に強い動機があったわけじゃない。
母が昔使っていたというアップライトピアノが家にあって、ある日なんとなく鍵盤を叩いたら、それがとても心地よかった。それだけだった。
以来、音楽は僕にとって“静かで安全な場所”になった。
友達付き合いは得意じゃない。人混みも苦手だし、自分の気持ちを言葉にするのも遅い。
でも、ピアノだけは??旋律だけは??僕の中で、いつでも正直だった。
だけど最近、ふと思う。
僕が“音楽を好き”なんじゃなくて、“音楽しかなかった”んじゃないかって。
旋律をなぞることで、自分の輪郭をなぞる。
それが僕にとっての“生き方”だったのかもしれない。
でも、今日の出会いは違った。
透吾は、僕の旋律を知っていた。いや、それだけじゃない。
あの目を見たとき、僕の中の“沈黙”が揺れた。何かが、壊れそうになった。
「……透吾。」
名前を小さく口にしただけで、胸が少し熱くなる。
まだ何も知らない。出会ったばかり。なのに、どうしてこんなにも“懐かしい”と思えるんだろう。
ふと、指が勝手に動き出す。机の上で、無意識に旋律の断片をなぞっていた。
楽譜を見なくても、手が覚えている??そんな感覚。透吾も同じことを言っていた。
「……もしかして、本当に……?」
途中で思考を止めた。そこから先を考えてしまうと、何かが壊れてしまう気がした。
でも、心の奥では、確かに何かが始まりかけているのを、僕は知っていた。
僕たちをつなぐ旋律には、まだ名前も、終わりもない。
けれどその不確かさが、なぜか今は愛おしかった。フォームの終わり
シーン6.遠ざかる旋律
翌日、学校の音楽室。放課後の静けさが、やけに心地よかった。僕は誰もいないピアノの前に座り、昨日の雨の駅で透吾と交わした言葉を思い出していた。
楽譜をそっと開き、鍵盤に指を置く。旋律の冒頭は、何度も練習したおかげで自然と指が動く。けれど、問題はその先だ。あの空白??どうしても思い出せない部分に差しかかると、僕の手はぴたりと止まってしまう。
「……やっぱり、ここで止まる。」
小さく息を吐いて、もう一度最初から弾き直す。でも、何度やっても同じ場所で指が動かなくなる。頭の中では音が鳴っているはずなのに、いざ弾こうとすると、まるで鍵盤の上に重い蓋が下りたみたいに、音が出てこない。
「どうして……?」
そのとき、背後でドアが軋む音がした。振り返ると、透吾が静かに音楽室に入ってきた。彼は僕の弾く旋律をじっと聞いていたらしく、どこか考え込むような表情をしている。
「……やっぱり、続きを思い出せない?」
透吾がそっと声をかけてきた。僕は苦笑いを浮かべて首を振る。
「うん。何度やっても、ここで止まってしまうんだ。」
透吾は僕の隣に歩み寄り、ピアノの譜面台を覗き込む。しばらく無言で楽譜を見つめていたが、やがて小さく呟いた。
「不思議だな。僕も、頭の中に旋律の断片はあるのに、はっきりした形にはならない。」
「昨日、駅で話したときも、そんな感じだった?」
「うん。……あのとき、君の口ずさんだメロディを聞いて、胸がかすかに疼いた。でも、どうしてなのかは分からない。」
透吾はピアノの蓋にそっと手を置き、静かに目を閉じた。僕もつられて、鍵盤の上に手を重ねる。
「……もしかして、僕たち、以前にも、この旋律をどこかで手繰り寄せた記憶がある気がしたのかな。」
口にしてみて、なんだかどこか懐かしさに触れたような気がした。透吾は少しだけ目を開けて、僕の方を見た。
「……そうかもしれない。なんとなく、そんな気がする。」
音楽室の窓の外では、まだ雨がしとしとと降っている。透吾はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐くと、ゆっくりと立ち上がった。
「……今日はもう行くよ。また、明日。」
「うん。また、あしたここで会おう。」
透吾は静かに音楽室を出ていった。僕はしばらくピアノの前に座ったまま、動けなかった。旋律の続きをもどかしさと、透吾と話すたびに胸の奥がかすかに波立つ感覚。その両方が、僕の中でじわじわと心の奥に広がっていた。
窓の外の雨は、まだ止む気配がない。僕はそっと鍵盤に手を添えた。けれど、それでも、最後の一音には届かなかった。
シーン7.透吾の夢
その夜、僕はなかなか眠れなかった。
布団に入ってからも、葉月の横顔が頭から離れない。
静かな音楽室で、ピアノの旋律が止まったあの瞬間。
あの沈黙の中で、なぜか胸が痛くなった。
「どうして、あの曲を知ってるんだろう……」
自分でも分からない。ただ、“思い出そうとしても、すり抜けていく”??そんな感覚だけが、ずっと付きまとっている。
頭の奥に、誰かの手の感触が残っている気がする。
並んで座って、ピアノの前で肩を寄せていた。鍵盤の上で、二人の指が交わるように動く。
でも、そこにいた“もう一人”の顔は思い出せない。ぼんやりとしていて、光の中に溶けている。
「……葉月、だったのか?」
そう呟いたとき、瞼の裏に浮かぶ残像が、少しだけ鮮明になる。
音楽室の窓。雨の音。濡れた制服。そして、何よりも、優しい目。
そのとき??夢が始まった。
??淡い光の中、僕は小さな音楽室に立っていた。
目の前には、黒いアップライトピアノ。椅子には誰かが座っている。
僕はその背中に近づき、そっと声をかける。
「……待たせた?」
その人はゆっくりと振り向いた。けれど、顔は霞んで見えない。ただ、静かに笑っているのが分かった。
「ようやく、会えたね。」
どこかで聞いたことのある声。懐かしくて、温かくて、胸が締め付けられるような響きだった。
「旋律の続きを、一緒に??」
その言葉の途中で、夢はふっと途切れた。
目を覚ますと、天井がぼんやりとにじんでいた。額に汗がにじみ、胸が少し苦しかった。
「……今の、なんだったんだ。」
夢だったのか、記憶だったのか。
それとも、まだ思い出せていない“過去”の残響だったのか。
けれど確かなことが一つだけあった。
??夢の中の“君”に触れたとき、僕の心は確かに震えた。
そして、それと同じ震えを、今日、葉月と話したときにも感じた。
まるで、何かが“戻ってきた”ような気がした。
僕は布団の中でそっと目を閉じた。
次に目覚めたとき、あの旋律の続きを思い出せる気がした。
シーン8.夢の記憶
夜、ベッドに横たわりながら、僕は天井をぼんやりと見つめていた。窓の外では、まだ雨が静かに降り続いている。ピアノの旋律が頭の中で繰り返し鳴っているのに、どうしてもあの続きを思い出せない。そのもどかしさが、胸の奥にじわじわと広がっていく。
目を閉じると、すぐに夢の世界が訪れた。
??そこは、薄暗い音楽室だった。窓から差し込む淡い光が、ピアノの鍵盤をやさしく照らしている。僕は椅子に座り、目の前の楽譜をじっと見つめていた。手元には、あの未完成の旋律が書かれている。
「……続き、どうだったかな。」
夢の中の僕は、現実と同じように悩んでいた。そのとき、背後から誰かが静かに近づいてくる気配がした。振り返ろうとしても、なぜか体が動かない。
「大丈夫。君なら、きっと弾けるよ。」
優しい声が、すぐ耳元で響いた。けれど、その声の主の顔は、どうしても霞んで見えない。白い光に包まれて、輪郭さえもぼやけている。
「この旋律、君と一緒に完成させたかったんだ。」
その言葉に、僕の胸が強く揺れる。夢の中なのに、涙がこぼれそうになる。誰なのか分からないのに、どうしようもなく懐かしい。心の奥深くに、ずっと残っていた感情が、静かに波紋を広げていく。
「……続きを、教えて。」
僕は必死に声を絞り出す。すると、その人はそっと僕の手に自分の手を重ねてきた。温かくて、どこか切ない感触だった。
「大丈夫。焦らなくていい。」
鍵盤の上で、二人の手が重なる。すると、不思議なことに、旋律の続きを指先が自然に奏で始めた。けれど、ほんの一瞬だけ??すぐに音が途切れてしまう。
「ここから先は、君自身が見つけるんだよ。」
その声が、遠ざかっていく。僕は必死に手を伸ばそうとするけれど、白い光がすべてを包み込んで、世界がふっと消えてしまった。
??目が覚めた。
静かな部屋。雨の音だけが、現実に僕を引き戻す。夢の中で誰かと一緒に旋律を弾いていた感触が、まだ手のひらに残っている気がした。
「……誰だったんだろう。」
胸の奥が、またざわめく。あの声、あの温もり。顔は思い出せないのに、どうしようもなく懐かしい。僕はそっと手を握りしめた。
夢の中で聞いた旋律の続きを、現実でもう一度探したい。そんな思いが、静かに僕の中に芽生えていた。
シーン9.昼休みの断片
翌日の昼休み。
教室の窓際の席で、僕はぼんやりと空を眺めていた。
晴れているのに、なんだか世界がうすぼんやりと見える。
昨夜の夢が、まだ頭の中に残っているせいかもしれない。誰かとピアノを弾いていた感触??あの温もりだけが、指先に残っていた。
「葉月ー、購買、行かない?」
隣の席の西村が声をかけてきたけれど、僕は首を横に振った。
「うん……今日はいいや。」
「またかよー。最近ぼーっとしてること多くない?」
西村があきれたように笑いながら行ってしまい、教室には静けさが戻った。
僕はカバンの中から、折れ目のついた楽譜をそっと取り出す。音符の並びが、ひとつひとつ語りかけてくるような気がする。
??そのとき、教室の入り口に、見覚えのある影が現れた。
「……山本くん。」
振り返ると、透吾が教室の前で立ち止まっていた。
目が合って、少しだけお互い気まずそうに笑う。
「えっと……」
透吾は手に紙袋を提げていた。中から、パンの袋が少し見えている。
「購買、すごい並んでて……二つ買っちゃったから、ひとつ、いる?」
「……あ、ありがとう。」
僕は素直にそれを受け取った。クリームパンだった。ほんのり温かい。
静かに席に座る透吾と向かい合って、机を挟んでパンをかじる。
会話はないけれど、不思議と居心地は悪くなかった。
「……昨日、ありがとうね。」
僕がぽつりと呟くと、透吾は少し驚いたような顔で笑った。
「ううん。こっちこそ。」
それだけのやりとりで、昼休みの時間は静かに過ぎていった。
チャイムが鳴ると、透吾は席を立ちながら、ふと僕の楽譜に視線を落とした。
「また、あとで音楽室、行く?」
僕は自然と頷いていた。
「うん。……待ってる。」
透吾は頬を緩めて、小さくうなずいた。
午後の授業の始まりを知らせるチャイムが鳴る中で、
僕の心の中には、昨日より少しだけ柔らかな光が差し込んでいた。
シーン10.音楽室の再会
放課後の音楽室は、いつもより静かだった。窓の外にはまだ雨の名残が残っていて、ガラス越しに淡い光が差し込んでいる。僕はピアノの前に座り、夢の中で感じた温もりを思い出しながら、そっと鍵盤に指を置いた。
「……続き、思い出せるかな。」
小さく呟いて、楽譜の冒頭から旋律を弾き始める。音が重なり合い、部屋の空気が少しずつ色づいていく。けれど、やはり途中で指が止まった。夢の中で誰かと重ねた手の感触が、まだ指先に残っている気がする。
そのとき、背後から静かな足音が近づいてきた。振り返ると、透吾がドアの前に立っていた。彼は僕の演奏をじっと聞いていたらしい。目が合うと、少しだけ照れくさそうに笑った。
「ごめん、勝手に入っちゃって。」
「ううん、大丈夫。」
僕は椅子の横にスペースを空ける。透吾はためらいながらも僕の隣に座った。ピアノの前で肩を並べるのは、なんだか不思議な気分だった。
「さっきの曲……昨日の駅で聴いたやつだよね?」
「うん。やっぱり、続きを思い出せなくて。」
僕がそう言うと、透吾はしばらく黙って楽譜を見つめていた。やがて、彼は小さく息を吸い込むと、ぽつりと呟いた。
「……なんとなく、続きを歌えそうな気がする。」
「え?」
驚いて透吾の方を見ると、彼は目を閉じて、静かに口ずさみ始めた。僕が弾いた旋律の先に、透吾の声が重なっていく。まるで、夢の中で誰かが続きを弾いてくれたときのように??。
「……今の、どうして?」
僕の問いに、透吾は困ったように笑った。
「分からない。気づいたら、口から出てた。……でも、なんだか懐かしい気がするんだ。」
彼の声には、戸惑いと確信が混じっていた。僕の胸も、同じようにざわついている。
「もしかして、透吾もこの旋律を??」
「……夢で、聴いたことがある気がする。」
透吾はそう言って、僕の方を見た。その瞳の奥に、僕と同じ不安と期待が揺れているのが分かった。
「……僕も、同じ。」
言葉にした瞬間、僕の中で何かが静かに繋がった気がした。夢の中で感じた温もりと、今ここにいる透吾の存在が、ゆっくりと重なっていく。
「ねえ、葉月。今度、二人でこの曲の続きを作ってみない?」
透吾の提案に、僕は自然と頷いていた。もう一度、彼と旋律を探したい。そんな気持ちが、胸の奥で静かに膨らんでいく。
雨上がりの音楽室で、僕たちは新しい約束を交わした。未完の旋律の続きを、二人で見つけていくために??。
シーン11.はじめてのすれ違い
放課後の音楽室。
陽が傾き、窓から差し込む光がピアノの蓋に長い影を落としていた。
透吾は椅子に座り、楽譜の上をじっと見つめていた。
けれど、指は動かない。音も生まれない。
「……ここで、次が出てこないんだ。」
彼がそう呟いたとき、僕は何か返そうとして言葉に詰まった。
たしかに、その小節のあとが空白だ。旋律は、そこで途切れている。
けれど、僕の頭の中では??その先の音が、もう鳴っていた。
「ここ……こうじゃない、かな?」
僕はそっと鍵盤に触れ、数音を叩く。
透吾が目を細めて聴いているのが分かった。
音が止むと、彼は首を少しかしげた。
「それ……なんか、ちがう。」
「ちがう……?」
僕は思わず言い返しそうになった。
でも透吾の表情は、怒っているわけじゃなかった。
ただ、戸惑っているような、探しているような……そんな顔だった。
「……ごめん。」
「いや、俺のほうこそ。なんか……うまく言えない。」
そう言って、透吾は立ち上がり、窓のほうへ歩いていった。
沈黙が落ちた。
ピアノだけが、光を受けて静かに佇んでいる。
僕は鍵盤を見つめながら、自分の指先を見た。
??あの旋律は、本当に“ふたりの記憶”なのか?
それとも、僕だけのものだったのか?
透吾と弾いていたはずの音。けれど、それは僕が“勝手に”思っていただけなのかもしれない。
「……わかんないね。」
僕が呟くと、透吾は窓辺からこちらを見た。
「うん。……でも、たぶん、ちがう“わかんない”なんだと思う。」
「……ちがう?」
「うまく言えないけど……俺は、思い出せないことが怖くて。
葉月は、思い出したいことが怖いのかなって……そんなふうに見える。」
僕は何も返せなかった。
返せるような言葉が、見つからなかった。
ただ、胸の奥で、何かが少しずつずれていく音がした。
この日、僕たちは旋律の続きを見つけることができなかった。
それでも、音を出すことをやめなかったのは??
きっと、もう一度“重なれる”と、どこかで信じていたからだ。
シーン12.不確かな記憶
音楽室の空気が、ほんの少しだけ張り詰めている気がした。透吾は僕の隣で、まだ楽譜をじっと見つめている。僕はピアノの蓋に手を置いたまま、さっき透吾が口ずさんだ旋律の余韻を感じていた。
「……どうして、知ってるんだろう。」
透吾がぽつりと呟いた。その声は、僕の心の奥に静かに染み込んでくる。僕自身も、同じ疑問を抱えていた。なぜ、透吾はあの続きを知っていたのか。なぜ、僕たちは夢の中で同じ旋律を聴いていたのか。
「透吾、さっきの……本当に、覚えてたの?」
僕が恐る恐る尋ねると、透吾は眉をひそめて首を振った。
「覚えてるっていうより……体が勝手に動いた、みたいな感じ。頭では分からないのに、口が自然に動いてた。」
「……夢の中で、誰かと一緒に弾いてた気がするんだ。でも、その人の顔も名前も思い出せなくて。」
僕がそう言うと、透吾は驚いたように僕を見た。
「……僕も、同じ。夢の中で、誰かと一緒に音楽を作ってた。でも、その人が誰なのか、どうしても分からない。」
音楽室の窓から差し込む光が、二人の間に淡い影を落とす。僕たちはしばらく黙ったまま、互いの存在を確かめるように隣り合って座っていた。
「……もしかして、前世とか、そういうのかな。」
透吾が冗談めかして言う。でも、その言葉の奥に、本気で戸惑っている気配があった。
「分からない。でも、こうしてまた会えたのは、きっと偶然じゃないよね。」
僕はそう呟いて、そっと透吾の横顔を見つめた。彼の目の奥にも、僕と同じような不安と期待が揺れている。
「この曲の続きを見つけたら、何か分かるのかな。」
「……分かる気がする。」
透吾の言葉に、僕は小さく頷いた。未完成の旋律と、断片的な記憶。それらが少しずつ重なっていく感覚が、僕の胸の奥で静かに広がっていく。
「また、一緒に探そう。」
「うん、絶対。」
その約束が、音楽室の静寂の中で小さく響いた。僕たちはまだ何も思い出せていない。でも、きっとこの先に答えがある。そんな確信だけが、今は僕の支えだった。
シーン13.手探りの距離
音楽室を出たあと、僕たちは並んで廊下を歩いていた。
夕方の光が、窓から斜めに差し込んでくる。葉月はいつものように静かで、僕は何を話せばいいのか分からないままだった。
??旋律の続きは、確かに胸の奥にある。
けれど、いざ弾こうとすると、なぜか指が止まってしまう。
さっきまでの音楽室でのやりとりが、何度も頭をよぎる。
夢の中と現実が少しずつ混ざってきている気がして、息が苦しくなる瞬間もある。
「……透吾。」
ふいに名前を呼ばれて、僕は肩をすくめた。葉月がこちらを見ている。
その瞳の奥には、僕と同じような戸惑いが浮かんでいた。
「さっき……手が、震えてた。」
「えっ……あ、うん……ちょっと、緊張してただけ。」
咄嗟に笑ってごまかす。でも、嘘じゃない。
葉月の隣にいると、心の中にずっと閉じ込めていた“何か”が、静かにざわめき出す。
旋律も、そのざわめきも、まだ僕には正体が分からない。
「……無理、してない?」
葉月の声は、ひどく静かで、でもまっすぐだった。
僕は答えに詰まり、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
「……してる、かも。」
自分でも驚くほど素直な言葉だった。
でも、その瞬間、葉月がふっと微笑んだ気がして、心が少し軽くなる。
「じゃあ、少しずつでいいよ。」
そう言って、彼はまた前を向いて歩き出す。
その背中を見つめながら、僕もそっと歩幅を合わせた。
まだ、全部は言えない。
まだ、全部は思い出せない。
でも、こうして少しずつ言葉を交わせるなら??
いつか、心の奥にしまってきた旋律のすべても、きっと分かち合える気がした。
シーン14.沈黙の中の確認
音楽室の静けさが、まるで世界から音を消してしまったみたいだった。透吾と僕は、ピアノの前に並んで座ったまま、互いに言葉を失っていた。窓の外では、雨が細く長く降り続いている。
僕は楽譜をそっと指でなぞる。透吾が口ずさんだ旋律の断片が、まだ耳の奥に残っている。けれど、どうしてもその先が思い出せない。まるで、記憶の扉の前で立ち尽くしているような感覚だった。
「……なんだか、不思議だね。」
僕が小さく呟くと、透吾はうなずいた。
「うん。夢の中のことなのに、現実の君とこうして旋律を探してるのが、変な感じがする。」
透吾の声は、どこか遠くを見つめているようだった。僕はピアノの蓋に手を置いたまま、透吾の横顔をそっと見つめる。
「でも、こうして一緒にいると……何か思い出せそうな気がする。」
「僕も。」
沈黙が、二人の間に流れる。けれど、その沈黙は決して重苦しいものではなかった。むしろ、互いの存在を確かめ合うための、やさしい時間のように感じられた。
「……もし、この曲の続きを見つけたら、何か分かるのかな。」
透吾がぽつりと呟く。僕は少しだけ考えてから、静かに答えた。
「分かるかもしれないし、分からないかもしれない。でも、僕は透吾と一緒に探したい。」
透吾は驚いたように僕を見た。けれど、すぐに柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。僕も、葉月となら……きっと見つけられる気がする。」
また、静かな時間が流れる。僕たちはそれぞれの思いを胸に、未完の旋律の続きを探し続けることを、言葉ではなく沈黙で確認し合った。
窓の外の雨音が、やけに優しく響いていた。僕はそっと鍵盤に手を置き、透吾の隣で、もう一度旋律の断片を探し始めた。
シーン15.ひとりの昼休み
昼休みが苦手だった。
チャイムが鳴ると、教室が一気にざわめきに満ちる。
椅子を引く音、弁当箱のフタが開く音、笑い声、走り回る足音。
そのすべてが自分とは関係のない世界で起きているようで、いつもどこか置いてけぼりを食らった気持ちになった。
僕は教科書を閉じ、筆箱を揃えるふりをしながら、静かに席を立つ。
誰かに声をかけられることもないし、誰かを呼ぶこともなかった。
たまに目が合っても、すぐに視線をそらされた。
僕自身もそれに慣れていたし、そうであることにさえ、もう何も思わなかった。
図書室へ向かう途中、廊下にはグループで固まる生徒たちの姿があちこちにあった。
談笑する声。スマホの画面を囲む数人。
誰も僕に気づかない。
まるで、僕だけが薄い膜に包まれて、別の世界にいるみたいだった。
図書室の扉を開けると、やっとほっとした。
音がすっと遠ざかる。
空調の音と、ページをめくる乾いた音だけが、ここでは許される。
いつもの窓際の席。
好きだったのは、日が当たりすぎない曇りガラスのそば。
本を読むでもなく、何を考えるでもなく、ただ、座っているだけ。
誰かと一緒にいるのが苦手だったわけじゃない。
でも、誰かに話しかけられることをずっと避けていたのはたしかだった。
期待されるのが怖かった。関係を築くことが面倒だった。
それよりも、静かな場所でひとり、何も起きない時間に身を沈めているほうが、よほど楽だった。
僕には、夢がなかった。
目標もなかった。
将来のことを訊かれても、何となく「音楽」と言えば、みんな納得してくれたから、それを口にしていただけ。
けれど、音楽に救われたのはたしかだった。
小さな頃、家にあった電子ピアノに触れたときの感触。
指先から伝わってくる音の響き。
誰とも話さなくても、それだけで自分が“ここにいる”と感じられる瞬間。
旋律は、言葉よりもやさしかった。
音は、誰かに選ばれなくてもそこにいてくれた。
だから僕は、誰かと話すより、鍵盤と向き合うことを選び続けてきた。
けれど??
その音さえも、いつからか、少しずつ遠くなっていった。
最近は、ピアノを弾く回数も減っていた。
学校の音楽室に行くことも、あまりなくなった。
音楽は、“自分を保つための手段”でありすぎて、
楽しむという感覚からは遠ざかっていたのかもしれない。
だからこそ、あの日。
透吾がふいに現れて、僕のピアノの音に反応したことが、不思議でならなかった。
それはたった一言だった。
??「その旋律、知ってる気がする。」
誰にも届かないと思っていた音が、誰かに届いた。
それだけで、世界の厚みが少しだけ変わった気がした。
いま思えば、あれはただの昼休みの出来事だった。
それでも、僕にとっては確かな“はじまり”だったのかもしれない。
その日はまだ、透吾の名前も、声のトーンも、何ひとつ覚えていなかった。
でも、彼の“まなざし”だけは、なぜか胸に残っていた。
図書室の時計が、昼休みの終わりを告げるチャイムと同時に鳴った。
僕は立ち上がり、扉の外の騒がしい空気へと戻っていく。
そのとき、なぜかふと??
“音の記憶”という言葉が、頭に浮かんだ。
旋律ではなく、記憶として。
ひとりきりの昼休みにも、音はあったのだ。
シーン16.遠ざかる気配
放課後の音楽室に、夕暮れの光が差し込んでいた。ピアノの蓋を閉じたまま、僕と透吾はしばらく無言で座っていた。窓の外の雨は、いつの間にか小降りになっている。
透吾は楽譜を指でそっとなぞりながら、ふと僕の方を見つめた。その視線が、どこか遠くを見ているようで、僕は思わず息を呑む。
「この曲、前にも……」
透吾がぽつりと呟いた。けれど、その先の言葉は続かなかった。彼は何かを思い出しかけているようで、でも決定的なところで言葉にできない。もどかしさが、透吾の表情に滲んでいた。
「……どうしたの?」
僕がそっと尋ねると、透吾は首を振った。
「ううん、なんでもない。ただ……すごく懐かしい気がして。」
その言葉に、僕の胸も静かにざわめく。僕たちは同じ旋律を、同じようにどこかで知っている。けれど、その理由も、きっかけも、どうしても思い出せない。
「ねえ、葉月。もしさ??」
透吾が言いかけて、また口をつぐむ。何かを言おうとして、でも言葉にならない。僕はその沈黙の意味を考えながら、そっと透吾の横顔を見つめた。
「……やっぱり、思い出せないんだ。」
透吾は小さく笑った。その笑顔には、少しだけ寂しさが混じっている。僕も同じ気持ちだった。思い出せそうで、思い出せない。近づいたと思えば、また遠ざかっていく。
「でも……」
僕が言葉を探していると、透吾がふいに立ち上がった。
「今日は、もう帰るね。また明日、一緒に探そう。」
「うん。また明日。」
透吾は静かに音楽室を出ていった。残された僕は、しばらくピアノの前に座ったまま、透吾の残した温もりを感じていた。
窓の外の雨は、すっかり止んでいた。でも、僕の胸の中には、まだ遠ざかる気配が静かに残っていた。
旋律の続きを探す旅は、まだ始まったばかりだ。
シーン17.教室の午後
午後の授業が終わって、教室がざわついていた。
席を立って廊下に出る生徒たちの足音や、誰かが窓を開ける音。遠くから聞こえる笑い声。
僕はそのすべてを遠くに感じながら、教室の隅の席にひとり座っていた。
机の上には、折りたたんだままの楽譜が一枚。
何度も読み返してしわだらけになったその紙に、僕はただ指を置いていた。
「山本くん、今日も部活、音楽室?」
声をかけてきたのは、クラス委員の小川さんだった。
気遣い屋で、誰にでも平等に接する彼女は、たまにこうして声をかけてくれる。
「……うん。」
「そっか。……あの転校生くんと、仲良さそうだね。」
透吾のことだ。僕は少し戸惑って、言葉を探す。
「……仲がいい、っていうのとは……ちょっと違うかも。」
「でも、楽しそうに見えたよ? 昨日、廊下でふたりで笑ってたの、見ちゃった。」
僕は思わず目をそらした。
楽しそうに、なんて??自分ではよく分からなかった。ただ、あの瞬間、少しだけ胸があたたかかったのは事実だ。
「……あんまり、誰かと一緒にいるの、得意じゃないから。」
「そっか。でも、そういうの、無理に変えなくてもいいと思うよ。」
小川さんはやわらかく笑った。
「自分で選んでるなら、それはそれで、ちゃんと意味のあることだし。」
言葉が胸に残った。“選んでる”??僕はこの静かな孤独を、選んできたんだろうか。
「でもね。」
彼女は続けた。
「時々、その“選んだもの”の外に、思わぬ景色があるかもしれないよ。……気づかないうちに、誰かがドアを開けてくれること、あるから。」
「……それって、透吾、のこと?」
彼女は目を丸くして、でもすぐにふふっと笑った。
「それは葉月くんが決めることだよ。」
そう言って、彼女は「またね」と言いながら、友達のもとへ戻っていった。
教室にひとり残された僕は、窓の外を見つめる。
遠くで雲が、静かに形を変えていた。
楽譜の紙をそっと鞄にしまって、僕は立ち上がる。
静かな孤独を守ってきた僕が、いま少しだけその外側へ歩き出そうとしている??そんな予感だけが、心の中に残っていた。
シーン18.旋律の断片
昼休み、僕は図書室の奥で静かに楽譜をめくっていた。音楽室で透吾と過ごした時間が、頭の中で何度もリフレインしている。未完成の旋律、その続きを探す手がかりを求めて、古い音楽書の山を前に、僕はページをめくり続けた。
「……やっぱり、どこにも載ってないな。」
小さく呟いたとき、隣の棚から誰かが本を取る気配がした。顔を上げると、そこには透吾がいた。彼もまた、分厚い楽譜集を抱えている。
「葉月、ここにいたんだ。」
「うん。何か、手がかりになるものがないかと思って。」
透吾は僕の隣に腰を下ろし、持ってきた楽譜を机に広げた。二人で黙々とページをめくる。静かな図書室の空気に、紙をめくる音だけが響いていた。
「……これ、見て。」
透吾が一冊の古い楽譜を指さす。そこには、どこか見覚えのある旋律の断片が書かれていた。僕の胸が、一瞬だけ強く鳴る。
「このフレーズ……僕たちが探してる曲に、似てる。」
「だよな。俺もそう思った。」
透吾の声が、少しだけ弾んでいる。僕はその楽譜のページをじっと見つめた。五線譜の上に並ぶ音符が、まるで過去の記憶を呼び起こそうとしているみたいだった。
「……この先、どうなってるんだろう。」
僕が呟くと、透吾も同じように首を傾げる。二人で旋律の続きを指でなぞりながら、遠い記憶の断片を探していた。
「なんだか、思い出せそうで思い出せないな。」
透吾の言葉に、僕は小さく頷いた。旋律の断片が、僕たちの間に静かに浮かび上がる。その続きを知りたい。今はただ、その思いだけが胸の奥で強く響いていた。
図書室の窓から差し込む光の中で、僕たちは新しいヒントを手に入れた気がした。未完の旋律の断片が、少しずつ形になっていく??そんな予感が、静かに広がっていく。
シーン19.未完の楽譜
図書室の奥、古い書庫の一角に、埃をかぶった楽譜集が積まれていた。
紙は黄ばんでいて、端はめくるたびにパリパリと乾いた音を立てる。
その中の一冊。透吾が取り出したのは、題も署名もない、無地の楽譜帳だった。
「これ……誰の?」
僕が問いかけると、透吾は首をかしげたままページをめくった。
そこには、不思議な旋律の断片が書かれていた。
五線譜の上に音符が並んでいる。けれど、それは途中で唐突に終わっていた。
音の流れがぶつ切りになっていて、続きを書こうとした形跡がありながらも、筆致は、途中でぴたりと止まっていた。
「……未完、だね。」
透吾がぽつりとつぶやいた。
僕も無言でそのページを見つめる。
不思議だった。
旋律自体は平易で、耳なじみのある音の流れだった。
でもその“途中で終わった感覚”が、どうしようもなく気になった。
「なんだろう、この感じ……」
言葉にしようとしてもうまく出てこなかった。
記憶の奥に触れるような、曖昧で、それでも確かな“覚えの感触”。
それは懐かしさというより、もしかすると“置いてきた感覚”に近かったのかもしれない。
透吾が手を止めた。
ページの間に、何か小さな紙片が挟まっていた。
破れかけた五線譜の切れ端。その隅には、たった三音だけが鉛筆で書かれていた。
「……これ、どこかで……」
透吾が目を細めてつぶやいた。
僕もその三音を目で追いながら、無意識に指先を動かしていた。
ぽん、ぽん、ぽん??
頭の中で、あの音が鳴る。
それは、数日前に音楽室でふたりで出した旋律の“始まり”に、たしかに似ていた。
「これ、ほんとに偶然かな?」
透吾の問いに、僕はすぐに答えられなかった。
偶然か否か、確かめようもない。
でも、偶然で済ませてしまうには、胸の内が静かに波打った。
「……もしかしたら、誰かの記憶を、僕たちが拾ってるのかもしれない。」
自分で言ってから、なんて曖昧な表現なんだろうと思った。
けれど、透吾は真剣な顔でうなずいた。
「その“誰か”が、俺たち自身だったとしたら?」
僕は透吾の顔を見た。
彼の目は、僕と同じものを見ていた。
記憶でも、知識でもなく、“感覚”で覚えている旋律。
音楽が記憶と結びついているとすれば??
この楽譜の断片は、まさにその鍵のひとつだった。
ふたりでページをめくる。
次のページには、さらに別の旋律が。だが、それも未完だった。
そしてその次も、また。どれも中途で終わっている。
「……最後まで書かれてるもの、ひとつもないんだな。」
透吾の言葉に、僕は静かにうなずいた。
「でも……逆に考えれば、“続きは僕たちが書く”ってことかも。」
ふたりの間に沈黙が落ちた。
でも、それは重さではなく、何かを受け取ったあとの余韻のようだった。
透吾が最後にもう一度、冒頭のページに戻った。
その旋律の最初の数音を、ゆっくりと指でなぞる。
「この音……たぶん、ずっと前から俺の中にあった気がする。」
「うん。僕も。」
この未完の楽譜は、単なる古い資料なんかじゃなかった。
ここには、僕たち自身が“思い出せなかった何か”が書かれている。
書きかけの旋律。空白の五線譜。消えかけた鉛筆の跡。
そのすべてが、どこかで自分たちの過去とつながっている気がした。
「続きを、探しにいこう。」
透吾の声に、僕は頷いた。
ふたりで立ち上がる。
未完の旋律は、いま始まったばかりだった。
シーン20.他者という鏡
昼休み。
教室の空気はざわついていて、僕は自分の席に座ったまま窓の外を見ていた。
外では誰かがサッカーボールを蹴っていて、笑い声が風に乗って教室まで届いてくる。
そんな騒がしさから少し距離を置いて、ひとりで過ごすのが、僕の日常だった。
……ずっと、そうだったはずなのに。
「ねえ、葉月くん。」
不意にかけられた声に、少し驚く。
振り向くと、小川さんが紙パックの紅茶を片手に立っていた。
「最近、よく透吾くんと一緒にいるね。」
その言葉に、僕は少し戸惑って言葉を探す。
「……そう、かな。」
「そう見えるよ。なんか、雰囲気変わったもん。」
「雰囲気……?」
「前より、ちょっとだけ柔らかくなった感じ。」
小川さんの言葉に、僕は思わず視線を落とした。
そんなふうに見えていたなんて、自分ではまったく気づかなかった。
「……前は、誰とも関わらない感じだったけど、今はちがう。
透吾くんといるときの葉月くん、ちょっと楽しそうに見えるよ。」
「……楽しそう、なんて、自分じゃよくわからない。」
「うん、たぶんそうだと思った。でも、変わってるよ。ちゃんと。」
小川さんの声は、責めるようでも、問い詰めるようでもなく、ただ、やさしかった。
そのやさしさが、なぜか胸に沁みた。
ふと、透吾の顔が浮かぶ。
出会ってから、まだそんなに時間が経っていないのに、いつのまにか心の中に大きな存在として残っていた。
旋律を探す過程で、彼の手の動きや、息づかい、指先の迷い??そのすべてに僕は意識を向けるようになっていた。
音楽のことだけを考えていたはずなのに、気づけば彼のことばかり考えていた。
「……僕、変わったのかな。」
ぽつりと呟いたその言葉に、小川さんは笑った。
「うん。いい方向に、ね。」
彼女の笑顔が、午後の光に溶けていく。
そのやわらかさの中で、僕はようやく少しだけ、自分の変化を受け入れられた気がした。
教室の窓の外では、まだ誰かの笑い声が響いている。
その中に、これまでにはなかった音が、たしかに混ざっていた。
シーン21.言葉の重なり
図書室の窓から差し込む午後の日差しが、机の上の古い楽譜と紙切れをやさしく照らしていた。僕と透吾は、肩を寄せ合うようにしてそのメモを見つめていた。細い筆跡で綴られた言葉は、どこか詩のようで、旋律の続きを誘うような響きを持っている。
「……これ、前に書いたことがある気がする。」
透吾がぽつりと呟いた。その声は、図書室の静けさの中でやけに大きく聞こえた。僕は驚いて透吾の顔を見つめる。
「え? それって……どういうこと?」
「うまく説明できないんだけど……この言葉、手が覚えてる気がするんだ。書いたときの感触まで、なんとなく。」
透吾はメモをそっと指先でなぞる。彼の表情は真剣そのもので、どこか遠い記憶を必死にたぐり寄せようとしているようだった。
「僕も、読んだことがある気がする。でも、どこでなのか思い出せない。」
僕がそう言うと、透吾は小さく息を吐いた。
「もしかして、前にもこの曲を一緒に作ろうとしてたのかな……なんて、変なこと考えちゃうよな。」
「でも、そう思うのは僕だけじゃないみたいだね。」
僕は苦笑しながらも、胸の奥が静かにざわつくのを感じていた。透吾の言葉が、僕の中の何かを確かに揺さぶっている。
「このメモの言葉、旋律に乗せてみたらどうなるんだろう。」
透吾がそう言って、紙切れをそっと僕の前に差し出す。僕はピアノの鍵盤を思い浮かべながら、メモの言葉をゆっくりと口ずさんでみた。
「……なんとなく、音が浮かぶ気がする。」
「だよな。俺もだ。」
僕たちは顔を見合わせて、思わず小さく笑い合った。言葉と旋律が、少しずつ重なり合っていく。まるで、過去の記憶が今の僕たちを導いているみたいだった。
「この続きを、一緒に探そう。」
透吾の言葉に、僕は力強くうなずいた。未完の旋律と、重なり合う言葉。そのすべてが、僕たちの新しい約束のように思えた。
シーン22.夢の輪郭
白い光のなかに、誰かがいた。
背中を向けてピアノに向かうその人の手が、なめらかに鍵盤の上をすべっていく。
音はない。けれど確かに、その旋律は耳の奥に響いていた。
??また会える。
その言葉と同時に、夢がふっと途切れた。
目を覚ますと、天井のシミがじっとこちらを見下ろしていた。
呼吸が浅くて、胸の奥がざわざわしている。昨夜の夢の続きだ。何度も繰り返し見る、あの場所、あの光景。
でも、今朝は違った。
夢のなかの“誰か”の輪郭が、はっきりとし始めていた。
??葉月、だった。
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
夢が、ただの夢ではなく、過去の記憶なのだと告げているようで。
「……記憶、なのか?」
そう問いかけても、答えはない。けれど、葉月と向き合うたび、胸のなかの旋律が震える。あの懐かしさ。あの安心感。
初めて会ったはずなのに、ずっと知っていた気がする。言葉にすれば簡単だけれど、それがどれほど異常で、切実な感覚かを、うまく伝えることはできない。
僕は枕元に置いていた楽譜を手に取る。
その旋律の途中に、あの夢の音がふと重なることがある。
まるで、僕と葉月がかつて一緒に弾いた曲のように??
学校に向かう電車の窓に、ぼんやりと自分の顔が映っている。
その輪郭が、夢で見た“もう一人の自分”と重なって、僕は小さく息をのんだ。
夢と現実の境界が、少しずつ溶け合っていく。
それはとても怖いことだけれど、不思議と心は、どこかでそれを望んでいる。
夢の続きを知りたい。
あの音の終わりまで、たどり着きたい。
そのためには??葉月と、もう一度向き合わなければならない。
電車のアナウンスが流れる。僕は立ち上がり、扉の前に向かった。
遠くで、静かに始まりかけている旋律が、今日もまた僕を呼んでいた。
シーン23.既視感と違和感
図書室の静寂の中、僕たちは古い楽譜とメモを前に、しばらく無言で座っていた。透吾が指先で紙切れをなぞり、僕はそれを見つめる。どこかで見たことがあるはずの言葉、そして旋律。けれど、どうしてもはっきりとした記憶にはならない。
「……この言葉、やっぱり懐かしい。」
僕がぽつりと呟くと、透吾も小さくうなずいた。
「うん。でも、全部が思い出せるわけじゃない。頭の中に霞がかかったみたいで、もどかしいよな。」
透吾の声には、戸惑いと焦りが入り混じっていた。僕も同じ気持ちだった。旋律の断片は確かに心の奥にあるのに、そこから先がどうしても掴めない。
「……ねえ、透吾。もし、この曲の続きを思い出したら、僕たちの記憶も戻るのかな。」
「分からない。でも、そうだったらいいなって思う。」
透吾はメモをじっと見つめたまま、静かに呟いた。その横顔には、どこか切なさが漂っている。
「この旋律、誰かと一緒に作った気がする。でも、その“誰か”が誰なのか、どうしても思い出せない。」
僕の言葉に、透吾はふっと微笑んだ。
「俺もだよ。……もしかしたら、前世とか、そういうのかもな。」
冗談めかしたその言葉に、僕は思わず笑ってしまう。でも、心のどこかで本当にそんな気がしてしまうから不思議だった。
「でも、今は僕たちがここにいる。だから、続きを探そう。」
「うん。」
僕たちは楽譜とメモをもう一度見つめ直した。既視感と違和感が交錯する中、少しずつだけど、旋律の輪郭がはっきりしていく気がした。
「一緒に探せてよかった。」
透吾の言葉に、僕は自然と微笑んだ。たとえ記憶が不確かでも、今ここにあるこの時間だけは確かなものだと、そう思えた。
シーン24.踏切の音
通学路の途中、駅に続く細道に小さな踏切がある。
遮断機が下りるたび、乾いた金属音があたりに響き、赤い警告灯が点滅する。
僕はその前で足を止め、流れる電車をただ眺めた。
ゴォ??という音。風。わずかに揺れる制服の裾。
別に特別な景色じゃない。
けれど、その日だけは、踏切の音が、胸の奥をざわつかせた。
??この音、知ってる気がする。
そう思ったのは、記憶じゃなく、感覚だった。
音そのものじゃなく、その音を聴いた“ときの空気”を思い出すような。
目を閉じると、誰かの手が、少しだけ指先に触れた気がした。
“旋律”が、浮かんだ。
不完全で、どこか曖昧で、それでも確かに“僕の中”にある旋律。
「……まただ。」
小さく、誰にも聞こえないように呟いた。
最近、こうして不意に音の記憶が襲ってくることがある。
夢でもない。完全な思い出でもない。
ただ、音だけが先に心に染み込んでくる。
通り過ぎる電車を見ながら、思い出すのは、あの午後の音楽室だった。
葉月の指が触れた鍵盤。僕の知らない旋律。
それなのに、懐かしくて、切なくて、手放したくない音。
「前の俺なら、絶対こんなふうに立ち止まらなかったよな……」
誰に言うでもなく、そうつぶやいて、苦笑する。
日常の中で、こんなにも“音”に敏感になった自分に、少し驚いていた。
以前の僕は、過去の記憶に意味を持たせることに消極的だった。
忘れてしまったものは、それまで。
思い出せないなら、無理に向き合う必要はないと思っていた。
けれど今は、違う。
忘れていることの中に、どうしても手放したくないものがある気がしてならない。
その気配を、葉月の旋律が教えてくれた。
音を通じて、過去の自分が、いまの自分に話しかけてくる気がする。
言葉はなくても、旋律だけで。
遮断機が上がり、警告音が止まった。
踏切を渡りながら、僕はふと葉月のことを思い浮かべた。
彼は今、どんな音を聴いているんだろう。
僕の知らない記憶の続きを、どこかで思い出しているんだろうか。
歩きながら、無意識のうちにポケットの中で指を動かしていた。
鍵盤も何もない空間のなかで、旋律の断片をなぞるように。
??音がある。記憶がある。
それだけで、今日という一日が、少しだけ違うものに思えた。
シーン25.音楽室の空気
放課後、音楽室の扉を開けると、窓から差し込む夕陽が床に長い影を落としていた。僕はピアノの前に座り、透吾と図書室で見つけたメモを楽譜の上にそっと置いた。透吾もすぐにやってきて、僕の隣に腰を下ろす。
「……やっぱり、ここが落ち着くな。」
透吾が静かに呟く。僕も同じ気持ちだった。ピアノの前に座ると、不思議と心が静かになる。けれど今日は、胸の奥がそわそわして落ち着かない。
「さっきのメモ、旋律に合わせてみようか。」
僕がそう言うと、透吾はうなずき、メモを見つめながら口ずさみ始めた。僕はピアノの鍵盤に指を置き、透吾の声に合わせて旋律を探る。でも、やっぱり途中で手が止まってしまう。
「……やっぱり、続きが弾けない。」
僕は小さく息を吐いた。指先が震えているのが分かる。なぜかこの先の音が、どうしても思い出せない。頭の中では確かに響いているはずなのに、指が動かない。
「葉月……大丈夫?」
透吾がそっと僕の肩に手を置く。その温もりが、少しだけ心を落ち着かせてくれる。
「うん……ごめん。なんだか、すごくもどかしい。」
僕は苦笑いしながら、鍵盤を見つめた。音楽室の空気が、静かに僕たちを包み込む。外の世界と切り離されたみたいに、ここだけが特別な場所になっていた。
「無理しなくていいよ。ゆっくりでいい。」
透吾の優しい声に、僕は小さくうなずく。焦る必要はない。けれど、どうしてもこの旋律の続きを見つけたい。そんな気持ちが、胸の奥で静かに燃えていた。
「……ありがとう、透吾。」
僕はもう一度、鍵盤に手を置いた。音楽室の静けさの中で、未完の旋律が小さく揺れていた。
シーン26.ゆらぐ軸
夜の部屋に、ピアノの音はなかった。
鍵盤には蓋がされ、楽譜は閉じられたまま机の上に置かれている。
代わりに、僕は窓辺に座り、ぼんやりと外を眺めていた。
文化祭の準備は佳境に入っていて、校内の空気もざわざわしている。
みんながそれぞれの“役割”を持って動き始める中、僕は、何に向かって進んでいるのか分からなくなっていた。
「……透吾。」
名前を呟くだけで、胸の奥が微かに揺れる。
ここ最近、ずっと一緒にいた。旋律を探すため。思い出を取り戻すため。
けれど気づけば、僕は“旋律”よりも、“透吾”を探していたのかもしれない。
??僕は、音楽が好きだった。
孤独だった僕を救ってくれたのは、音だった。
ひとりでいても、鍵盤に触れていれば世界とつながれる気がした。
それだけが、僕の“存在の軸”だった。
でも。
透吾と過ごす時間の中で、その軸が少しずつ揺れている。
旋律の続きを知りたいというより、“彼と一緒にいる”ことが目的になってきているようで??それが、少し怖かった。
僕は、音楽に依存していたのか?
それとも、透吾に?
気づかないふりをしていたけれど、もしかすると、どちらも同じだったのかもしれない。
どちらも、僕の孤独の空白を埋めてくれる存在。
けれど、その支えがもし、同時に消えてしまったら??僕は、また元の“何もない場所”に戻ってしまうのだろうか。
窓の外、星がいくつか見えていた。
その光も、遠すぎて、本当に存在しているのか分からない。
僕は思う。
透吾が、今ここにいなかったら。もし、彼が夢の中のままの存在だったら。
あの旋律も、思い出も、ぜんぶ幻だったとしたら??僕は、どうなるのだろう。
ゆっくりと、深く息を吐いた。
不安定な夜の気配が、胸の奥で音もなく鳴っていた。
シーン27.約束の記憶
静かな音楽室で、僕はピアノの前に座ったまま、透吾の言葉を待っていた。透吾はメモを手に、じっと何かを考えている。窓の外では夕陽がゆっくりと沈み、部屋の中に柔らかなオレンジ色の光が広がっていた。
「この曲は、前に誰かと作ろうとしていた気がするんだ。」
透吾がぽつりと呟いた。その声は、どこか遠い場所から響いてくるようだった。僕は驚いて透吾の顔を見つめる。
「誰かって……もしかして、僕?」
思わずそう問いかけてしまう。透吾は一瞬目を見開いたあと、ゆっくりと首を振った。
「分からない。でも、君とこうして旋律を探していると、昔も同じことをしていた気がするんだ。……でも、その記憶はぼんやりしてて、はっきりとは思い出せない。」
透吾の声には、戸惑いと切なさが混じっていた。僕も胸の奥がじんわりと熱くなる。思い出せそうで思い出せない、そんなもどかしさが二人の間に静かに流れている。
「僕も、同じ気持ち。夢の中で誰かと一緒に旋律を作っていた。でも、その人の顔も名前も分からない。」
僕がそう言うと、透吾は小さく微笑んだ。
「やっぱり、僕たち……何か約束してたのかな。」
その言葉に、僕の心が強く揺れる。約束。忘れていたはずのその響きが、胸の奥に静かに広がっていく。
「もし、そうだったら……続きを見つけて、約束を果たしたい。」
僕は自然とそう口にしていた。透吾も力強くうなずく。
「うん。きっと、この曲を完成させることが、僕たちの約束だったんだと思う。」
音楽室の空気が、少しだけ温かくなった気がした。未完の旋律と、断片的な記憶。二つが重なり合い、僕たちの間に新しい絆が生まれていく。
「絶対に、見つけよう。二人で。」
「うん、一緒に。」
夕陽が差し込む音楽室で、僕たちは静かに約束を交わした。その瞬間、胸の奥に小さな光が灯った気がした。
シーン28.沈黙の交換
昼休みの図書室は、いつもより静かだった。
誰もピアノを弾いていないのに、空気の奥で音が鳴っているような気がする。
葉月は、いつもの窓際の席に座っていた。
楽譜を開いたまま、ペンを持った手は動いていない。
その斜め向かいに、僕も言葉を出さずに腰を下ろす。
何を話せばいいのか、わからなかった。
話さなければいけないことがあるような気もしたけれど、それが何かははっきりしない。
けれど、不思議とそれでよかった。
ペン先が五線譜の端をなぞっている。
そこにはもう音符は書かれていないのに、葉月の手は、何かをたしかめるように動いていた。
その指先を、僕はずっと見つめていた。
「……明日だね。」
葉月が、小さな声で言う。
その声は、図書室の空気に溶けてしまいそうなほどかすかだった。
「うん。」
僕も、それだけを返した。
そのあとは、また沈黙。
けれど、その沈黙は、どこか心地よかった。
たくさん言葉を交わしたわけじゃない。
記憶を取り戻したわけでもない。
それでも、“わかっている”という感覚だけが、ふたりの間に確かにあった。
葉月が、ペンを置いた。
そして、顔を上げて僕を見た。
その目の奥にあるものを、僕はまっすぐに受け止める。
言葉じゃない。旋律でもない。
ただ、沈黙の中にあるもの??それを、交換した。
「じゃあ、明日、また。」
葉月が立ち上がる。僕もうなずいて、あとに続く。
図書室の扉を開けると、昼下がりの陽光が差し込んできた。
その光の中に、あの沈黙の余韻が、まだ漂っているように思えた。
シーン29.重なり合う手
夕暮れの音楽室に、静かな時間が流れていた。僕と透吾は、ピアノの前に並んで座ったまま、未完の楽譜を見つめている。窓の外では、オレンジ色の光がゆっくりと薄れていく。
「……この続きを、指で示してもいい?」
透吾がそっと僕に問いかける。僕は小さくうなずき、鍵盤の上に手を置いた。透吾は僕の隣に身を寄せ、彼の指先がそっと僕の手の上に重なる。
「ここから、こう……」
透吾の指が、僕の手を導くように鍵盤の上を滑る。彼の指先が触れるたび、胸の奥がざわついた。まるで、遠い昔にも同じように手を重ねていた気がする。けれど、その記憶はやっぱり霞んでいて、はっきりとは思い出せない。
「……なんか、変な感じだ。」
僕が小さく呟くと、透吾も苦笑いを浮かべた。
「うん。でも、こうしてると、続きを弾けそうな気がするんだ。」
透吾の手が、僕の手をそっと押し出す。僕はそのまま彼の指示通りに鍵盤を叩いた。すると、旋律の断片がふわりと音楽室に広がる。けれど、やっぱり途中で胸がざわめき、指が止まってしまう。
「……だめだ、ここでまた止まる。」
僕は悔しさを隠せずに呟いた。透吾は僕の手を包み込むようにして、優しく微笑む。
「焦らなくていいよ。きっと、もうすぐ思い出せる。」
その言葉に、少しだけ心が軽くなる。透吾の手の温もりが、僕の不安をそっと溶かしていく。
「ありがとう、透吾。」
「ううん。僕も、葉月と一緒ならきっと見つけられる気がするから。」
重なり合う手の感触が、僕たちの間に新しい絆を生み出していく。未完の旋律が、少しずつ形になっていく予感がした。
外はもう夜の気配をまとい始めていた。音楽室の静けさの中で、僕たちはそっと手を重ねたまま、次の音を探し続けていた。
シーン30.夜の終わりに
文化祭の前夜。
街はもう眠りにつきはじめていて、窓の外の光もまばらだった。
部屋の中は静かだった。テレビも音楽も消していた。
ただ、自分の呼吸の音だけが、時間の流れを教えてくれている。
明日、演奏する。
葉月と一緒に??あの旋律の続きを。
ずっと求めていたはずのもの。
思い出せなかった音。ずっと探していた答え。
そのすべてが、ようやく“明日”にたどり着く。
なのに、どうしてこんなにも、胸がざわついているのだろう。
「……終わってしまう、のかな。」
小さく呟いた声が、やけに鮮明に響いた。
ずっと不安定で、未完成だった旋律。
それをふたりで探してきた時間。
あれは、ただの過程だったのか?
完成したら、もう必要じゃなくなるのか?
「そんなの、嫌だ……」
ふと、指が楽譜に伸びていた。
それは何度も書き直され、すでに手垢のような跡が残っている。
でも、その傷だらけの五線譜が、いちばん“ふたりらしい”と、どこかで思っていた。
??もし、明日、あの旋律を完成させてしまったら。
僕たちの関係も、終わってしまうんじゃないか。
そう思っている自分がいることに、気づいてしまった。
演奏が終わったあと、僕はまた“ひとり”に戻ってしまうんじゃないかって??
夢の中の記憶。再会の感触。
それらすべてが、現実になって、また夢に戻っていくような気がして怖かった。
「明日……うまく、弾けるかな。」
そうじゃない。不安なのは演奏じゃない。
その先にある“静寂”の方だ。
もし、終わってしまったあと??
葉月と、もう目を合わせられなかったら。
もう一緒に音を出せなかったら。
??そんなの、終わりじゃない。
けれど、“ひとつの終わり”なのかもしれない。
僕は静かにベッドに横になり、目を閉じた。
明日が来るのが、少しだけ怖かった。
それでも、明日は来る。
だからこそ、せめてあの音だけは、最後まで??
きちんと、ふたりで奏でたいと思った。
シーン31.教師の目
ふたりが音楽室に通いはじめたのは、たしか六月の終わり頃だった。
最初に目にしたときは、少し意外だった。
葉月は、どこか冷めた空気を纏っていたし、透吾も転校してきたばかりで誰とも親しげに話していなかった。
そんなふたりが、まるで最初から知っていたように隣り合ってピアノに向かっていた。
教師という立場上、生徒の変化には自然と目が行く。
でも、あのふたりを最初に“音”として感じたのは、偶然、放課後の音楽室を通りかかった日だった。
ドア越しに、ピアノの音が聴こえた。
旋律は拙く、どこかためらいがちで、息が合っているとは言えなかった。
でも、その音には不思議と“距離”があった。
寄り添うのではなく、探っているような、迷いながら向き合っているような??そんな音だった。
何度か、それとなく様子を見に行った。
ふたりは気づいていないと思うが、僕は気にしていた。
音楽教師として、というより、ひとりの大人として。
日が経つにつれ、音が変わっていった。
お互いの音を聴こうとしていることが、旋律から伝わってきた。
言葉で指示し合うのではなく、呼吸の速さ、鍵盤に置く指の強さ、微妙なテンポのずれ??
そういったすべてで、ふたりは“対話”していた。
??これは、もう音楽じゃない。
ある日ふと、そう思った。
音楽とは、技術や完成度のことではない。
でも、それにしても、あのふたりが出している音は、もっと別の何かだった。
それは、記憶の一部のようで、
誰にも見せられない傷口のようでもあって、
それでも、確かに前へ進もうとしている音だった。
文化祭の本番が近づくにつれて、音に“決意”が混ざりはじめた。
最初は不安と戸惑いが色濃かった旋律が、次第に重なりはじめた。
うまくいかない日もあったはずだ。
言い争ったり、黙り込んだり、きっと何度も立ち止まったのだろう。
けれど、それでもふたりはここにいて、同じピアノに向かっている。
??何かを思い出すように。
??何かを確かめるように。
音楽というのは、ひとりでもできる。
けれど、ふたりでやるには、“信じる”という行為が必要になる。
相手を、そして自分自身を。
ふたりの音には、それがあった。
ぎこちなくても、未完成でも、その音には“祈るような意思”があった。
文化祭当日、彼らの演奏を客席から聴くことになるだろう。
そのとき、観客の何人があの旋律の本当の意味を感じ取るのかはわからない。
けれど、少なくとも僕にはわかる。
これは、ただの発表じゃない。
ふたりの音は??きっと、何かを“繋いで”いるのだ。
シーン32.小さな確信
音楽室の静寂の中、透吾の手の温もりがまだ僕の指先に残っていた。重なり合った手をそっと離し、僕は鍵盤の上に視線を落とす。未完の旋律が、胸の奥で静かに響いている。
「この曲の完成が、何かを変える気がする。」
思わず口からこぼれたその言葉に、透吾が小さく目を見開いた。僕自身も、なぜそんなことを言ったのか分からなかった。ただ、旋律を追いかけているうちに、心の奥に小さな光が灯ったような気がした。
「……僕も、そう思う。」
透吾がそっと呟く。彼の声には、確かな決意が込められていた。
「この曲が完成したら、きっと僕たちの記憶も、何か大事なものも取り戻せる気がする。」
透吾の言葉に、僕は静かにうなずいた。未完の旋律が、ただの音楽じゃないことは、もう分かっている。僕たちの過去や約束、そして今の気持ち??すべてがこの曲に込められている気がした。
「……明日も、また一緒に探そう。」
僕がそう言うと、透吾は力強くうなずく。
「うん。絶対に。」
小さな確信が、僕たちの間に生まれていた。旋律の続きを見つけたいという気持ちだけじゃなく、透吾と一緒に歩んでいきたいという思いも、少しずつ大きくなっていく。
「じゃあ、また明日。」
透吾が立ち上がり、音楽室を出ていく。その背中を見送りながら、僕は静かにピアノの蓋を閉じた。
未完の旋律の向こうに、きっと何か大切なものが待っている。そんな予感が、僕の胸の奥で確かなものになりつつあった。
シーン33.最後の練習
放課後の音楽室には、もう誰もいなかった。
陽は傾き、窓のカーテンがゆっくりと揺れている。
その柔らかな風のなかで、僕たちは無言のまま向かい合っていた。
ピアノの前に座り、楽譜をひらく。
何度も読み込んだその五線譜は、すでに目で追わなくても指が覚えている。
けれど、今日が“最後の練習”だと思うと、不思議と少し手が震えた。
「……弾く?」
僕が問うと、葉月は静かにうなずいた。
言葉はいらなかった。
合わせる合図もいらない。
ただ、呼吸をひとつ合わせて、鍵盤に指を置いた。
最初の音が、空気の中をすべっていく。
誰にも聴かれていない。
評価もされない。
拍手もない。
ただふたりで鳴らすだけの音が、こんなにもやさしくて、まっすぐで、確かだった。
途中で、葉月の指が迷った。
僕はそれに気づきながら、あえて何もせず、音を止めた。
葉月も、静かに手を止めた。
沈黙。
でも、ふたりとも笑っていた。
うまくいかなかったのに、失敗でも不安でもなく??ただ、あたたかな静けさだけが、そこにあった。
「……もういいか。」
葉月が小さく呟いた。
僕はうなずいた。
そう。もう、十分だった。
これ以上合わせなくても、音は重なる。
明日、舞台の上で、ふたりの音が交わることは、もうわかっている。
葉月がゆっくりとピアノの蓋を閉じた。
それは、まるで音との対話を終えた合図のようだった。
明日、すべてが終わるかもしれない。
けれどその終わりは、きっと“静かなはじまり”でもある。
そんな予感だけが、胸の奥に残っていた。
シーン34.図書室の探索
放課後の図書室は、ふだんよりもひときわ静けさを湛えていた。。
試験前でもなければ利用者はほとんどいない。けれど、僕と透吾はまるで何かに導かれるように、図書室の奥へ足を運んだ。
目的はただひとつ。
あの未完の旋律??あれが、どこから来たのかを確かめたかった。
「手がかりになるとしたら、やっぱりあの古い楽譜集とか……」
透吾が手にしていたのは、図書室の保存棚から見つけた古い音楽雑誌のバックナンバーだった。
何十年前のものかもわからない、モノクロ印刷の小冊子。
「音楽室の蔵書と違って、こっちは保存用だから、名前もメモも残ってないことが多いみたい。」
僕も調べていた。
棚の隅に追いやられていた分厚い全集や手記の類。
音楽理論や編曲論、そして著者不詳の走り書きが詰まったメモの束。
ひとつの仮説があった。
この学校にかつて在籍していた誰かが??
あの旋律を残したのではないかということ。
透吾がそっと一冊の楽譜ノートを開く。
そこにはきちんと製本された五線譜とは違う、鉛筆で走り書きされたメモが残っていた。
「……見て。これ、前のと似てない?」
僕は隣に座り、ページを覗き込んだ。
音符の形が少し歪んでいる。不慣れな手か、感情を抑えきれず走らせた筆致か。
けれどその中に、あの日音楽室でふたりで弾いた旋律の断片が確かに含まれていた。
「……ほんとだ。ここの下降音形、全く同じ。」
見間違いではない。
いや、もしかしたら僕たちがその旋律に“寄せている”だけかもしれない。
それでも、その一致が意味のあるものに思えて仕方なかった。
透吾はページをめくりながら、眉間にしわを寄せていた。
僕は彼の横顔を見つめながら、思った。
??なぜ、ここまで気になるんだろう。
旋律に執着している。
ただ音を合わせたいというだけではなく、その“出どころ”や“形の由来”を、何かに突き動かされるように探している。
「これ、誰の書いたものなんだろうね。」
透吾の問いに、僕は棚の背表紙を確認した。
名前は記されていない。表紙も剥がれていて、管理番号すらついていなかった。
「個人の寄贈かも。たまにあるんだって、卒業生とかが置いていった資料。」
それなら、この旋律をここに託した誰かも、かつてこの学校にいたのかもしれない。
そして、何らかの理由でそれを“未完”のまま置いていったのだ。
ページの隙間に、ひらりと色あせた付箋が挟まっていた。
色あせた紙。そこには走り書きで、こう記されていた。
??「最後の音は、まだ書けない」
文字が揺れていた。急いで書いたのか、それとも何度も書き直した跡か。
けれどその短い言葉は、まるで“心残り”そのものだった。
透吾と目が合う。
「なんだか……この旋律って、完成するのを待ってるみたいだよね。」
「うん。きっと、あのときもそうだったのかも。」
この音を留めた“誰か”は、音の続きを書けなかった。
けれど今、僕たちはその続きを探している。
それは偶然じゃなくて、もしかしたら意志のバトンのようなものかもしれなかった。
ふたりで、また静かに本をめくる。
誰もいない図書室。窓から光が斜めに差し込んで、机の上を染めていた。
この空間は、まるで時間が止まっているようだった。
だけど、確かに何かが“今”動いている。
音のない場所で、音を探しているという実感が、静かに胸にあった。
シーン35.音の余韻
最後の音が、静かに消えていった。
音楽室ではない。舞台の上。
けれど僕の耳には、あの場所と同じ“静寂”が広がっていた。
??誰も、何も言わない。
客席も、透吾も、自分自身さえも。
でも、その沈黙は、不思議と怖くなかった。
音はもう鳴っていない。
鍵盤から手を離した僕は、ただ前を見つめていた。
透吾の気配が、すぐ隣にある。
顔を見なくてもわかる。彼も、まだ動いていない。
演奏の最後の音を、きっと僕と同じように、心のどこかで聴き続けている。
言葉はなくても、呼吸だけでわかる。
いま、僕たちはたしかに“同じ時間”を生きているんだって。
長い時間をかけて探した旋律の終わり。
それは、“終わった”というより、“重なった”のだと思う。
過去と現在が、夢と記憶が。
僕と透吾が。
ひとつの音になって、たしかに響いていた。
観客の拍手が、ようやく静寂を破った。
誰かが立ち上がっている気配がして、あたたかな音の波が押し寄せる。
けれど僕はまだ、その拍手の意味を理解しきれずにいた。
それよりも、もっと大切なことがあった。
??透吾の手が、ほんのわずかに僕の指先に触れた。
その一瞬だけで、すべてが伝わった気がした。
もう、言葉はいらない。
僕たちはたしかに、あの旋律の先で“再会”したのだ。
胸の奥で、まだ音が鳴っている。
それは誰にも聴こえない、僕だけの、そしてきっと彼だけの??
静かな余韻だった。
シーン36.隠された記録
それは、ひときわ薄く、軽い一冊だった。
透吾が手に取ったノートの背表紙は擦り切れていて、タイトルも著者名も書かれていなかった。
楽譜でも資料でもないそのノートは、まるで誰かが“個人的に”綴った記憶のかけらのようだった。
「楽譜じゃない……?」
僕が覗き込むと、透吾は静かに首を振る。
「いや……言葉、かも。」
ページをめくる。そこに並んでいたのは、音符ではなく文章だった。
詩のようでもあり、断片的な日記のようでもある。
それぞれの文には日付がなく、文体もまちまちだった。けれど、すべてに一貫して“語られなかった想い”が漂っていた。
「……“終わらない夢の中で、交わした約束が消えていく”」
声に出して読むと、その言葉の行間から、じわりと感情が滲んだ。
旋律とは違う。けれど、そこに込められていたのは、音では伝えきれなかったものたちだった。
透吾が、あるページで指を止めた。
「これ……読んで。」
差し出されたページには、こう記されていた。
> “旋律の途中で途切れた君の音を、
> もう一度聴くために、
> 僕は何度も指を鍵盤に置いた。
> けれど、最後の和音だけが??どうしても思い出せない。”
目の奥が、じんわりと熱を帯びた。
まるで、それは僕たち自身のことを書かれているような気がした。
未完の旋律。記憶の断片。そして、伝えきれなかった何か。
ページの隅に、走り書きでこうも書いてあった。
> “届かなかったことを、届かないままで終わらせたくなかった。”
透吾が、小さく息を呑むのがわかった。
僕もまた、その言葉の奥に自分の声を聞いた気がした。
「これ……誰かの遺したもの、だよね。」
「たぶん……でも、名前も、何もない。」
ふたりでしばらく黙ったまま、ページをめくり続けた。
音楽の話、日常の話、何でもない言葉。
でも、それらすべてが、“音になる前の感情”のようだった。
「この人、最後まで旋律を完成させなかったのかな。」
僕がぽつりと言うと、透吾は少し考えるように目を伏せた。
「……できなかったんじゃなくて、あえて残したんだと思う。」
その言葉に、僕ははっとした。
旋律が未完だったのは、技術や時間の問題じゃない。
その人にとって、その“欠けた音”こそが、伝えたかったことなのかもしれない。
伝えられなかった思い。続けられなかった関係。
音にならなかった言葉。書きかけの記憶。
それらすべてを、このノートは静かに抱えていた。
「もし……この記録が、誰かの大切な“もうひとつの旋律”だったとしたら……」
「僕たちは、それを完成させることができるかな。」
ふたりで顔を見合わせた。
答えは出なかった。
けれど、その“問い”が浮かび上がったことが大切だった。
このノートの言葉たちは、音のように響いていた。
読まれることを待っていた。
そして今、僕たちに読まれたことで、もう一度音になろうとしていた。
それは、旋律になる前の“記録”。
でも、確かに誰かの心が詰まっていた。
ふたりでそっとノートを閉じた。
その重みは紙よりも軽く、でも心の奥では妙に重かった。
音がなかったとしても、
旋律がなくなったとしても、
言葉だけで、伝えられるものがある。
そして、今の僕たちなら??その続きを、奏でられる気がした。
シーン37.ことばのかわりに
文化祭が終わって、三日が過ぎた。
校舎のざわめきも元に戻り、教室には以前のような日常の空気が戻っていた。
特別だった数日間が、夢のように遠ざかっていく。
けれど僕の中では、まだ“あの音”が鳴り続けていた。
放課後。
音楽室に寄るつもりはなかったのに、気づけば僕の足は、自然とその方向に向かっていた。
扉を開けると、透吾がいた。
窓際のピアノの前に、座っていた。
音は鳴らしていなかった。ただ、楽譜も見ずに鍵盤を見つめている。
「……やっぱり、来ると思った。」
そう言って、彼は振り返った。
僕は少し笑って、扉を閉めた。
「……文化祭、あっという間だったね。」
透吾がぽつりと呟く。
「うん。」
短く答えるだけで、僕たちはそれ以上、何も言わなかった。
演奏のことも、拍手のことも。
旋律の完成についても、なにも語らない。
でも、それでよかった。
沈黙の中で、透吾がゆっくり鍵盤に触れる。
音は出ない。けれどその指先は、あの日と同じ旋律をなぞっていた。
「??ありがとう。」
彼がぽつりとそう言った。僕は驚いて彼を見た。
「何に?」
「……全部に。弾いてくれたこと、探してくれたこと、待っててくれたこと。」
僕は答えなかった。言葉にできる気がしなかったから。
でも、手が自然に動いていた。透吾の隣に座り、彼の右手の動きをなぞるように、左手を添えた。
二人で、音もなく旋律を“思い出す”。
それだけで、すべてが伝わる気がした。
??言葉の代わりに、音があった。
けれど今、僕たちには、“音の代わりに”この沈黙がある。
それも、たぶん悪くない。
透吾が小さく息を吐いた。
「……これから、また音を探してもいい?」
僕は、うなずいた。
それだけで、十分だった。
シーン38.同級生の噂
昼休み、教室の後ろの方で、小川は紙パックの紅茶を飲みながら窓の外を眺めていた。
「……なんか、また一緒にいたね、あのふたり。」
何気なくそう呟くと、隣でスマホをいじっていた西村が、顔も上げずに返す。
「葉月と透吾? まあ、最近ずっとセットだもんな。」
「セットって……お笑いコンビじゃないんだから。」
小川が苦笑すると、西村はやっと顔を上げ、肩をすくめた。
「いや、でもさ。最初の頃に比べたら、葉月くん、だいぶ雰囲気変わったと思わない?」
「うん、わかる。前はなんか、もっと壁がある感じだったよね。」
教室のざわめきの中、ふたりは小さな声で続けた。
「透吾くんが転校してきたばかりのときも、ほとんど誰とも話さなかったけど……葉月くんとだけは自然だったよね。」
「音楽のやつ?」
「うん。文化祭で一緒に演奏するらしいよ。」
西村はしばらく考えるように視線を上に向けた。
「さ、正直言うとさ、最初は“えっ意外”って思ったんだよ。葉月くんって、ひとりの時間が好きそうだったし。
なのに、透吾くんと話してるときだけ、表情がちょっと違うっていうか……なんか、安心してるように見えるんだよな。」
小川は頷きながら、机の上で指先を組んだ。
「わかる。でも、あのふたりって、特別ベタベタしてるわけじゃないよね。
話すときもあるけど、ただ隣にいるだけっていうか、音がないのに会話してるみたいな感じ。」
「……音がないのに会話って、なんか詩的だな。」
「そう? でもほんとに、そういう雰囲気ない? 静かなんだけど、通じ合ってるっていうか。」
ふたりは笑い合いながら、ふと真顔になった。
「……なんかさ。ちょっと羨ましいよね。」
「うん。別に恋愛とかじゃなくても、
ああやって、ちゃんと“誰かとつながってる”ってわかるのって、すごいことだと思う。」
チャイムが鳴り、教室の空気が切り替わる。
机の間を風が通り抜けて、カーテンがかすかに揺れた。
小川はもう一度窓の外を見る。
そこには、音楽室へと向かうふたりの背中が見えていた。
言葉を交わすこともなく、でも、隣を歩いている。
ただそれだけの風景が、どこか強く目に残った。
「……あのふたり、きっとあした、ちゃんと届くと思う。」
「うん。きっとね。」
もう話題は変わっていたけれど、
ふたりの胸のどこかに、“あの旋律のような何か”が、そっと残っていた。
シーン39.過去の片鱗
図書室の片隅で、透吾と僕は手に入れたコピーを静かに見つめていた。そこに書かれている歌詞の断片は、懐かしさと喪失感がないまぜになって胸に残る。僕は指先で紙の端をなぞりながら、心の奥に眠る記憶を必死に探った。
「この言葉、聞いたことがある。」
透吾がぽつりと呟く。その声は、まるで遠い昔から響いてきたみたいに、僕の胸にしみ込んだ。
「どこで?」
思わず問い返すと、透吾は少しだけ困ったように首を傾げる。
「分からない。でも、たぶん……夢の中か、もっと前のどこかで。歌詞のこの部分、“もう一度君に会いたい”って、何度も頭の中で繰り返されてた気がする。」
僕は紙を見つめながら、同じような感覚に包まれていた。旋律と歌詞が、まるでずっと僕たちの中にあったみたいに、自然に心に馴染んでいく。
「もしかして、僕たち……前にもこの曲を作ろうとしてたのかな。」
口にした瞬間、胸の奥底に、忘れていた痛みが揺れた。透吾も、驚いたように僕を見つめる。
「それ、僕も考えてた。……でも、どうしてもその時のことが思い出せないんだ。」
図書室の静けさが、二人の間に漂う。外の光が窓から差し込み、机の上のコピーにやわらかな影を落とす。
「この歌詞と旋律、きっと僕たちの記憶と繋がってるんだと思う。」
僕がそう言うと、透吾はしっかりとうなずいた。
「うん。もっと調べてみよう。きっと、まだ何か見つかるはずだから。」
僕たちは新しい手がかりを胸に、再び本の山に向かった。過去の片鱗が、少しずつ今の僕たちを照らし始めている??そんな気がしていた。
シーン40.すれ違う輪郭
「……このフレーズ、やっぱり違う気がするんだ。」
透吾の言葉に、僕はペダルを踏んだまま指を止めた。
放課後の音楽室。文化祭まで、あとわずか。
いつもなら自然に揃っていた音が、今日は少しだけ噛み合わない。
「どこが?」
僕が訊くと、透吾は少し困ったように視線を下げた。
その顔はどこか、傷つけてしまった相手を前にしたような曖昧さを帯びていた。
「わからない。……でも、“こうじゃない”って、どこかで思ってる。」
「“どこか”って……感覚だけ?」
つい強く返してしまった自分に気づき、後悔が遅れてやってくる。
でも透吾は、怒りもせず、ただ微かに眉を寄せた。
「……ごめん。自分でもちゃんと説明できないから、余計に歯がゆい。」
沈黙が落ちた。
どちらが悪いわけでもない。
ただ、“わかり合えない”という事実が、音のない空間に残っていた。
「ねえ、葉月は……俺のこと、覚えてると思ってる?」
唐突な問いに、胸が少し跳ねた。
「……覚えてる、って……?」
「夢の中のあれ。あの旋律。
もしかして、葉月の中では“思い出した過去”なんじゃないかって……そんな気がしてた。」
僕は答えなかった。
その問いは、まるで僕の心の奥を読んでいるようで、怖かった。
「……ねえ、透吾。もしさ、思い出してるのが俺だけだったら、どうする?」
「……やっぱり、そうなんだ。」
透吾は、目を伏せた。
「なんか……ズルいな、俺。」
そう言って、苦笑するように息をついた。
旋律が止まっていることに、今さら気づいた。
音楽は、ふたりをつなげていたはずなのに、今はそれすら遠く感じる。
「……今日は、ここまでにしよっか。」
透吾の声は、静かだった。
僕は何も言わず、楽譜を閉じた。
音楽室の扉を開けると、冷たい風が頬をかすめた。
その風の中で、透吾の背中がゆっくりと遠ざかっていく。
たった一歩分の距離なのに、
今はなぜか、それがとても遠いように感じた。
シーン41.記憶の衝撃
図書室の静けさの中、僕は手にしたコピーの歌詞をもう一度ゆっくりと声に出して読んだ。
「“旋律が途切れたその先に もう一度君に会いたい”……」
その言葉を口にした瞬間、透吾が小さく息を呑んだ。彼の目が一瞬大きく見開かれる。僕は驚いて透吾の顔を見つめた。
「透吾……?」
透吾は、まるで何かに打たれたように一歩後ずさる。手に持っていたコピーの紙が、かすかに震えていた。
「今……頭の中に、ピアノの音が流れ込んできた。」
透吾の声はかすれていた。彼は額を押さえ、苦しそうに目を閉じる。
「どうしたの?」
僕は慌てて透吾の肩に手を伸ばす。透吾はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと目を開けた。
「……ごめん。なんだか、急にいろんな映像が浮かんできて……でも、それが現実なのか夢なのか、よく分からない。」
透吾の瞳の奥に、戸惑いと不安が揺れている。僕も胸の奥がざわついて仕方がなかった。
「どんな映像?」
「……ピアノの前で、誰かと並んで座ってる。窓の外は雨で、部屋の中は静かで……その隣にいるのが、たぶん葉月、君なんだと思う。」
透吾の言葉に、僕の心臓が大きく跳ねた。僕も、同じような夢を何度も見てきた。ピアノの前で、誰かと一緒に旋律を探している夢??その相手の顔は、いつもぼやけていた。
「……僕も、同じ夢を見てる。」
思わずそう口にすると、透吾は驚いたように僕を見た。
「やっぱり……僕たち、何か繋がってるのかもしれない。」
図書室の空気が、少しだけ震えたような気がした。記憶の衝撃が、僕たちの間に新しい風を吹き込んでいく。
「この曲の続きを見つければ、きっと何か思い出せる。」
透吾の言葉に、僕は力強くうなずいた。未完の旋律と断片的な記憶が、今、確かに僕たちを動かしている??そんな実感が胸の奥に広がっていた。
シーン42.繋がる瞬間
その瞬間、図書室の空気が変わった気がした。
葉月が歌詞の断片をそっと読み上げると、透吾はふいに動きを止めた。彼の瞳が大きく見開かれ、まるで何かが一気に流れ込んできたかのように、息を呑む。
「……今、聴こえた。」
透吾は震える声でそう呟いた。葉月は驚いて透吾を見つめる。透吾の目は遠くを見ているようで、けれど確かに今ここにいた。
「何が……聴こえたの?」
葉月の問いかけに、透吾はゆっくりと目を閉じた。
「ピアノの音……旋律が、頭の中に流れ込んできた。断片じゃなくて、ひとつなぎの音楽として??」
透吾の指先が、無意識に机の上をなぞる。まるで鍵盤を思い出すように、静かに動いていた。
「この歌詞を聞いた瞬間、ずっと探していた“何か”が繋がった気がする。今なら……続きを思い出せるかもしれない。」
葉月の胸も高鳴る。自分の中にも、同じ旋律の断片が確かに響いている。ふたりの間に流れる空気が、これまでとは違うものに変わっていく。
「透吾……」
葉月がそっと名前を呼ぶと、透吾はゆっくりと頷いた。
「きっと、これは偶然じゃない。僕たちが出会ったことも、この旋律も、全部が繋がってる。」
ふたりの視線が重なった瞬間、記憶と旋律が静かにひとつになった。
??繋がる瞬間。
ページの音さえ響くほどの静寂の中で、ふたりの心に同じ音楽が流れ始めていた。
シーン43.鍵のない扉
誰もいない音楽室に、ひとりだけ残った。
夕方の光がカーテン越しに差し込み、ピアノの鍵盤に斜めの影を落としている。
鍵は、かかっていなかった。
この部屋に入るのに、誰の許可もいらなかった。
でも、僕の心のどこかには、まだ“開かない扉”がある気がしていた。
椅子に腰を下ろし、鍵盤に手を置く。
音は出さない。ただ、置くだけ。
まるで、ここにいる理由を確かめるように。
??思い出しているのは、僕だけかもしれない。
そう思ったとき、何かが胸の奥で崩れかけた。
旋律の記憶、夢の中のあの手、あの声。
全部、僕が勝手に作り上げた幻想なんじゃないか。
そう思えば思うほど、葉月の沈黙が重くのしかかってくる。
「……ズルいな、俺。」
小さく呟いた声が、音楽室に響いた。
誰もいないはずなのに、誰かに聞かれているような気がした。
僕は、自分が“思い出したい”んじゃなく、“信じたかった”ことにようやく気づく。
旋律を。記憶を。約束を。
そして??葉月という存在を。
目を閉じると、昨日の彼の横顔が浮かんだ。
言葉では何も言っていない。でも、指先が迷ったときの、あの表情。
不安、戸惑い、それでも一緒にいようとする微かな勇気。
「……まだ、終わってないよな。」
自分に問いかけるように呟く。
この扉が鍵を持たないように、僕たちの関係もまだ“閉じきって”はいないはずだ。
小さくひとつ息を吸い、鍵盤に指を落とす。
ゆっくりと、最初の一音を弾く。
それは誰のためでもない。
ただ、ふたりがもう一度重なる“入り口”を探すための、僕だけの音だった。
シーン44.約束の予感
図書室の静寂の中、ふたりの心に流れ込んだ旋律は、まるで過去と現在を繋ぐ橋のようだった。透吾はまだ少し呆然としたまま、机の上のコピーを見つめている。葉月も、胸の奥で何かが目覚めていく感覚を抱えていた。
「これは……過去からのメッセージなのかな?」
透吾がぽつりと呟く。その言葉に、葉月は静かに頷いた。ふたりの間に流れる空気が、確かに何かを伝えようとしている。
「もしかしたら、僕たちがずっと果たせなかった約束が、この曲の中に残っているのかもしれない。」
葉月の言葉に、透吾はゆっくりと顔を上げる。目の奥に、期待と不安が入り混じった光が宿っていた。
「約束……」
透吾はその言葉を繰り返しながら、遠い記憶を探るように目を閉じた。
「僕たち、前にも同じようにこの旋律を探していたのかな。何度も、何度も。」
「でも、今はこうして一緒に続きを探せてる。」
葉月の声は、どこか安心した響きを持っていた。ふたりの間にある未完の旋律は、もはや単なる謎ではなく、再び出会うための合図のように感じられる。
「この曲を完成させたら、きっと何かが変わる。そんな気がするんだ。」
透吾の声に、葉月は力強く頷いた。
「うん。今度こそ、約束を果たそう。」
ふたりの間に、静かだけれど確かな予感が生まれる。未完の旋律が、約束の証としてふたりを導いている??そんな気がしてならなかった。
図書室の窓から差し込む光が、ふたりの新しい決意をそっと照らしていた。
シーン45.夜の窓辺
放課後、校舎の窓辺にふたり並んで座っていた。外はすっかり暗くなり、窓ガラスには教室の灯りがぼんやりと映っている。静かな夜の空気の中で、葉月と透吾は、図書室で得た歌詞のコピーと未完の楽譜を膝の上に広げていた。
「ねえ、葉月。」
透吾がふいに声を落とす。その横顔は、どこか迷いを帯びている。
「君は、この続きを……書ける気がする?」
葉月はしばらく黙って、楽譜をじっと見つめた。旋律の断片が頭の中で何度も反響している。でも、その先を形にするのは、簡単なことじゃない。
「正直、まだ自信はない。でも……今なら、透吾と一緒なら、きっと何かが生まれる気がする。」
そう答えると、透吾はほっとしたように小さく笑った。
「僕も同じ。君となら、どんな音でも怖くない。」
窓の外には、遠く街の灯りが滲んでいる。ふたりの間には、まだ不安も迷いも残っているけれど、それでも前に進みたいという気持ちが静かに膨らんでいく。
「……この夜が明けたら、また一緒に続きを探そう。」
葉月の言葉に、透吾は力強くうなずいた。
「うん。きっと、今の僕たちにしか書けない旋律があると思う。」
夜の窓辺に、ふたりの小さな決意がそっと灯る。未完の旋律の先に、どんな音が待っているのか??その答えを見つけるために、ふたりは静かに明日を見つめていた。
シーン46.小さな光
夜が深まり、校舎の窓からは遠く街の灯りが瞬いていた。葉月と透吾は、静かな教室の片隅で未完の楽譜と歌詞のコピーを手に、言葉少なに向き合っていた。
「思い出すんじゃなくて、今ここで生み出そう。」
葉月がふいにそう言った。透吾は驚いたように顔を上げる。その目には、迷いと期待が入り混じっていた。
「……過去の記憶に頼るんじゃなくて、今の僕たちの音を信じてみたいんだ。」
葉月の言葉は、静かだけど確かな決意を帯びていた。透吾はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「そうだね。きっと、その方が本当の答えに近づける気がする。」
ふたりは楽譜を前に、そっとペンを手に取った。断片的な旋律に、今の自分たちの想いを重ねていく。音を一つずつ確かめるように、静かに、でも確かに前へ進んでいく。
「……こうしてると、不思議と怖くない。」
透吾が小さく呟く。葉月も微笑み返した。
「僕も。きっと、どんなに小さくても、今ここにある“光”を信じていれば大丈夫だと思う。」
教室の片隅に、小さな光が灯ったような気がした。過去の記憶に惑わされるのではなく、今を生きるふたりの手で、新しい旋律が紡がれていく。
その夜、未完だった楽譜の上に、ふたりだけの新しい音が静かに刻まれていった。
シーン47.舞台の準備
文化祭の前日、体育館のステージではリハーサルの音が響いていた。ピアノのそばに立つ葉月は、少し緊張した面持ちで楽譜を見つめている。その隣で透吾が軽く肩を叩いた。
「大丈夫、きっとうまくいくよ。」
透吾の声に、葉月は小さく頷いた。未完だった旋律は、ふたりで何度も向き合い、少しずつ形になってきた。けれど、まだ最後の一音が遠いままだった。
ステージの上には、明日の本番を待つ楽器やマイク、譜面台が並んでいる。体育館の天井から差し込む午後の光が、ピアノの黒い表面にやわらかく反射していた。
「ここでみんなの前で弾くの、やっぱり緊張するね。」
葉月が小さく呟くと、透吾は笑いながら答えた。
「でも、葉月と一緒なら大丈夫。今までだって、ふたりで乗り越えてきたじゃん。」
透吾の言葉に、葉月の表情が少しだけ和らぐ。ふたりはピアノの椅子に並んで座り、楽譜をそっと開いた。
「もう一度、最初から合わせてみようか。」
「うん。」
静かな体育館に、ふたりの奏でる旋律がゆっくりと広がっていく。未完だった音楽が、今ここで少しずつ完成に近づいている。ステージの上で、ふたりは自分たちだけの音を確かめ合うように、何度も何度も練習を重ねた。
明日、この場所でどんな音が生まれるのか。ふたりの胸には、不安と同じくらい大きな期待が静かに灯っていた。
シーン48.言葉にならない理由
「……あのとき、俺、ちゃんと伝えられなかった。」
放課後の音楽室。
再び並んだ椅子の上で、透吾がぽつりと呟いた。
葉月は返事をしないまま、静かに楽譜を見つめていた。
「伝えたいことがあったのに、うまく言葉にならなかった。
今も、きっとちゃんとは言えないと思う。……でも、それでも……」
透吾の声がかすれた。
言葉にならない感情が、喉の奥にひっかかる。
焦燥とか、不安とか、後悔とか、そういう名前のついたものじゃなくて。
ただ、“うまくいかなかった自分”がそこにいる気がして、苦しくなった。
「俺……記憶を取り戻したかったんじゃなくて、
たぶん、君と……“確かめたかった”んだと思う。」
ようやく出てきたその言葉に、葉月の指先がかすかに揺れた。
「旋律も、昔のことも……思い出したいと思ったのは本当だけど、
でも、それよりも??“今”君と向き合いたかった。」
言ってから、恥ずかしさと怖さが胸に広がった。
目をそらしそうになるのをぐっと堪えて、葉月の横顔を見る。
葉月は、何も言わなかった。
けれど、ゆっくりと片手を伸ばし、ピアノの鍵盤にそっと触れた。
その指が、ひとつだけ音を鳴らす。
それは、ふたりでずっと探してきた旋律の、いちばん最初の音だった。
「……俺も、うまく言えない。」
葉月の声が、かすかに届く。
「でも……透吾が、そう言ってくれて、少し安心した。」
「安心?」
「うん。……ずっと、置いていかれる気がしてたから。」
それを聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
「だったら、もう大丈夫。」
透吾はそう言って、鍵盤の上に自分の手を重ねた。
ふたりの手が重なる。
言葉はなくても、そこにあるものは、きっともう充分だった。
旋律の続きを探すことも、思い出を辿ることも、もしかしたら大切なことじゃないのかもしれない。
今ここで“通じ合えた”という事実だけが、何よりも本物だった。
シーン49.約束の鍵
リハーサルが終わり、体育館の照明が少しずつ落ちていく中、ふたりはステージの端に腰を下ろしていた。静まり返った空間に、ピアノの余韻だけがほのかに残っている。
透吾は、手のひらに楽譜のコピーを乗せてじっと見つめていた。その目には、どこか決意の光が宿っている。
「この曲が完成したら、何かが変わる気がする。」
透吾がぽつりと呟いた。その言葉は、静かな体育館にすっと溶けていく。
「僕も同じだよ。きっと、この旋律を最後まで弾ききったら、今までずっと心の奥に引っかかっていたものが、全部ほどける気がする。」
葉月はそう答え、透吾の横顔を見つめた。ふたりの間には、これまでにない静かな信頼が生まれていた。
「約束しよう、透吾。この曲をふたりで完成させて、絶対に明日、みんなの前で届けよう。」
葉月がそっと手を差し出す。透吾は一瞬驚いたような顔をしてから、しっかりとその手を握り返した。
「うん、約束だ。」
ふたりの手が重なった瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけていくのを感じた。未完の旋律が、ふたりの約束の鍵となって、確かに未来へと繋がっていく。
体育館の窓から見える夕焼けが、ふたりの決意をやさしく包み込んでいた。
シーン50.断ち切れない記憶
文化祭本番を明日に控えた夜、葉月は自室のピアノの前に座っていた。リハーサルで何度も繰り返した旋律を、指先が自然と鍵盤の上でなぞる。しかし、どうしても最後の一音が弾けない。指が止まり、胸の奥に小さな痛みが広がる。
「……あと少しなのに。」
葉月は静かに呟いた。譜面には、透吾と書き足した新しいフレーズが並んでいる。それでも、何かが足りない気がしてならなかった。
ふと、頭の中に過去の情景がフラッシュバックする。雨の降る窓辺、誰かと並んでピアノを弾いていた記憶。けれど、その隣にいる相手の顔は、どうしても思い出せない。
「なぜ、思い出せないんだろう……。」
葉月は鍵盤の上で手を握りしめた。旋律の断片が、まるで記憶の糸を引き裂くように、心の奥で絡み合っている。
そのとき、スマートフォンが小さく震えた。画面には「透吾」の名前が光っている。葉月は思わず電話に出た。
「透吾……」
『葉月、今、弾いてた?』
「うん。でも、やっぱり最後の一音が……」
『大丈夫。明日、ふたりでならきっと弾けるよ。』
透吾の声は、どこか優しくて、力強かった。その言葉に、葉月の胸の痛みが少しだけ和らぐ。
「……ありがとう。明日、絶対に完成させよう。」
『うん、約束だよ。』
電話を切ったあとも、葉月の指先は静かに震えていた。断ち切れない記憶と、未完の旋律。そのすべてが、明日という舞台へと繋がっていく気がしていた。
シーン51.空席の記憶
昼休みの教室は静かだった。
誰もいない。カーテンが風で揺れるたびに、机の影が床に波のように広がっていく。
僕はいつもとは違う席に座っていた。
教室の中央、透吾の席。
なぜか、そうしたかった。
机の上には何もない。
けれど、ほんのかすかに、そこには“気配”が残っていた。
ノートの角が擦れる音、筆記具を置く手の重み、頬杖をついたまま窓の外を見ていた透吾の視線。
指先で机の端をなぞってみる。
ツルツルとした木の表面に、誰かの記憶が染みこんでいるような気がした。
その瞬間、ふいに、胸の奥で音が鳴った。
??ぽろん。
それはピアノの音だった。
けれど、音楽室のものではない。
もっと小さく、もっと古くて、やさしい音。
思い出すのに、時間はかからなかった。
あれは、幼いころにふたりで弾いていた小さなピアノ。
おもちゃに近い電子ピアノで、音程も不安定だったのに、
その音だけは、なぜか心に残っていた。
その隣に、誰かがいた。
僕の手を取って、鍵盤の上にそっと導いてくれた手。
何も言わなくても、ただ一緒に音を鳴らしてくれた人。
??それが、透吾だったのか?
答えは、出なかった。
けれど、身体の奥が確かに“知っている”と告げていた。
忘れたわけじゃない。
覚えているけれど、ずっと沈めていた。
旋律がきっかけとなって、少しずつ浮かび上がってくる感情のかけら。
子どもの頃、名前よりも先に、
僕はその人の音を覚えていたのかもしれない。
教室の時計が、静かに時を刻む。
あの頃も、こんなふうに午後の光が差し込んでいた。
透吾と並んでいたあの空間に、時間という概念はなかった。
ただ、音だけが流れていた。
空席に座ったまま、僕は目を閉じる。
音は鳴っていない。けれど、たしかにそこに“旋律の記憶”があった。
「……本当に、いたんだね。」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
過去を探すためにピアノを弾いていたはずが、
気づけば、過去は“ずっとここにいた”のだと、やっと思えた。
席を立ち、もう一度自分の席に戻る。
次のチャイムが鳴るまで、あと数分。
そのあいだだけ、僕は何も考えずにいようと思った。
透吾が戻ってきたら、何も言わずにただ、笑おう。
そう思えることが、今は、ただ静かに嬉しかった。
シーン52.もう一度向き合う
文化祭当日の朝、葉月は早めに学校へ向かった。静かな校舎の中、音楽室の扉をそっと開けると、すでに透吾がピアノの前に座っていた。窓の外は曇り空で、今にも雨が降り出しそうな気配が漂っている。
「おはよう、透吾。」
葉月が声をかけると、透吾は振り返り、少し照れたように微笑んだ。
「おはよう、葉月。……なんだか、眠れなかった。」
「僕も。」
ふたりは並んでピアノの前に座る。机の上には、何度も書き直した未完の楽譜が広げられていた。
「ねえ、葉月。」
透吾が静かに口を開く。
「俺たち、前にもこの音を知っていたんじゃないか?」
葉月は驚いて透吾を見つめる。その言葉は、ずっと心の奥にあった疑問をそっと掬い上げるようだった。
「……僕も、そんな気がしてた。旋律の断片が、時々すごく懐かしい。でも、どうしても全部は思い出せないんだ。」
「たぶん、思い出すことが大事なんじゃなくて……もう一度、今の僕たちで向き合うことが大切なんだと思う。」
透吾の言葉に、葉月は静かに頷いた。ふたりの間に流れる空気が、少しずつ柔らかく変わっていく。
「今日、この舞台で、もう一度ふたりで向き合おう。過去じゃなくて、今の僕たちの音で。」
「うん。」
未完の旋律と、断ち切れない記憶。ふたりはそれぞれの想いを胸に、静かに本番の時を待った。曇り空の向こうに、少しだけ光が差し込んでいるような気がしていた。
シーン53.触れられない旋律
文化祭前日の夕方。
薄曇りの空が、廊下の窓を灰色に染めていた。
誰もいない音楽室。
カーテンが静かに揺れて、ピアノの蓋の上に落ちる光が、白くゆれている。
僕たちはピアノの前に座っていた。
でも、どちらも鍵盤には触れていない。
「……明日だね。」
透吾の声が、かすかに空気を震わせた。
「うん。」
僕は答えながらも、視線を鍵盤から離せなかった。
何度も練習した旋律。指が勝手に覚えているはずなのに、今だけは音を出せなかった。
怖かったのかもしれない。
音を鳴らしてしまえば、それが“最後の音”になる気がして。
透吾が、そっと手を伸ばす。
けれどその指は、鍵盤には触れず、僕の左手の近くで止まった。
触れそうで、触れない。
まるで、旋律のひとつ前の休符のような、張り詰めた距離。
「……ここで終わってもいい気がする、なんて言ったら、変かな。」
透吾の声が震えていた。
「変じゃないよ。」
そう答えたけれど、僕の声もまた、少し揺れていた。
??このまま音を鳴らさなければ、何も終わらずに済む。
でも、それは同時に、何も始まらないことでもある。
そんな矛盾を、ずっと僕たちは引きずってきたのかもしれない。
透吾の指先が、そっと鍵盤のフレームに触れる。
音は鳴らない。でも、その動作だけで、すべてが伝わってきた。
「……明日、ちゃんと弾こう。」
透吾が言った。
僕は、うなずいた。
言葉も旋律もいらない。
その一瞬の呼吸の重なりだけで、僕たちはもう一度、つながる準備ができていた。
シーン54.旋律と心
文化祭の開幕を告げるチャイムが鳴り響き、校舎はにわかに活気づいていた。体育館のステージ袖で、葉月と透吾は静かに最後の確認をしていた。ピアノの前に並んで座ると、ふたりの間に緊張と期待が入り混じった静けさが流れる。
「透吾……今なら、弾けるかも。」
葉月がそっと呟いた。透吾は驚いたように葉月を見つめ、すぐに優しく微笑む。
「うん。僕も、今ならきっと大丈夫だと思う。」
ふたりは楽譜を開き、指先を鍵盤に置いた。これまで何度も繰り返した旋律が、今は不思議なほど自然に心に流れてくる。断片だった音が、ふたりの中でひとつに繋がり始めていた。
「怖くない?」
透吾が小さく尋ねる。葉月は首を振り、まっすぐに透吾を見つめた。
「怖くないよ。透吾と一緒だから。」
その言葉に、透吾の表情が少し和らぐ。ふたりの心が、旋律とともに静かに重なっていくのを感じた。
「……じゃあ、行こう。」
体育館のカーテンの向こうから、ざわめきが聞こえてくる。ふたりはゆっくりと立ち上がり、ステージへと歩き出した。
未完だった旋律が、今この瞬間、ふたりの心と重なり合い、新しい音楽として生まれようとしていた。
シーン55.確信の瞬間
ステージの中央に並んで座った葉月と透吾。体育館の観客席には、クラスメイトや先生たち、そして見知らぬ顔もたくさん集まっている。スポットライトがふたりを静かに照らし、ピアノの黒い鍵盤がわずかに光を反射していた。
葉月は深呼吸をひとつして、透吾と目を合わせる。透吾も静かに頷き返した。ふたりの間に、もう迷いはなかった。
「……行こう。」
葉月がそっと呟き、ふたりは同時に鍵盤に指を置いた。最初の音が静かに体育館に響く。旋律は、これまで何度も練習したもの。でも、今この瞬間だけは、ふたりだけの特別な音楽に変わっていく。
未完だった楽譜の最後の部分に差し掛かったとき、葉月の指が自然と動いた。透吾も、その動きに合わせて音を重ねる。ふたりの心が、旋律と重なり合っていく。
「これが……僕たちの音だ。」
心の中で、確信が生まれる。過去の記憶も、不安も、すべてがこの瞬間に溶けていく。最後のフレーズを弾き終えたとき、ふたりは同時に顔を上げ、お互いをまっすぐに見つめ合った。
確信の瞬間??ふたりの間に、言葉では言い表せない強い絆が生まれていた。未完の旋律は、今ここで、ふたりの手によって完成しようとしていた。
シーン56.雨の予感
文化祭当日の朝、窓の外は静かな雨に包まれていた。葉月は、教室の窓辺でぼんやりと外を眺めていた。雨粒がガラスを伝い、校庭の木々や校舎の屋根をしっとりと濡らしている。
「今日は雨か……」
小さく呟くと、透吾が傘を片手に教室へ入ってきた。ふたりは目を合わせて微笑み合う。
「なんだか、雨の日って落ち着くよね。」
透吾がそう言うと、葉月も頷いた。どこか懐かしい気持ちになる雨の音。ふたりが初めて出会った日のこと、そして、ずっと昔に夢で見たような景色が心の奥に浮かんでくる。
「この雨も、きっと意味があるんだと思う。」
葉月が静かに言うと、透吾は優しく微笑んだ。
「うん。今日のステージ、絶対に忘れられない日になるよ。」
窓の外の雨音が、ふたりの心を静かに包み込む。未完の旋律が完成するその瞬間を、雨がそっと見守っているようだった。
ふたりはゆっくりと立ち上がり、傘を手に体育館へと向かった。雨の予感が、これから始まる物語の新しい幕開けを静かに告げていた。
シーン57.ステージへ
体育館の扉を開けると、湿った空気とともに静かなざわめきがふたりを包み込んだ。観客席にはクラスメイトや先生たち、家族の姿も見える。雨のせいか、会場全体がどこか柔らかな雰囲気に満ちていた。
ステージ袖で最後の確認をしながら、葉月は透吾の横顔を見つめる。透吾も、ゆっくりと息を吐いてから葉月の方を向いた。
「この旋律は、記憶じゃなくて今の俺たちのものだ。」
透吾の言葉は、静かだけれど確かな響きを持っていた。葉月は小さく頷き、楽譜をそっと閉じる。
「うん。今ここにいる、ふたりの音を信じよう。」
ふたりは並んでステージへと歩き出す。照明がふたりの姿をやわらかく照らし、観客の視線が自然と集まる。ピアノの前に座ると、葉月と透吾はそっと手を重ね、互いの存在を確かめ合った。
「行こう。」
「うん。」
静かな体育館に、ふたりの奏でる旋律がやがて響き始める。未完だった音楽が、今この瞬間、ふたりの手で新しい物語となって生まれ出していく。
雨音と拍手の余韻が、ふたりの背中をそっと押していた。
シーン58.本番直前
ステージ裏の控室は、静かな緊張感に包まれていた。葉月と透吾は、ピアノの楽譜を手に最後の確認をしている。外からは、文化祭のざわめきや、他の発表の拍手がかすかに聞こえてくる。
「いよいよだね。」
透吾が小さく呟く。葉月は深呼吸をして、透吾の目をまっすぐ見つめた。
「大丈夫。ふたりでここまで来たんだから、きっと大丈夫だよ。」
透吾は小さく笑い、葉月の手をそっと握る。その手の温かさが、不思議と緊張を和らげてくれる。
「ありがとう、葉月。……最後まで、一緒に。」
「うん、一緒に。」
ステージスタッフの合図が聞こえ、ふたりはゆっくりと立ち上がる。楽譜を持ち、深呼吸をもう一度。扉の向こうには、観客の静かな期待が満ちている。
「行こう、透吾。」
「うん。」
ふたりは並んでステージへと向かった。未完の旋律が、今まさに完成の瞬間を迎えようとしている。控室の静けさの中、ふたりの決意だけが、確かに響いていた。
シーン59.第一音
ステージに立つと、体育館の空気が一瞬で変わるのを感じた。客席のざわめきが静まり、すべての視線が葉月と透吾に注がれる。ふたりはピアノの前に並んで座り、深呼吸をひとつ。
葉月は透吾と目を合わせ、小さく頷く。透吾も静かに微笑み返した。ふたりの間に流れるのは、これまでに積み重ねてきた時間と信頼、そして未完の旋律への強い想い。
葉月の指が、そっと鍵盤の上に置かれる。透吾も同じように手を添える。
「行こう。」
葉月の小さな声に、透吾が静かに「うん」と応える。
そして??
第一音が、体育館の静寂を優しく切り裂くように響いた。
その音は、ふたりの心を繋ぎ、客席にいるすべての人の胸に静かに届いていく。旋律が流れ始めると、不思議なほど自然に、ふたりの指は鍵盤の上を踊った。過去の記憶も、不安も、すべてが音に溶けていく。
未完だった旋律が、今この瞬間、ふたりの手によって新しく生まれ変わる。体育館の空気が、音楽とともにやわらかく震えていた。
シーン60.音楽と記憶
ピアノの旋律が体育館いっぱいに広がる。葉月と透吾の指先が、まるで言葉を交わすように鍵盤の上を行き交う。観客の気配も、雨音も、すべてが遠くなり、ふたりだけの世界がそこにあった。
演奏が進むにつれ、透吾の胸の奥に、次々と映像が浮かんでくる。幼い頃、どこかで聴いたような旋律。雨の日の窓辺。誰かと並んでピアノを弾いていた記憶。隣にいるのは、今まさに隣で弾いている葉月の面影と重なっていく。
「……思い出した。」
心の中で、透吾は小さく呟いた。ずっと探していた旋律も、失われたと思っていた記憶も、すべてが音楽によって繋がっていく。過去の自分と今の自分が、旋律の中でひとつになっていく感覚。
葉月もまた、同じように何かを感じているようだった。ふたりの心が、音楽を通して確かに重なり合う。
最後のフレーズに差し掛かると、透吾はもう迷わなかった。今ここにいる自分たちの音を信じて、葉月とともに旋律を紡ぎ続ける。
音楽と記憶??そのすべてが、今この瞬間に解き放たれていく。
シーン61.約束の旋律
最後のフレーズが近づくにつれ、体育館の空気は静けさを増していった。葉月の指先が、迷いなく鍵盤の上を滑る。透吾もまた、心からその音に身を委ねていた。
ふたりで紡いできた未完の旋律。そのすべてが、この瞬間に集約されていく。
葉月は、透吾と目を合わせて小さく頷いた。ふたりの想いが、音となって重なり合う。最後の一音を弾く瞬間、葉月の心には確かなものがあった。
「これが、僕たちの約束だ。」
心の中でそう呟きながら、葉月は迷いなく最後の音を奏でた。
その響きは、静かな余韻を残して体育館中に広がっていく。未完だった旋律が、今ここでふたりの手によって完成したのだ。
透吾は深く息を吐き、静かに目を閉じた。胸の奥にあった不安や迷いが、すべて音楽の中で解き放たれていく。
「終わったんじゃなくて、始まったんだ。」
透吾の心に、そんな言葉が浮かんだ。ふたりの約束の旋律が、これからの新しい物語の幕開けを静かに告げていた。
シーン62.演奏の途中で
舞台の上。
ピアノの音が、静かに世界を満たしていく。
照明の光が白く差し、客席の顔は見えない。
でも、隣にいる葉月の指先は、確かにそこにある。
その動きが僕を導き、僕もまた彼に応えるように鍵盤をなぞる。
ふたりの音が、重なる。
ずっと探していた音。
夢の中で聴いていた旋律。
断片的だった記憶が、いま、音の流れに導かれて、ひとつにまとまっていく。
??そして、訪れた。
あの小節。
夢の中で、いつも目が覚める直前に止まっていた場所。
葉月の指が、そっと先に進む。
僕の指も、自然に続く。
その瞬間、胸の奥に??光が差し込んだ。
白い部屋。小さな音楽室。
子どもだった僕。小さなピアノ。
隣には、泣きそうな顔の男の子がいて、僕はその手を取っていた。
??もう一度、弾こう。
??今度は、ちゃんと最後まで。
旋律が、過去と現在をつないでいく。
音が、記憶の底にあった景色を、少しずつ浮かび上がらせていく。
そして、僕は思い出した。
あの旋律は、ふたりで作ったものだった。
まだ子どもだったころ、言葉の代わりに重ねた音。
誰にも聴かせるつもりのなかった、僕たちだけの秘密の旋律。
それを、今、もう一度??
この舞台の上で、ふたりで、最後まで奏でている。
??ようやく、戻ってこれた。
胸が、熱くなった。
涙が出そうになった。でも、止めなかった。
この一音一音が、確かにあの日の“約束”の続きだと、わかっていたから。
隣を見る。
葉月も、静かに目を閉じながら、音に身を預けている。
言葉はいらない。すべては、ここにある。
記憶も、想いも、旋律も??
いま、すべてが重なっていた。
シーン63.記憶の解放
最後の音が体育館いっぱいに響き渡ると、静寂が訪れた。葉月と透吾は、しばらくその余韻の中に身を委ねていた。ふたりの心臓の鼓動だけが、静かに重なり合っている。
透吾はゆっくりと深呼吸をし、目を閉じる。胸の奥に絡まっていた不安や迷い、断片的な記憶の影が、今、音楽とともに解き放たれていくのを感じた。
「終わったんじゃなくて、始まったんだ。」
透吾は小さく呟いた。その言葉に、葉月も静かに頷く。未完だった旋律は、ふたりの手で確かに完成した。けれど、それは終わりではなく、新しい物語の始まりだった。
観客席からは、まだ拍手も声もない。ただ静かに、ふたりの奏でた音楽の余韻が空間を満たしている。
透吾はそっと葉月の方を見た。葉月もまた、安堵と達成感に満ちた表情で透吾を見返す。ふたりの間に、言葉はいらなかった。
音楽とともに解き放たれた記憶。そのすべてが、今のふたりを優しく包んでいた。
シーン64.観客の沈黙
体育館には、まだ静寂が満ちていた。最後の音が消えてからも、誰もすぐには拍手をしなかった。葉月と透吾の奏でた旋律の余韻が、空気の中に深く、静かに染み渡っている。
ふたりはピアノの前で、互いにそっと微笑み合った。緊張も、不安も、すべてが今は静かな満足感に変わっていた。観客席を見渡すと、誰もが息を呑んだまま、ふたりの方をじっと見つめている。
その沈黙は、不思議と心地よかった。まるで、誰もが今の瞬間を大切に味わっているかのようだった。
やがて、ひとりの生徒がそっと手を叩き始める。その音がきっかけとなり、体育館いっぱいに大きな拍手が広がった。葉月と透吾は顔を見合わせ、自然と笑みがこぼれる。
静寂と余韻、そして祝福の拍手。そのすべてが、ふたりの物語の新しいページを優しく彩っていた。
シーン65.沈黙のあとの呼吸
舞台袖の空気は、まだ音を抱えていた。
演奏が終わって、拍手が鳴り、カーテンが閉じたあと。
僕たちは、楽器のそばで立ちすくんでいた。
誰かが声をかける気配もあったけれど、僕も透吾も、それに応えなかった。
ただ、静かに息をしていた。
音が消えたあとの、まるで呼吸のリハーサルのような時間。
僕はまだ、自分の手が震えているのに気づいていた。
それが緊張なのか、達成感なのか、あるいは別の感情なのか、自分でもよくわからなかった。
隣で、透吾がそっとピアノケースのふたを閉じる。
その手つきは丁寧で、まるで音の余韻を封じ込めるようだった。
「……終わったね。」
透吾がぽつりとつぶやく。
その声も、誰かに聞かせるためではなく、自分自身を確かめるようなものだった。
僕は答えなかった。
けれど、うなずいた。
沈黙がふたたび戻ってくる。
でも、それはあの日の“すれ違いの沈黙”ではなかった。
言葉にしなくても、そこにあることがわかる。
触れなくても、気配でわかる。
ふたりで音を重ねたこと。
あの旋律の続きを、最後までたどり着いたこと。
記憶が、想いが、すべて交わったこと。
??全部、ちゃんと“届いた”こと。
透吾が、わずかに手を差し出した。
でも、触れることはなかった。
僕も、それに気づいたけれど、何も言わなかった。
ふたりの間にあるのは、もう“音”ではなかった。
でも、音を通してつながったものが、たしかに今もそこにある。
深く、ひとつ息を吐いた。
その呼吸が、今の“ふたり”にとっての合図だった。
そして、僕たちはゆっくりと歩き出した。
舞台袖の静けさに包まれながら。
演奏の余韻を背負ったまま。
次の旋律を、心の中だけに響かせながら。
シーン66.視線の交錯
体育館に鳴り響く拍手の中、葉月と透吾はゆっくりと立ち上がった。ステージの上で、ふたりは無言のまま互いを見つめ合う。
言葉はいらなかった。伝えたいこと、感じていることは、すべて視線に込められていた。長い時間をかけて紡いできた旋律と記憶。そのすべてが、いま確かな絆となってふたりをつないでいる。
透吾は静かに微笑み、葉月もまた優しく頷いた。観客の歓声や拍手の音が遠のいていく。ふたりの間には、ただ静かな理解と温もりが流れていた。
やがて、透吾がそっと手を差し出す。葉月はその手をしっかりと握り返した。ふたりの視線が再び交錯し、心の奥で新しい約束が生まれる。
「これからも、一緒に。」
声にならないその想いが、ふたりの間に確かに伝わっていた。ステージの上で交わされた視線が、ふたりの未来を優しく照らしていた。
シーン67.音のない夜
夜になっても、音が鳴らなかった。
テレビもラジオもつけていない。スマホは机の上で画面を伏せたまま。
窓の外からは虫の音がかすかに届いているけれど、それすらも耳に入ってこなかった。
今日の文化祭が終わって、すぐに帰宅した。
クラスの後夜祭の誘いは断った。疲れているという理由で。
嘘じゃなかった。けれど、それだけじゃなかった。
部屋の電気も、いつもより暗くしていた。
手元のピアノにはカバーがかかったまま。
それでも僕の頭の中には、あの旋律がまだ、静かに流れていた。
最後まで弾けた。
途中で間違えたり、テンポが狂いそうになった瞬間もあったけれど、
葉月の音が、僕を引き戻してくれた。
演奏が終わった瞬間の、客席の沈黙。
そして、ゆっくりと降りてきた拍手の波。
音を届けたという実感は、不思議とあの沈黙の中にこそあった。
その場で言葉にできなかったものが、今になって胸の奥で反響している。
届いたのかどうか、確信はない。
でも、届いてほしいと願った音だった。
そういう音を、僕は出していた。
一方で、葉月は今、どこでどんなふうに過ごしているのだろう。
同じように、静かな部屋にいるのだろうか。
それとも、少しだけ鍵盤を鳴らしていたりするのだろうか。
不意に、手を伸ばした。
ピアノのカバーを外しかけて、けれど思い直して、そっとまた戻した。
??今は、弾かなくていい。
もう十分だった。
音に頼らなくても、旋律はちゃんと残っている。
胸の奥に、言葉にならない感情のまま。
まぶたを閉じると、演奏中の光景が浮かぶ。
葉月の横顔。光に照らされた指先。
指揮者がいない舞台で、ふたりだけのテンポで進んだ旋律。
誰のためでもなく、ふたりのためだけに奏でられた時間。
きっと、忘れない。
この夜の静けさごと、ずっと記憶に残っていく。
時計の針が、ゆっくりと日付をまたいだ。
今日という一日が終わっても、
あの音だけはまだ、僕の中で??終わっていなかった。
シーン68.風に乗る音
演奏を終えたふたりは、ステージを降りて体育館の裏口から校庭へと歩き出した。雨は上がり、空には薄い雲の切れ間からやわらかな光が差し込んでいる。湿った空気の中、葉月と透吾は並んで歩きながら、しばらく無言のまま余韻を味わっていた。
ふと、そよ風がふたりの髪を揺らす。その風に乗って、さっきまで自分たちが奏でていた旋律が、どこか遠くへと運ばれていくような気がした。
「……聞こえる?」
葉月が小さく呟く。透吾は微笑んで頷いた。
「うん。きっと、あの音はこれからも誰かの心に残っていくんだと思う。」
校庭の片隅で立ち止まり、ふたりは静かに空を見上げた。新しい物語の始まりを告げるように、風がやさしく吹き抜けていく。
未完だった旋律は、もうふたりだけのものではない。思い出も約束も、すべてが音楽とともに未来へと解き放たれていく。
葉月と透吾は、そっと顔を見合わせ、静かに微笑み合った。風に乗る音が、ふたりの背中をやさしく押していた。
新しい一歩を踏み出すふたりの後ろで、音楽の余韻がいつまでもやさしく響いていた。
シーン69.春の再会
春の風が、街の色をやわらかく撫でていく。
花のにおいと、陽のにおいが混ざって、遠くから誰かの笑い声が聞こえた。
駅前の並木道で、僕は足を止めた。
桜はもう散り始めていて、歩道には花びらが薄く積もっている。
??名前を、呼ばれた気がした。
振り向くと、ほんとうにそこにいた。
背の高さも、歩き方も、声の響きも変わっていなかった。
だけど、少しだけ大人になったような、そんな顔だった。
「……久しぶり。」
それしか言えなかった。
それでも、透吾は笑ってうなずいた。
「久しぶり。」
目の前にいるという事実だけで、胸があたたかくなる。
どこかで会えるかもしれないと思っていた。
でも、それはただの願いのようなもので、根拠なんてなかった。
それでも、こうしてまた、目の前に立っている。
「元気、だった?」
「うん。そっちは?」
「まあ、なんとか。」
それ以上は、続けなくてもよかった。
いま何をしてるとか、どこに住んでるとか、そんなのはどうでもよくて。
目の前の“変わらないもの”が、そこにあるだけで十分だった。
ふたりとも、少しだけ黙った。
でも、あの沈黙には、もう迷いはなかった。
「……まだ、弾いてる?」
透吾が尋ねた。
僕は、少しだけ考えてから、うなずいた。
「うん。時々。ひとりでも、ふたりでも、なく??音と。」
その答えに、透吾はふっと笑った。
それは、あの頃と同じ、“わかってる”という笑いだった。
「じゃあ、またどこかで。」
「うん。また。」
交わした言葉は、それだけだった。
けれど、すれ違って歩き出したあとも、背中越しに音が響いていた。
耳には聴こえないはずなのに、なぜか旋律の始まりだけが、確かに心に残っていた。
もう一度、あの続きを弾くときが来る。
きっと、またふたりで。
そう信じられることが、なによりも確かな“再会”だった。
シーン70.記憶の先で ―余白の音―
音楽室の鍵は、閉まっていた。
放課後、誰もいない廊下を歩きながら、僕はその扉の前で立ち止まった。
ガラス越しに見えるピアノ。蓋が閉じられ、まるで眠っているようだった。
それでも、僕には聴こえていた。
音ではない。記憶の中の、あの旋律が??今でも、静かに胸の奥で鳴り続けている。
透吾とは、また普通のクラスメイトに戻った。
言葉を交わす機会は減った。あの時間が特別だったことを、お互い知っていたからだと思う。
でもそれは、終わりじゃなかった。
音が、すべてを伝えてくれた。
そして、沈黙がそれを包み込んでくれた。
窓の外では、冬が近づいていた。
冷たい風が吹いて、木々の葉をさらっていく。
季節は巡る。記憶も、きっと少しずつ風化していく。
けれど、あの旋律だけは??あのときふたりでたどり着いた音だけは、決して消えない。
きっと、ずっと僕の中で、生きていく。
どこかで透吾も、同じように思っていてくれたら。
それだけで、今はもう、充分だ。
僕はそっと、鍵のかかった扉に手を添えた。
そして背を向け、歩き出す。
耳をすませば、まだ遠くで??音が聴こえる気がした。
未来へとつながっていく、静かで確かな“余韻”だった。
シーン71.旋律のいない日々
旋律のない日々が、続いていた。
卒業式からどれくらい経ったのか、数えなくなっていた。
音楽室にも行かなくなった。ピアノにも触れなくなった。
朝起きて、制服じゃない服に袖を通し、通い慣れない駅のホームに立つ。
周囲の足音とアナウンス、風の音だけが、耳を満たしている。
以前の僕なら、そんな静けさに怯えていたかもしれない。
でも今は、空白そのものが“残響”に思える。
??あの旋律は、もうどこにも鳴っていない。
けれど、それを“無くなった”とは思わなかった。
旋律は、ただ沈黙に溶けただけ。
音にならなくても、確かに心の奥にはある。
透吾の声も、笑い方も、ピアノに置いた指のかたちも、
すべてが音にならずにそこにいる。
僕は今日も、音を出さない。
でも、それでいいと思っていた。
音があった時間も、音がない今も、
そのどちらにも、僕たちがいる。
そしていつか、ふたたび旋律が必要になる日が来たなら??
僕はきっと、もう一度、あの鍵盤に手を置くのだろう。
それまでの日々が、たとえ“旋律のない日々”だったとしても、
それもまた、僕にとっての音楽なのだと思えた。
春の風が吹いた。
駅のホームに桜の花びらが舞い、僕の足元で小さく回った。
耳を澄ませば??どこかで、誰かがピアノを弾いている気がした。
きっと、それは幻ではない。
いまは音にできないだけの、確かな“記憶の旋律”なのだ。
シーン72.旋律のいない日々(5年後)
??あれから、五年が経った。
音楽のない日々が、ゆっくりと過ぎていった。
大学へ進み、アルバイトに追われ、日々に追われ、あの春の日々は少しずつ輪郭を失っていった。
ピアノには触れていなかった。
自室の片隅に置いたまま、カバーをかけたまま、もう何年も音を出していない。
けれど、不思議と後ろめたさはなかった。
それは、いずれまた触れる時が来ると、どこかで信じていたからかもしれない。
久しぶりに帰省した休日の午後。
何の気なしに部屋を片づけていると、棚の奥から楽譜のファイルが出てきた。
ふたりで演奏したあの曲が、まだそこにあった。
ページをめくる指先が、少しだけ震える。
記憶の底に沈んでいた音が、文字ではなく、“感覚”として蘇ってくる。
??たしかに、あった。
旋律が。空気が。沈黙の中にあった確かな共鳴が。
名前も、連絡先も、ちゃんと残っている。
けれど、もう何年も連絡はとっていない。
今、彼がどこで何をしているのかさえ、僕は知らない。
でもそれでも、不思議と寂しさはなかった。
あのとき伝わったものが、今も胸の奥に残っていることだけが確かだった。
音があった時間も、音がなくなった今も、
そのどちらにも“僕たち”がいた。
そして、いつかふたたび旋律が必要になる日が来たなら??
きっと、もう一度、鍵盤に手を置くのだろう。
そう思えるようになっていた。
そういう未来のことを、誰にも話す必要はなかった。
自分の中でだけ、静かに響いていれば、それでよかった。
春の風が吹いた。
窓の隙間から差し込む光が、薄く埃を照らしていた。
耳を澄ませば、遠くで音が鳴っている気がした。
それは、まだ旋律にならない、
でもたしかに未来へと続く、“はじまりの前の音”だった。
春の光がまだ冷たい風に揺れている。
午前の校舎には、人の気配が薄い。入学式の準備で人が動いているはずなのに、校舎全体が少しだけ眠っているような、そんな静けさだった。
音楽室に足を踏み入れたのは、まったくの気まぐれだった。
朝のうちに登校してしまったせいで、教室にはまだ誰もいなかった。だから、なんとなく廊下を歩きながら、鍵のかかっていなかったその扉を開けた。
ピアノは、静かにそこにあった。
何も語らず、ただ黙って存在していた。
蓋は閉じられていたけれど、僕にはその上に、まだ消えきらない音が浮かんでいるように見えた。
指先を伸ばす。
鍵盤に触れたのは、どれくらいぶりだっただろう。
??ぽろん。
やわらかい、最初の音が鳴る。
何の旋律でもない。ただの単音。
けれどその響きが、胸の奥を小さく震わせた。
音には、なにかが宿っている気がした。
それは懐かしさなのか、それとも怖れなのか、自分でもよくわからなかった。
もう一音、指を置く。
そしてまたひとつ。
音が、線になっていく。
それは、どこかで聞いたことのある旋律。
まだ完成していない、不完全で、どこか途切れている??でも、確かに知っている気がする。
目を閉じる。
遠くで誰かが笑ったような気がした。
「……あれ?」
声にならない声が、喉元で消える。
僕の記憶のなかに、この旋律がある。
でも、思い出そうとすると霧がかかる。まるで夢の途中で目を覚ましたときのように、輪郭だけがぼやけている。
けれど、その中に“誰か”がいた。
僕と並んでピアノに向かっていた、小さな背中。
名前も、顔も思い出せない。でも、その人の出す音だけは、確かに覚えていた。
指先を止めて、そっと目を開ける。
春の光が、斜めに差し込んでいた。
この旋律の続きを、いつかもう一度、弾ける日が来るのだろうか。
そしてそのとき、あの“誰か”にもう一度会えるだろうか。
??これは、はじまりの音だった。
何の旋律でもない、けれど僕のなかにずっとあった音。
これから始まる高校生活のなかで、この音がどんな意味を持つのかは、まだわからない。
でも今、音楽室に差し込む春の光と、この静かな空気が、すべての“予感”のように思えた。
僕はそっとピアノの蓋を閉じた。
音はもう鳴っていない。けれど、確かにそこには、何かが残っていた。
やわらかく風が吹く。
始業のチャイムが鳴る少し前の、何もない静けさのなかで、僕はもう一度、あの旋律のはじまりを胸に刻んだ。
シーン1.夢の始まり
鍵盤の上に、ふたつの手が重なっていた。
ひとつは小さく、細く、頼りない。
もうひとつは、それをそっと包むように添えられていて、
やわらかくて、ぬくもりがあった。
ふたつの手が同じ旋律をなぞるたびに、音が生まれる。
その音は、遠くで誰かの名前を呼ぶようで、
それでいて、何も語らない静けさに似ていた。
??あの旋律は、どこから来たのだろう。
はじめて聴いた気がしなかった。
それなのに、どうしても思い出せない。
けれど、確かに知っている。
この音、このぬくもり、この沈黙のなかにある、やさしい“何か”。
ふいに、隣にいる“誰か”が僕の手を離した。
その瞬間、音が止まり、世界が色を失う。
僕はその人の顔を見ようとする。
でも、光が強すぎて見えない。
ただ、誰かがこう言った気がした。
「また、会えるよ。きっと。」
その声だけが、いつまでも耳の奥に残っていた。
目を覚ますと、まぶたの裏にはまだ、あの白い光が残っていた。
呼吸が浅くて、胸の奥がざわついている。
夢のなかで聴いた旋律の断片が、静かに鼓膜の奥に響いていた。
「……あの音……」
どこかで、確かに聴いたことがある。
けれど、それがどこだったのか、誰といたのか、何を話したのか……何ひとつ思い出せなかった。
ただひとつ。
その旋律を、もう一度??今度は最後まで、弾きたいと思った。
シーン2.雨の駅
雨の音が、駅のホームに静かに降り積もっていた。放課後の薄暗い空の下、僕はベンチの端に座って、濡れた楽譜をそっとハンカチで拭っていた。指先に触れる紙の感触が、どこか遠い記憶を呼び起こすようで、胸の奥が少しだけざわつく。
「……なんで、思い出せないんだろう。」
小さく呟いた声は、雨音にすぐにかき消されてしまった。楽譜に書かれた旋律は、幼い頃からずっと頭の片隅に居座っている。けれど、どうしてこの曲を知っているのか、その理由だけはどうしても思い出せない。メロディの途中でいつも手が止まってしまうのも、何かが足りない気がしてならないのも、全部そのせいだ。
「……」
指先で五線譜をなぞりながら、僕は無意識に旋律を口ずさんでいた。雨の匂いと、紙の湿った感触。どこか懐かしいのに、はっきりとは思い出せない。そんなもどかしさが、今日もまた胸の奥に渦巻く。
「その曲、どこで習ったんだ?」
不意に、背後から声がした。驚いて振り返ると、そこには見知らぬ男子生徒が立っていた。制服の襟元から覗くシャツが少し濡れていて、傘を持っていないのか、髪も雨粒でしっとりしている。
「え……?」
僕が戸惑っていると、彼はゆっくりと僕の隣に腰を下ろした。目が合った瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚が走る。初めて会うはずなのに、なぜか見覚えがある気がした。
「ごめん、いきなり。……でも、その曲、どこかで聴いたことがある気がして。」
彼の声は、どこか懐かしさを含んでいた。僕は楽譜を抱え直しながら、どう答えればいいのか分からず黙り込む。
「僕も、よく分からないんだ。この曲、ずっと前から頭の中にあって……でも、どうして知ってるのかは思い出せない。」
そう言うと、彼は小さく頷いた。まるで僕の気持ちを分かってくれるような、優しい表情だった。
「俺も同じだよ。なんていうか……初めて聴いたはずなのに、知ってる気がする。変だよな。」
雨の音が、二人の間に静かなリズムを刻む。僕はもう一度楽譜を見つめ、彼の横顔をちらりと盗み見る。彼の目の奥にも、同じような戸惑いと懐かしさが揺れている気がした。
「君、名前は?」
「山本葉月。君は?」
「高梨透吾。今日、転校してきたばかりなんだ。」
透吾??その名前も、どこかで聞いたことがあるような気がする。でも、やっぱり思い出せない。
「……じゃあ、これも偶然なのかな。」
僕がそう呟くと、透吾は小さく笑った。
「偶然、か。……でも、なんか違う気がする。」
その言葉に、僕は少しだけ胸が温かくなるのを感じた。雨はまだ止みそうにない。けれど、この出会いがただの偶然じゃない気がして、僕はもう一度楽譜をそっと撫でた。
旋律の続きを、思い出せそうな気がした??そんな予感だけが、静かに胸の奥に残った。
シーン3.記憶の影
家に帰ってからも、雨の気配は頭の中に残っていた。ポタポタと窓を叩く音が、駅のベンチで交わした透吾との言葉を、何度も思い出させる。
「どうして……あの旋律を、僕は知ってるんだろう。」
机の上に置いた楽譜をぼんやりと見つめながら、僕はゆっくりと目を閉じた。すると、いつかの記憶が、ゆっくりとよみがえってくる。
??それは、たしか幼稚園の頃だった。
古びた音楽教室。色褪せたピアノ。窓から差し込む午後の光が、埃の舞う空間を柔らかく照らしていた。
「ほら、ここをこうやって、優しくね。」
小さな手の上に、誰かの手がそっと重なる。あたたかくて、優しくて、でもどこか切ない感触だった。
「この音が、君の音になるんだよ。」
その声は、今でもはっきりとは思い出せない。ただ、耳の奥にかすかに残っている。高くも低くもない、どこか中性的な声。目を凝らしても、顔は白く霞んでいて??誰だったのか、思い出せない。
それでも、そのときの旋律だけは、確かに今と同じだった。
ド・ミ・ファ・ソ……一音一音が静かに胸に染みていく感覚。
「……またね。きっと、また会えるから。」
夢か、現実かも分からない記憶。けれど、その最後の言葉だけが、どうしようもなく胸に焼きついていた。
??また、会える。
あのとき、そう言ってくれたのは、いったい誰だったのだろう。
目を開けると、部屋の明かりがまぶしく感じた。時計の針は、夜の十時を指している。
「透吾……」
名前を呟いた瞬間、心臓が小さく跳ねた。あの目、あの声、あの雰囲気??もしかして、彼は……?
いや、そんなはずはない。だって、あれは十年以上も前の記憶だ。
けれど、出会ったばかりの彼の存在が、まるで再会のように感じられたのも、また事実だった。
僕はそっと、濡れたままの楽譜を開いた。五線譜の途中で止まる旋律。その先に、あの時と同じ音が続いている気がした。
そして??いつか交わした、あの“また会える”という言葉が、静かに胸の奥に響いていた。
シーン4.初めての言葉
駅のホームに響くアナウンスが、雨音と混じり合って遠くに消えていく。僕と透吾は、しばらく無言のままベンチに並んで座っていた。傘を持っていない透吾の肩に、雨粒が静かに落ちているのが見える。
「その曲、どこで習った?」
透吾がもう一度、今度は少しだけ真剣な声で問いかけてきた。僕は楽譜を見つめたまま、どう答えればいいのか迷う。
「……小さい頃から、ずっと頭の中にあったんだ。誰かに教わった記憶はないんだけど、気がついたら、いつもこの旋律が浮かんでて。」
言葉にしてみると、自分でも不思議な気がした。透吾は僕の言葉をじっと聞いている。彼の視線が、楽譜の上をなぞるように動く。
「俺も……いや、僕も、なんだか似てる。どこかで聴いたことがあるはずなのに、思い出せない。……でも、続きが知りたいって、ずっと思ってた。」
透吾の声が、雨音の中でやけに鮮明に響いた。僕は彼の横顔をそっと見つめる。彼の瞳の奥に、僕と同じようなもどかしさが揺れているのが分かった。
「……君も、ピアノを弾くの?」
「うん。ギターも少しやるけど、ピアノの音が一番落ち着くんだ。」
「そうなんだ。」
会話はどこかぎこちないけれど、言葉の一つ一つが心の奥に静かに染み込んでいく気がした。透吾は僕の手元の楽譜をじっと見つめている。
「その楽譜、見せてもらってもいい?」
「うん。」
僕は少し戸惑いながらも、濡れた楽譜を透吾に差し出した。彼はそれをそっと受け取り、指先で五線譜をなぞる。まるで、紙の感触から何かを確かめるように。
「……この部分、なんとなく覚えてる気がする。」
透吾が小さく呟いた。僕は驚いて彼の顔を見上げる。透吾は、楽譜の途中の空白をじっと見つめていた。
「ここから先が、どうしても思い出せないんだよな。」
「僕も、同じ。」
僕の胸が、またざわつく。まるで、ずっと探していた何かに、ようやく手が届きそうな気がした。
「……もし、よかったらさ。今度、一緒に弾いてみない?」
透吾が、少しだけ照れたように笑いながら言った。その笑顔が、やけに眩しく見えた。
「うん……いいよ。」
僕は自然と頷いていた。言葉にするのは苦手だけど、今だけは素直な気持ちを伝えたかった。
「ありがとう。なんか、君となら続きを思い出せそうな気がする。」
透吾の言葉が、雨の音に溶けていく。僕の心臓が、静かに高鳴っていた。初めて会ったはずなのに、どうしようもなく懐かしい。そんな不思議な感覚が、僕の胸の奥で静かに波紋を広げていく。
「……よろしくね、葉月。」
「うん、透吾。」
雨はまだ止まない。だけど、僕の中には小さな光が灯った気がした。透吾となら、きっと旋律の続きを見つけられる。そんな予感が、今は確かにあった。
シーン5.静かな輪郭
その夜、僕はピアノに触れなかった。
代わりに、窓際の机に座ったまま、楽譜とハンカチを並べてじっと見つめていた。
透吾の声が、何度も頭の中で反響する。
「君となら、続きを思い出せそうな気がする」??その言葉は、雨音よりも深く、心の奥に残っていた。
僕は思い出す。
ピアノを始めたのは、小学校に入る少し前だった。特に強い動機があったわけじゃない。
母が昔使っていたというアップライトピアノが家にあって、ある日なんとなく鍵盤を叩いたら、それがとても心地よかった。それだけだった。
以来、音楽は僕にとって“静かで安全な場所”になった。
友達付き合いは得意じゃない。人混みも苦手だし、自分の気持ちを言葉にするのも遅い。
でも、ピアノだけは??旋律だけは??僕の中で、いつでも正直だった。
だけど最近、ふと思う。
僕が“音楽を好き”なんじゃなくて、“音楽しかなかった”んじゃないかって。
旋律をなぞることで、自分の輪郭をなぞる。
それが僕にとっての“生き方”だったのかもしれない。
でも、今日の出会いは違った。
透吾は、僕の旋律を知っていた。いや、それだけじゃない。
あの目を見たとき、僕の中の“沈黙”が揺れた。何かが、壊れそうになった。
「……透吾。」
名前を小さく口にしただけで、胸が少し熱くなる。
まだ何も知らない。出会ったばかり。なのに、どうしてこんなにも“懐かしい”と思えるんだろう。
ふと、指が勝手に動き出す。机の上で、無意識に旋律の断片をなぞっていた。
楽譜を見なくても、手が覚えている??そんな感覚。透吾も同じことを言っていた。
「……もしかして、本当に……?」
途中で思考を止めた。そこから先を考えてしまうと、何かが壊れてしまう気がした。
でも、心の奥では、確かに何かが始まりかけているのを、僕は知っていた。
僕たちをつなぐ旋律には、まだ名前も、終わりもない。
けれどその不確かさが、なぜか今は愛おしかった。フォームの終わり
シーン6.遠ざかる旋律
翌日、学校の音楽室。放課後の静けさが、やけに心地よかった。僕は誰もいないピアノの前に座り、昨日の雨の駅で透吾と交わした言葉を思い出していた。
楽譜をそっと開き、鍵盤に指を置く。旋律の冒頭は、何度も練習したおかげで自然と指が動く。けれど、問題はその先だ。あの空白??どうしても思い出せない部分に差しかかると、僕の手はぴたりと止まってしまう。
「……やっぱり、ここで止まる。」
小さく息を吐いて、もう一度最初から弾き直す。でも、何度やっても同じ場所で指が動かなくなる。頭の中では音が鳴っているはずなのに、いざ弾こうとすると、まるで鍵盤の上に重い蓋が下りたみたいに、音が出てこない。
「どうして……?」
そのとき、背後でドアが軋む音がした。振り返ると、透吾が静かに音楽室に入ってきた。彼は僕の弾く旋律をじっと聞いていたらしく、どこか考え込むような表情をしている。
「……やっぱり、続きを思い出せない?」
透吾がそっと声をかけてきた。僕は苦笑いを浮かべて首を振る。
「うん。何度やっても、ここで止まってしまうんだ。」
透吾は僕の隣に歩み寄り、ピアノの譜面台を覗き込む。しばらく無言で楽譜を見つめていたが、やがて小さく呟いた。
「不思議だな。僕も、頭の中に旋律の断片はあるのに、はっきりした形にはならない。」
「昨日、駅で話したときも、そんな感じだった?」
「うん。……あのとき、君の口ずさんだメロディを聞いて、胸がかすかに疼いた。でも、どうしてなのかは分からない。」
透吾はピアノの蓋にそっと手を置き、静かに目を閉じた。僕もつられて、鍵盤の上に手を重ねる。
「……もしかして、僕たち、以前にも、この旋律をどこかで手繰り寄せた記憶がある気がしたのかな。」
口にしてみて、なんだかどこか懐かしさに触れたような気がした。透吾は少しだけ目を開けて、僕の方を見た。
「……そうかもしれない。なんとなく、そんな気がする。」
音楽室の窓の外では、まだ雨がしとしとと降っている。透吾はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐くと、ゆっくりと立ち上がった。
「……今日はもう行くよ。また、明日。」
「うん。また、あしたここで会おう。」
透吾は静かに音楽室を出ていった。僕はしばらくピアノの前に座ったまま、動けなかった。旋律の続きをもどかしさと、透吾と話すたびに胸の奥がかすかに波立つ感覚。その両方が、僕の中でじわじわと心の奥に広がっていた。
窓の外の雨は、まだ止む気配がない。僕はそっと鍵盤に手を添えた。けれど、それでも、最後の一音には届かなかった。
シーン7.透吾の夢
その夜、僕はなかなか眠れなかった。
布団に入ってからも、葉月の横顔が頭から離れない。
静かな音楽室で、ピアノの旋律が止まったあの瞬間。
あの沈黙の中で、なぜか胸が痛くなった。
「どうして、あの曲を知ってるんだろう……」
自分でも分からない。ただ、“思い出そうとしても、すり抜けていく”??そんな感覚だけが、ずっと付きまとっている。
頭の奥に、誰かの手の感触が残っている気がする。
並んで座って、ピアノの前で肩を寄せていた。鍵盤の上で、二人の指が交わるように動く。
でも、そこにいた“もう一人”の顔は思い出せない。ぼんやりとしていて、光の中に溶けている。
「……葉月、だったのか?」
そう呟いたとき、瞼の裏に浮かぶ残像が、少しだけ鮮明になる。
音楽室の窓。雨の音。濡れた制服。そして、何よりも、優しい目。
そのとき??夢が始まった。
??淡い光の中、僕は小さな音楽室に立っていた。
目の前には、黒いアップライトピアノ。椅子には誰かが座っている。
僕はその背中に近づき、そっと声をかける。
「……待たせた?」
その人はゆっくりと振り向いた。けれど、顔は霞んで見えない。ただ、静かに笑っているのが分かった。
「ようやく、会えたね。」
どこかで聞いたことのある声。懐かしくて、温かくて、胸が締め付けられるような響きだった。
「旋律の続きを、一緒に??」
その言葉の途中で、夢はふっと途切れた。
目を覚ますと、天井がぼんやりとにじんでいた。額に汗がにじみ、胸が少し苦しかった。
「……今の、なんだったんだ。」
夢だったのか、記憶だったのか。
それとも、まだ思い出せていない“過去”の残響だったのか。
けれど確かなことが一つだけあった。
??夢の中の“君”に触れたとき、僕の心は確かに震えた。
そして、それと同じ震えを、今日、葉月と話したときにも感じた。
まるで、何かが“戻ってきた”ような気がした。
僕は布団の中でそっと目を閉じた。
次に目覚めたとき、あの旋律の続きを思い出せる気がした。
シーン8.夢の記憶
夜、ベッドに横たわりながら、僕は天井をぼんやりと見つめていた。窓の外では、まだ雨が静かに降り続いている。ピアノの旋律が頭の中で繰り返し鳴っているのに、どうしてもあの続きを思い出せない。そのもどかしさが、胸の奥にじわじわと広がっていく。
目を閉じると、すぐに夢の世界が訪れた。
??そこは、薄暗い音楽室だった。窓から差し込む淡い光が、ピアノの鍵盤をやさしく照らしている。僕は椅子に座り、目の前の楽譜をじっと見つめていた。手元には、あの未完成の旋律が書かれている。
「……続き、どうだったかな。」
夢の中の僕は、現実と同じように悩んでいた。そのとき、背後から誰かが静かに近づいてくる気配がした。振り返ろうとしても、なぜか体が動かない。
「大丈夫。君なら、きっと弾けるよ。」
優しい声が、すぐ耳元で響いた。けれど、その声の主の顔は、どうしても霞んで見えない。白い光に包まれて、輪郭さえもぼやけている。
「この旋律、君と一緒に完成させたかったんだ。」
その言葉に、僕の胸が強く揺れる。夢の中なのに、涙がこぼれそうになる。誰なのか分からないのに、どうしようもなく懐かしい。心の奥深くに、ずっと残っていた感情が、静かに波紋を広げていく。
「……続きを、教えて。」
僕は必死に声を絞り出す。すると、その人はそっと僕の手に自分の手を重ねてきた。温かくて、どこか切ない感触だった。
「大丈夫。焦らなくていい。」
鍵盤の上で、二人の手が重なる。すると、不思議なことに、旋律の続きを指先が自然に奏で始めた。けれど、ほんの一瞬だけ??すぐに音が途切れてしまう。
「ここから先は、君自身が見つけるんだよ。」
その声が、遠ざかっていく。僕は必死に手を伸ばそうとするけれど、白い光がすべてを包み込んで、世界がふっと消えてしまった。
??目が覚めた。
静かな部屋。雨の音だけが、現実に僕を引き戻す。夢の中で誰かと一緒に旋律を弾いていた感触が、まだ手のひらに残っている気がした。
「……誰だったんだろう。」
胸の奥が、またざわめく。あの声、あの温もり。顔は思い出せないのに、どうしようもなく懐かしい。僕はそっと手を握りしめた。
夢の中で聞いた旋律の続きを、現実でもう一度探したい。そんな思いが、静かに僕の中に芽生えていた。
シーン9.昼休みの断片
翌日の昼休み。
教室の窓際の席で、僕はぼんやりと空を眺めていた。
晴れているのに、なんだか世界がうすぼんやりと見える。
昨夜の夢が、まだ頭の中に残っているせいかもしれない。誰かとピアノを弾いていた感触??あの温もりだけが、指先に残っていた。
「葉月ー、購買、行かない?」
隣の席の西村が声をかけてきたけれど、僕は首を横に振った。
「うん……今日はいいや。」
「またかよー。最近ぼーっとしてること多くない?」
西村があきれたように笑いながら行ってしまい、教室には静けさが戻った。
僕はカバンの中から、折れ目のついた楽譜をそっと取り出す。音符の並びが、ひとつひとつ語りかけてくるような気がする。
??そのとき、教室の入り口に、見覚えのある影が現れた。
「……山本くん。」
振り返ると、透吾が教室の前で立ち止まっていた。
目が合って、少しだけお互い気まずそうに笑う。
「えっと……」
透吾は手に紙袋を提げていた。中から、パンの袋が少し見えている。
「購買、すごい並んでて……二つ買っちゃったから、ひとつ、いる?」
「……あ、ありがとう。」
僕は素直にそれを受け取った。クリームパンだった。ほんのり温かい。
静かに席に座る透吾と向かい合って、机を挟んでパンをかじる。
会話はないけれど、不思議と居心地は悪くなかった。
「……昨日、ありがとうね。」
僕がぽつりと呟くと、透吾は少し驚いたような顔で笑った。
「ううん。こっちこそ。」
それだけのやりとりで、昼休みの時間は静かに過ぎていった。
チャイムが鳴ると、透吾は席を立ちながら、ふと僕の楽譜に視線を落とした。
「また、あとで音楽室、行く?」
僕は自然と頷いていた。
「うん。……待ってる。」
透吾は頬を緩めて、小さくうなずいた。
午後の授業の始まりを知らせるチャイムが鳴る中で、
僕の心の中には、昨日より少しだけ柔らかな光が差し込んでいた。
シーン10.音楽室の再会
放課後の音楽室は、いつもより静かだった。窓の外にはまだ雨の名残が残っていて、ガラス越しに淡い光が差し込んでいる。僕はピアノの前に座り、夢の中で感じた温もりを思い出しながら、そっと鍵盤に指を置いた。
「……続き、思い出せるかな。」
小さく呟いて、楽譜の冒頭から旋律を弾き始める。音が重なり合い、部屋の空気が少しずつ色づいていく。けれど、やはり途中で指が止まった。夢の中で誰かと重ねた手の感触が、まだ指先に残っている気がする。
そのとき、背後から静かな足音が近づいてきた。振り返ると、透吾がドアの前に立っていた。彼は僕の演奏をじっと聞いていたらしい。目が合うと、少しだけ照れくさそうに笑った。
「ごめん、勝手に入っちゃって。」
「ううん、大丈夫。」
僕は椅子の横にスペースを空ける。透吾はためらいながらも僕の隣に座った。ピアノの前で肩を並べるのは、なんだか不思議な気分だった。
「さっきの曲……昨日の駅で聴いたやつだよね?」
「うん。やっぱり、続きを思い出せなくて。」
僕がそう言うと、透吾はしばらく黙って楽譜を見つめていた。やがて、彼は小さく息を吸い込むと、ぽつりと呟いた。
「……なんとなく、続きを歌えそうな気がする。」
「え?」
驚いて透吾の方を見ると、彼は目を閉じて、静かに口ずさみ始めた。僕が弾いた旋律の先に、透吾の声が重なっていく。まるで、夢の中で誰かが続きを弾いてくれたときのように??。
「……今の、どうして?」
僕の問いに、透吾は困ったように笑った。
「分からない。気づいたら、口から出てた。……でも、なんだか懐かしい気がするんだ。」
彼の声には、戸惑いと確信が混じっていた。僕の胸も、同じようにざわついている。
「もしかして、透吾もこの旋律を??」
「……夢で、聴いたことがある気がする。」
透吾はそう言って、僕の方を見た。その瞳の奥に、僕と同じ不安と期待が揺れているのが分かった。
「……僕も、同じ。」
言葉にした瞬間、僕の中で何かが静かに繋がった気がした。夢の中で感じた温もりと、今ここにいる透吾の存在が、ゆっくりと重なっていく。
「ねえ、葉月。今度、二人でこの曲の続きを作ってみない?」
透吾の提案に、僕は自然と頷いていた。もう一度、彼と旋律を探したい。そんな気持ちが、胸の奥で静かに膨らんでいく。
雨上がりの音楽室で、僕たちは新しい約束を交わした。未完の旋律の続きを、二人で見つけていくために??。
シーン11.はじめてのすれ違い
放課後の音楽室。
陽が傾き、窓から差し込む光がピアノの蓋に長い影を落としていた。
透吾は椅子に座り、楽譜の上をじっと見つめていた。
けれど、指は動かない。音も生まれない。
「……ここで、次が出てこないんだ。」
彼がそう呟いたとき、僕は何か返そうとして言葉に詰まった。
たしかに、その小節のあとが空白だ。旋律は、そこで途切れている。
けれど、僕の頭の中では??その先の音が、もう鳴っていた。
「ここ……こうじゃない、かな?」
僕はそっと鍵盤に触れ、数音を叩く。
透吾が目を細めて聴いているのが分かった。
音が止むと、彼は首を少しかしげた。
「それ……なんか、ちがう。」
「ちがう……?」
僕は思わず言い返しそうになった。
でも透吾の表情は、怒っているわけじゃなかった。
ただ、戸惑っているような、探しているような……そんな顔だった。
「……ごめん。」
「いや、俺のほうこそ。なんか……うまく言えない。」
そう言って、透吾は立ち上がり、窓のほうへ歩いていった。
沈黙が落ちた。
ピアノだけが、光を受けて静かに佇んでいる。
僕は鍵盤を見つめながら、自分の指先を見た。
??あの旋律は、本当に“ふたりの記憶”なのか?
それとも、僕だけのものだったのか?
透吾と弾いていたはずの音。けれど、それは僕が“勝手に”思っていただけなのかもしれない。
「……わかんないね。」
僕が呟くと、透吾は窓辺からこちらを見た。
「うん。……でも、たぶん、ちがう“わかんない”なんだと思う。」
「……ちがう?」
「うまく言えないけど……俺は、思い出せないことが怖くて。
葉月は、思い出したいことが怖いのかなって……そんなふうに見える。」
僕は何も返せなかった。
返せるような言葉が、見つからなかった。
ただ、胸の奥で、何かが少しずつずれていく音がした。
この日、僕たちは旋律の続きを見つけることができなかった。
それでも、音を出すことをやめなかったのは??
きっと、もう一度“重なれる”と、どこかで信じていたからだ。
シーン12.不確かな記憶
音楽室の空気が、ほんの少しだけ張り詰めている気がした。透吾は僕の隣で、まだ楽譜をじっと見つめている。僕はピアノの蓋に手を置いたまま、さっき透吾が口ずさんだ旋律の余韻を感じていた。
「……どうして、知ってるんだろう。」
透吾がぽつりと呟いた。その声は、僕の心の奥に静かに染み込んでくる。僕自身も、同じ疑問を抱えていた。なぜ、透吾はあの続きを知っていたのか。なぜ、僕たちは夢の中で同じ旋律を聴いていたのか。
「透吾、さっきの……本当に、覚えてたの?」
僕が恐る恐る尋ねると、透吾は眉をひそめて首を振った。
「覚えてるっていうより……体が勝手に動いた、みたいな感じ。頭では分からないのに、口が自然に動いてた。」
「……夢の中で、誰かと一緒に弾いてた気がするんだ。でも、その人の顔も名前も思い出せなくて。」
僕がそう言うと、透吾は驚いたように僕を見た。
「……僕も、同じ。夢の中で、誰かと一緒に音楽を作ってた。でも、その人が誰なのか、どうしても分からない。」
音楽室の窓から差し込む光が、二人の間に淡い影を落とす。僕たちはしばらく黙ったまま、互いの存在を確かめるように隣り合って座っていた。
「……もしかして、前世とか、そういうのかな。」
透吾が冗談めかして言う。でも、その言葉の奥に、本気で戸惑っている気配があった。
「分からない。でも、こうしてまた会えたのは、きっと偶然じゃないよね。」
僕はそう呟いて、そっと透吾の横顔を見つめた。彼の目の奥にも、僕と同じような不安と期待が揺れている。
「この曲の続きを見つけたら、何か分かるのかな。」
「……分かる気がする。」
透吾の言葉に、僕は小さく頷いた。未完成の旋律と、断片的な記憶。それらが少しずつ重なっていく感覚が、僕の胸の奥で静かに広がっていく。
「また、一緒に探そう。」
「うん、絶対。」
その約束が、音楽室の静寂の中で小さく響いた。僕たちはまだ何も思い出せていない。でも、きっとこの先に答えがある。そんな確信だけが、今は僕の支えだった。
シーン13.手探りの距離
音楽室を出たあと、僕たちは並んで廊下を歩いていた。
夕方の光が、窓から斜めに差し込んでくる。葉月はいつものように静かで、僕は何を話せばいいのか分からないままだった。
??旋律の続きは、確かに胸の奥にある。
けれど、いざ弾こうとすると、なぜか指が止まってしまう。
さっきまでの音楽室でのやりとりが、何度も頭をよぎる。
夢の中と現実が少しずつ混ざってきている気がして、息が苦しくなる瞬間もある。
「……透吾。」
ふいに名前を呼ばれて、僕は肩をすくめた。葉月がこちらを見ている。
その瞳の奥には、僕と同じような戸惑いが浮かんでいた。
「さっき……手が、震えてた。」
「えっ……あ、うん……ちょっと、緊張してただけ。」
咄嗟に笑ってごまかす。でも、嘘じゃない。
葉月の隣にいると、心の中にずっと閉じ込めていた“何か”が、静かにざわめき出す。
旋律も、そのざわめきも、まだ僕には正体が分からない。
「……無理、してない?」
葉月の声は、ひどく静かで、でもまっすぐだった。
僕は答えに詰まり、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
「……してる、かも。」
自分でも驚くほど素直な言葉だった。
でも、その瞬間、葉月がふっと微笑んだ気がして、心が少し軽くなる。
「じゃあ、少しずつでいいよ。」
そう言って、彼はまた前を向いて歩き出す。
その背中を見つめながら、僕もそっと歩幅を合わせた。
まだ、全部は言えない。
まだ、全部は思い出せない。
でも、こうして少しずつ言葉を交わせるなら??
いつか、心の奥にしまってきた旋律のすべても、きっと分かち合える気がした。
シーン14.沈黙の中の確認
音楽室の静けさが、まるで世界から音を消してしまったみたいだった。透吾と僕は、ピアノの前に並んで座ったまま、互いに言葉を失っていた。窓の外では、雨が細く長く降り続いている。
僕は楽譜をそっと指でなぞる。透吾が口ずさんだ旋律の断片が、まだ耳の奥に残っている。けれど、どうしてもその先が思い出せない。まるで、記憶の扉の前で立ち尽くしているような感覚だった。
「……なんだか、不思議だね。」
僕が小さく呟くと、透吾はうなずいた。
「うん。夢の中のことなのに、現実の君とこうして旋律を探してるのが、変な感じがする。」
透吾の声は、どこか遠くを見つめているようだった。僕はピアノの蓋に手を置いたまま、透吾の横顔をそっと見つめる。
「でも、こうして一緒にいると……何か思い出せそうな気がする。」
「僕も。」
沈黙が、二人の間に流れる。けれど、その沈黙は決して重苦しいものではなかった。むしろ、互いの存在を確かめ合うための、やさしい時間のように感じられた。
「……もし、この曲の続きを見つけたら、何か分かるのかな。」
透吾がぽつりと呟く。僕は少しだけ考えてから、静かに答えた。
「分かるかもしれないし、分からないかもしれない。でも、僕は透吾と一緒に探したい。」
透吾は驚いたように僕を見た。けれど、すぐに柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。僕も、葉月となら……きっと見つけられる気がする。」
また、静かな時間が流れる。僕たちはそれぞれの思いを胸に、未完の旋律の続きを探し続けることを、言葉ではなく沈黙で確認し合った。
窓の外の雨音が、やけに優しく響いていた。僕はそっと鍵盤に手を置き、透吾の隣で、もう一度旋律の断片を探し始めた。
シーン15.ひとりの昼休み
昼休みが苦手だった。
チャイムが鳴ると、教室が一気にざわめきに満ちる。
椅子を引く音、弁当箱のフタが開く音、笑い声、走り回る足音。
そのすべてが自分とは関係のない世界で起きているようで、いつもどこか置いてけぼりを食らった気持ちになった。
僕は教科書を閉じ、筆箱を揃えるふりをしながら、静かに席を立つ。
誰かに声をかけられることもないし、誰かを呼ぶこともなかった。
たまに目が合っても、すぐに視線をそらされた。
僕自身もそれに慣れていたし、そうであることにさえ、もう何も思わなかった。
図書室へ向かう途中、廊下にはグループで固まる生徒たちの姿があちこちにあった。
談笑する声。スマホの画面を囲む数人。
誰も僕に気づかない。
まるで、僕だけが薄い膜に包まれて、別の世界にいるみたいだった。
図書室の扉を開けると、やっとほっとした。
音がすっと遠ざかる。
空調の音と、ページをめくる乾いた音だけが、ここでは許される。
いつもの窓際の席。
好きだったのは、日が当たりすぎない曇りガラスのそば。
本を読むでもなく、何を考えるでもなく、ただ、座っているだけ。
誰かと一緒にいるのが苦手だったわけじゃない。
でも、誰かに話しかけられることをずっと避けていたのはたしかだった。
期待されるのが怖かった。関係を築くことが面倒だった。
それよりも、静かな場所でひとり、何も起きない時間に身を沈めているほうが、よほど楽だった。
僕には、夢がなかった。
目標もなかった。
将来のことを訊かれても、何となく「音楽」と言えば、みんな納得してくれたから、それを口にしていただけ。
けれど、音楽に救われたのはたしかだった。
小さな頃、家にあった電子ピアノに触れたときの感触。
指先から伝わってくる音の響き。
誰とも話さなくても、それだけで自分が“ここにいる”と感じられる瞬間。
旋律は、言葉よりもやさしかった。
音は、誰かに選ばれなくてもそこにいてくれた。
だから僕は、誰かと話すより、鍵盤と向き合うことを選び続けてきた。
けれど??
その音さえも、いつからか、少しずつ遠くなっていった。
最近は、ピアノを弾く回数も減っていた。
学校の音楽室に行くことも、あまりなくなった。
音楽は、“自分を保つための手段”でありすぎて、
楽しむという感覚からは遠ざかっていたのかもしれない。
だからこそ、あの日。
透吾がふいに現れて、僕のピアノの音に反応したことが、不思議でならなかった。
それはたった一言だった。
??「その旋律、知ってる気がする。」
誰にも届かないと思っていた音が、誰かに届いた。
それだけで、世界の厚みが少しだけ変わった気がした。
いま思えば、あれはただの昼休みの出来事だった。
それでも、僕にとっては確かな“はじまり”だったのかもしれない。
その日はまだ、透吾の名前も、声のトーンも、何ひとつ覚えていなかった。
でも、彼の“まなざし”だけは、なぜか胸に残っていた。
図書室の時計が、昼休みの終わりを告げるチャイムと同時に鳴った。
僕は立ち上がり、扉の外の騒がしい空気へと戻っていく。
そのとき、なぜかふと??
“音の記憶”という言葉が、頭に浮かんだ。
旋律ではなく、記憶として。
ひとりきりの昼休みにも、音はあったのだ。
シーン16.遠ざかる気配
放課後の音楽室に、夕暮れの光が差し込んでいた。ピアノの蓋を閉じたまま、僕と透吾はしばらく無言で座っていた。窓の外の雨は、いつの間にか小降りになっている。
透吾は楽譜を指でそっとなぞりながら、ふと僕の方を見つめた。その視線が、どこか遠くを見ているようで、僕は思わず息を呑む。
「この曲、前にも……」
透吾がぽつりと呟いた。けれど、その先の言葉は続かなかった。彼は何かを思い出しかけているようで、でも決定的なところで言葉にできない。もどかしさが、透吾の表情に滲んでいた。
「……どうしたの?」
僕がそっと尋ねると、透吾は首を振った。
「ううん、なんでもない。ただ……すごく懐かしい気がして。」
その言葉に、僕の胸も静かにざわめく。僕たちは同じ旋律を、同じようにどこかで知っている。けれど、その理由も、きっかけも、どうしても思い出せない。
「ねえ、葉月。もしさ??」
透吾が言いかけて、また口をつぐむ。何かを言おうとして、でも言葉にならない。僕はその沈黙の意味を考えながら、そっと透吾の横顔を見つめた。
「……やっぱり、思い出せないんだ。」
透吾は小さく笑った。その笑顔には、少しだけ寂しさが混じっている。僕も同じ気持ちだった。思い出せそうで、思い出せない。近づいたと思えば、また遠ざかっていく。
「でも……」
僕が言葉を探していると、透吾がふいに立ち上がった。
「今日は、もう帰るね。また明日、一緒に探そう。」
「うん。また明日。」
透吾は静かに音楽室を出ていった。残された僕は、しばらくピアノの前に座ったまま、透吾の残した温もりを感じていた。
窓の外の雨は、すっかり止んでいた。でも、僕の胸の中には、まだ遠ざかる気配が静かに残っていた。
旋律の続きを探す旅は、まだ始まったばかりだ。
シーン17.教室の午後
午後の授業が終わって、教室がざわついていた。
席を立って廊下に出る生徒たちの足音や、誰かが窓を開ける音。遠くから聞こえる笑い声。
僕はそのすべてを遠くに感じながら、教室の隅の席にひとり座っていた。
机の上には、折りたたんだままの楽譜が一枚。
何度も読み返してしわだらけになったその紙に、僕はただ指を置いていた。
「山本くん、今日も部活、音楽室?」
声をかけてきたのは、クラス委員の小川さんだった。
気遣い屋で、誰にでも平等に接する彼女は、たまにこうして声をかけてくれる。
「……うん。」
「そっか。……あの転校生くんと、仲良さそうだね。」
透吾のことだ。僕は少し戸惑って、言葉を探す。
「……仲がいい、っていうのとは……ちょっと違うかも。」
「でも、楽しそうに見えたよ? 昨日、廊下でふたりで笑ってたの、見ちゃった。」
僕は思わず目をそらした。
楽しそうに、なんて??自分ではよく分からなかった。ただ、あの瞬間、少しだけ胸があたたかかったのは事実だ。
「……あんまり、誰かと一緒にいるの、得意じゃないから。」
「そっか。でも、そういうの、無理に変えなくてもいいと思うよ。」
小川さんはやわらかく笑った。
「自分で選んでるなら、それはそれで、ちゃんと意味のあることだし。」
言葉が胸に残った。“選んでる”??僕はこの静かな孤独を、選んできたんだろうか。
「でもね。」
彼女は続けた。
「時々、その“選んだもの”の外に、思わぬ景色があるかもしれないよ。……気づかないうちに、誰かがドアを開けてくれること、あるから。」
「……それって、透吾、のこと?」
彼女は目を丸くして、でもすぐにふふっと笑った。
「それは葉月くんが決めることだよ。」
そう言って、彼女は「またね」と言いながら、友達のもとへ戻っていった。
教室にひとり残された僕は、窓の外を見つめる。
遠くで雲が、静かに形を変えていた。
楽譜の紙をそっと鞄にしまって、僕は立ち上がる。
静かな孤独を守ってきた僕が、いま少しだけその外側へ歩き出そうとしている??そんな予感だけが、心の中に残っていた。
シーン18.旋律の断片
昼休み、僕は図書室の奥で静かに楽譜をめくっていた。音楽室で透吾と過ごした時間が、頭の中で何度もリフレインしている。未完成の旋律、その続きを探す手がかりを求めて、古い音楽書の山を前に、僕はページをめくり続けた。
「……やっぱり、どこにも載ってないな。」
小さく呟いたとき、隣の棚から誰かが本を取る気配がした。顔を上げると、そこには透吾がいた。彼もまた、分厚い楽譜集を抱えている。
「葉月、ここにいたんだ。」
「うん。何か、手がかりになるものがないかと思って。」
透吾は僕の隣に腰を下ろし、持ってきた楽譜を机に広げた。二人で黙々とページをめくる。静かな図書室の空気に、紙をめくる音だけが響いていた。
「……これ、見て。」
透吾が一冊の古い楽譜を指さす。そこには、どこか見覚えのある旋律の断片が書かれていた。僕の胸が、一瞬だけ強く鳴る。
「このフレーズ……僕たちが探してる曲に、似てる。」
「だよな。俺もそう思った。」
透吾の声が、少しだけ弾んでいる。僕はその楽譜のページをじっと見つめた。五線譜の上に並ぶ音符が、まるで過去の記憶を呼び起こそうとしているみたいだった。
「……この先、どうなってるんだろう。」
僕が呟くと、透吾も同じように首を傾げる。二人で旋律の続きを指でなぞりながら、遠い記憶の断片を探していた。
「なんだか、思い出せそうで思い出せないな。」
透吾の言葉に、僕は小さく頷いた。旋律の断片が、僕たちの間に静かに浮かび上がる。その続きを知りたい。今はただ、その思いだけが胸の奥で強く響いていた。
図書室の窓から差し込む光の中で、僕たちは新しいヒントを手に入れた気がした。未完の旋律の断片が、少しずつ形になっていく??そんな予感が、静かに広がっていく。
シーン19.未完の楽譜
図書室の奥、古い書庫の一角に、埃をかぶった楽譜集が積まれていた。
紙は黄ばんでいて、端はめくるたびにパリパリと乾いた音を立てる。
その中の一冊。透吾が取り出したのは、題も署名もない、無地の楽譜帳だった。
「これ……誰の?」
僕が問いかけると、透吾は首をかしげたままページをめくった。
そこには、不思議な旋律の断片が書かれていた。
五線譜の上に音符が並んでいる。けれど、それは途中で唐突に終わっていた。
音の流れがぶつ切りになっていて、続きを書こうとした形跡がありながらも、筆致は、途中でぴたりと止まっていた。
「……未完、だね。」
透吾がぽつりとつぶやいた。
僕も無言でそのページを見つめる。
不思議だった。
旋律自体は平易で、耳なじみのある音の流れだった。
でもその“途中で終わった感覚”が、どうしようもなく気になった。
「なんだろう、この感じ……」
言葉にしようとしてもうまく出てこなかった。
記憶の奥に触れるような、曖昧で、それでも確かな“覚えの感触”。
それは懐かしさというより、もしかすると“置いてきた感覚”に近かったのかもしれない。
透吾が手を止めた。
ページの間に、何か小さな紙片が挟まっていた。
破れかけた五線譜の切れ端。その隅には、たった三音だけが鉛筆で書かれていた。
「……これ、どこかで……」
透吾が目を細めてつぶやいた。
僕もその三音を目で追いながら、無意識に指先を動かしていた。
ぽん、ぽん、ぽん??
頭の中で、あの音が鳴る。
それは、数日前に音楽室でふたりで出した旋律の“始まり”に、たしかに似ていた。
「これ、ほんとに偶然かな?」
透吾の問いに、僕はすぐに答えられなかった。
偶然か否か、確かめようもない。
でも、偶然で済ませてしまうには、胸の内が静かに波打った。
「……もしかしたら、誰かの記憶を、僕たちが拾ってるのかもしれない。」
自分で言ってから、なんて曖昧な表現なんだろうと思った。
けれど、透吾は真剣な顔でうなずいた。
「その“誰か”が、俺たち自身だったとしたら?」
僕は透吾の顔を見た。
彼の目は、僕と同じものを見ていた。
記憶でも、知識でもなく、“感覚”で覚えている旋律。
音楽が記憶と結びついているとすれば??
この楽譜の断片は、まさにその鍵のひとつだった。
ふたりでページをめくる。
次のページには、さらに別の旋律が。だが、それも未完だった。
そしてその次も、また。どれも中途で終わっている。
「……最後まで書かれてるもの、ひとつもないんだな。」
透吾の言葉に、僕は静かにうなずいた。
「でも……逆に考えれば、“続きは僕たちが書く”ってことかも。」
ふたりの間に沈黙が落ちた。
でも、それは重さではなく、何かを受け取ったあとの余韻のようだった。
透吾が最後にもう一度、冒頭のページに戻った。
その旋律の最初の数音を、ゆっくりと指でなぞる。
「この音……たぶん、ずっと前から俺の中にあった気がする。」
「うん。僕も。」
この未完の楽譜は、単なる古い資料なんかじゃなかった。
ここには、僕たち自身が“思い出せなかった何か”が書かれている。
書きかけの旋律。空白の五線譜。消えかけた鉛筆の跡。
そのすべてが、どこかで自分たちの過去とつながっている気がした。
「続きを、探しにいこう。」
透吾の声に、僕は頷いた。
ふたりで立ち上がる。
未完の旋律は、いま始まったばかりだった。
シーン20.他者という鏡
昼休み。
教室の空気はざわついていて、僕は自分の席に座ったまま窓の外を見ていた。
外では誰かがサッカーボールを蹴っていて、笑い声が風に乗って教室まで届いてくる。
そんな騒がしさから少し距離を置いて、ひとりで過ごすのが、僕の日常だった。
……ずっと、そうだったはずなのに。
「ねえ、葉月くん。」
不意にかけられた声に、少し驚く。
振り向くと、小川さんが紙パックの紅茶を片手に立っていた。
「最近、よく透吾くんと一緒にいるね。」
その言葉に、僕は少し戸惑って言葉を探す。
「……そう、かな。」
「そう見えるよ。なんか、雰囲気変わったもん。」
「雰囲気……?」
「前より、ちょっとだけ柔らかくなった感じ。」
小川さんの言葉に、僕は思わず視線を落とした。
そんなふうに見えていたなんて、自分ではまったく気づかなかった。
「……前は、誰とも関わらない感じだったけど、今はちがう。
透吾くんといるときの葉月くん、ちょっと楽しそうに見えるよ。」
「……楽しそう、なんて、自分じゃよくわからない。」
「うん、たぶんそうだと思った。でも、変わってるよ。ちゃんと。」
小川さんの声は、責めるようでも、問い詰めるようでもなく、ただ、やさしかった。
そのやさしさが、なぜか胸に沁みた。
ふと、透吾の顔が浮かぶ。
出会ってから、まだそんなに時間が経っていないのに、いつのまにか心の中に大きな存在として残っていた。
旋律を探す過程で、彼の手の動きや、息づかい、指先の迷い??そのすべてに僕は意識を向けるようになっていた。
音楽のことだけを考えていたはずなのに、気づけば彼のことばかり考えていた。
「……僕、変わったのかな。」
ぽつりと呟いたその言葉に、小川さんは笑った。
「うん。いい方向に、ね。」
彼女の笑顔が、午後の光に溶けていく。
そのやわらかさの中で、僕はようやく少しだけ、自分の変化を受け入れられた気がした。
教室の窓の外では、まだ誰かの笑い声が響いている。
その中に、これまでにはなかった音が、たしかに混ざっていた。
シーン21.言葉の重なり
図書室の窓から差し込む午後の日差しが、机の上の古い楽譜と紙切れをやさしく照らしていた。僕と透吾は、肩を寄せ合うようにしてそのメモを見つめていた。細い筆跡で綴られた言葉は、どこか詩のようで、旋律の続きを誘うような響きを持っている。
「……これ、前に書いたことがある気がする。」
透吾がぽつりと呟いた。その声は、図書室の静けさの中でやけに大きく聞こえた。僕は驚いて透吾の顔を見つめる。
「え? それって……どういうこと?」
「うまく説明できないんだけど……この言葉、手が覚えてる気がするんだ。書いたときの感触まで、なんとなく。」
透吾はメモをそっと指先でなぞる。彼の表情は真剣そのもので、どこか遠い記憶を必死にたぐり寄せようとしているようだった。
「僕も、読んだことがある気がする。でも、どこでなのか思い出せない。」
僕がそう言うと、透吾は小さく息を吐いた。
「もしかして、前にもこの曲を一緒に作ろうとしてたのかな……なんて、変なこと考えちゃうよな。」
「でも、そう思うのは僕だけじゃないみたいだね。」
僕は苦笑しながらも、胸の奥が静かにざわつくのを感じていた。透吾の言葉が、僕の中の何かを確かに揺さぶっている。
「このメモの言葉、旋律に乗せてみたらどうなるんだろう。」
透吾がそう言って、紙切れをそっと僕の前に差し出す。僕はピアノの鍵盤を思い浮かべながら、メモの言葉をゆっくりと口ずさんでみた。
「……なんとなく、音が浮かぶ気がする。」
「だよな。俺もだ。」
僕たちは顔を見合わせて、思わず小さく笑い合った。言葉と旋律が、少しずつ重なり合っていく。まるで、過去の記憶が今の僕たちを導いているみたいだった。
「この続きを、一緒に探そう。」
透吾の言葉に、僕は力強くうなずいた。未完の旋律と、重なり合う言葉。そのすべてが、僕たちの新しい約束のように思えた。
シーン22.夢の輪郭
白い光のなかに、誰かがいた。
背中を向けてピアノに向かうその人の手が、なめらかに鍵盤の上をすべっていく。
音はない。けれど確かに、その旋律は耳の奥に響いていた。
??また会える。
その言葉と同時に、夢がふっと途切れた。
目を覚ますと、天井のシミがじっとこちらを見下ろしていた。
呼吸が浅くて、胸の奥がざわざわしている。昨夜の夢の続きだ。何度も繰り返し見る、あの場所、あの光景。
でも、今朝は違った。
夢のなかの“誰か”の輪郭が、はっきりとし始めていた。
??葉月、だった。
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
夢が、ただの夢ではなく、過去の記憶なのだと告げているようで。
「……記憶、なのか?」
そう問いかけても、答えはない。けれど、葉月と向き合うたび、胸のなかの旋律が震える。あの懐かしさ。あの安心感。
初めて会ったはずなのに、ずっと知っていた気がする。言葉にすれば簡単だけれど、それがどれほど異常で、切実な感覚かを、うまく伝えることはできない。
僕は枕元に置いていた楽譜を手に取る。
その旋律の途中に、あの夢の音がふと重なることがある。
まるで、僕と葉月がかつて一緒に弾いた曲のように??
学校に向かう電車の窓に、ぼんやりと自分の顔が映っている。
その輪郭が、夢で見た“もう一人の自分”と重なって、僕は小さく息をのんだ。
夢と現実の境界が、少しずつ溶け合っていく。
それはとても怖いことだけれど、不思議と心は、どこかでそれを望んでいる。
夢の続きを知りたい。
あの音の終わりまで、たどり着きたい。
そのためには??葉月と、もう一度向き合わなければならない。
電車のアナウンスが流れる。僕は立ち上がり、扉の前に向かった。
遠くで、静かに始まりかけている旋律が、今日もまた僕を呼んでいた。
シーン23.既視感と違和感
図書室の静寂の中、僕たちは古い楽譜とメモを前に、しばらく無言で座っていた。透吾が指先で紙切れをなぞり、僕はそれを見つめる。どこかで見たことがあるはずの言葉、そして旋律。けれど、どうしてもはっきりとした記憶にはならない。
「……この言葉、やっぱり懐かしい。」
僕がぽつりと呟くと、透吾も小さくうなずいた。
「うん。でも、全部が思い出せるわけじゃない。頭の中に霞がかかったみたいで、もどかしいよな。」
透吾の声には、戸惑いと焦りが入り混じっていた。僕も同じ気持ちだった。旋律の断片は確かに心の奥にあるのに、そこから先がどうしても掴めない。
「……ねえ、透吾。もし、この曲の続きを思い出したら、僕たちの記憶も戻るのかな。」
「分からない。でも、そうだったらいいなって思う。」
透吾はメモをじっと見つめたまま、静かに呟いた。その横顔には、どこか切なさが漂っている。
「この旋律、誰かと一緒に作った気がする。でも、その“誰か”が誰なのか、どうしても思い出せない。」
僕の言葉に、透吾はふっと微笑んだ。
「俺もだよ。……もしかしたら、前世とか、そういうのかもな。」
冗談めかしたその言葉に、僕は思わず笑ってしまう。でも、心のどこかで本当にそんな気がしてしまうから不思議だった。
「でも、今は僕たちがここにいる。だから、続きを探そう。」
「うん。」
僕たちは楽譜とメモをもう一度見つめ直した。既視感と違和感が交錯する中、少しずつだけど、旋律の輪郭がはっきりしていく気がした。
「一緒に探せてよかった。」
透吾の言葉に、僕は自然と微笑んだ。たとえ記憶が不確かでも、今ここにあるこの時間だけは確かなものだと、そう思えた。
シーン24.踏切の音
通学路の途中、駅に続く細道に小さな踏切がある。
遮断機が下りるたび、乾いた金属音があたりに響き、赤い警告灯が点滅する。
僕はその前で足を止め、流れる電車をただ眺めた。
ゴォ??という音。風。わずかに揺れる制服の裾。
別に特別な景色じゃない。
けれど、その日だけは、踏切の音が、胸の奥をざわつかせた。
??この音、知ってる気がする。
そう思ったのは、記憶じゃなく、感覚だった。
音そのものじゃなく、その音を聴いた“ときの空気”を思い出すような。
目を閉じると、誰かの手が、少しだけ指先に触れた気がした。
“旋律”が、浮かんだ。
不完全で、どこか曖昧で、それでも確かに“僕の中”にある旋律。
「……まただ。」
小さく、誰にも聞こえないように呟いた。
最近、こうして不意に音の記憶が襲ってくることがある。
夢でもない。完全な思い出でもない。
ただ、音だけが先に心に染み込んでくる。
通り過ぎる電車を見ながら、思い出すのは、あの午後の音楽室だった。
葉月の指が触れた鍵盤。僕の知らない旋律。
それなのに、懐かしくて、切なくて、手放したくない音。
「前の俺なら、絶対こんなふうに立ち止まらなかったよな……」
誰に言うでもなく、そうつぶやいて、苦笑する。
日常の中で、こんなにも“音”に敏感になった自分に、少し驚いていた。
以前の僕は、過去の記憶に意味を持たせることに消極的だった。
忘れてしまったものは、それまで。
思い出せないなら、無理に向き合う必要はないと思っていた。
けれど今は、違う。
忘れていることの中に、どうしても手放したくないものがある気がしてならない。
その気配を、葉月の旋律が教えてくれた。
音を通じて、過去の自分が、いまの自分に話しかけてくる気がする。
言葉はなくても、旋律だけで。
遮断機が上がり、警告音が止まった。
踏切を渡りながら、僕はふと葉月のことを思い浮かべた。
彼は今、どんな音を聴いているんだろう。
僕の知らない記憶の続きを、どこかで思い出しているんだろうか。
歩きながら、無意識のうちにポケットの中で指を動かしていた。
鍵盤も何もない空間のなかで、旋律の断片をなぞるように。
??音がある。記憶がある。
それだけで、今日という一日が、少しだけ違うものに思えた。
シーン25.音楽室の空気
放課後、音楽室の扉を開けると、窓から差し込む夕陽が床に長い影を落としていた。僕はピアノの前に座り、透吾と図書室で見つけたメモを楽譜の上にそっと置いた。透吾もすぐにやってきて、僕の隣に腰を下ろす。
「……やっぱり、ここが落ち着くな。」
透吾が静かに呟く。僕も同じ気持ちだった。ピアノの前に座ると、不思議と心が静かになる。けれど今日は、胸の奥がそわそわして落ち着かない。
「さっきのメモ、旋律に合わせてみようか。」
僕がそう言うと、透吾はうなずき、メモを見つめながら口ずさみ始めた。僕はピアノの鍵盤に指を置き、透吾の声に合わせて旋律を探る。でも、やっぱり途中で手が止まってしまう。
「……やっぱり、続きが弾けない。」
僕は小さく息を吐いた。指先が震えているのが分かる。なぜかこの先の音が、どうしても思い出せない。頭の中では確かに響いているはずなのに、指が動かない。
「葉月……大丈夫?」
透吾がそっと僕の肩に手を置く。その温もりが、少しだけ心を落ち着かせてくれる。
「うん……ごめん。なんだか、すごくもどかしい。」
僕は苦笑いしながら、鍵盤を見つめた。音楽室の空気が、静かに僕たちを包み込む。外の世界と切り離されたみたいに、ここだけが特別な場所になっていた。
「無理しなくていいよ。ゆっくりでいい。」
透吾の優しい声に、僕は小さくうなずく。焦る必要はない。けれど、どうしてもこの旋律の続きを見つけたい。そんな気持ちが、胸の奥で静かに燃えていた。
「……ありがとう、透吾。」
僕はもう一度、鍵盤に手を置いた。音楽室の静けさの中で、未完の旋律が小さく揺れていた。
シーン26.ゆらぐ軸
夜の部屋に、ピアノの音はなかった。
鍵盤には蓋がされ、楽譜は閉じられたまま机の上に置かれている。
代わりに、僕は窓辺に座り、ぼんやりと外を眺めていた。
文化祭の準備は佳境に入っていて、校内の空気もざわざわしている。
みんながそれぞれの“役割”を持って動き始める中、僕は、何に向かって進んでいるのか分からなくなっていた。
「……透吾。」
名前を呟くだけで、胸の奥が微かに揺れる。
ここ最近、ずっと一緒にいた。旋律を探すため。思い出を取り戻すため。
けれど気づけば、僕は“旋律”よりも、“透吾”を探していたのかもしれない。
??僕は、音楽が好きだった。
孤独だった僕を救ってくれたのは、音だった。
ひとりでいても、鍵盤に触れていれば世界とつながれる気がした。
それだけが、僕の“存在の軸”だった。
でも。
透吾と過ごす時間の中で、その軸が少しずつ揺れている。
旋律の続きを知りたいというより、“彼と一緒にいる”ことが目的になってきているようで??それが、少し怖かった。
僕は、音楽に依存していたのか?
それとも、透吾に?
気づかないふりをしていたけれど、もしかすると、どちらも同じだったのかもしれない。
どちらも、僕の孤独の空白を埋めてくれる存在。
けれど、その支えがもし、同時に消えてしまったら??僕は、また元の“何もない場所”に戻ってしまうのだろうか。
窓の外、星がいくつか見えていた。
その光も、遠すぎて、本当に存在しているのか分からない。
僕は思う。
透吾が、今ここにいなかったら。もし、彼が夢の中のままの存在だったら。
あの旋律も、思い出も、ぜんぶ幻だったとしたら??僕は、どうなるのだろう。
ゆっくりと、深く息を吐いた。
不安定な夜の気配が、胸の奥で音もなく鳴っていた。
シーン27.約束の記憶
静かな音楽室で、僕はピアノの前に座ったまま、透吾の言葉を待っていた。透吾はメモを手に、じっと何かを考えている。窓の外では夕陽がゆっくりと沈み、部屋の中に柔らかなオレンジ色の光が広がっていた。
「この曲は、前に誰かと作ろうとしていた気がするんだ。」
透吾がぽつりと呟いた。その声は、どこか遠い場所から響いてくるようだった。僕は驚いて透吾の顔を見つめる。
「誰かって……もしかして、僕?」
思わずそう問いかけてしまう。透吾は一瞬目を見開いたあと、ゆっくりと首を振った。
「分からない。でも、君とこうして旋律を探していると、昔も同じことをしていた気がするんだ。……でも、その記憶はぼんやりしてて、はっきりとは思い出せない。」
透吾の声には、戸惑いと切なさが混じっていた。僕も胸の奥がじんわりと熱くなる。思い出せそうで思い出せない、そんなもどかしさが二人の間に静かに流れている。
「僕も、同じ気持ち。夢の中で誰かと一緒に旋律を作っていた。でも、その人の顔も名前も分からない。」
僕がそう言うと、透吾は小さく微笑んだ。
「やっぱり、僕たち……何か約束してたのかな。」
その言葉に、僕の心が強く揺れる。約束。忘れていたはずのその響きが、胸の奥に静かに広がっていく。
「もし、そうだったら……続きを見つけて、約束を果たしたい。」
僕は自然とそう口にしていた。透吾も力強くうなずく。
「うん。きっと、この曲を完成させることが、僕たちの約束だったんだと思う。」
音楽室の空気が、少しだけ温かくなった気がした。未完の旋律と、断片的な記憶。二つが重なり合い、僕たちの間に新しい絆が生まれていく。
「絶対に、見つけよう。二人で。」
「うん、一緒に。」
夕陽が差し込む音楽室で、僕たちは静かに約束を交わした。その瞬間、胸の奥に小さな光が灯った気がした。
シーン28.沈黙の交換
昼休みの図書室は、いつもより静かだった。
誰もピアノを弾いていないのに、空気の奥で音が鳴っているような気がする。
葉月は、いつもの窓際の席に座っていた。
楽譜を開いたまま、ペンを持った手は動いていない。
その斜め向かいに、僕も言葉を出さずに腰を下ろす。
何を話せばいいのか、わからなかった。
話さなければいけないことがあるような気もしたけれど、それが何かははっきりしない。
けれど、不思議とそれでよかった。
ペン先が五線譜の端をなぞっている。
そこにはもう音符は書かれていないのに、葉月の手は、何かをたしかめるように動いていた。
その指先を、僕はずっと見つめていた。
「……明日だね。」
葉月が、小さな声で言う。
その声は、図書室の空気に溶けてしまいそうなほどかすかだった。
「うん。」
僕も、それだけを返した。
そのあとは、また沈黙。
けれど、その沈黙は、どこか心地よかった。
たくさん言葉を交わしたわけじゃない。
記憶を取り戻したわけでもない。
それでも、“わかっている”という感覚だけが、ふたりの間に確かにあった。
葉月が、ペンを置いた。
そして、顔を上げて僕を見た。
その目の奥にあるものを、僕はまっすぐに受け止める。
言葉じゃない。旋律でもない。
ただ、沈黙の中にあるもの??それを、交換した。
「じゃあ、明日、また。」
葉月が立ち上がる。僕もうなずいて、あとに続く。
図書室の扉を開けると、昼下がりの陽光が差し込んできた。
その光の中に、あの沈黙の余韻が、まだ漂っているように思えた。
シーン29.重なり合う手
夕暮れの音楽室に、静かな時間が流れていた。僕と透吾は、ピアノの前に並んで座ったまま、未完の楽譜を見つめている。窓の外では、オレンジ色の光がゆっくりと薄れていく。
「……この続きを、指で示してもいい?」
透吾がそっと僕に問いかける。僕は小さくうなずき、鍵盤の上に手を置いた。透吾は僕の隣に身を寄せ、彼の指先がそっと僕の手の上に重なる。
「ここから、こう……」
透吾の指が、僕の手を導くように鍵盤の上を滑る。彼の指先が触れるたび、胸の奥がざわついた。まるで、遠い昔にも同じように手を重ねていた気がする。けれど、その記憶はやっぱり霞んでいて、はっきりとは思い出せない。
「……なんか、変な感じだ。」
僕が小さく呟くと、透吾も苦笑いを浮かべた。
「うん。でも、こうしてると、続きを弾けそうな気がするんだ。」
透吾の手が、僕の手をそっと押し出す。僕はそのまま彼の指示通りに鍵盤を叩いた。すると、旋律の断片がふわりと音楽室に広がる。けれど、やっぱり途中で胸がざわめき、指が止まってしまう。
「……だめだ、ここでまた止まる。」
僕は悔しさを隠せずに呟いた。透吾は僕の手を包み込むようにして、優しく微笑む。
「焦らなくていいよ。きっと、もうすぐ思い出せる。」
その言葉に、少しだけ心が軽くなる。透吾の手の温もりが、僕の不安をそっと溶かしていく。
「ありがとう、透吾。」
「ううん。僕も、葉月と一緒ならきっと見つけられる気がするから。」
重なり合う手の感触が、僕たちの間に新しい絆を生み出していく。未完の旋律が、少しずつ形になっていく予感がした。
外はもう夜の気配をまとい始めていた。音楽室の静けさの中で、僕たちはそっと手を重ねたまま、次の音を探し続けていた。
シーン30.夜の終わりに
文化祭の前夜。
街はもう眠りにつきはじめていて、窓の外の光もまばらだった。
部屋の中は静かだった。テレビも音楽も消していた。
ただ、自分の呼吸の音だけが、時間の流れを教えてくれている。
明日、演奏する。
葉月と一緒に??あの旋律の続きを。
ずっと求めていたはずのもの。
思い出せなかった音。ずっと探していた答え。
そのすべてが、ようやく“明日”にたどり着く。
なのに、どうしてこんなにも、胸がざわついているのだろう。
「……終わってしまう、のかな。」
小さく呟いた声が、やけに鮮明に響いた。
ずっと不安定で、未完成だった旋律。
それをふたりで探してきた時間。
あれは、ただの過程だったのか?
完成したら、もう必要じゃなくなるのか?
「そんなの、嫌だ……」
ふと、指が楽譜に伸びていた。
それは何度も書き直され、すでに手垢のような跡が残っている。
でも、その傷だらけの五線譜が、いちばん“ふたりらしい”と、どこかで思っていた。
??もし、明日、あの旋律を完成させてしまったら。
僕たちの関係も、終わってしまうんじゃないか。
そう思っている自分がいることに、気づいてしまった。
演奏が終わったあと、僕はまた“ひとり”に戻ってしまうんじゃないかって??
夢の中の記憶。再会の感触。
それらすべてが、現実になって、また夢に戻っていくような気がして怖かった。
「明日……うまく、弾けるかな。」
そうじゃない。不安なのは演奏じゃない。
その先にある“静寂”の方だ。
もし、終わってしまったあと??
葉月と、もう目を合わせられなかったら。
もう一緒に音を出せなかったら。
??そんなの、終わりじゃない。
けれど、“ひとつの終わり”なのかもしれない。
僕は静かにベッドに横になり、目を閉じた。
明日が来るのが、少しだけ怖かった。
それでも、明日は来る。
だからこそ、せめてあの音だけは、最後まで??
きちんと、ふたりで奏でたいと思った。
シーン31.教師の目
ふたりが音楽室に通いはじめたのは、たしか六月の終わり頃だった。
最初に目にしたときは、少し意外だった。
葉月は、どこか冷めた空気を纏っていたし、透吾も転校してきたばかりで誰とも親しげに話していなかった。
そんなふたりが、まるで最初から知っていたように隣り合ってピアノに向かっていた。
教師という立場上、生徒の変化には自然と目が行く。
でも、あのふたりを最初に“音”として感じたのは、偶然、放課後の音楽室を通りかかった日だった。
ドア越しに、ピアノの音が聴こえた。
旋律は拙く、どこかためらいがちで、息が合っているとは言えなかった。
でも、その音には不思議と“距離”があった。
寄り添うのではなく、探っているような、迷いながら向き合っているような??そんな音だった。
何度か、それとなく様子を見に行った。
ふたりは気づいていないと思うが、僕は気にしていた。
音楽教師として、というより、ひとりの大人として。
日が経つにつれ、音が変わっていった。
お互いの音を聴こうとしていることが、旋律から伝わってきた。
言葉で指示し合うのではなく、呼吸の速さ、鍵盤に置く指の強さ、微妙なテンポのずれ??
そういったすべてで、ふたりは“対話”していた。
??これは、もう音楽じゃない。
ある日ふと、そう思った。
音楽とは、技術や完成度のことではない。
でも、それにしても、あのふたりが出している音は、もっと別の何かだった。
それは、記憶の一部のようで、
誰にも見せられない傷口のようでもあって、
それでも、確かに前へ進もうとしている音だった。
文化祭の本番が近づくにつれて、音に“決意”が混ざりはじめた。
最初は不安と戸惑いが色濃かった旋律が、次第に重なりはじめた。
うまくいかない日もあったはずだ。
言い争ったり、黙り込んだり、きっと何度も立ち止まったのだろう。
けれど、それでもふたりはここにいて、同じピアノに向かっている。
??何かを思い出すように。
??何かを確かめるように。
音楽というのは、ひとりでもできる。
けれど、ふたりでやるには、“信じる”という行為が必要になる。
相手を、そして自分自身を。
ふたりの音には、それがあった。
ぎこちなくても、未完成でも、その音には“祈るような意思”があった。
文化祭当日、彼らの演奏を客席から聴くことになるだろう。
そのとき、観客の何人があの旋律の本当の意味を感じ取るのかはわからない。
けれど、少なくとも僕にはわかる。
これは、ただの発表じゃない。
ふたりの音は??きっと、何かを“繋いで”いるのだ。
シーン32.小さな確信
音楽室の静寂の中、透吾の手の温もりがまだ僕の指先に残っていた。重なり合った手をそっと離し、僕は鍵盤の上に視線を落とす。未完の旋律が、胸の奥で静かに響いている。
「この曲の完成が、何かを変える気がする。」
思わず口からこぼれたその言葉に、透吾が小さく目を見開いた。僕自身も、なぜそんなことを言ったのか分からなかった。ただ、旋律を追いかけているうちに、心の奥に小さな光が灯ったような気がした。
「……僕も、そう思う。」
透吾がそっと呟く。彼の声には、確かな決意が込められていた。
「この曲が完成したら、きっと僕たちの記憶も、何か大事なものも取り戻せる気がする。」
透吾の言葉に、僕は静かにうなずいた。未完の旋律が、ただの音楽じゃないことは、もう分かっている。僕たちの過去や約束、そして今の気持ち??すべてがこの曲に込められている気がした。
「……明日も、また一緒に探そう。」
僕がそう言うと、透吾は力強くうなずく。
「うん。絶対に。」
小さな確信が、僕たちの間に生まれていた。旋律の続きを見つけたいという気持ちだけじゃなく、透吾と一緒に歩んでいきたいという思いも、少しずつ大きくなっていく。
「じゃあ、また明日。」
透吾が立ち上がり、音楽室を出ていく。その背中を見送りながら、僕は静かにピアノの蓋を閉じた。
未完の旋律の向こうに、きっと何か大切なものが待っている。そんな予感が、僕の胸の奥で確かなものになりつつあった。
シーン33.最後の練習
放課後の音楽室には、もう誰もいなかった。
陽は傾き、窓のカーテンがゆっくりと揺れている。
その柔らかな風のなかで、僕たちは無言のまま向かい合っていた。
ピアノの前に座り、楽譜をひらく。
何度も読み込んだその五線譜は、すでに目で追わなくても指が覚えている。
けれど、今日が“最後の練習”だと思うと、不思議と少し手が震えた。
「……弾く?」
僕が問うと、葉月は静かにうなずいた。
言葉はいらなかった。
合わせる合図もいらない。
ただ、呼吸をひとつ合わせて、鍵盤に指を置いた。
最初の音が、空気の中をすべっていく。
誰にも聴かれていない。
評価もされない。
拍手もない。
ただふたりで鳴らすだけの音が、こんなにもやさしくて、まっすぐで、確かだった。
途中で、葉月の指が迷った。
僕はそれに気づきながら、あえて何もせず、音を止めた。
葉月も、静かに手を止めた。
沈黙。
でも、ふたりとも笑っていた。
うまくいかなかったのに、失敗でも不安でもなく??ただ、あたたかな静けさだけが、そこにあった。
「……もういいか。」
葉月が小さく呟いた。
僕はうなずいた。
そう。もう、十分だった。
これ以上合わせなくても、音は重なる。
明日、舞台の上で、ふたりの音が交わることは、もうわかっている。
葉月がゆっくりとピアノの蓋を閉じた。
それは、まるで音との対話を終えた合図のようだった。
明日、すべてが終わるかもしれない。
けれどその終わりは、きっと“静かなはじまり”でもある。
そんな予感だけが、胸の奥に残っていた。
シーン34.図書室の探索
放課後の図書室は、ふだんよりもひときわ静けさを湛えていた。。
試験前でもなければ利用者はほとんどいない。けれど、僕と透吾はまるで何かに導かれるように、図書室の奥へ足を運んだ。
目的はただひとつ。
あの未完の旋律??あれが、どこから来たのかを確かめたかった。
「手がかりになるとしたら、やっぱりあの古い楽譜集とか……」
透吾が手にしていたのは、図書室の保存棚から見つけた古い音楽雑誌のバックナンバーだった。
何十年前のものかもわからない、モノクロ印刷の小冊子。
「音楽室の蔵書と違って、こっちは保存用だから、名前もメモも残ってないことが多いみたい。」
僕も調べていた。
棚の隅に追いやられていた分厚い全集や手記の類。
音楽理論や編曲論、そして著者不詳の走り書きが詰まったメモの束。
ひとつの仮説があった。
この学校にかつて在籍していた誰かが??
あの旋律を残したのではないかということ。
透吾がそっと一冊の楽譜ノートを開く。
そこにはきちんと製本された五線譜とは違う、鉛筆で走り書きされたメモが残っていた。
「……見て。これ、前のと似てない?」
僕は隣に座り、ページを覗き込んだ。
音符の形が少し歪んでいる。不慣れな手か、感情を抑えきれず走らせた筆致か。
けれどその中に、あの日音楽室でふたりで弾いた旋律の断片が確かに含まれていた。
「……ほんとだ。ここの下降音形、全く同じ。」
見間違いではない。
いや、もしかしたら僕たちがその旋律に“寄せている”だけかもしれない。
それでも、その一致が意味のあるものに思えて仕方なかった。
透吾はページをめくりながら、眉間にしわを寄せていた。
僕は彼の横顔を見つめながら、思った。
??なぜ、ここまで気になるんだろう。
旋律に執着している。
ただ音を合わせたいというだけではなく、その“出どころ”や“形の由来”を、何かに突き動かされるように探している。
「これ、誰の書いたものなんだろうね。」
透吾の問いに、僕は棚の背表紙を確認した。
名前は記されていない。表紙も剥がれていて、管理番号すらついていなかった。
「個人の寄贈かも。たまにあるんだって、卒業生とかが置いていった資料。」
それなら、この旋律をここに託した誰かも、かつてこの学校にいたのかもしれない。
そして、何らかの理由でそれを“未完”のまま置いていったのだ。
ページの隙間に、ひらりと色あせた付箋が挟まっていた。
色あせた紙。そこには走り書きで、こう記されていた。
??「最後の音は、まだ書けない」
文字が揺れていた。急いで書いたのか、それとも何度も書き直した跡か。
けれどその短い言葉は、まるで“心残り”そのものだった。
透吾と目が合う。
「なんだか……この旋律って、完成するのを待ってるみたいだよね。」
「うん。きっと、あのときもそうだったのかも。」
この音を留めた“誰か”は、音の続きを書けなかった。
けれど今、僕たちはその続きを探している。
それは偶然じゃなくて、もしかしたら意志のバトンのようなものかもしれなかった。
ふたりで、また静かに本をめくる。
誰もいない図書室。窓から光が斜めに差し込んで、机の上を染めていた。
この空間は、まるで時間が止まっているようだった。
だけど、確かに何かが“今”動いている。
音のない場所で、音を探しているという実感が、静かに胸にあった。
シーン35.音の余韻
最後の音が、静かに消えていった。
音楽室ではない。舞台の上。
けれど僕の耳には、あの場所と同じ“静寂”が広がっていた。
??誰も、何も言わない。
客席も、透吾も、自分自身さえも。
でも、その沈黙は、不思議と怖くなかった。
音はもう鳴っていない。
鍵盤から手を離した僕は、ただ前を見つめていた。
透吾の気配が、すぐ隣にある。
顔を見なくてもわかる。彼も、まだ動いていない。
演奏の最後の音を、きっと僕と同じように、心のどこかで聴き続けている。
言葉はなくても、呼吸だけでわかる。
いま、僕たちはたしかに“同じ時間”を生きているんだって。
長い時間をかけて探した旋律の終わり。
それは、“終わった”というより、“重なった”のだと思う。
過去と現在が、夢と記憶が。
僕と透吾が。
ひとつの音になって、たしかに響いていた。
観客の拍手が、ようやく静寂を破った。
誰かが立ち上がっている気配がして、あたたかな音の波が押し寄せる。
けれど僕はまだ、その拍手の意味を理解しきれずにいた。
それよりも、もっと大切なことがあった。
??透吾の手が、ほんのわずかに僕の指先に触れた。
その一瞬だけで、すべてが伝わった気がした。
もう、言葉はいらない。
僕たちはたしかに、あの旋律の先で“再会”したのだ。
胸の奥で、まだ音が鳴っている。
それは誰にも聴こえない、僕だけの、そしてきっと彼だけの??
静かな余韻だった。
シーン36.隠された記録
それは、ひときわ薄く、軽い一冊だった。
透吾が手に取ったノートの背表紙は擦り切れていて、タイトルも著者名も書かれていなかった。
楽譜でも資料でもないそのノートは、まるで誰かが“個人的に”綴った記憶のかけらのようだった。
「楽譜じゃない……?」
僕が覗き込むと、透吾は静かに首を振る。
「いや……言葉、かも。」
ページをめくる。そこに並んでいたのは、音符ではなく文章だった。
詩のようでもあり、断片的な日記のようでもある。
それぞれの文には日付がなく、文体もまちまちだった。けれど、すべてに一貫して“語られなかった想い”が漂っていた。
「……“終わらない夢の中で、交わした約束が消えていく”」
声に出して読むと、その言葉の行間から、じわりと感情が滲んだ。
旋律とは違う。けれど、そこに込められていたのは、音では伝えきれなかったものたちだった。
透吾が、あるページで指を止めた。
「これ……読んで。」
差し出されたページには、こう記されていた。
> “旋律の途中で途切れた君の音を、
> もう一度聴くために、
> 僕は何度も指を鍵盤に置いた。
> けれど、最後の和音だけが??どうしても思い出せない。”
目の奥が、じんわりと熱を帯びた。
まるで、それは僕たち自身のことを書かれているような気がした。
未完の旋律。記憶の断片。そして、伝えきれなかった何か。
ページの隅に、走り書きでこうも書いてあった。
> “届かなかったことを、届かないままで終わらせたくなかった。”
透吾が、小さく息を呑むのがわかった。
僕もまた、その言葉の奥に自分の声を聞いた気がした。
「これ……誰かの遺したもの、だよね。」
「たぶん……でも、名前も、何もない。」
ふたりでしばらく黙ったまま、ページをめくり続けた。
音楽の話、日常の話、何でもない言葉。
でも、それらすべてが、“音になる前の感情”のようだった。
「この人、最後まで旋律を完成させなかったのかな。」
僕がぽつりと言うと、透吾は少し考えるように目を伏せた。
「……できなかったんじゃなくて、あえて残したんだと思う。」
その言葉に、僕ははっとした。
旋律が未完だったのは、技術や時間の問題じゃない。
その人にとって、その“欠けた音”こそが、伝えたかったことなのかもしれない。
伝えられなかった思い。続けられなかった関係。
音にならなかった言葉。書きかけの記憶。
それらすべてを、このノートは静かに抱えていた。
「もし……この記録が、誰かの大切な“もうひとつの旋律”だったとしたら……」
「僕たちは、それを完成させることができるかな。」
ふたりで顔を見合わせた。
答えは出なかった。
けれど、その“問い”が浮かび上がったことが大切だった。
このノートの言葉たちは、音のように響いていた。
読まれることを待っていた。
そして今、僕たちに読まれたことで、もう一度音になろうとしていた。
それは、旋律になる前の“記録”。
でも、確かに誰かの心が詰まっていた。
ふたりでそっとノートを閉じた。
その重みは紙よりも軽く、でも心の奥では妙に重かった。
音がなかったとしても、
旋律がなくなったとしても、
言葉だけで、伝えられるものがある。
そして、今の僕たちなら??その続きを、奏でられる気がした。
シーン37.ことばのかわりに
文化祭が終わって、三日が過ぎた。
校舎のざわめきも元に戻り、教室には以前のような日常の空気が戻っていた。
特別だった数日間が、夢のように遠ざかっていく。
けれど僕の中では、まだ“あの音”が鳴り続けていた。
放課後。
音楽室に寄るつもりはなかったのに、気づけば僕の足は、自然とその方向に向かっていた。
扉を開けると、透吾がいた。
窓際のピアノの前に、座っていた。
音は鳴らしていなかった。ただ、楽譜も見ずに鍵盤を見つめている。
「……やっぱり、来ると思った。」
そう言って、彼は振り返った。
僕は少し笑って、扉を閉めた。
「……文化祭、あっという間だったね。」
透吾がぽつりと呟く。
「うん。」
短く答えるだけで、僕たちはそれ以上、何も言わなかった。
演奏のことも、拍手のことも。
旋律の完成についても、なにも語らない。
でも、それでよかった。
沈黙の中で、透吾がゆっくり鍵盤に触れる。
音は出ない。けれどその指先は、あの日と同じ旋律をなぞっていた。
「??ありがとう。」
彼がぽつりとそう言った。僕は驚いて彼を見た。
「何に?」
「……全部に。弾いてくれたこと、探してくれたこと、待っててくれたこと。」
僕は答えなかった。言葉にできる気がしなかったから。
でも、手が自然に動いていた。透吾の隣に座り、彼の右手の動きをなぞるように、左手を添えた。
二人で、音もなく旋律を“思い出す”。
それだけで、すべてが伝わる気がした。
??言葉の代わりに、音があった。
けれど今、僕たちには、“音の代わりに”この沈黙がある。
それも、たぶん悪くない。
透吾が小さく息を吐いた。
「……これから、また音を探してもいい?」
僕は、うなずいた。
それだけで、十分だった。
シーン38.同級生の噂
昼休み、教室の後ろの方で、小川は紙パックの紅茶を飲みながら窓の外を眺めていた。
「……なんか、また一緒にいたね、あのふたり。」
何気なくそう呟くと、隣でスマホをいじっていた西村が、顔も上げずに返す。
「葉月と透吾? まあ、最近ずっとセットだもんな。」
「セットって……お笑いコンビじゃないんだから。」
小川が苦笑すると、西村はやっと顔を上げ、肩をすくめた。
「いや、でもさ。最初の頃に比べたら、葉月くん、だいぶ雰囲気変わったと思わない?」
「うん、わかる。前はなんか、もっと壁がある感じだったよね。」
教室のざわめきの中、ふたりは小さな声で続けた。
「透吾くんが転校してきたばかりのときも、ほとんど誰とも話さなかったけど……葉月くんとだけは自然だったよね。」
「音楽のやつ?」
「うん。文化祭で一緒に演奏するらしいよ。」
西村はしばらく考えるように視線を上に向けた。
「さ、正直言うとさ、最初は“えっ意外”って思ったんだよ。葉月くんって、ひとりの時間が好きそうだったし。
なのに、透吾くんと話してるときだけ、表情がちょっと違うっていうか……なんか、安心してるように見えるんだよな。」
小川は頷きながら、机の上で指先を組んだ。
「わかる。でも、あのふたりって、特別ベタベタしてるわけじゃないよね。
話すときもあるけど、ただ隣にいるだけっていうか、音がないのに会話してるみたいな感じ。」
「……音がないのに会話って、なんか詩的だな。」
「そう? でもほんとに、そういう雰囲気ない? 静かなんだけど、通じ合ってるっていうか。」
ふたりは笑い合いながら、ふと真顔になった。
「……なんかさ。ちょっと羨ましいよね。」
「うん。別に恋愛とかじゃなくても、
ああやって、ちゃんと“誰かとつながってる”ってわかるのって、すごいことだと思う。」
チャイムが鳴り、教室の空気が切り替わる。
机の間を風が通り抜けて、カーテンがかすかに揺れた。
小川はもう一度窓の外を見る。
そこには、音楽室へと向かうふたりの背中が見えていた。
言葉を交わすこともなく、でも、隣を歩いている。
ただそれだけの風景が、どこか強く目に残った。
「……あのふたり、きっとあした、ちゃんと届くと思う。」
「うん。きっとね。」
もう話題は変わっていたけれど、
ふたりの胸のどこかに、“あの旋律のような何か”が、そっと残っていた。
シーン39.過去の片鱗
図書室の片隅で、透吾と僕は手に入れたコピーを静かに見つめていた。そこに書かれている歌詞の断片は、懐かしさと喪失感がないまぜになって胸に残る。僕は指先で紙の端をなぞりながら、心の奥に眠る記憶を必死に探った。
「この言葉、聞いたことがある。」
透吾がぽつりと呟く。その声は、まるで遠い昔から響いてきたみたいに、僕の胸にしみ込んだ。
「どこで?」
思わず問い返すと、透吾は少しだけ困ったように首を傾げる。
「分からない。でも、たぶん……夢の中か、もっと前のどこかで。歌詞のこの部分、“もう一度君に会いたい”って、何度も頭の中で繰り返されてた気がする。」
僕は紙を見つめながら、同じような感覚に包まれていた。旋律と歌詞が、まるでずっと僕たちの中にあったみたいに、自然に心に馴染んでいく。
「もしかして、僕たち……前にもこの曲を作ろうとしてたのかな。」
口にした瞬間、胸の奥底に、忘れていた痛みが揺れた。透吾も、驚いたように僕を見つめる。
「それ、僕も考えてた。……でも、どうしてもその時のことが思い出せないんだ。」
図書室の静けさが、二人の間に漂う。外の光が窓から差し込み、机の上のコピーにやわらかな影を落とす。
「この歌詞と旋律、きっと僕たちの記憶と繋がってるんだと思う。」
僕がそう言うと、透吾はしっかりとうなずいた。
「うん。もっと調べてみよう。きっと、まだ何か見つかるはずだから。」
僕たちは新しい手がかりを胸に、再び本の山に向かった。過去の片鱗が、少しずつ今の僕たちを照らし始めている??そんな気がしていた。
シーン40.すれ違う輪郭
「……このフレーズ、やっぱり違う気がするんだ。」
透吾の言葉に、僕はペダルを踏んだまま指を止めた。
放課後の音楽室。文化祭まで、あとわずか。
いつもなら自然に揃っていた音が、今日は少しだけ噛み合わない。
「どこが?」
僕が訊くと、透吾は少し困ったように視線を下げた。
その顔はどこか、傷つけてしまった相手を前にしたような曖昧さを帯びていた。
「わからない。……でも、“こうじゃない”って、どこかで思ってる。」
「“どこか”って……感覚だけ?」
つい強く返してしまった自分に気づき、後悔が遅れてやってくる。
でも透吾は、怒りもせず、ただ微かに眉を寄せた。
「……ごめん。自分でもちゃんと説明できないから、余計に歯がゆい。」
沈黙が落ちた。
どちらが悪いわけでもない。
ただ、“わかり合えない”という事実が、音のない空間に残っていた。
「ねえ、葉月は……俺のこと、覚えてると思ってる?」
唐突な問いに、胸が少し跳ねた。
「……覚えてる、って……?」
「夢の中のあれ。あの旋律。
もしかして、葉月の中では“思い出した過去”なんじゃないかって……そんな気がしてた。」
僕は答えなかった。
その問いは、まるで僕の心の奥を読んでいるようで、怖かった。
「……ねえ、透吾。もしさ、思い出してるのが俺だけだったら、どうする?」
「……やっぱり、そうなんだ。」
透吾は、目を伏せた。
「なんか……ズルいな、俺。」
そう言って、苦笑するように息をついた。
旋律が止まっていることに、今さら気づいた。
音楽は、ふたりをつなげていたはずなのに、今はそれすら遠く感じる。
「……今日は、ここまでにしよっか。」
透吾の声は、静かだった。
僕は何も言わず、楽譜を閉じた。
音楽室の扉を開けると、冷たい風が頬をかすめた。
その風の中で、透吾の背中がゆっくりと遠ざかっていく。
たった一歩分の距離なのに、
今はなぜか、それがとても遠いように感じた。
シーン41.記憶の衝撃
図書室の静けさの中、僕は手にしたコピーの歌詞をもう一度ゆっくりと声に出して読んだ。
「“旋律が途切れたその先に もう一度君に会いたい”……」
その言葉を口にした瞬間、透吾が小さく息を呑んだ。彼の目が一瞬大きく見開かれる。僕は驚いて透吾の顔を見つめた。
「透吾……?」
透吾は、まるで何かに打たれたように一歩後ずさる。手に持っていたコピーの紙が、かすかに震えていた。
「今……頭の中に、ピアノの音が流れ込んできた。」
透吾の声はかすれていた。彼は額を押さえ、苦しそうに目を閉じる。
「どうしたの?」
僕は慌てて透吾の肩に手を伸ばす。透吾はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと目を開けた。
「……ごめん。なんだか、急にいろんな映像が浮かんできて……でも、それが現実なのか夢なのか、よく分からない。」
透吾の瞳の奥に、戸惑いと不安が揺れている。僕も胸の奥がざわついて仕方がなかった。
「どんな映像?」
「……ピアノの前で、誰かと並んで座ってる。窓の外は雨で、部屋の中は静かで……その隣にいるのが、たぶん葉月、君なんだと思う。」
透吾の言葉に、僕の心臓が大きく跳ねた。僕も、同じような夢を何度も見てきた。ピアノの前で、誰かと一緒に旋律を探している夢??その相手の顔は、いつもぼやけていた。
「……僕も、同じ夢を見てる。」
思わずそう口にすると、透吾は驚いたように僕を見た。
「やっぱり……僕たち、何か繋がってるのかもしれない。」
図書室の空気が、少しだけ震えたような気がした。記憶の衝撃が、僕たちの間に新しい風を吹き込んでいく。
「この曲の続きを見つければ、きっと何か思い出せる。」
透吾の言葉に、僕は力強くうなずいた。未完の旋律と断片的な記憶が、今、確かに僕たちを動かしている??そんな実感が胸の奥に広がっていた。
シーン42.繋がる瞬間
その瞬間、図書室の空気が変わった気がした。
葉月が歌詞の断片をそっと読み上げると、透吾はふいに動きを止めた。彼の瞳が大きく見開かれ、まるで何かが一気に流れ込んできたかのように、息を呑む。
「……今、聴こえた。」
透吾は震える声でそう呟いた。葉月は驚いて透吾を見つめる。透吾の目は遠くを見ているようで、けれど確かに今ここにいた。
「何が……聴こえたの?」
葉月の問いかけに、透吾はゆっくりと目を閉じた。
「ピアノの音……旋律が、頭の中に流れ込んできた。断片じゃなくて、ひとつなぎの音楽として??」
透吾の指先が、無意識に机の上をなぞる。まるで鍵盤を思い出すように、静かに動いていた。
「この歌詞を聞いた瞬間、ずっと探していた“何か”が繋がった気がする。今なら……続きを思い出せるかもしれない。」
葉月の胸も高鳴る。自分の中にも、同じ旋律の断片が確かに響いている。ふたりの間に流れる空気が、これまでとは違うものに変わっていく。
「透吾……」
葉月がそっと名前を呼ぶと、透吾はゆっくりと頷いた。
「きっと、これは偶然じゃない。僕たちが出会ったことも、この旋律も、全部が繋がってる。」
ふたりの視線が重なった瞬間、記憶と旋律が静かにひとつになった。
??繋がる瞬間。
ページの音さえ響くほどの静寂の中で、ふたりの心に同じ音楽が流れ始めていた。
シーン43.鍵のない扉
誰もいない音楽室に、ひとりだけ残った。
夕方の光がカーテン越しに差し込み、ピアノの鍵盤に斜めの影を落としている。
鍵は、かかっていなかった。
この部屋に入るのに、誰の許可もいらなかった。
でも、僕の心のどこかには、まだ“開かない扉”がある気がしていた。
椅子に腰を下ろし、鍵盤に手を置く。
音は出さない。ただ、置くだけ。
まるで、ここにいる理由を確かめるように。
??思い出しているのは、僕だけかもしれない。
そう思ったとき、何かが胸の奥で崩れかけた。
旋律の記憶、夢の中のあの手、あの声。
全部、僕が勝手に作り上げた幻想なんじゃないか。
そう思えば思うほど、葉月の沈黙が重くのしかかってくる。
「……ズルいな、俺。」
小さく呟いた声が、音楽室に響いた。
誰もいないはずなのに、誰かに聞かれているような気がした。
僕は、自分が“思い出したい”んじゃなく、“信じたかった”ことにようやく気づく。
旋律を。記憶を。約束を。
そして??葉月という存在を。
目を閉じると、昨日の彼の横顔が浮かんだ。
言葉では何も言っていない。でも、指先が迷ったときの、あの表情。
不安、戸惑い、それでも一緒にいようとする微かな勇気。
「……まだ、終わってないよな。」
自分に問いかけるように呟く。
この扉が鍵を持たないように、僕たちの関係もまだ“閉じきって”はいないはずだ。
小さくひとつ息を吸い、鍵盤に指を落とす。
ゆっくりと、最初の一音を弾く。
それは誰のためでもない。
ただ、ふたりがもう一度重なる“入り口”を探すための、僕だけの音だった。
シーン44.約束の予感
図書室の静寂の中、ふたりの心に流れ込んだ旋律は、まるで過去と現在を繋ぐ橋のようだった。透吾はまだ少し呆然としたまま、机の上のコピーを見つめている。葉月も、胸の奥で何かが目覚めていく感覚を抱えていた。
「これは……過去からのメッセージなのかな?」
透吾がぽつりと呟く。その言葉に、葉月は静かに頷いた。ふたりの間に流れる空気が、確かに何かを伝えようとしている。
「もしかしたら、僕たちがずっと果たせなかった約束が、この曲の中に残っているのかもしれない。」
葉月の言葉に、透吾はゆっくりと顔を上げる。目の奥に、期待と不安が入り混じった光が宿っていた。
「約束……」
透吾はその言葉を繰り返しながら、遠い記憶を探るように目を閉じた。
「僕たち、前にも同じようにこの旋律を探していたのかな。何度も、何度も。」
「でも、今はこうして一緒に続きを探せてる。」
葉月の声は、どこか安心した響きを持っていた。ふたりの間にある未完の旋律は、もはや単なる謎ではなく、再び出会うための合図のように感じられる。
「この曲を完成させたら、きっと何かが変わる。そんな気がするんだ。」
透吾の声に、葉月は力強く頷いた。
「うん。今度こそ、約束を果たそう。」
ふたりの間に、静かだけれど確かな予感が生まれる。未完の旋律が、約束の証としてふたりを導いている??そんな気がしてならなかった。
図書室の窓から差し込む光が、ふたりの新しい決意をそっと照らしていた。
シーン45.夜の窓辺
放課後、校舎の窓辺にふたり並んで座っていた。外はすっかり暗くなり、窓ガラスには教室の灯りがぼんやりと映っている。静かな夜の空気の中で、葉月と透吾は、図書室で得た歌詞のコピーと未完の楽譜を膝の上に広げていた。
「ねえ、葉月。」
透吾がふいに声を落とす。その横顔は、どこか迷いを帯びている。
「君は、この続きを……書ける気がする?」
葉月はしばらく黙って、楽譜をじっと見つめた。旋律の断片が頭の中で何度も反響している。でも、その先を形にするのは、簡単なことじゃない。
「正直、まだ自信はない。でも……今なら、透吾と一緒なら、きっと何かが生まれる気がする。」
そう答えると、透吾はほっとしたように小さく笑った。
「僕も同じ。君となら、どんな音でも怖くない。」
窓の外には、遠く街の灯りが滲んでいる。ふたりの間には、まだ不安も迷いも残っているけれど、それでも前に進みたいという気持ちが静かに膨らんでいく。
「……この夜が明けたら、また一緒に続きを探そう。」
葉月の言葉に、透吾は力強くうなずいた。
「うん。きっと、今の僕たちにしか書けない旋律があると思う。」
夜の窓辺に、ふたりの小さな決意がそっと灯る。未完の旋律の先に、どんな音が待っているのか??その答えを見つけるために、ふたりは静かに明日を見つめていた。
シーン46.小さな光
夜が深まり、校舎の窓からは遠く街の灯りが瞬いていた。葉月と透吾は、静かな教室の片隅で未完の楽譜と歌詞のコピーを手に、言葉少なに向き合っていた。
「思い出すんじゃなくて、今ここで生み出そう。」
葉月がふいにそう言った。透吾は驚いたように顔を上げる。その目には、迷いと期待が入り混じっていた。
「……過去の記憶に頼るんじゃなくて、今の僕たちの音を信じてみたいんだ。」
葉月の言葉は、静かだけど確かな決意を帯びていた。透吾はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「そうだね。きっと、その方が本当の答えに近づける気がする。」
ふたりは楽譜を前に、そっとペンを手に取った。断片的な旋律に、今の自分たちの想いを重ねていく。音を一つずつ確かめるように、静かに、でも確かに前へ進んでいく。
「……こうしてると、不思議と怖くない。」
透吾が小さく呟く。葉月も微笑み返した。
「僕も。きっと、どんなに小さくても、今ここにある“光”を信じていれば大丈夫だと思う。」
教室の片隅に、小さな光が灯ったような気がした。過去の記憶に惑わされるのではなく、今を生きるふたりの手で、新しい旋律が紡がれていく。
その夜、未完だった楽譜の上に、ふたりだけの新しい音が静かに刻まれていった。
シーン47.舞台の準備
文化祭の前日、体育館のステージではリハーサルの音が響いていた。ピアノのそばに立つ葉月は、少し緊張した面持ちで楽譜を見つめている。その隣で透吾が軽く肩を叩いた。
「大丈夫、きっとうまくいくよ。」
透吾の声に、葉月は小さく頷いた。未完だった旋律は、ふたりで何度も向き合い、少しずつ形になってきた。けれど、まだ最後の一音が遠いままだった。
ステージの上には、明日の本番を待つ楽器やマイク、譜面台が並んでいる。体育館の天井から差し込む午後の光が、ピアノの黒い表面にやわらかく反射していた。
「ここでみんなの前で弾くの、やっぱり緊張するね。」
葉月が小さく呟くと、透吾は笑いながら答えた。
「でも、葉月と一緒なら大丈夫。今までだって、ふたりで乗り越えてきたじゃん。」
透吾の言葉に、葉月の表情が少しだけ和らぐ。ふたりはピアノの椅子に並んで座り、楽譜をそっと開いた。
「もう一度、最初から合わせてみようか。」
「うん。」
静かな体育館に、ふたりの奏でる旋律がゆっくりと広がっていく。未完だった音楽が、今ここで少しずつ完成に近づいている。ステージの上で、ふたりは自分たちだけの音を確かめ合うように、何度も何度も練習を重ねた。
明日、この場所でどんな音が生まれるのか。ふたりの胸には、不安と同じくらい大きな期待が静かに灯っていた。
シーン48.言葉にならない理由
「……あのとき、俺、ちゃんと伝えられなかった。」
放課後の音楽室。
再び並んだ椅子の上で、透吾がぽつりと呟いた。
葉月は返事をしないまま、静かに楽譜を見つめていた。
「伝えたいことがあったのに、うまく言葉にならなかった。
今も、きっとちゃんとは言えないと思う。……でも、それでも……」
透吾の声がかすれた。
言葉にならない感情が、喉の奥にひっかかる。
焦燥とか、不安とか、後悔とか、そういう名前のついたものじゃなくて。
ただ、“うまくいかなかった自分”がそこにいる気がして、苦しくなった。
「俺……記憶を取り戻したかったんじゃなくて、
たぶん、君と……“確かめたかった”んだと思う。」
ようやく出てきたその言葉に、葉月の指先がかすかに揺れた。
「旋律も、昔のことも……思い出したいと思ったのは本当だけど、
でも、それよりも??“今”君と向き合いたかった。」
言ってから、恥ずかしさと怖さが胸に広がった。
目をそらしそうになるのをぐっと堪えて、葉月の横顔を見る。
葉月は、何も言わなかった。
けれど、ゆっくりと片手を伸ばし、ピアノの鍵盤にそっと触れた。
その指が、ひとつだけ音を鳴らす。
それは、ふたりでずっと探してきた旋律の、いちばん最初の音だった。
「……俺も、うまく言えない。」
葉月の声が、かすかに届く。
「でも……透吾が、そう言ってくれて、少し安心した。」
「安心?」
「うん。……ずっと、置いていかれる気がしてたから。」
それを聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
「だったら、もう大丈夫。」
透吾はそう言って、鍵盤の上に自分の手を重ねた。
ふたりの手が重なる。
言葉はなくても、そこにあるものは、きっともう充分だった。
旋律の続きを探すことも、思い出を辿ることも、もしかしたら大切なことじゃないのかもしれない。
今ここで“通じ合えた”という事実だけが、何よりも本物だった。
シーン49.約束の鍵
リハーサルが終わり、体育館の照明が少しずつ落ちていく中、ふたりはステージの端に腰を下ろしていた。静まり返った空間に、ピアノの余韻だけがほのかに残っている。
透吾は、手のひらに楽譜のコピーを乗せてじっと見つめていた。その目には、どこか決意の光が宿っている。
「この曲が完成したら、何かが変わる気がする。」
透吾がぽつりと呟いた。その言葉は、静かな体育館にすっと溶けていく。
「僕も同じだよ。きっと、この旋律を最後まで弾ききったら、今までずっと心の奥に引っかかっていたものが、全部ほどける気がする。」
葉月はそう答え、透吾の横顔を見つめた。ふたりの間には、これまでにない静かな信頼が生まれていた。
「約束しよう、透吾。この曲をふたりで完成させて、絶対に明日、みんなの前で届けよう。」
葉月がそっと手を差し出す。透吾は一瞬驚いたような顔をしてから、しっかりとその手を握り返した。
「うん、約束だ。」
ふたりの手が重なった瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけていくのを感じた。未完の旋律が、ふたりの約束の鍵となって、確かに未来へと繋がっていく。
体育館の窓から見える夕焼けが、ふたりの決意をやさしく包み込んでいた。
シーン50.断ち切れない記憶
文化祭本番を明日に控えた夜、葉月は自室のピアノの前に座っていた。リハーサルで何度も繰り返した旋律を、指先が自然と鍵盤の上でなぞる。しかし、どうしても最後の一音が弾けない。指が止まり、胸の奥に小さな痛みが広がる。
「……あと少しなのに。」
葉月は静かに呟いた。譜面には、透吾と書き足した新しいフレーズが並んでいる。それでも、何かが足りない気がしてならなかった。
ふと、頭の中に過去の情景がフラッシュバックする。雨の降る窓辺、誰かと並んでピアノを弾いていた記憶。けれど、その隣にいる相手の顔は、どうしても思い出せない。
「なぜ、思い出せないんだろう……。」
葉月は鍵盤の上で手を握りしめた。旋律の断片が、まるで記憶の糸を引き裂くように、心の奥で絡み合っている。
そのとき、スマートフォンが小さく震えた。画面には「透吾」の名前が光っている。葉月は思わず電話に出た。
「透吾……」
『葉月、今、弾いてた?』
「うん。でも、やっぱり最後の一音が……」
『大丈夫。明日、ふたりでならきっと弾けるよ。』
透吾の声は、どこか優しくて、力強かった。その言葉に、葉月の胸の痛みが少しだけ和らぐ。
「……ありがとう。明日、絶対に完成させよう。」
『うん、約束だよ。』
電話を切ったあとも、葉月の指先は静かに震えていた。断ち切れない記憶と、未完の旋律。そのすべてが、明日という舞台へと繋がっていく気がしていた。
シーン51.空席の記憶
昼休みの教室は静かだった。
誰もいない。カーテンが風で揺れるたびに、机の影が床に波のように広がっていく。
僕はいつもとは違う席に座っていた。
教室の中央、透吾の席。
なぜか、そうしたかった。
机の上には何もない。
けれど、ほんのかすかに、そこには“気配”が残っていた。
ノートの角が擦れる音、筆記具を置く手の重み、頬杖をついたまま窓の外を見ていた透吾の視線。
指先で机の端をなぞってみる。
ツルツルとした木の表面に、誰かの記憶が染みこんでいるような気がした。
その瞬間、ふいに、胸の奥で音が鳴った。
??ぽろん。
それはピアノの音だった。
けれど、音楽室のものではない。
もっと小さく、もっと古くて、やさしい音。
思い出すのに、時間はかからなかった。
あれは、幼いころにふたりで弾いていた小さなピアノ。
おもちゃに近い電子ピアノで、音程も不安定だったのに、
その音だけは、なぜか心に残っていた。
その隣に、誰かがいた。
僕の手を取って、鍵盤の上にそっと導いてくれた手。
何も言わなくても、ただ一緒に音を鳴らしてくれた人。
??それが、透吾だったのか?
答えは、出なかった。
けれど、身体の奥が確かに“知っている”と告げていた。
忘れたわけじゃない。
覚えているけれど、ずっと沈めていた。
旋律がきっかけとなって、少しずつ浮かび上がってくる感情のかけら。
子どもの頃、名前よりも先に、
僕はその人の音を覚えていたのかもしれない。
教室の時計が、静かに時を刻む。
あの頃も、こんなふうに午後の光が差し込んでいた。
透吾と並んでいたあの空間に、時間という概念はなかった。
ただ、音だけが流れていた。
空席に座ったまま、僕は目を閉じる。
音は鳴っていない。けれど、たしかにそこに“旋律の記憶”があった。
「……本当に、いたんだね。」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
過去を探すためにピアノを弾いていたはずが、
気づけば、過去は“ずっとここにいた”のだと、やっと思えた。
席を立ち、もう一度自分の席に戻る。
次のチャイムが鳴るまで、あと数分。
そのあいだだけ、僕は何も考えずにいようと思った。
透吾が戻ってきたら、何も言わずにただ、笑おう。
そう思えることが、今は、ただ静かに嬉しかった。
シーン52.もう一度向き合う
文化祭当日の朝、葉月は早めに学校へ向かった。静かな校舎の中、音楽室の扉をそっと開けると、すでに透吾がピアノの前に座っていた。窓の外は曇り空で、今にも雨が降り出しそうな気配が漂っている。
「おはよう、透吾。」
葉月が声をかけると、透吾は振り返り、少し照れたように微笑んだ。
「おはよう、葉月。……なんだか、眠れなかった。」
「僕も。」
ふたりは並んでピアノの前に座る。机の上には、何度も書き直した未完の楽譜が広げられていた。
「ねえ、葉月。」
透吾が静かに口を開く。
「俺たち、前にもこの音を知っていたんじゃないか?」
葉月は驚いて透吾を見つめる。その言葉は、ずっと心の奥にあった疑問をそっと掬い上げるようだった。
「……僕も、そんな気がしてた。旋律の断片が、時々すごく懐かしい。でも、どうしても全部は思い出せないんだ。」
「たぶん、思い出すことが大事なんじゃなくて……もう一度、今の僕たちで向き合うことが大切なんだと思う。」
透吾の言葉に、葉月は静かに頷いた。ふたりの間に流れる空気が、少しずつ柔らかく変わっていく。
「今日、この舞台で、もう一度ふたりで向き合おう。過去じゃなくて、今の僕たちの音で。」
「うん。」
未完の旋律と、断ち切れない記憶。ふたりはそれぞれの想いを胸に、静かに本番の時を待った。曇り空の向こうに、少しだけ光が差し込んでいるような気がしていた。
シーン53.触れられない旋律
文化祭前日の夕方。
薄曇りの空が、廊下の窓を灰色に染めていた。
誰もいない音楽室。
カーテンが静かに揺れて、ピアノの蓋の上に落ちる光が、白くゆれている。
僕たちはピアノの前に座っていた。
でも、どちらも鍵盤には触れていない。
「……明日だね。」
透吾の声が、かすかに空気を震わせた。
「うん。」
僕は答えながらも、視線を鍵盤から離せなかった。
何度も練習した旋律。指が勝手に覚えているはずなのに、今だけは音を出せなかった。
怖かったのかもしれない。
音を鳴らしてしまえば、それが“最後の音”になる気がして。
透吾が、そっと手を伸ばす。
けれどその指は、鍵盤には触れず、僕の左手の近くで止まった。
触れそうで、触れない。
まるで、旋律のひとつ前の休符のような、張り詰めた距離。
「……ここで終わってもいい気がする、なんて言ったら、変かな。」
透吾の声が震えていた。
「変じゃないよ。」
そう答えたけれど、僕の声もまた、少し揺れていた。
??このまま音を鳴らさなければ、何も終わらずに済む。
でも、それは同時に、何も始まらないことでもある。
そんな矛盾を、ずっと僕たちは引きずってきたのかもしれない。
透吾の指先が、そっと鍵盤のフレームに触れる。
音は鳴らない。でも、その動作だけで、すべてが伝わってきた。
「……明日、ちゃんと弾こう。」
透吾が言った。
僕は、うなずいた。
言葉も旋律もいらない。
その一瞬の呼吸の重なりだけで、僕たちはもう一度、つながる準備ができていた。
シーン54.旋律と心
文化祭の開幕を告げるチャイムが鳴り響き、校舎はにわかに活気づいていた。体育館のステージ袖で、葉月と透吾は静かに最後の確認をしていた。ピアノの前に並んで座ると、ふたりの間に緊張と期待が入り混じった静けさが流れる。
「透吾……今なら、弾けるかも。」
葉月がそっと呟いた。透吾は驚いたように葉月を見つめ、すぐに優しく微笑む。
「うん。僕も、今ならきっと大丈夫だと思う。」
ふたりは楽譜を開き、指先を鍵盤に置いた。これまで何度も繰り返した旋律が、今は不思議なほど自然に心に流れてくる。断片だった音が、ふたりの中でひとつに繋がり始めていた。
「怖くない?」
透吾が小さく尋ねる。葉月は首を振り、まっすぐに透吾を見つめた。
「怖くないよ。透吾と一緒だから。」
その言葉に、透吾の表情が少し和らぐ。ふたりの心が、旋律とともに静かに重なっていくのを感じた。
「……じゃあ、行こう。」
体育館のカーテンの向こうから、ざわめきが聞こえてくる。ふたりはゆっくりと立ち上がり、ステージへと歩き出した。
未完だった旋律が、今この瞬間、ふたりの心と重なり合い、新しい音楽として生まれようとしていた。
シーン55.確信の瞬間
ステージの中央に並んで座った葉月と透吾。体育館の観客席には、クラスメイトや先生たち、そして見知らぬ顔もたくさん集まっている。スポットライトがふたりを静かに照らし、ピアノの黒い鍵盤がわずかに光を反射していた。
葉月は深呼吸をひとつして、透吾と目を合わせる。透吾も静かに頷き返した。ふたりの間に、もう迷いはなかった。
「……行こう。」
葉月がそっと呟き、ふたりは同時に鍵盤に指を置いた。最初の音が静かに体育館に響く。旋律は、これまで何度も練習したもの。でも、今この瞬間だけは、ふたりだけの特別な音楽に変わっていく。
未完だった楽譜の最後の部分に差し掛かったとき、葉月の指が自然と動いた。透吾も、その動きに合わせて音を重ねる。ふたりの心が、旋律と重なり合っていく。
「これが……僕たちの音だ。」
心の中で、確信が生まれる。過去の記憶も、不安も、すべてがこの瞬間に溶けていく。最後のフレーズを弾き終えたとき、ふたりは同時に顔を上げ、お互いをまっすぐに見つめ合った。
確信の瞬間??ふたりの間に、言葉では言い表せない強い絆が生まれていた。未完の旋律は、今ここで、ふたりの手によって完成しようとしていた。
シーン56.雨の予感
文化祭当日の朝、窓の外は静かな雨に包まれていた。葉月は、教室の窓辺でぼんやりと外を眺めていた。雨粒がガラスを伝い、校庭の木々や校舎の屋根をしっとりと濡らしている。
「今日は雨か……」
小さく呟くと、透吾が傘を片手に教室へ入ってきた。ふたりは目を合わせて微笑み合う。
「なんだか、雨の日って落ち着くよね。」
透吾がそう言うと、葉月も頷いた。どこか懐かしい気持ちになる雨の音。ふたりが初めて出会った日のこと、そして、ずっと昔に夢で見たような景色が心の奥に浮かんでくる。
「この雨も、きっと意味があるんだと思う。」
葉月が静かに言うと、透吾は優しく微笑んだ。
「うん。今日のステージ、絶対に忘れられない日になるよ。」
窓の外の雨音が、ふたりの心を静かに包み込む。未完の旋律が完成するその瞬間を、雨がそっと見守っているようだった。
ふたりはゆっくりと立ち上がり、傘を手に体育館へと向かった。雨の予感が、これから始まる物語の新しい幕開けを静かに告げていた。
シーン57.ステージへ
体育館の扉を開けると、湿った空気とともに静かなざわめきがふたりを包み込んだ。観客席にはクラスメイトや先生たち、家族の姿も見える。雨のせいか、会場全体がどこか柔らかな雰囲気に満ちていた。
ステージ袖で最後の確認をしながら、葉月は透吾の横顔を見つめる。透吾も、ゆっくりと息を吐いてから葉月の方を向いた。
「この旋律は、記憶じゃなくて今の俺たちのものだ。」
透吾の言葉は、静かだけれど確かな響きを持っていた。葉月は小さく頷き、楽譜をそっと閉じる。
「うん。今ここにいる、ふたりの音を信じよう。」
ふたりは並んでステージへと歩き出す。照明がふたりの姿をやわらかく照らし、観客の視線が自然と集まる。ピアノの前に座ると、葉月と透吾はそっと手を重ね、互いの存在を確かめ合った。
「行こう。」
「うん。」
静かな体育館に、ふたりの奏でる旋律がやがて響き始める。未完だった音楽が、今この瞬間、ふたりの手で新しい物語となって生まれ出していく。
雨音と拍手の余韻が、ふたりの背中をそっと押していた。
シーン58.本番直前
ステージ裏の控室は、静かな緊張感に包まれていた。葉月と透吾は、ピアノの楽譜を手に最後の確認をしている。外からは、文化祭のざわめきや、他の発表の拍手がかすかに聞こえてくる。
「いよいよだね。」
透吾が小さく呟く。葉月は深呼吸をして、透吾の目をまっすぐ見つめた。
「大丈夫。ふたりでここまで来たんだから、きっと大丈夫だよ。」
透吾は小さく笑い、葉月の手をそっと握る。その手の温かさが、不思議と緊張を和らげてくれる。
「ありがとう、葉月。……最後まで、一緒に。」
「うん、一緒に。」
ステージスタッフの合図が聞こえ、ふたりはゆっくりと立ち上がる。楽譜を持ち、深呼吸をもう一度。扉の向こうには、観客の静かな期待が満ちている。
「行こう、透吾。」
「うん。」
ふたりは並んでステージへと向かった。未完の旋律が、今まさに完成の瞬間を迎えようとしている。控室の静けさの中、ふたりの決意だけが、確かに響いていた。
シーン59.第一音
ステージに立つと、体育館の空気が一瞬で変わるのを感じた。客席のざわめきが静まり、すべての視線が葉月と透吾に注がれる。ふたりはピアノの前に並んで座り、深呼吸をひとつ。
葉月は透吾と目を合わせ、小さく頷く。透吾も静かに微笑み返した。ふたりの間に流れるのは、これまでに積み重ねてきた時間と信頼、そして未完の旋律への強い想い。
葉月の指が、そっと鍵盤の上に置かれる。透吾も同じように手を添える。
「行こう。」
葉月の小さな声に、透吾が静かに「うん」と応える。
そして??
第一音が、体育館の静寂を優しく切り裂くように響いた。
その音は、ふたりの心を繋ぎ、客席にいるすべての人の胸に静かに届いていく。旋律が流れ始めると、不思議なほど自然に、ふたりの指は鍵盤の上を踊った。過去の記憶も、不安も、すべてが音に溶けていく。
未完だった旋律が、今この瞬間、ふたりの手によって新しく生まれ変わる。体育館の空気が、音楽とともにやわらかく震えていた。
シーン60.音楽と記憶
ピアノの旋律が体育館いっぱいに広がる。葉月と透吾の指先が、まるで言葉を交わすように鍵盤の上を行き交う。観客の気配も、雨音も、すべてが遠くなり、ふたりだけの世界がそこにあった。
演奏が進むにつれ、透吾の胸の奥に、次々と映像が浮かんでくる。幼い頃、どこかで聴いたような旋律。雨の日の窓辺。誰かと並んでピアノを弾いていた記憶。隣にいるのは、今まさに隣で弾いている葉月の面影と重なっていく。
「……思い出した。」
心の中で、透吾は小さく呟いた。ずっと探していた旋律も、失われたと思っていた記憶も、すべてが音楽によって繋がっていく。過去の自分と今の自分が、旋律の中でひとつになっていく感覚。
葉月もまた、同じように何かを感じているようだった。ふたりの心が、音楽を通して確かに重なり合う。
最後のフレーズに差し掛かると、透吾はもう迷わなかった。今ここにいる自分たちの音を信じて、葉月とともに旋律を紡ぎ続ける。
音楽と記憶??そのすべてが、今この瞬間に解き放たれていく。
シーン61.約束の旋律
最後のフレーズが近づくにつれ、体育館の空気は静けさを増していった。葉月の指先が、迷いなく鍵盤の上を滑る。透吾もまた、心からその音に身を委ねていた。
ふたりで紡いできた未完の旋律。そのすべてが、この瞬間に集約されていく。
葉月は、透吾と目を合わせて小さく頷いた。ふたりの想いが、音となって重なり合う。最後の一音を弾く瞬間、葉月の心には確かなものがあった。
「これが、僕たちの約束だ。」
心の中でそう呟きながら、葉月は迷いなく最後の音を奏でた。
その響きは、静かな余韻を残して体育館中に広がっていく。未完だった旋律が、今ここでふたりの手によって完成したのだ。
透吾は深く息を吐き、静かに目を閉じた。胸の奥にあった不安や迷いが、すべて音楽の中で解き放たれていく。
「終わったんじゃなくて、始まったんだ。」
透吾の心に、そんな言葉が浮かんだ。ふたりの約束の旋律が、これからの新しい物語の幕開けを静かに告げていた。
シーン62.演奏の途中で
舞台の上。
ピアノの音が、静かに世界を満たしていく。
照明の光が白く差し、客席の顔は見えない。
でも、隣にいる葉月の指先は、確かにそこにある。
その動きが僕を導き、僕もまた彼に応えるように鍵盤をなぞる。
ふたりの音が、重なる。
ずっと探していた音。
夢の中で聴いていた旋律。
断片的だった記憶が、いま、音の流れに導かれて、ひとつにまとまっていく。
??そして、訪れた。
あの小節。
夢の中で、いつも目が覚める直前に止まっていた場所。
葉月の指が、そっと先に進む。
僕の指も、自然に続く。
その瞬間、胸の奥に??光が差し込んだ。
白い部屋。小さな音楽室。
子どもだった僕。小さなピアノ。
隣には、泣きそうな顔の男の子がいて、僕はその手を取っていた。
??もう一度、弾こう。
??今度は、ちゃんと最後まで。
旋律が、過去と現在をつないでいく。
音が、記憶の底にあった景色を、少しずつ浮かび上がらせていく。
そして、僕は思い出した。
あの旋律は、ふたりで作ったものだった。
まだ子どもだったころ、言葉の代わりに重ねた音。
誰にも聴かせるつもりのなかった、僕たちだけの秘密の旋律。
それを、今、もう一度??
この舞台の上で、ふたりで、最後まで奏でている。
??ようやく、戻ってこれた。
胸が、熱くなった。
涙が出そうになった。でも、止めなかった。
この一音一音が、確かにあの日の“約束”の続きだと、わかっていたから。
隣を見る。
葉月も、静かに目を閉じながら、音に身を預けている。
言葉はいらない。すべては、ここにある。
記憶も、想いも、旋律も??
いま、すべてが重なっていた。
シーン63.記憶の解放
最後の音が体育館いっぱいに響き渡ると、静寂が訪れた。葉月と透吾は、しばらくその余韻の中に身を委ねていた。ふたりの心臓の鼓動だけが、静かに重なり合っている。
透吾はゆっくりと深呼吸をし、目を閉じる。胸の奥に絡まっていた不安や迷い、断片的な記憶の影が、今、音楽とともに解き放たれていくのを感じた。
「終わったんじゃなくて、始まったんだ。」
透吾は小さく呟いた。その言葉に、葉月も静かに頷く。未完だった旋律は、ふたりの手で確かに完成した。けれど、それは終わりではなく、新しい物語の始まりだった。
観客席からは、まだ拍手も声もない。ただ静かに、ふたりの奏でた音楽の余韻が空間を満たしている。
透吾はそっと葉月の方を見た。葉月もまた、安堵と達成感に満ちた表情で透吾を見返す。ふたりの間に、言葉はいらなかった。
音楽とともに解き放たれた記憶。そのすべてが、今のふたりを優しく包んでいた。
シーン64.観客の沈黙
体育館には、まだ静寂が満ちていた。最後の音が消えてからも、誰もすぐには拍手をしなかった。葉月と透吾の奏でた旋律の余韻が、空気の中に深く、静かに染み渡っている。
ふたりはピアノの前で、互いにそっと微笑み合った。緊張も、不安も、すべてが今は静かな満足感に変わっていた。観客席を見渡すと、誰もが息を呑んだまま、ふたりの方をじっと見つめている。
その沈黙は、不思議と心地よかった。まるで、誰もが今の瞬間を大切に味わっているかのようだった。
やがて、ひとりの生徒がそっと手を叩き始める。その音がきっかけとなり、体育館いっぱいに大きな拍手が広がった。葉月と透吾は顔を見合わせ、自然と笑みがこぼれる。
静寂と余韻、そして祝福の拍手。そのすべてが、ふたりの物語の新しいページを優しく彩っていた。
シーン65.沈黙のあとの呼吸
舞台袖の空気は、まだ音を抱えていた。
演奏が終わって、拍手が鳴り、カーテンが閉じたあと。
僕たちは、楽器のそばで立ちすくんでいた。
誰かが声をかける気配もあったけれど、僕も透吾も、それに応えなかった。
ただ、静かに息をしていた。
音が消えたあとの、まるで呼吸のリハーサルのような時間。
僕はまだ、自分の手が震えているのに気づいていた。
それが緊張なのか、達成感なのか、あるいは別の感情なのか、自分でもよくわからなかった。
隣で、透吾がそっとピアノケースのふたを閉じる。
その手つきは丁寧で、まるで音の余韻を封じ込めるようだった。
「……終わったね。」
透吾がぽつりとつぶやく。
その声も、誰かに聞かせるためではなく、自分自身を確かめるようなものだった。
僕は答えなかった。
けれど、うなずいた。
沈黙がふたたび戻ってくる。
でも、それはあの日の“すれ違いの沈黙”ではなかった。
言葉にしなくても、そこにあることがわかる。
触れなくても、気配でわかる。
ふたりで音を重ねたこと。
あの旋律の続きを、最後までたどり着いたこと。
記憶が、想いが、すべて交わったこと。
??全部、ちゃんと“届いた”こと。
透吾が、わずかに手を差し出した。
でも、触れることはなかった。
僕も、それに気づいたけれど、何も言わなかった。
ふたりの間にあるのは、もう“音”ではなかった。
でも、音を通してつながったものが、たしかに今もそこにある。
深く、ひとつ息を吐いた。
その呼吸が、今の“ふたり”にとっての合図だった。
そして、僕たちはゆっくりと歩き出した。
舞台袖の静けさに包まれながら。
演奏の余韻を背負ったまま。
次の旋律を、心の中だけに響かせながら。
シーン66.視線の交錯
体育館に鳴り響く拍手の中、葉月と透吾はゆっくりと立ち上がった。ステージの上で、ふたりは無言のまま互いを見つめ合う。
言葉はいらなかった。伝えたいこと、感じていることは、すべて視線に込められていた。長い時間をかけて紡いできた旋律と記憶。そのすべてが、いま確かな絆となってふたりをつないでいる。
透吾は静かに微笑み、葉月もまた優しく頷いた。観客の歓声や拍手の音が遠のいていく。ふたりの間には、ただ静かな理解と温もりが流れていた。
やがて、透吾がそっと手を差し出す。葉月はその手をしっかりと握り返した。ふたりの視線が再び交錯し、心の奥で新しい約束が生まれる。
「これからも、一緒に。」
声にならないその想いが、ふたりの間に確かに伝わっていた。ステージの上で交わされた視線が、ふたりの未来を優しく照らしていた。
シーン67.音のない夜
夜になっても、音が鳴らなかった。
テレビもラジオもつけていない。スマホは机の上で画面を伏せたまま。
窓の外からは虫の音がかすかに届いているけれど、それすらも耳に入ってこなかった。
今日の文化祭が終わって、すぐに帰宅した。
クラスの後夜祭の誘いは断った。疲れているという理由で。
嘘じゃなかった。けれど、それだけじゃなかった。
部屋の電気も、いつもより暗くしていた。
手元のピアノにはカバーがかかったまま。
それでも僕の頭の中には、あの旋律がまだ、静かに流れていた。
最後まで弾けた。
途中で間違えたり、テンポが狂いそうになった瞬間もあったけれど、
葉月の音が、僕を引き戻してくれた。
演奏が終わった瞬間の、客席の沈黙。
そして、ゆっくりと降りてきた拍手の波。
音を届けたという実感は、不思議とあの沈黙の中にこそあった。
その場で言葉にできなかったものが、今になって胸の奥で反響している。
届いたのかどうか、確信はない。
でも、届いてほしいと願った音だった。
そういう音を、僕は出していた。
一方で、葉月は今、どこでどんなふうに過ごしているのだろう。
同じように、静かな部屋にいるのだろうか。
それとも、少しだけ鍵盤を鳴らしていたりするのだろうか。
不意に、手を伸ばした。
ピアノのカバーを外しかけて、けれど思い直して、そっとまた戻した。
??今は、弾かなくていい。
もう十分だった。
音に頼らなくても、旋律はちゃんと残っている。
胸の奥に、言葉にならない感情のまま。
まぶたを閉じると、演奏中の光景が浮かぶ。
葉月の横顔。光に照らされた指先。
指揮者がいない舞台で、ふたりだけのテンポで進んだ旋律。
誰のためでもなく、ふたりのためだけに奏でられた時間。
きっと、忘れない。
この夜の静けさごと、ずっと記憶に残っていく。
時計の針が、ゆっくりと日付をまたいだ。
今日という一日が終わっても、
あの音だけはまだ、僕の中で??終わっていなかった。
シーン68.風に乗る音
演奏を終えたふたりは、ステージを降りて体育館の裏口から校庭へと歩き出した。雨は上がり、空には薄い雲の切れ間からやわらかな光が差し込んでいる。湿った空気の中、葉月と透吾は並んで歩きながら、しばらく無言のまま余韻を味わっていた。
ふと、そよ風がふたりの髪を揺らす。その風に乗って、さっきまで自分たちが奏でていた旋律が、どこか遠くへと運ばれていくような気がした。
「……聞こえる?」
葉月が小さく呟く。透吾は微笑んで頷いた。
「うん。きっと、あの音はこれからも誰かの心に残っていくんだと思う。」
校庭の片隅で立ち止まり、ふたりは静かに空を見上げた。新しい物語の始まりを告げるように、風がやさしく吹き抜けていく。
未完だった旋律は、もうふたりだけのものではない。思い出も約束も、すべてが音楽とともに未来へと解き放たれていく。
葉月と透吾は、そっと顔を見合わせ、静かに微笑み合った。風に乗る音が、ふたりの背中をやさしく押していた。
新しい一歩を踏み出すふたりの後ろで、音楽の余韻がいつまでもやさしく響いていた。
シーン69.春の再会
春の風が、街の色をやわらかく撫でていく。
花のにおいと、陽のにおいが混ざって、遠くから誰かの笑い声が聞こえた。
駅前の並木道で、僕は足を止めた。
桜はもう散り始めていて、歩道には花びらが薄く積もっている。
??名前を、呼ばれた気がした。
振り向くと、ほんとうにそこにいた。
背の高さも、歩き方も、声の響きも変わっていなかった。
だけど、少しだけ大人になったような、そんな顔だった。
「……久しぶり。」
それしか言えなかった。
それでも、透吾は笑ってうなずいた。
「久しぶり。」
目の前にいるという事実だけで、胸があたたかくなる。
どこかで会えるかもしれないと思っていた。
でも、それはただの願いのようなもので、根拠なんてなかった。
それでも、こうしてまた、目の前に立っている。
「元気、だった?」
「うん。そっちは?」
「まあ、なんとか。」
それ以上は、続けなくてもよかった。
いま何をしてるとか、どこに住んでるとか、そんなのはどうでもよくて。
目の前の“変わらないもの”が、そこにあるだけで十分だった。
ふたりとも、少しだけ黙った。
でも、あの沈黙には、もう迷いはなかった。
「……まだ、弾いてる?」
透吾が尋ねた。
僕は、少しだけ考えてから、うなずいた。
「うん。時々。ひとりでも、ふたりでも、なく??音と。」
その答えに、透吾はふっと笑った。
それは、あの頃と同じ、“わかってる”という笑いだった。
「じゃあ、またどこかで。」
「うん。また。」
交わした言葉は、それだけだった。
けれど、すれ違って歩き出したあとも、背中越しに音が響いていた。
耳には聴こえないはずなのに、なぜか旋律の始まりだけが、確かに心に残っていた。
もう一度、あの続きを弾くときが来る。
きっと、またふたりで。
そう信じられることが、なによりも確かな“再会”だった。
シーン70.記憶の先で ―余白の音―
音楽室の鍵は、閉まっていた。
放課後、誰もいない廊下を歩きながら、僕はその扉の前で立ち止まった。
ガラス越しに見えるピアノ。蓋が閉じられ、まるで眠っているようだった。
それでも、僕には聴こえていた。
音ではない。記憶の中の、あの旋律が??今でも、静かに胸の奥で鳴り続けている。
透吾とは、また普通のクラスメイトに戻った。
言葉を交わす機会は減った。あの時間が特別だったことを、お互い知っていたからだと思う。
でもそれは、終わりじゃなかった。
音が、すべてを伝えてくれた。
そして、沈黙がそれを包み込んでくれた。
窓の外では、冬が近づいていた。
冷たい風が吹いて、木々の葉をさらっていく。
季節は巡る。記憶も、きっと少しずつ風化していく。
けれど、あの旋律だけは??あのときふたりでたどり着いた音だけは、決して消えない。
きっと、ずっと僕の中で、生きていく。
どこかで透吾も、同じように思っていてくれたら。
それだけで、今はもう、充分だ。
僕はそっと、鍵のかかった扉に手を添えた。
そして背を向け、歩き出す。
耳をすませば、まだ遠くで??音が聴こえる気がした。
未来へとつながっていく、静かで確かな“余韻”だった。
シーン71.旋律のいない日々
旋律のない日々が、続いていた。
卒業式からどれくらい経ったのか、数えなくなっていた。
音楽室にも行かなくなった。ピアノにも触れなくなった。
朝起きて、制服じゃない服に袖を通し、通い慣れない駅のホームに立つ。
周囲の足音とアナウンス、風の音だけが、耳を満たしている。
以前の僕なら、そんな静けさに怯えていたかもしれない。
でも今は、空白そのものが“残響”に思える。
??あの旋律は、もうどこにも鳴っていない。
けれど、それを“無くなった”とは思わなかった。
旋律は、ただ沈黙に溶けただけ。
音にならなくても、確かに心の奥にはある。
透吾の声も、笑い方も、ピアノに置いた指のかたちも、
すべてが音にならずにそこにいる。
僕は今日も、音を出さない。
でも、それでいいと思っていた。
音があった時間も、音がない今も、
そのどちらにも、僕たちがいる。
そしていつか、ふたたび旋律が必要になる日が来たなら??
僕はきっと、もう一度、あの鍵盤に手を置くのだろう。
それまでの日々が、たとえ“旋律のない日々”だったとしても、
それもまた、僕にとっての音楽なのだと思えた。
春の風が吹いた。
駅のホームに桜の花びらが舞い、僕の足元で小さく回った。
耳を澄ませば??どこかで、誰かがピアノを弾いている気がした。
きっと、それは幻ではない。
いまは音にできないだけの、確かな“記憶の旋律”なのだ。
シーン72.旋律のいない日々(5年後)
??あれから、五年が経った。
音楽のない日々が、ゆっくりと過ぎていった。
大学へ進み、アルバイトに追われ、日々に追われ、あの春の日々は少しずつ輪郭を失っていった。
ピアノには触れていなかった。
自室の片隅に置いたまま、カバーをかけたまま、もう何年も音を出していない。
けれど、不思議と後ろめたさはなかった。
それは、いずれまた触れる時が来ると、どこかで信じていたからかもしれない。
久しぶりに帰省した休日の午後。
何の気なしに部屋を片づけていると、棚の奥から楽譜のファイルが出てきた。
ふたりで演奏したあの曲が、まだそこにあった。
ページをめくる指先が、少しだけ震える。
記憶の底に沈んでいた音が、文字ではなく、“感覚”として蘇ってくる。
??たしかに、あった。
旋律が。空気が。沈黙の中にあった確かな共鳴が。
名前も、連絡先も、ちゃんと残っている。
けれど、もう何年も連絡はとっていない。
今、彼がどこで何をしているのかさえ、僕は知らない。
でもそれでも、不思議と寂しさはなかった。
あのとき伝わったものが、今も胸の奥に残っていることだけが確かだった。
音があった時間も、音がなくなった今も、
そのどちらにも“僕たち”がいた。
そして、いつかふたたび旋律が必要になる日が来たなら??
きっと、もう一度、鍵盤に手を置くのだろう。
そう思えるようになっていた。
そういう未来のことを、誰にも話す必要はなかった。
自分の中でだけ、静かに響いていれば、それでよかった。
春の風が吹いた。
窓の隙間から差し込む光が、薄く埃を照らしていた。
耳を澄ませば、遠くで音が鳴っている気がした。
それは、まだ旋律にならない、
でもたしかに未来へと続く、“はじまりの前の音”だった。
